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生まれ変わった強烈な体験、怒涛の出産レポ。

出産から4カ月余りが経とうとしていますが、記憶が薄れる前に出産レポを書いてみようと思います。

当時のことを詳しく回想して書くので、痛い・グロい・汚い描写があります。
また、妊娠・出産というのはとてもナイーブな話題ですので、辛い想いをされる方もいらっしゃるかもしれません。

そのような事態に配慮し、出産シーンについては有料記事にしています。
ご了承いただける方は、ぜひお読みいただけると嬉しいです。


はじめに

当初の出産予定日は2021年12月1日でした。
後に伯母から聞かされたことですが、予定日どおりに産まれていれば内親王殿下と同じ誕生日だったのだとか。

予定日の前日に妊婦健診があったものの、その時にはまだ、子宮口の開きが1.5cmほどでした。

しかしエコー検査では、すでに胎内の息子は3600gになっているとのこと。
大きくなりすぎると大変なので、1週間後の12月7日に計画分娩(陣痛促進剤を使い、人工的に陣痛を起こす)をすることになりました。

第1子・第2子ともに陣痛促進剤を投与されていた妹の話では「いきなりMAXの痛みがやってくる!」とのことで…。
やだなぁ、自然に陣痛がやってこないかな~。と思っていました。

里帰りしてからはほぼ毎日、往復10キロの道のりを散歩していたわたし。
(たくさん歩くとお産が楽になると聞いていたので)

その日も妊婦健診の帰りに歩きまくって、ほぼ毎日のようにお参りしている神社へ向かいました。
手を合わせながら、心の中で「どうか安産でありますように」とお祈りしたのを覚えています。

予定日が近づくととにかくお腹が重く、座っているだけで泣きそうになるくらいに辛い。
11月も終わりだというのに、歩くと汗でびっしょりになりました。

早く産まれてきてほしい…この辛さからもう解放されたいよ~。
と思う反面、初めての出産への緊張と恐怖で、なかなか眠れない日々が続きました。

陣痛の始まり

2021年12月4日、朝6時頃に目が覚めたわたしは、なんだかお腹と腰が痛いのを感じました。
それも今までのようにお腹が張っているという感覚ではなくて、ずぅん…と下半身に響く感じ。

「なんだか変だな…」と思ったのですが、陣痛というのは痛いときとそうでないときの繰り返しだと聞いていたので、そのような痛みとは違ったように思えました。
たとえるなら生理痛に似ていて、鈍い痛みがずっと続いているような…。

客間からリビングへ降りて行き、母に痛みの説明をしたところ「とりあえず、何か変化が起きるまで眠ってなさい」と言われました。
そこで、再びベッドに戻って眠ることに。

寝たり起きたりを繰り返し、13時頃になると、腰に尋常じゃないくらいの痛みが。
生理痛どころではなく、何かかたいもので殴られ続けているような感覚です。

体勢を変えても、眠ってしまおうとしても、一向にその痛みは治まらない。
不安になってきた頃、お手洗いに行くと、下着に大量の血がついていました。

「あ、出血した!」

慌てて母に声をかけ、病院に電話をします。

スタッフさん「痛いときと痛みが治まる時の感覚はありますか?」
わたし「いえ…ちょっとまだわかんないんです…」
スタッフさん「出血しているということなので、入院の荷物を持ってこちらに来てください」

おお、いよいよ出産が始まるのか…覚悟決めなきゃ…。
震えながら、事前に準備していた入院バッグを持ち、母の車で病院に向かいました。

入院開始

その日は土曜日の午後でした。
診療は終了しているので、夜間用の裏口から入院。

コロナ対策のため、母とはここでお別れです。
病院に着くと個室に案内され、荷物を置いたあとは入院着に着替えました。

そこで助産師さんに対面。
「出血したのは、おしるしだね」と言われました。

おしるしとは、卵膜が剥がれることで起こる出血のことです。

赤ちゃんの心拍数を測るためにベッドに寝かされ、たくさん器具をつけられて安静にすることに。
その頃には痛みの波が生まれ始めていて、「痛い…腰痛い…!」くらいの痛みが10分間隔くらいで起こっていました。

ケモノのような声が…!

