酒井 聡平/硫黄島など戦争の歴史の風化に抗う自称「旧聞記者」

戦争末期の激戦地硫黄島の取材を16年続ける新聞記者。今なお1万人超の戦没者遺骨が未収容…

酒井 聡平/硫黄島など戦争の歴史の風化に抗う自称「旧聞記者」

戦争末期の激戦地硫黄島の取材を16年続ける新聞記者。今なお1万人超の戦没者遺骨が未収容の問題や、元島民の「強制疎開」が続いている問題を追っています。取材歴は特集ウェブ「令和の硫黄島」https://www.hokkaido-np.co.jp/ioutouをご参照。

最近の記事

【Q7】なぜ硫黄島の遺骨収集作業現場は写真撮影が制限されているの?

【A】それは○○が写り込んでしまうことがあるから…と聞きました。 「遺骨収集作業中は写真撮影が禁止されていました」―。  先日のトークイベント「ぼくが『硫黄島』報道に執念を燃やすわけ」(6月30日)でそう話したところ、終了後に参加者から「どうして」という質問が寄せられました。  果たして撮影禁止の理由って何なのか?  「霊が写り込むから…」 というわけでは決してありません。 私が厚労省関係者から聞いた理由は以下の2つです。 (1)ご遺骨が写り込んだ写真をネットで拡散さ

    • 【Q6】硫黄島で知り得た情報を教えて(不可思議な話その2)

      【A】自衛隊関係者からも不可思議な話を聞きました。 先日、硫黄島で不可思議な体験をした人から直接聞いた話を皆様に紹介したところ「ほかにも知りたい」などの反響が寄せられました。ご要望に応え、今回は、硫黄島の自衛隊関係者Oさんから直接聞いた話を紹介します。 硫黄島の砂をめぐる話  Oさんの話はこんな内容です。 「『硫黄島で活動を終えた自衛隊員は本土に帰る際、砂を持ち帰らないよう、制服や鞄だけでなく、履いている靴の裏からも丁寧に砂粒を取り除く』という話を聞いたことがあるでしょ

      • 【Q5】米国人も遺骨収集を続けているの?

        【A】硫黄島では「米側も継続中」と関係者から聞きました。 日米が激突した硫黄島戦で、米軍側の死者数は約7千人に上りました。  米軍側は戦死した兵士の遺体を島内で埋葬。埋葬された遺体はその後、硫黄島を含む小笠原諸島の施政権が日本側に返還(1968年)されるのを前に、全て掘り起こされ、米国本土のアーリントン墓地などに再埋葬された、とされています。  米国側の遺骨収容については「完了済み」とする報道があります。  その一方で、米国防総省捕虜・行方不明者調査局(DPAA)が、依然と

        • 【Q4】硫黄島で知り得た情報を教えて(不可思議な話その1)

          【A】こんな不可思議な話を聞きました。 ご質問のあった「硫黄島で知り得た情報」は多岐に渡ります。  今回は、今年も真夏の「怪談の季節」を迎えたことを踏まえて、これまで聞いた不可思議な話のうち2つを紹介します。  いずれも体験者本人から直接聞きました。 (1)夜の戦跡にて  政府の遺骨収集団ではなく、硫黄島慰霊事業に参加したAさんの話。  何度も渡島経験のあるAさんが慰霊事業で在島中のある日の夕食後、戦跡を見たいというBさんら数人を連れて宿舎近くの戦跡に行った。懐中電

        【Q7】なぜ硫黄島の遺骨収集作業現場は写真撮影が制限されているの?

          【Q3】硫黄島の地下壕の状況を教えて

          【A】映画ランボーとは似て非なる地下壕でした 土日は歴史関連を取材をする自称「旧聞記者」は、無類の映画好きです。取材がない週末は、映画を観て過ごすことも少なくありません。そんな中、先日鑑賞したのがスタローン主演のシリーズ最終作とされる「ランボー ラスト・ブラッド」(2019年公開)でした。 ※以下、映画の一部ネタバレ含みます。 ※冒頭の写真は、特集サイト「令和の硫黄島」に収載された日本戦没者遺骨収集推進協会の提供写真です。https://www.hokkaido-np.co

          【Q2】遺骨収集団員たちの食事は?

          【回答】「これがまた、うまいんですよ!」 硫黄島には、自衛隊関連設備の補修などを担う建設作業員たちが多く滞在しています。遺骨収集団員たちの朝昼晩ご飯は、建設作業員用の食堂で、彼らと同じメニューを食べます。  朝食時間が5時40分と早いのは、作業員たちの食事時間と重ならないようにしているからかもしれません。定められた朝食時間は40分間。昼と晩の食事は20分間。会話をすることなく黙々と食べる収集団員が多かったです。  ちなみに食事の味の感想を問われれば、私は「これがまた、うま

          【Q1】硫黄島遺骨収集団員って、どんな毎日なの?

