「どんな自分も大切にすること」ジェンダーにとらわれない生き方を目指す
LGBTという言葉が広がって、ジェンダーやセクシュアリティについて考える機会が増えました。性的マイノリティの人たちは多少生きやすくなった部分があるでしょうし、私もその一員です。
実のところ、私はLGBTでいうとBのバイセクシャルに該当します。恋愛感情も性的志向も、男女どちらにも向けられます。好きになるのに性別は関係ありません。ただ、どちらかといえば、恋愛感情は男性に、性的志向は女性に向けられることが多いような気がします。
性には4つの指標があると言われますが、私の場合、現時点では以下のような自己認識をしています。
からだの性(生物学的な性):女性
こころの性(性自認):8割女性、2割男性
表現する性(見た目、服装、しぐさ):時と場合によって変わる
恋愛対象の性(性的志向):男性、女性の両方
本記事では「性」に対する私の葛藤と、それに伴う自己認識の変化を記しました。
もし男に生まれていたら
母から差別を受けたことがきっかけで、小学生の頃から、女に生まれたことを嫌悪してきた。母は溺愛といえるレベルで弟を可愛がり、私には冷たく突き放すような態度で接した。弟には「男の子なんだから」などとは言わず惜しみない愛情を注いだが、私には「女の子なんだから」と厳しい期待を押し付けた。
母の言動で、女であることがいかに価値が低いのかを感じた。そんな環境で育ったのもあって、自分自身を肯定することが難しくなり、女である自分を否定する気持ちが強まった。
男に生まれてきたかった、と今でも思う。けれど、手術や治療をしてまで体を変えたいとは思わなかった。女であることで得られたことも多くある。たとえば、困ったときにエロス資本が使えたことや、妊娠・出産の経験ができたこと。
女のすべてを憎んでいたわけではない。私のなかで常にくすぶり続けたのは、男に生まれていたら母に愛されたかもしれないという根源的な欲求だ。女としての特権を享受しながらも、その裏にある愛されたいという深い欲求が、私を葛藤させてきたのだった。
女らしさへの違和感を抱いた学生時代
違和感に気づいたのは、7歳の七五三のとき。赤とピンクの着物を着せられ、口に紅を差されたことに異様な不快感を感じた。袴を着た弟と一緒に神社の鳥居の前に並んで撮られた写真には、私の笑顔はなかった。
いつもは泣くな笑うなと私の感情を制する母だが、写真を撮るときだけは笑え笑えと強制する。そのたびにうまく笑うことができず怒られるので、写真撮影がひどく苦痛だった。だがそれだけではなく、七五三では自分の格好に違和感が強すぎて笑えなかった。家に飾られた仏頂面の私の写真を見て、母は「可愛くない子」と吐き捨てた。
赤、ピンク、紫、パステルカラー。レース、フリル、スパンコール、りぼん。花柄、水玉、いちご柄、ハート柄。スカート、ブラウス、ドレス、髪飾り――こういう類のものがどうも苦手だった。だが、母が選ぶものや従姉からのおさがりは、たいてい「女の子らしい」ものだった。着たくないと言えば、わがままだと叱られる。白や黒のシンプルな服がいいと言うと、白は汚れるからダメ、黒は不吉だからダメとあしらわれる。ピアノの発表会があるたびに安物のドレスを着せられ、恥ずかしくて演奏に集中できなかった苦い思い出も蘇る。
現代は、女子でも男子の制服を選べたりもするが、私が学生時代の頃、女子はスカート一択だった。私服の学校に行きたかったが私立校しかなく、経済的な面で叶わなかった。ダサいとは分かっていても、制服のスカートの下にジャージを着用していたくらいだ。
髪型に関しても、短くしたいと何度か希望を出したが、言語道断と一蹴された。「おまえの髪は短くするとはねるからダメ」「ショートカットなんて似合わないからダメ」と言われ、私の意見や個性は一切認められない。
理容師をしていた母のプライドもあったのかもしれない。高校生になるまで、私は母に髪を切ってもらっていた。美容院に行きたいと言えば、お金のムダと返された。高校生で初めて、隣町の美容院に行って髪を肩より短くした。母は私の髪が伸びるまで「本当に似合わない」と執拗に馬鹿にした。
自分の体なのに、服装も髪型も自由に選択できない。自分の好みや気持ちを表現することは許されず、母の理想とする「女らしさ」に従わなければいけない。自分の意志を否定されるたびに息苦しさを感じ、女に生まれたことに対する違和感と反発心が募っていった。
女の裏切りに抗い確立された「優等生」
小学4年生のとき、同じグループの女の子から突然ハブられ、ひどい裏切りといじめを受けたことがある。そこから女という生き物がさらに嫌になった。絶対に見返してやる、群れて卑怯なことをする奴らに屈したりしないと決めて、ますます勉強と運動に力を入れ、優等生を演じ、先生や他の同級生、はたまた同級生の親たちからも一目置かれるような立場に成り上がった。学級委員を連続で務め、中学では生徒会にも入った。学芸会や発表会では必ず主役に立候補し、目立てば目立つほど信頼を勝ち得ていった。
だが、いくら努力しても母だけは私を認めなかった。学年トップの成績を上げようが、文芸や音楽、スポーツで数々の賞を取ろうが、一向に褒められることはない。
私は母からの承認をあきらめ、母以外には誰にも文句を言わせないと努力を続けた。その結果、狭い学内だけのことではあるものの、女子と群れなくても、男子に媚びなくても、一個人として自分の存在を認めてもらえるようになっていった。
