見出し画像

「なんで?」の角にぶつかって

私は豆腐が嫌いだ。
豆腐だけはどうしても食べられない。

逆に言うと豆腐以外に食べられないものは特にない。

ちょっとぐらいの汚れものならば残さずにぜんぶ食べてやる。
おお豆腐。君はダメ。
真実を握りし……めてないと良いな。豆腐の真実なんて知りたくもない。

こうしてキーボードに touhu と叩きつけるのもあまり気が進まない。
その程度には豆腐が嫌いである。


この私のアンチ豆腐っぷりを見て人は言う。

「なんで?」

日本人の百人中、九十九人に聞かれる。

「なんで?」

これはそんな「なんで?」の話だ。





今年の夏。
障害者就労移行支援事業所(訓練所)に通いはじめてそろそろ一ヶ月を迎えようとしていた、八月のおわり。

その訓練所でのカリキュラムは基本的に午前十時から午後三時まで。
よって、お昼をはさむことになる。

訓練生は全員そろって十人ちょっと。
私の登録が完了すれば十四番目になる予定だった。
その時点ではあくまで見学者。でもほとんど本訓練生と同じ過ごし方をさせて頂いていた。

本題をランチタイム事情に戻す。
訓練生の六割ぐらいがお弁当を持参していた。それ以外は近くの牛丼屋に流れるか、コンビニで何かしら買ってきていた。
私はコンビニ派であった。
九月はもう目の前とはいえ、まだまだ暑い日が続く。
それでも中華まんの販売開始は急にはとまれない。
おにぎりよりもふらふらっと肉まんを買うようになっていた。





その日も肉まんを買ってきて、教室のテーブルでもくもくと食べていた。
席は決まっていないが、何となく、誰がどこに座るかおのずと定まっていくものらしい。

私は大抵、いちばん後ろの席に座っていた。

他の席は会議室にあるような長いデスクだが、そこだけは丸いテーブル。聞いた話では、コロナまえはその丸テーブルをよく昼食用に使っていたとか。
今では密を避けるためにその丸テーブルも一人での使用が暗黙の了解になっていた。

いちばん後ろ、と書いたが、実はその後ろにもう一つデスクがあった。
こちらはオフィス用のデスクで、職員さん専用の席だった。講義中、書記を務めるべくノートパソコンを持ちこみ、そこに座って時に講義のサポートもまじえながらキーを叩いていた。

私が後方の丸テーブルを使っていたのには、二つほど理由がある。

一つ。
まだわからないことが多い中、そこにいれば背後にいる職員さんにすぐ聞けた。見学者としてはベストポジションだったのだ。

もう一つは後述する。忘れなければ。





職員さんたちも教室でランチをとることが多く、このデスクも正午から午後一時までは職員さんの食卓に早変わりしていた。
その日も例外ではなかった。

私がちょうど肉まんを食べおわったころ、誰かがそこに座る気配がしたので振り返ったら、所長さんがファミマの有料レジ袋を手に腰かけるところだった。
あ、どうも。
簡単にあいさつをかわす間にも、所長さんはいそいそと、そしてがさがさと袋から取り出した。

麻婆豆腐を。

私はそれを見るや、うお、だか、うあ、だか、すっとんきょうな声をあげてから、

「麻婆豆腐ですかあ。私、豆腐ダメなんでちょっと椅子ずらしますね」

と、丸テーブルの椅子ごと少しだけ脇へと回避した。


もちろん、豆腐を見るのも嫌だというのは誇張表現である。
もちろん、豆腐が憎ければ食べる人まで憎いなんてはずはない。
もちろん、だから、これはジョークというか、ただのおふざけである。


所長さんは麻婆豆腐のフタを外しながらにやりとした。

「へえー。豆腐、だめなの?」
「どうしても無理ですねえ」
「ゴルゴ豆腐」
「豆腐は俺の後ろに立つな!」
「よーし、じゃ遠慮なくいただきます」
「じゃって何ですか。召し上がれです」

所長さんは気さくな方で、それまでにもいろいろな話をしていたから、こういう軽口も交わせたのである。

というかファミマに麻婆豆腐あるんですねと私が言い、所長さんが頷きつつ最初の一口をお迎えようしとした、そのとき。

は?何あれ。

その声に、所長さんの視線が横すべりした。

発生源は教室の反対側、それでも二メートルと離れていない位置の机。
そこに座っていた訓練生のAさんだった。
既にお弁当を食べ終え、前の席にいた別の方とおしゃべりをしていたが、どうやらこのやりとりを見ていたらしい。