17時くらいになると個室に移動し、そこで休んでいるように言われました。
その日の夕飯は入院食。

まだ食事ができるくらいの余裕はあったので「出産に備えて体力つけるぞ」としっかり完食。
仕事中の夫には、母から連絡してもらうよう頼んでいました。

立ち合い出産は全面禁止になっていたのですが、わたしが入院した産婦人科病院では、一時的に立ち合い出産を再開していました。
ただし、かなり厳密な条件が合って、立ち合い出産ができるのは9時~17時の間だけ。
出産の途中でも、17時を過ぎてしまうと退出しなければならない、ということでした。

わたしは里帰り出産をしていたので、もしかしたら夫が来ても面会できないかもしれない…。
そう思ったのですが、わずかな可能性に賭けて、夫は仕事を早退して新幹線に飛び乗ってくれたようです。

「新幹線に乗ったよ!」という連絡が来た頃には、わたしの痛みはかなり激しいものになっていました。

声を出したくないのに、勝手に声が出てしまう。
コントロールができません。

そんな折、新幹線に乗った夫がデッキから電話をかけてきてくれました。

夫「今向かってるからね、明日の朝一から病院で待つから」
わたし「わかった…いたい!痛い痛い痛い痛い!!!!!!」
夫「ああ…何もできないのがもどかしいけど…」
わたし「それは大丈夫、もう覚悟決めてるから…でも、痛い!!あああああああああ!!」
夫「(おろおろする気配)」
わたし「あ…おさまってきた…」
夫「大丈夫?ごめんね、そばにいられなくて…」
わたし「大丈夫だよ。でもとりあえずいったん電話切るわ。痛いから」

電話を切ると、また死にそうな痛みが。
どんな痛みなのか上手く言えないのですが、とにかく声が出るんです。

それも「痛い痛い痛い!!!」という感じの悲鳴から、だんだん「うおおおおおおお!!!!ぐおおおおっ!!!」というケモノめいた声に。

痛みを逃すため、無意識に声を出しているんでしょうけど、なんせわたしは元・舞台女優。
大声を出す=よく響く声を出すという訓練を15年くらいやってきたわけです。

悲しいかな、舞台から降りた今でも、その発声方法は身体に染みついていたのでしょう。
病院中に自分の声が響き渡っていました…。

すでに19時頃だったので、寝ている赤ちゃんもいただろうに…。
ごめんなさい、と思いながらも、叫ぶのを止めることができません。

通常であれば、ここで寄り添ってくれる人(夫や母など?)がいて、腰をさすってくれたり、水を飲ませてくれたりするんでしょう。
けれどもコロナ禍でたった一人。
雄叫びをあげながら、少しでも痛みを逃そうと、持参したテニスボールを腰にぐりぐりと押し付けていました。

いっそ殺してくれ

巡回の合間、助産師さんが時々腰をさすってくれました。
でも、ほかにも産気づいている人がいて、ずっと付きっきりは難しいようです。

痛みに泣き続けているわたしは、初対面の彼女に「心細いからそばにいて…」と取りすがっていました。

助産師さんは「ごめんなあ」と言いながら、別の部屋に。
また一人になったわたしは、ベッドの上で泣き続けていました。

覚悟してはいたけれど、こんなに痛いとは。
この頃には陣痛が2、3分間隔に。

強烈な痛みが2、3分続き、そのあと2、3分は痛みが治まる。
そして再び2、3分の激しい痛みが。

叫び続けて体力を消耗し、痛みから逃れるために眠りたいのに、眠ることができません。
この時考えていたのは「拷問されるってこんな感じなのかな…。いっそ殺してほしい…」ということでした。

ここから逃れるには、産むしかない。
しかし、夫がここに来られるのは明日の朝9時。
この時、夜の21時頃でした。

え?あと12時間待たないとあかん?
それまでこの苦しみが続くの?…絶対無理やん、死んでまうやん。

しかも、先ほど子宮口の開きを見てもらうと、わずか2㎝…!
全開になったら10cmほど開くそうですが…2cmしか開いてないのに、こんなにしんどいの???


え?これ、ほんまに死ぬんちゃう??


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