          【回答】約2週間、極めて規律的な毎日でした 毎日朝の5時に起きて、日中、遺骨の捜索作業に汗を流し、夜の9時に就寝-。極めて規律的であり、健康的とも言える日々が約2週間続きました。ちなみに私が2019年度の遺骨収集団に参加した際に配られた「タイムテーブル」は、以下の通りです。 【午前】 5:00 自衛隊基地内の宿舎で起床 5:40 食堂にて朝食(40分間) 7:20 作業着に着替えて宿舎前で朝礼、体操 7:40 発掘現場にて拝礼、遺骨捜索開始 10:40 午前の作業終了(実質

          【Q1】硫黄島遺骨収集団員って、どんな毎日なの?

          「史上最大の作戦」は硫黄島だった?

          〈写真〉米軍の熾烈な砲撃を受けた硫黄島。あまりの地形の変貌ぶりに「生残りの石井衛生兵は『全然見当がつかんよ』と嘆いていた」 1952年刊「硫黄島にささぐ」石井周治著(5)  驚きのデータが、旧防衛庁の戦史叢書にある。  硫黄島と沖縄本島における米軍上陸日の艦砲射撃の比較表だ。   米軍が沖縄に打ち込んだ砲弾は4万3千発。これに対して硫黄島は、面積が沖縄の60分の1にもかかわらず、4万5千発に達した。  「第二次世界大戦間における最大の艦砲射撃」だったと記されている。

          7年の「空白期間」 硫黄島遺骨どこへ

          1952年刊「硫黄島にささぐ」石井周治著(4) 〈写真説明1〉本書に貼られていた1954年の切り抜き記事。当時の厚生大臣の「一日も早く遺骨を遺族に返したい」との答弁が記されている一方、ルパング島やシベリアには生存兵がいるとの答弁も記載。戦没者遺骨の早期収集よりも生存兵の早期帰還を優先した当時の社会情勢がうかがわれる。 ●米軍占領下で上陸が許可された「労務者」とは  先の大戦で屈指の激戦地となった硫黄島(東京都小笠原村)は、終戦6カ月前の1945年2月に米軍が上陸した。約1

          兵士1万人の遺骨 今なお行方不明の謎

          1952年刊「硫黄島にささぐ」石井周治著(3) 〈写真説明〉第2次世界大戦で最大級の爆撃により焦土化した硫黄島。しかし、終戦7年後のこの写真から、道路の両脇は既にジャングル化していたことが分かる(本書巻頭の写真)。 ●兵士1万人の遺骨はどこへ  硫黄島で戦った日本兵は2万3千人。戦死者は、2万2千人に上る。このうち半数に当たる1万1千人の遺骨が、終戦から75年たった今なお、行方不明のままだ。  島の面積は20キロ平方メートルしかない。東京都世田谷区の半分だ。こんな小さな

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          硫黄島戦から75年 兵士遺骨、航空自衛隊入間基地に帰還

          【空自入間基地で硫黄島戦没者の帰還式】硫黄島での遺骨収容を終えた遺族らが骨箱を手に埼玉・入間基地に到着しました。儀仗隊が「悲しみの譜」を演奏し、基地勤務の自衛官830人が職務を中断して整列。戦後75年経て帰還した兵士たちに、最大の敬意を表していました。2020/02/14

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          <残された戦後 記者が見た硫黄島>番外編 激戦、生活の跡 今も

          【70万回再生】Youtube動画「記者が見た硫黄島」再生数が70万回に達しました。元島民や戦没者遺族でさえ自由に渡れない島に関心を抱く方々の多さを改めて認識しました。特集ウェブページ(http://bit.ly/3assz36)では、この動画を含む3本を公開中です。

          <残された戦後 記者が見た硫黄島>番外編 激戦、生活の跡 今も

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          乾燥わかめ vs ? 硫黄島 両軍兵士の実相とは…

          1952年刊「硫黄島にささぐ」石井周治著(2) 〈写真説明〉古書店で購入したこの本には、1954年当時の新聞記事の切り抜きが貼ってあった。この本の持ち主は、どんな人だったのだろう ●硫黄島兵士の第2の敵は「野菜」  硫黄島戦の数少ない生還者の一人である石井周治一等兵が、深刻な渇水に次いで「生命に関係する敵」として挙げたのが野菜不足だ。  生野菜の配給はほとんどなく「副食は大抵わかめ。朝昼晩とわかめの味噌汁、わかめのすまし汁、わかめの煮付の献立が続いた」。内地から送られ

          乾燥わかめ vs ? 硫黄島 両軍兵士の実相とは…

          75年前、硫黄島から生還した報道マン

          1952年刊「硫黄島にささぐ」石井周治著(1)  日本側守備隊2万3千人のうち96%が死亡した硫黄島の戦い。  生還者の証言が少ない上、戦後七十余年を経た現在、伝えられている将兵に関する美談の中には、一部の生還者や関係者の創作もあるとされている。  そんな中にあって、1952年発刊の「硫黄島にささぐ」(価格290圓)が希少な1冊と言えるのは、著者である生還兵の石井周治氏の職業が、正しい情報発信を至上命題とする新聞社の人間だからだ。  石井氏は、応召前も復員後も毎日新聞