母に押し付けられた外見で女を演じながらも、せめて心だけは母に支配されないよう、強い違和感と反発心を内に秘めていたのが功を奏したともいえる。
同性と付き合うことで生じた苦しさ
中学の頃、初めて同性から告白される経験をした。相手は一つ下の生徒会の後輩で、生徒会を引退するときに呼び出され「先輩としてじゃなく好きです」と言われた。私に彼氏がいることを知りながら(当時、生徒会長と付き合っていた)、それでも気持ちを伝えたいと告白されたのだった。
その子がそもそも同性愛者だったのかどうかは知らない。けれど、中学、高校、大学、社会人と年齢を経ても、同性から告白を受けることが度々あった。嫌悪していた女性たちから恋愛対象に見られることで、だんだんと自分の「性」への認識も変化していくようになる。
これまでの恋愛経験の相手は、女性よりも男性の方が圧倒的に多い。ただ、恋愛を経ずとも、私は同性(とくに自分より年下の女性)に対して、男性のように振舞う癖がある。逆に、異性(とくに自分より年上の男性)には、女性らしい態度を取ることが多い。そうやって無意識に役割を使い分けている自分がいて、それが長年培われてきたものなのか、周囲の期待に応えようとする癖なのかはわからないが、いつの間にか自分の中で自然と身についてしまった。
LGBTや性自認などの言葉を知らなかった頃、自分は二重人格なのかもしれないと思い悩んだ時期があった。今は使われていない「性同一性障害」に該当するかとも考えたが、なにか違う気がしていた。
恋愛対象の性別が変わると、私の表現する性が変わる。性行為においても、対象が男性か女性かによって自分の立ち振る舞いがまったく異なる。どちらか一方を好きになれたら楽なのかもしれない――性別によって相反する感覚に、20代半ばまで苦しめられていた。
母や妻の役割が与えた葛藤
苦しさから一時解放されたのは、結婚をしたからだった。結婚し、出産を考え始めたとき、私は「女として生きる」ことに舵を振り切った。思い返すと、妊娠中から出産までが一番幸せだったかもしれない。初めて、女に生まれてきた喜びを感じた。
それなのに、娘を出産し正式に母という役割を与えられたら、再び違和感が襲ってきた。母や妻としての「女らしさ」に対する社会的な期待が重くのしかかり、私の中で再び性別に対する葛藤が生まれ始めた。
母や妻でありながら、自分自身の中にある多面的な性をどう表現していいのか分からなくなり、再びアイデンティティに対する迷いが湧き上がってきたのだ。
娘に対しても、ピンクや紫色の服や、女の子向けのおもちゃを選んでいる自分がいる。言葉を習得する前に、選択の自由を奪っている気がして、もどかしくなった。
「母」という役割が、私と娘の自由な自己表現を抑圧するかのように感じられた。娘のために「理想的な母」であろうとする一方で、自分の内にある男性的な部分や、女性らしさに縛られない自分を表現したいという気持ちが消えず、二重の役割に引き裂かれるような思いが続いた。
妻であることに対しても、夫の庇護に置かれ自立できていないような情けなさを感じたり、長年のセックスレスによって、否が応でも女性としての性欲の強さを認識させられた。母や妻であること、そして一人の人間としての自分の性のあり方が、常に衝突していた。
選択の自由が自己愛を育む
その後、夫と離婚し妻という役割から解放されたことと、世間にジェンダーの認識が広まったことで、再度自分の性に向き合うきっかけを得た。ちょうど、娘が「プリンセス嫌い」になったのも同時期だった。
娘は3歳まで、ディズニープリンセスが大好きで、何のイベントもない普通の日でもドレスのような服を着たがるほどだったが、4歳を過ぎて徐々に興味をなくした。私と同じように黒の服を気に入り、カワイイよりカッコイイもの、女の子っぽいものより男の子っぽいものを好むようになった。
私は、娘の選択について何の意見も挟まないようにしている。着たいものを着ればいい、遊びたいもので遊べばいい。女らしいだとか男らしいだとか、1ミリも気にすることはない。それからは積極的に性教育を取り入れ、娘とともに学び始めた。私の性についても、娘が理解できる範囲で話をしている。
娘は現在7歳だが、一番好きな色は水色で、基本的になんでも水色のものを選ぶ。水色がなければそれに近い青を選ぶ。服は変わらず黒が好きだけれど、私と違ってひらひらしたスカートも好きだ。ランドセルは娘の希望でキャメル色。どんな服装にも合いやすそうというのが、娘の見立てだ。私の買い物の仕方をよく見ているのか、物選びの堅実さが似ている。
もうすぐ娘の七五三。着物やドレスは絶対に着たくないと言うので、娘が選んだフォーマルな黒のワンピースを買った。神社に参拝し、祈祷を受けたあと、写真を撮ろうと決めている。現代っ子の娘は、カメラを向けると勝手に営業スマイルを作るが、無理に笑わなくてもいいよ、といつも言っている。
私は絶対に、母のように押し付けたりはしない。娘にはその時々で自分が気に入るものを選択し、自由意志を持ち続けてほしい。多様性を尊重する社会で生きていく娘に対して、私自身が自分の選択に自信を持って、自由に歩んでいく姿を見せ続けたい。
「監視せず、見守る」「コントロールせず、認める」「繰り返さず、改心する」――少し前まで毒親になりかけていた私が、自分に課した言葉だ。
私は絶対に親のようにはならない。
娘が自分の価値を貶めず、自分を一番大切だと思えるように。
この世に生まれてきたことを後悔させないように。
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