75年前、硫黄島から生還した報道マン
1952年刊「硫黄島にささぐ」石井周治著(1)
日本側守備隊2万3千人のうち96%が死亡した硫黄島の戦い。
生還者の証言が少ない上、戦後七十余年を経た現在、伝えられている将兵に関する美談の中には、一部の生還者や関係者の創作もあるとされている。
そんな中にあって、1952年発刊の「硫黄島にささぐ」(価格290圓)が希少な1冊と言えるのは、著者である生還兵の石井周治氏の職業が、正しい情報発信を至上命題とする新聞社の人間だからだ。
石井氏は、応召前も復員後も毎日新聞社の報道カメラマンだった。本書に掲載された文章の多くは1952年当時、毎日新聞に掲載された文章を土台にしているとみられる。
新聞記事は今も昔も掲載に至るまでに再三、デスクらのチェックを受ける。そういった意味で、石井氏が本書で発信した情報は、信頼度が高いものだと考えられる。
石井氏は戦争末期、1等兵(衛生兵)として硫黄島に渡った。生還から7年後の1952年、硫黄島で多くの部下を失った和智恒蔵元大佐がGHQの特別な許可を得て慰霊巡拝する際、同行取材班の1人として米国統治下の島に渡った。
本書はその際の詳細と、硫黄島戦の当時の記憶をまとめた内容だ。新聞人の著書らしく、分かりやすい文章。当時の島の風景を伝える希少な写真が多い点でも史料としての価値が高い。
●「最大の敵は水」(P117~)
火山島の硫黄島に、川や池はない。兵士2万人超が頼りにした井戸は「西海岸付近にあった」。
汲み上げた水はすぐに使わず「広さ4畳半、深さ約3メートルの水槽」に蓄え、必要に応じて使った。水槽は「底に枯葉が沈積しているひどいものだった」。
兵士に毎日配給される水は「1人半リットル。後にも先にもこれだけの水がすべてである」。
現在の感覚で言うと、コンビニ店などで並ぶ500ミリのペットボトル一本分の水(しかも粗悪な)で、地熱で満ちた地下壕を掘り続けた。米軍の攻撃開始を前に、硫黄島兵士は既に日々、脱水症状などによる生命の危機に直面していたということだ。
以前読んだ別の生還者の本には、こんな一文があった。
「米軍艦隊が攻めてきたとき、こう思った。これでもう、壕を掘らなくていい」
2020/10/03
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