映画 アルキメデスの大戦 で描かれる民族の象徴 ~新国立競技場は現代の戦艦大和となるか~

※ 本稿は深刻なネタバレを含みます。

あらすじ・みどころ

 昨日、レンタルで菅田将暉主演の映画「アルキメデスの大戦」を見た。戦艦金剛の後継艦として、空母を採用するか、巨大戦艦を採用するかで海軍幹部が対立する。空母サイド(山本五十六)は、巨大戦艦の建造費の見積もりが安すぎるのを指摘し、巨大戦艦案の廃案を目論む。そこで、天才数学家の主人公を雇い、数学的に見積もりの甘さを指摘しようとする「俺ツエー」系の話である。

 全編を通して、社会風刺の作品となっているのが面白い。

「不正を承知で民間会社と結託し、予算操作を行い、最終的に国庫に莫大な損害を与えようとしている。明らかなる背徳行為。」「1億や2億?国民が汗水流して納めた税金です。一銭たりとも粗末に扱うことは許されません。」

といったセリフは、東京オリンピックにおける新国立競技場建設において、見積もりの甘さによりあれよあれよと実建設費が上がっていったものの、なあなあで認めてしまった政府への批判となっている。また、菅田将暉が巨大戦艦の設計がまれな大波に耐えられない点を指摘する際の、

「何百回・何千回に1回に備えるのが設計者としての責務!」

というセリフは、福島原発の設計不備における「想定外」といった言い訳への非難とも取れる。

 結局巨大戦艦が建造されるのを我々は知っているので、会議で菅田将暉が負けるのだろうと予想していたが、巨大戦艦サイドの藤岡造船少将が予想外に非を認め、会議は空母サイドの勝利に終わる。すごいのはその後である。藤岡造船少将は菅田将暉を造船の研究所に呼び出し、巨大戦艦の大型模型を見せる。そして、次のように語り、菅田将暉を闇堕ちさせ、巨大戦艦の設計改善を行わせるに至ったところでおしまい。

「アメリカと戦争を起こせば、日本は必ず負ける。君はそう考えているだろう。私も同じだ。」
「その時、日本の象徴となるような巨大戦艦があったらどうだろう。それが沈められたとき、その絶望感は、この国を目覚めさせてはくれないだろうか。」
「だからこそ、この船は美しく、巨大で、絶対に沈まないと人々に信じさせなければならない。」
「私はね、この日本という国の依り代となる船を造りたいのだよ。この国が滅びの道に進む前に、身代わりとなって大海に沈む船だ。」
「だから、私はこの船にふさわしい名前を考えてある。」
「この船の名は、『大和』。」

本論

 アルキメデスの大戦は、新国立競技場のすったもんだを戦艦大和に例えて再構成した作品だ。そして、戦艦大和を大日本帝国の象徴とし、それが帝国の代わりに沈んで初めて新しい日本になるという思想を提示した。

 象徴と聞いて思い出すことがある。昔、「エイジ・オブ・エンパイア」というPCゲームにはまっていた。これは、国(古代文明)を選び、街を作り、資源を集め、軍隊を作って対戦相手と戦い合うという戦略ゲームだ。その中で、「民族の象徴」という建造物がある。通常は敵の国を亡ぼせば勝利となるが、膠着を防ぐために、「民族の象徴を建造し、一定時間守り切れば勝利する。」というルールが設けられている。民族の象徴の建造には大量の資源と人手が必要である。民族の象徴のビジュアルは、バビロニアを選ぶとジッグラト、エジプトを選ぶとピラミッド、ローマを選ぶとコロッセウム、といった具合に変化する。

 ゲームから離れて、他の国の民族の象徴を考えてみよう。ギリシャであればパルテノン神殿、フランスであればヴェルサイユ宮殿、東ドイツであればベルリンテレビ塔だろうか。民族の象徴は国だけのものではない。もっとローカルなレベルでいうと、奈良の大仏や大阪の大阪城、東北の中尊寺金色堂もこれにあたるかもしれない。より小さな組織でも象徴はみられる。ソニーのウォークマン、SMAPの「世界に一つだけの花」(世代丸出しである)などが挙げられる。

 では、これら「民族の象徴」とは、一体何であろうか。これらに共通していえるのは、その集団が最も栄えていた時期に作られたものである、ということだ。そうすると、次のような仮説が立てられる。つまり、ある集団が「民族の象徴」を作っているとき、その集団は自分たちが「民族の象徴」を作っているとは思っていない。集団は、常に前より良いものを作ろうとするため、その集団が衰退し、ピークのクオリティを超えられない状態が続いて初めて、最もよかった時のものが「民族の象徴」と認識されるのである。

 そう考えると、戦艦大和が大日本帝国の象徴であることは納得のいく話である。もちろん、私の仮説からすると、戦艦大和を大日本帝国の象徴だと思っていた人が当時海軍内にいたかというと、いなかったはずである。これは後になって振り返って初めて分かることであり、つまり脚本家のメッセージなのだ。

 余談だが、象徴というものは、「集団」のものとも限らないし、「建物・モノ」にも限らない。もっと小さな単位で、「個人の象徴」もある。例を出そう、私と兄は、エリートになることを両親に期待され、中学受験の実績のある塾に通っていた。私は常に最下位のクラスであったが、兄は成績が良かった。しかし、兄のクラスには、「一番でないと気が済まない」性格のK氏がいた。兄を目の敵にし、よく意地悪をしてきたため、我が家での評判は悪い。K氏は日本一偏差値の高い中学に上位で合格し、その後、東京大学に進学したという。しかし、どういうわけか、今はその出身の塾で講師をしている。「一番でないと気が済まない」K氏は、なぜ普通の人より多いであろう選択肢の中から中学入試の塾講師を選んだのか。それは、中学入試がK氏にとっての人生の象徴だからである。

 さて、話を本題に戻そう。まず私は、アルキメデスの大戦は、大日本帝国の象徴である戦艦大和を通して、現代の新国立競技場建設をめぐるあれこれを風刺していると述べた。また、ゲームの「民族の象徴」という概念を用いて、この社会で「民族の象徴」とされるものは、その集団の最も繁栄した時期に作られるものであるという仮説を立てた。

 このふたつの考えを組み合わせると、少しゾッとする。新国立競技場が、もし現代日本の象徴であるならば、その後、この国は衰退するしかないからだ。アルキメデスの大戦は、この国の行く末を予言した映画なのか、それとも、私の杞憂にすぎないのか。

我が国の恒久的な繁栄を心から願う。

(以上)

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