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われらが想像力/エッセー

 通勤中はできるだけみどりのあるところを選ぶ。15秒足らずで通り過ぎることができる公園でも、みどりが空っぽの忘れられた緑道でもいい。みどりだけが都会のオアシスへと導くヒントのように、引きよせられる。太陽を求めて伸び続ける植物のごとく焦がれる。コンクリートに飲み込まれた生活のおかげで心は乾ききるなかで、足りないみずみずしさを道端の雑草からでさえと、補おうとしているのかもしれない。

 その行動に理由はあるのだろうか、なんの栄養が足りないのか。と考えたりするがわからない。外に出て、歩き、風のにおいを感じ、最後に足の親指に力を入れるだけ。ある日には立っている白樺の木が巨大な象の足にみえたりして(まるで根っこがひづめのようで)、私はまだ大丈夫、と思うのだ。仕事に追われながらも私はまだちゃんと、想像力をなくしていなかった。もしかしたらそれだけが救いで、栄養で、私の願い。(私の想像力には走り回るための足がついている。)

 想像力を大切にしていた。想像力は、おかしくて、軽いことも重いこともあって、ストーリーや、論理や、はたまたナンセンスや、すべての感情、そしてすべてのはじまりが詰まっていて、皮肉屋だけど愛おしいもの。それをなくしたら、私は私ではいないと思うくらいに、私のしょうもなくもかわいい想像力は居場所を探し続けている、そう、今も!

 枯れ葉がふらふらと木から落ちて、地面から直々に生える葉っぱの大きなステージに乗ると、葉はそのまま滑り、流れ落ちる。紅葉の滑り台、なんて思いすこし楽しくなる。仕事でまじめなことをしているのに”aaa”なんて意味のない文字列が、意味のある単語とぶつかっているのを見ると、小学生のころに戻ったみたいに、ひとりでくくくと笑ってしまう。

 想像力はすべての源だ。人の心をイメージするだけじゃない、私たちは想像力が故に、私たちである、と明言しちゃいたくなるくらいに。記憶の勝手な改竄も、非効率に過去を嘆くことも、そして希望も目標も計画も、全部詰まっている。泣きたいくらいに、全部のぜんぶ。

 私はそれを、彩ってみたいと思っている。誰よりも想像力を大切にしているし、喧嘩はしたくないから歩みよりを進めている。想像力、そうぞうりょく。イマジネーション!子どもにも、しわくちゃのおばあちゃんみたいにもなれる。日本の人にも、どこか遠くの国の人にもきっと伝わる。真っ赤なトマトにも、真っ白な壁にもなれる。
 そしてそれは、コンクリートの中には埋まっていないし、閉じ込めるなんて不可能だ。閉鎖的な空間では物足りず、すべての高さを殺し、オアシスに続く雑草を探し、とうとう地平線のみえる海まで行って、解放されるのだろうか。ならば行こう、それがわが想像力の願いならば!



エッセー:われらが想像力
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