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闇に備える照明書

愛情って何だろう。
この退屈な疑問にきっと答えは出ないだろう。

「愛情がまったくない」

引っ越しをした日の午後。まだテーブルも広げていない部屋で、何でも屋さんがそう言った。私の甘ったれた依頼のもと、新しいキャットタワーを組み立ててくれながら。
他の業者さんはもう帰っていた。代表であるその方だけが残り、事前にお願いしたいくつかのことをこなしつつ、何でも屋さんならではのいろいろな逸話を聞かせてくれた。

何でも屋さんというだけあって、ほんとうに何でもするものらしい。
料理や、生け花や、ライブの音響、ちょっとしたバーの設計まで、ここ十年ぐらいでその方が請け負った仕事の豊富さに、私はただただ驚いていた。

その中のひとつに、犬の世話があった。

かなり遠方のひなびた地域らしいが、とある大地主さんに気に入られて、たまに出張をするのだという。犬の面倒を見るためだけに。

「大地主さんは数年前に亡くなって、今はその奥さんが遺産を継いですべて取り仕切ってるんだけどね」

それだけでもドラマのような話だが、実際に遺産をめぐってのてんやわんやもあったそうだ。その際にも、法廷への付き添い役として何でも屋さんが出向いたというのだから、もうよくわからない。

「犬さんって、旦那さんの形見みたいな感じですか?」

つい好奇心に駆られて尋ねてみると、何でも屋さんはドライヤーでビスをくるくる回していくかたわら、そんなところだね、と答えてくれた。

「大型犬でね。犬種も立派だし、もちろん血統書つき」
「さすが大富豪ですね」

いちおう、私の猫も血統書つきではある。
だからといってどうこうということはない。血統書の有無に私はほとんど価値を見いだしてはいない。
ほとんど、というのは、もしも私に何かがあって猫をどなたかに譲らなければならなくなったとき、ひょっとしたら血統書がものを言うかもしれない、その一点があるから、完全に意義がないとは言いきれないのだ。いわば保険のようなものである。

何でも屋さんはいったん手をとめてキャットタワーの説明書に視線を落とし、何か納得した様子で次の支柱を取りあげた。それと同時に話を接いだ。

「奥さんが当主になってから豪邸を改築してね。犬の空間を作ったんだよ」
「やっぱりすごいやつですか?」
「まず、このアパート全体がおさまるくらいの犬部屋」
「わお」
「あと敷地内にドッグラン。広さは部屋の二倍」
「国内の話ですよね?」
「アメリカとかでもそんなに無いんじゃない?で、エサ代が一ヶ月、十五万」
「いったい何をそんなに?」
「神戸牛はデフォ」
「マンガとかゲームの設定みたいですね。犬さんは一匹です?」
「そう。去勢ずみ」

あるところにはあるんだなあ。
私の感想はどこまでも凡庸だった。

「でもさ」

ちょっと腰を浮かしキャットタワーの二段目に手をかけたところで、何でも屋さんは私を見た。

「その奥さん、犬への愛情はまったくないんだよね」

すぐにはのみこめなかった。
たぶん私の顔には困惑が滲んでいたのだろう。何でも屋さんは、軽く唇のはしっこを上げた。

「散歩もエサの用意も病院も、犬の世話はぜんぶ使用人まかせ。僕が呼ばれるときはちょっと遠くまで犬を連れていってほしいとき。海とかね。あと犬小屋のメンテナンス。これもすごいよ。三ヶ月ごとに三十万ぐらいかかるメンテが要るくらいだから、まあ普通の構造や材質じゃないわけ。メンテはさておき、掃除とかそういうのすべて、他人まかせ」

それで愛情があるって言える?

何でも屋さんの目だけが笑っていなかったのは、気のせいではなかったと思う。
私は、何でも屋さんの手にあるキャットタワーの部品を見て、急に居ごこちが悪くなった。
それを繕うつもりではなかったけれど、ですけど、と、気づいときにはもう受け流せずにいた。

「あの、お話を聞いた限りでは、その奥さんはちょっとご年輩かなという印象がありますけど」
「そうだね。七十代」
「ならまずまずご高齢ですし、ご自分でできないことをできる方にお金を出してお願いするのも、なんというか、愛情のひとつのかたちかなという気がします。私も今、こうやってキャットタワーの組み立てをお願いしてますしね」

自分でやらないからって愛情がないと決められたら、心外です。
さすがにそこまでは口に出さなかったものの、おそらく伝わってしまっただろう。何でも屋さんはふいに視線を逸らし、付属の小さな六角レンチを片手でたぐり寄せた。

「僕も犬を飼ってるけど、世話を家族以外に任せたことってないね」
「そういえば鶏さんもいらっしゃるとか」

電話で打ち合わせをしていたとき、ちょっとそんな話になったのを思い出して、私はさりげなく話題を変えようとした。どこかで、安堵しつつ。
何でも屋さんはひとつうなずいてレンチを置き、かわりにスマホを取り出した。ロックを解除してカメラロールをスクロールしていく。やがて画面に写し出されたのは、あまり見たことのない色あいの鶏たちだった。

「えっ、何か珍しい種類ですか?チャボとかじゃないですよね」
「海外種だからね。日本にはあまりいないと思うよ」
「へえ。何かこだわりがあったんですか?」
「いろいろ試した結果かな」
「試したって何を?」
「卵の味」
「え、違うものですか?」
「ぜんぜん違うね。好みにもよるだろうけど、うちはこの種類の卵が家族も大好きでさ。もうスーパーとかのは買わない」
「すごいなあ……こんな凛々しいお顔してても女の子なんですね。可愛いというより、かっこいい」
「もちろんオスもいるけどね。種馬ならぬ種鶏」