「絶対、食わず嫌いでしょ。あのひと偏食めっちゃ激しそうだし」

一応、声をひそめてはいるが、しっかり聞こえている。
それに本人が気づいているのかは分からない。
しかし話しかけられている方は、さすがに気まずそうにしていた。ちらちらとこちらを窺いみてくる。
私は内心で、お疲れ様です、と奥ゆかしく礼をした。





Aさんは私より五つほど年上の女性。
聞けば、もうずいぶん前に結婚して高校生のお子さんだっているし、ずっと普通に(彼女の言を借りれば、普通に)働いて生きてきたというのに、なぜかここ数年、仕事がまったく続かなくなってしまった。
転職も五度目になったあたりでいろいろ考え、この訓練所に通いだしたとのこと。

彼女は常にエネルギッシュな雰囲気を放っていて、講義中の発言なども非常に活発だった。
いわゆるムードメーカー的な存在。彼女がいない日はちょっと教室が静かになるくらいに。

そのAさんに、「新参は黙ってなさい」と言われたことがあった。

あなたはまだ通って間もないんだから、何もわかってないでしょ。
質問や発言の焦点とか論点がずれてたりするの、障害者だからしょうがないかもしれないけど、間違ってるって身の程をわきまえて黙ってて。
あと勝手に他の訓練生に話しかけないで。
話すの苦手な人もいるから。
そういうの、私が調整してるから。

はあ、としか反応できなかった。
翌日までもやもやしたまま口数を減らしていたら、今日は頑張ってるね、と褒められたあたりで、あ、これかなり変だ、と気づいた。

以来、私は間違っているかもしれない質問や発言を堂々と重ねる一方、Aさんとは適度に距離を置くことにしていた。

私が一番うしろの席にいつづけた、もうひとつの理由。
それはAさんが前にいることが多かったからだ。

が、彼女は遊撃隊でもあった。
その日は久しぶりに後ろの方に座っていた。





彼女も最後尾の席だから狭い通路を挟んだだけで、ほぼ隣。
私が彼女の忠告だか命令だかをはねつけてからというもの、彼女はある日は優しく、ある日は無視、と機嫌によって態度がころころ変わった。
それも私は受け流していた。
話すべきときは話したし、それに彼女が応じないなら、訓練において必要であれば、そのままの事実を報告することにしていた。

つまり、所長は状況を把握していた。
あれやこれやを知っていて、麻婆豆腐を食べながら、黙ってことのなりゆきを見守っていた。

しばらくAさんはこそこそとまだ何か言い募っていたが、ついに私に向かって声を張り上げた。

「ねー、なんで豆腐、嫌いなんですかー?」

小学生みたい。
それが最初の感想だった。
一瞬、所長と目が合ったものの、すぐにお互いにすっと視線の矛先を変えた。私はAさんに、所長は麻婆豆腐へと。
私はしらじらしくにっこりと笑って、

「え?さっき自分で結論、出してたよね?食わず嫌いで偏食なんでしょ?そう決めたよね?なのに私に聞くの?なんで?それこそなんでですか?」

そう言い返しても良かったが、残念ながら私はそこまでおとなげのない人間ではない。
んー、と少し考えるポーズを取ってから、

「ちょっと思いついたことあるんだけど、やってみて良い?」

と尋ねてみた。
Aさんというよりは、Aさんに話しかけられていた方のほうが気にかかっていた。
今や、その方も、恐らく他の訓練生も耳をそばだてていそうだった。
どうぞ、とAさんが譲ってくれた。





「ありがと。えっと。私さ、ホラー苦手なんだ」

Aさんではなく、Aさんの前にいた方に向けて言ってみた。
彼女は私を見て、そうなんだ、と首を軽く揺らした。

「あとねえ、絶叫マシンも苦手」
「うんうん」

その人がまた繰り返して、今度ははっきりうなずく。

「それからね、テレビあまり観ないからテレビ持ってないの」
「あ、そうなの?」
「うん。だからジャニーズとか詳しくないし、キムタクあまり好きじゃないよ」
「あ、うん、まあ、それぞれだよね」
「ディズニーもあんまりかなー。アナ雪だっけ?あれとかどうでもいい」
「そ、そうなの?」
「ぶっちゃけジブリ興味なさすぎて観たことない」
「なんで!?」

