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ストリートピアノの演奏を聴いて思ったこと。自分の「好き」の感情を大切にする。

note投稿42回目である。
先日近くの駅に買い物に行ったときに、駅の改札のところにストリートピアノが設置されていて、演奏が聴こえてきた。

先月ぐらいから設置されたようで、行った時はちょうどジブリのメドレーを弾かれている方がいて、思わず演奏に引き寄せられた。

既にピアノの周りには、20人ぐらいの人だかりができていた。

動画を撮りながら聴いている人、

目をつぶって熱心に聴き入っている人、

手拍子をしながらリズムに乗る人、

携帯をいじりながらもそっと聴き耳を立てる人、

聴き方は人それぞれだが、そこはもう立派なステージになっていて、なんとも言えない温かさと高揚感が漂っていた。

演奏されている方がどなたなのかは分からないし、
次に何を弾くのかもわからない、そこには台本がない。

だけどその空間を楽しもうと1人、また1人と観客が増え、徐々に熱気が上がり、大きな一体感に包まれるあの雰囲気がとても素敵だなと思った。

今日はストリートピアノの演奏を聴いて、あの空間の温かさを感じて思ったことを書き残したい。

自分の好きに素直になれる場所

私自身は演奏はできないので、専ら観客の立場からの感想になるのだが、
ストリートピアノの1番の魅力は、やっぱりあの一体感だと思う。

全く知らない人たちが音楽をたよりに、自然発生的に集まり、演奏を楽しむ。

そこには演奏を聴く義務感もなく、聴くか聴かないかは完全に自由だ。聴きたい人が聴けばいい。

また楽しみ方も自由だ。自分の好きなように楽しんでいい。

ストリートピアノ特有のあの熱気はそうした「自由」の元に生み出されるのだと思う。

一人一人が自分の「好き」に素直になって良いからこそ、あの一体感が生まれるのだろう。

そもそも音楽や絵、芸術全般の1番の魅力は、それぞれの価値観で、直感で「好き」を感じていいところにあると思う。

確かに音楽にしても絵にしても、正しい鑑賞の仕方があり、それらを理解することでより深い世界観、意図を汲み取れるのだろうが、
根本にあるのは個々人の相対的ではなく、絶対的な「好き」だ。

それは誰かに教えてもらって理解することではなく、自分で感じるものである。

正解・不正解もないし、自分が良いと思ったものは理屈なしに良い。

普段生きているとどうしても、個人の良い悪いと言う感覚よりも、社会の中での良い悪いの基準の中で生きていかなければならない。

しかしやっぱり、「なんか良くわかんないけど、心動かされる、感動するんだよなー」と言う個人の感覚を大切にすることは必要で、
そうした「好き」に素直になれる場所としてのストリートピアノはすごく意味のある場所である。

一人一人が自分の「好き」にもっともっと自由に、素直になれる社会になったら良いなと思った出来事だった。

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