くったくなさげに声に出して笑うことに成功した。
そのあとは鶏の飼育方法とか、ケンタッキーの話をして、もう大金持ちの奥方とその犬にふれることはなかった。



愛情って何だろう。

そういえば、私も犬を飼っていたことがある。ビーグル犬。小学生のころだから、もう三十年以上も昔の話だ。
当時、電機屋を営んでいた父親が、ある日とつぜんにお客さんのところで生まれた子犬をもらってきたのだった。兄も私もずっと犬を飼いたいと訴えていたし、父も犬が好きだったから、恐らくふたつ返事で引き取ってきたのだろう。

わずか三年で死んでしまった。
フィラリアだった。

あのころは外飼いが主流で、犬小屋も庭にあった。その庭の出口に父が高めのドアと柵をつけ、それこそ今で言うドッグラン状態にしていた。
けれども毎日、散歩は欠かさずにいたのに、皮肉なことにその散歩中、フィラリアにかかってしまったらしい。
予防注射は、狂犬病以外にはしていなかった。たぶん、そういう時代だったのだとも思う。
血尿をきっかけに病院へ連れていき、もう長くないと言われてから、家の中で世話をするようになった。あいまいな記憶だが、三日に一回ぐらい父が動物病院につれていっていた。
亡くなったのは、それから一ヶ月もしない、夏休みの直前だった。

外での飼育や、予防注射をしなかったことは、愛情がないと言われても仕方がないのだろうか。
でも、私たちは確かにあの犬を愛していた。

思えば、自分に何かがあったときに、というのは、この犬を通して学んだことだ。
たとえば何か事情があって一時的にでもよそ様の家で預かってもらうとき、やたらに吠えたり噛みついたりそこらじゅうにおっしこをしたりせず、できることなら可愛がってもらえるようにと、私たちはしつけをしたのだ。

猫をしつけるのは、犬のようにはちょっといかない。でも、猫が健やかに生きるためのことは、最低限やっている。ワクチン、避妊手術、IDチップ。
血統書の手続きは、既に書いたとおり、私に何かあったときにどなたかにとってより良い条件になるなら、それだけのことだ。もちろん、私自身が責任をもって生涯を共にする覚悟は、大前提にある。

ペットショップで買ったから。
いのちをお金あつかいしたから。
キャットタワーを自分で組み立てないから。

それを理由に愛情を否定されたくはない。
でも、否定されても別にたいしたことでもない。

愛情なんて目に見えない。
目に見えるようにした愛情で、誰かに何かをわかってもらう必要も、きっとないのだろう。



今回の引っ越しで紛失したもののひとつに、その猫の血統書がある。
重要な書類は自分で守らなければとバッグに入れようとしたところで、何でも屋さんが、横からさっと取りあげたかと思うと無言で雑誌の束の中に挟みこんだ。

「それ、自分で持っていきます」

そう伝える間にも素早く雑誌ごとビニール袋に入れられてしまい、そんな運び方では破けてしまうかもそれない、返してください、と慌てて訴えても、時間がないから話している暇なんかない、ちゃんと運ぶから大丈夫、と取り合ってもらえなかった。

その袋ごと紛失していることに気づいたのは、翌日のことだった。
かわりに、捨ててほしいと頼んだ袋が手もとにあった。恐らく、どこかで入れ違ったのだろう。

それ以外にもあまりに多すぎる紛失や損傷のことで電話を入れたが、もう仕事は終わったしそんなに大事なものならうちに頼まず最初から最後まで自分ひとりでやるべきだったでしょうと、それだけで電話を切られてしまった。

最近になっていよいよことが重大になり、消費者センターに相談した末に、前の市の元福祉担当氏に問い合わせることになった。
そこで、何でも屋さんとの間に契約書の取り交わしがまったくなかったことが発覚した。
福祉の元担当氏も見積もりだけはもらって、契約書のことはすっぽり抜け落ちていたのだという。
さすがに謝罪があったが、そもそもこればかりは元担当氏のせいとも言えないだろう。福祉課全体が契約書を持たずに会議を経て、それで案件を通してしまったのだから。
消費者センターは、それではもう手の打ちようがないと、法テラスや、福祉に強い弁護士団体などを紹介された。ことによっては、何でも屋さんと市が対立することになるかもしれないとのことだ。そこに私がどう絡むのかまでは、消費者センターではどうにもわからない、とここでも謝罪を頂いてしまった。

紛失したものの中で、猫の血統書は私にとって優先順位はあまり高くはない。再発行も可能だ。
血統書そのものは猫を愛してはくれない。だから、それは問題ない。
でも契約書は責任や信用を明らかにするものだ。
もちろん私にも福祉の担当氏にも明らかに落ち度はあるのだが、契約書についていっさい語らなかった何でも屋さんは、いったいどういうつもりだったのだろう。



愛情も信頼も、紙にしてしまえばうすっぺらいのかもしれない。
でもそれが大事になることもあるのが、社会だ。

犬小屋のメンテナンスに、一回、三十万。

愛情じゃないか。
それを託せるだけの信頼を得ているじゃないか。

紙にしてしまうことで誇りが損なわれるものでもないのに、とため息をついてから、法律事務所の電話番号を書き落としたメモを、キャットタワーから離れた引き出しの奥に、きちんとしまいこんだ。







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