自己紹介

今更に謝りたきこと浮かび来てごめんなさいが抱えきれない

あの時ああすれば良かった。何故あんな言い方してしまったのか。
穴があったら入りたい。隠れたい。
傷付けるつもりじゃ無かったのに。
あーーーーーー。
と、まあ、あちこちに謝り倒しても足らないくらい
やらかして来た人生でございまして。

自己紹介なぞおこがましくも感じています。
小さな小さな選択から私は成り立っていて
その選択にはどうやら間違った癖があるらしい。
恥ずかしながらの私の自己紹介を
抱えきれないごめんなさいを踏まえ、ざっくりとさせていただきます。

幼少期

「癇の虫の強い子」と言われていました。
この言葉、知っている人は今では多くないかもです。
癇癪を起こす子供に使われる言葉。
上手く自己表現ができにくい子、怒りやすい子、ワガママな子として扱われていたようです。
そういえば自分の気持ちを言う、なんて環境ではなかったですね。
そうして、「誰も自分をわかってくれない」(←ここ大事)と決めてしまった。
尚且つ、「わかってくれない周りは馬鹿だ」と謎理論。
脚本はこうして作られていったのかな。。

家族の中で

もしも生まれ変わったら、って生まれ変われないけどね。
私はあの家で、ずっと笑っている子でいたい。
家族で笑っていたい。
いつも怒っていた気がする。
いつも緊張していて、ピリピリしていた。
いつも何か、気に入らなかった。
家族の日常を無神経だと感じていて、誰にも優しく無かった。
弟にも、妹にも、祖父、祖母にも。父、母にも。
傲慢な自分、今ならわかるけれど。
怒りしか表現できない自分。
早く、家を出たかった。家を出たら幸せが待っているように感じていた。
穏やかな波音が聞こえる2階の部屋、一人の時間だけが救われる気がしていた。

社会の中で

お仕事のスイッチが入ったのは、ガンの治療が終わった27歳頃か。
前年に結婚して、専業主婦になっていた。
優しい夫もいたけれど、何となく目標も無く生きて来て、今までと違う事がしたかった。
それで、不動産屋さんに就職してみたら、営業の仕事が、楽しかった。
生意気な私は、直ぐに上司に楯突いて退職してしまったけれど、ここが営業の楽しみを知ったスタートになった。

そして営業で活躍できるところ、と考えて損害保険の代理店となった。
女性損害保険代理店の草分けの時代。
一気に社会が拓けた感覚。会う人会う人が新鮮だった。
その頃になると、優しい夫が優しいだけの夫に見えてきて、一緒にいてもモヤモヤするようになってきた。
理不尽だね私。だけどひとりで気兼ねなく生きたくなった。それは、どうしても。

離婚の話し合いは、中々進まず、平行線が続いた。
私は、黙って家を出た。
自立の準備は、しっかり整えてあった。
特級代理店の資格を持って
(有)イズミエージェンシーを設立。
これが32歳の時である。
そこから離婚まで、13年の別居期間が始まる。

仕事の事

思い返してみると、自分は真剣には頑張った時期がないように感じている。ただ嫌だと思う仕事はしていない。32歳から本当の自分探しが始まったように思う。
損保営業の仕事は楽しかった。勿論上手くいかない日々も多々あったけれど。
新規の開拓は楽しかったが、契約が重なってくると事務的な仕事ばかりが目立ってくる。これにすっかり飽きてしまった。難儀だなあ、自分の性格。もっと手応えのある物を探す中で、注文住宅の販売にチャレンジした。これがまた、めちゃくちゃ面白い。土地や、建物、インテリア。お客様との打合せは最高に楽しい時間だった。
しかしこの頃から、私は重度の貧血に悩まされるようになった。朝が辛くなる。楽しい仕事なのに、思うように身体は動かない。私は朝からアルコールを摂取して、騙し騙ししながら、動いていた。退職を決意する頃には『遭難した人が助けられた状態』と医者に言われる程になっていて、歩いて診療に来たことを『脅威的』とも。最早ここまでとなった年末から、2年。すっかりアルコール漬けのアル中時期を過ごす事になる。働けない自分を責めていた。怠け者だと感じてた。怠け者なのに死ねない自分が嫌だった。今だから総括できるけれど、あの頃は暗黒の中でもがいていたように思う。ワイルドターキー(バーボン)のストレートを、ビールをチェイサーに飲んでいた。飲んでは寝て、寝ては飲んで、睡眠薬も併用し服用していた。鬱状態になるきっかけは、それぞれあるが、持っていた考え方、捉え方と共に、ヒョンな巡り合わせにあるようだ。後年になって理解したことだけれど。
インナーチャイルド。。その頃は、知らない言葉だったから。











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