それ。
私は失礼ながらも人差し指を立ててみた。

「それですよ。なんで?ってくるタイミング」
「あー……少数派ってこと?」
「って思うじゃないですか。でも私、これ自分の理解の範疇の問題だと思ってるんですよね」

実際の私はホラーが好きだ。
ジブリも別に嫌いじゃない。
ジャニーズやディズニーにとくだん嫌悪感なんてない。
テレビを観ないのは事実。
絶叫マシンも進んで乗ろうとは思わない。

「でもたぶん、私がホラー好きですって正直に言ったら、なんで?って来るんじゃない?」
「あ、そうかも」
「あなたはホラー好き?」
「嫌いなの」
「そっかあ」
「……あ、なるほど」
「まあ、そういうことです。ふんわりしててごめんね」
「ううん。なんとなく分かった」

その人はそれで納得してくれたようだが、Aさんには通用しなかったらしい。

「え、何の話?私は豆腐の話してるんだけど。なんでいきなり自分トークしてんの?」

ほら、また論点ずれてる。
Aさんが指摘を携えしつこく食い下がってくるものだから、表面は繕った笑顔のまま、でも率直に伝えた。

「もう誰も豆腐の話してないよ」
「なんで?私、答え聞いてない。なんで豆腐、嫌いなの?」

ああ面倒くさい。
面倒くさいが、私はまだヘラヘラしておいた。

「あー、なんでだろねー。あれね。恋するときは理由なんてないのに別れるときは絶対に何かある、みたいな?」
「私、嫌いな人いないもん」

どの口が、と思った。私の中の意地悪な部分で。

「人間、誰にも良いところあると思ってるもん」
「やったぜ、褒められた!」
「え、でもそうじゃなくて、だから、なんで豆腐の話なのにホラーとかジブリとか恋愛になってんの?」
「ああうん、じゃあ豆腐アレルギーってことにしておいて」
「あ、じゃあしょうがないわ」

Aさんは理解できてさっぱりしたといった様子で立ち上がり、トイレ行ってくると一言を残して教室の出口へと向かった。
歩きながら、

「さっさとそう言えっての」

と毒づいていたが、もう誰も気にとめていなかったと思う。

所長はいつの間にやら麻婆豆腐を食べおわったらしく、もうそこにはいなかった。





午後の講義中。

「ちょっといい?」

急にAさんが椅子を寄せてきた。

その講義は最初の十五分以降は訓練生同士での交流に費やされていた。もちろん、議題にそった話題が一応は義務づけられている。
が、Aさんは手ぶらだ。資料も何も持っていない。
今度は何だろうといぶかりつつ、ひとまず話を聞くことにした。





「さっき、ごめんね。きつく言い過ぎたかも」

別に。大丈夫だよ。

「あの時さ、は?人を避けるとか失礼じゃね?って思ったらむかついちゃって」

うん。

「そういうの、注意しなきゃだめじゃない?だからそれを言いたかっただけなんだよね」

そうなんだね。

「でさ、これからのことなんだけど」

はい。

「またああいうことあったら、もっと優しく遠まわしに注意するのと、今日みたいの、どっちが良い?」

放っておくとか様子を見るっていう選択肢はないの?
そう聞き返そうとしたが、面倒だった。ただただ面倒だった。

今日みたいのでどうぞ。

「わかった。任せて」

んと、私からも良い?本来、今はこういう時間じゃないけど、やること終わってるなら。

「あ、うん。いいよ。何?」





「Aさんてさ、自分が理解できないと気が済まないタイプ?」

そうだね。他人にすごい興味あるから。

「興味は私もあるよ。でも理解できないことが悪だと思ってないんだよね」

そうなの?なんで?

「その、なんで?だけどさ。自分と違うこと何にでも、いきなり、なんで?って聞くの、麻婆豆腐を避けるのとたいして変わらないレベルの失礼さじゃない?」

そんなことないと思うけど。さっきの豆腐のもだけど、なんでかなって理解したくて聞いただけだよ。

「うーん。あれ、素直に質問として受け取りたくなかったというか、受け取れなかったよ。私はね」

え、なんで?

「質問にしては攻撃的だったから」

うん。さっき言ったよね。むかついたって。

「それこそ、なんで?って言いたくなるんだけど」

どういうこと?

「私は、他人の失礼さに対していきなり怒りをぶつけないから。まあ、そこは同じだよ。自分と違うからなんで?とは思うね。でも私は中立でいたいな」

そういうのがいじめの傍観者になるんだよ?

「言い方が悪かったね。自分とすごく親しい人が失礼なことをされてたら私も怒るわ。それはわかる」

でしょ?

