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自分らしく生きる|ただ肯定してほしかった、私の幼少期【過去と向き合う】
前回は、祖父の借金と両親の苦労についてお話しました。
今回は私が幼い頃にかけられた「呪い」についてのお話です。
私はただ、ひたすらに、肯定と愛がほしかったのかな?と気付きました。
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前回の記事はこちらでお読みいただけます。
前回は、父方の祖父と両親との関係をお話ししました。
今回は母方の親戚との関係をお話ししたいと思います。
従姉とすごした幼少期
私の母は、現美容院を経営しています。
ですが、私たち姉妹が幼少の頃にはまだ勤めに出ていて、1日のほとんどを留守にしていました。
私たちは、基本的に祖父母の家に預けられて育ったのですが、時々、近所に住む従姉の家に預けられることがありました。
6歳年上、4歳年上の従姉がそれぞれにいて、特に土曜日や長期休みの間、一緒に過ごすことが多かったです。
この従姉たちの存在が、自分の生涯を通じてすごく辛いものとなりました。
私を叩く従姉
従姉たちはとにかく、私のことをよく叩いてきました。
何か気に入らないことがあれば、叩かれる。
失言したら、叩かれる。
従姉たちより年下の私は、彼女らの遊びや考えにうまくついていけずに、その度に叩かれていました。
このようなことが繰り返されていたのは、私が5歳頃だったでしょうか。
さらに、身体的暴力だけではなく、罵られることも多くありました。
容姿を揶揄されたり、「自己中心的だ」と言われたり、5歳の子供にはなかなか辛かったです。
その頃、従姉は11歳と9歳………。
年齢だけ見ればまだまだ子供ですが、大人になった今、そんな年齢の子ども時代から立派な悪意があるんだなぁ、と少し恐ろしい気持ちになります。
今も払拭できぬ想い
特に、6歳年上の従姉に対する思いは結構複雑です。
30歳になった今は、「苦手だなぁ〜」と思う程度になりましたが(離れて暮らしているということもある、と思います)。
20歳くらいまでは、従姉と会う前には強迫観念のようなものに襲われていました。
「メイクは完璧か?」
「服装は完璧か?」
そんなことをいちいちチェックするまでは、従姉の前に出ることができなかったほどです。
それでも彼女は私と対面するたびに、何かしらの粗探しをして(いるように私には感じた)きたのです。
彼女は私にとって、長い間の脅威でした。
その頃の葛藤を元にした短編小説、『三人姉妹』は、拙作『マドモアゼル・レイニー』に収録されています。
私は、この『三人姉妹』を書くことで、従姉たちに対する想いを昇華できた部分もあります。
やはり、「書く」という行為は自分を癒す術の一つかも
しれません。
ところで、従姉たちはどうしてこんなに暴力的な面を持っていたのでしょう?
大人になってから振り返ってみると、思い当たるふしが一点あったのです。
いきなり殴ってきた伯父
この従姉たちの父親は、私の母の長兄でした。
つまり私にとって、伯父にあたる人間です。
この伯父というのが、典型的な「アップデートできないタイプの人間」。
「俺は長男だから偉い」
「妻は夫の言うことを聞いておけ」
という、前時代的な価値観の持ち主です。
ある日、伯父一家に連れられて遠出をしたことがありました。
その日はSAで夕飯を食べることになり、5〜6歳頃だった私は、うどんを食べていました。
すると、いきなり後頭部に強い衝撃を感じ、目の前にチカチカと星が飛びました。
見上げてみると、そこには伯父の姿が。
なんと伯父は、私の頭をいきなり殴ったのでした。
しかしその後も、なぜ殴られたのか理由は教えてもらえず…。
大人の、しかも男性に殴られたのはこの時が初めてて、どうしたらいいのかわからずに途方に暮れた記憶があります。
それと同時に
「こんなの、納得いかない!」と強く思ったのを覚えています。
このエピソードのように、伯父は家庭内で勝手気ままに振る舞う人でした。
今になって推測してみるに、従姉の生活の中では、彼の機嫌を損ねるといきなり怒鳴られたり、手が飛んでくることもあったのでしょう。
自分より力の強い存在に、叩かれたり、罵られてきた従姉たち。
彼女たちの中に、自分より弱い存在には暴力をふるっていいのだ、という考えが芽生えるのも不思議ではありません。
彼女たちは私にとって加害者的存在でしたが、彼女たちもまた被害者だったのです。
ただ肯定してほしかった
これらのエピソードの他にもうひとつ、ぽっかりと穴の空いた感覚がありました。
幼少期には、母も父も仕事が忙しくて、ほとんど家におらず、子供心にすごく寂しい思いをしていました。
それでも、私には妹がいたし、面倒を見てくれる親戚もたくさんいたので、恵まれていたのだと思います。
ただその時の私は、なによりも母に「肯定してもらいたい」という気持ちが強かったように思えます。
その肯定感とは、顔を見て「かわいいね」とか「大好きだよ」と言ってもらうこと。
母は私たちに不自由させないために、毎日がむしゃらに働いてくれていたのだと思います。
だから私たちは経済的に困窮したことはないし、年に2回は家族旅行に連れて行ってもらっていました。
恵まれた家庭で育ててくれたことは、充分わかっているのです。
それでも、当時4歳か5歳だった頃の私には、他の家のお母さんのように
「ママは●●ちゃんのことが大好きだよ!」
「●●ちゃんは宝物だよ!」
と言ってほしかった。
その言葉に、いつも飢えていました。
一度、母に向かってこんなことを言ったことがあったそうです。
「どうしてお母さんは、他のお母さんたちみたいに、私のことを「かわいい」って言ってくれないの?」
私の問いかけに対し、母は
「お母さんはそういうことを口に出せない性格なの」
と答えたのだとか。
今となれば、母の気持ちもわからなくはない。
でも、その時の私にとっては、それはとても辛いことだったのです。
妊娠初期に溢れ出た気持ち
実は、従姉たちから受けた心の傷以外のことは、妊娠するまですっかり忘れていました。
しかし、つわりがひどくて寝込んでいた頃のこと。
なぜか走馬灯のように、幼少期のこれらの思い出が一気に浮かび上がってきたのです。
それは、幼少期以来、すっかり無くしていた
「母に甘えたい」
という思いが再び溢れてきたからかもしれません。
その頃の私は、初めての妊娠で不安がいっぱいだったのでしょうか?
「お母さんに会いたい」という気持ちが、とても強くなっていたのです。
そんな状況の中で、上記のことを思い出し、私は幼少期の自分を憐んで、よく泣いていました。
(言い訳するようですが、妊婦の精神状態は本当にジェットコースターなのです)
この当時のことを
「すごく寂しかった」
「あの時の自分が可哀想」
と夫に話すと、彼はこう言いました。
「自分がしてもらえなくて辛かったことを、自分の子供にはたくさんしてあげようよ」。
その言葉が、私の大きな助けになったのです。
(【後編】へ続きます)
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