「でも、それが本当に『失礼』かどう決めるの?」

え、意味わかんない。

「失礼が許される間柄とか、関係性とか、距離感ってあると思うよ」

ああ、友達同士でとか。

「そうそう」

でも所長だったし。

「うん。もしあれが本当に失礼で、所長にとって嫌なことだったら、所長が自分から言ったと思うよ。そういう失礼なことやめてくれって」

え?

「所長は私と会話してたわけなんで、何かあったら所長と私で話しあって解決するよ。あなたの力や助けが必要とか誰も言ってないよね」

え、でも所長は優しいから。

「所長は優しくても言うべき時は言うから。さすが所長」

じゃあ、何?私が間違ってるの?

「間違ってるっていうか、私はああいうの、嫌だよ。正しくても嫌」

ああいうのってどういうの?どれ?

「決めつけ」

でも私、あなたになんで?って聞いたし。

「あれは私のこと知りたいからとかじゃなくて自分の怒りが正しいことを確認するために答えを強制したって感じじゃない?一方的だよ。私は嫌だった」

そうだったの?ごめん。

「こっちも嫌な気分にさせたなら、ごめんなさい」

じゃあさ、こういう会話も嫌?

「んー、何でもコミュニケーションの入り口になれば良いんじゃない?ただ、お互いの踏みこむ領域は気をつけようよって話。コミュニケーションって一人じゃできないんだしさ。自己主張なら一人でできるんだからやれば良いじゃん?それとは別なんで」

私、自己主張が強い自分を悪いって思ってないから。自分のこと好きだし。

「そう。頭に入れておくね。でも私は嫌だよ。ずっとあなたの意見とか主張を押しつけられるのは、嫌なんだよ」

ごめん。

「あとね。私さ、無差別じゃないんだよ」

ん?

「麻婆豆腐ね。ああいうの、相手を選んでやってるよ」

そうなの?

「そりゃそうでしょ。まさかあなたに対してはやらないよ。まだそこまでの仲でもないし」

え?そうなの?

「そうですよ」





その日を境に、どういうわけかAさんは、
「あなた大好き!」
を連発しつつ私の隣の席に座り続けた。

けれど最終的には、彼女とのことが一因にもなって、私はその訓練所を去った。





私は豆腐が嫌いだ。
豆腐だけはどうしても食べられない。

何故か。
自分でも分からない。
おとなになってから何度か挑戦してみたが、どうにもこうにもダメなのだ。
理屈ではないのだと思う。





私はこれが好き、ということに「なんで?」と聞くのは話のひろがりにもなるし、楽しそうに語ってくれると嬉しくなる。

でも、嫌い、は、好き、ほど簡単ではない。

私のように理由がないこともあるが、理由があるなら追求することで傷つけてしまうかもしれない。

そこまで深刻に考えなくても、別に相手の「嫌い」を理解しなくたって、会話はできるし交流もできる。

ちょっと注意しないといけないのは、相手が何を嫌いかを知っておくのには利点もあることだ。
たとえば私が豆腐は嫌いと知っていれば、あなたはあえて私を豆腐料理の店に誘ったりしないだろう。

同じことを私も他人に対して配慮したり思いやったりできる。

でも理由を知る必要はない。
問いつめるようなことでもない。
そういうことをしていると、「嫌い」がふらふらっとひとり歩きして、「なんで?」を続ける人そのものや、その人との記憶に対象が移ることだってある。

「私、これ嫌いなんだけど、実はね」

と自ら話し出すまで待つくらいの距離感がほしい。
まして、「嫌い」であることをいきなり責めたり「そんなのはおかしい」と決めつけるのはもうまったくいただけない。


「他人に対しての失礼なふるまいは嫌い」

それはけっこうなことだ。私も好きではない。
けれど、本人同士が許容しあっているところに介入することが正義だとも思えない。

失礼さが問題になるならそれは当人が解決すべきことだ。

そこにも「失礼が許されるはずはない」という断定があるから、事情も知らずに何とかしたくなるのだろう。

想像力のない正義感はひとりよがりでしかない。
ひとりで気持ちよくなれているんだったら私の出番はない。邪魔しようとも思わない。

コミュニケーションも発生し得ない。

それが選択の末のことならば、私はとりわけ尊重したい。





私は豆腐が嫌いだ。
あなたはホラーが嫌いだ。
あの子は猫より犬のほうが好きだ。
そのひとはひとりでいることが好きだ。


「なんで?」


……うーん。

……。


……あのね。




サポートして頂いたぶん紅茶を買って淹れて、飲みながら書き続けていきます。