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あの広さと、星のような数の人を思い出しながら。|エッセー

 とある木曜日の18時30分01秒後、あるバンドは、きれいな音の長いイントロでライブをスタートさせた。そのころ私は会社にて、にがい顔で打ち合わせ中。パソコン画面をにらみながら早く打ち合わせが終われ、終われと願っていた。
 7日前にたまたま仕事をしながら聴いた新しいアルバムは、ライブ収録曲のアルバムだった。聴きながら心をつよくつよく打たれて、仕事中の手を止めてライブのチケットが余っていないかとすぐに探した。一週間後にライブがあるらしい。抽選でスタンド席のチケットを取ることができたけど、その日はライブスタート時刻まで仕事の打ち合わせのある悲しい時間割だった。
 仕事のせいで好きなことができないのはすごく嫌だった。だってそれは新人でもプロでも関係ない表現の話だと思うから。そして今回のライブは、ひとりでいくのが初めてだったことも、背中を押した。幸い会場までタクシーで10分。移動手段から外されがちのタクシーが選ばれたのは、(あまり得意ではない)会食続きでタクシーを使う抵抗が少なくなっていたから。そうして遅刻してでも行こうと決めた。これは、自らの自由を突き通すための葛藤と抵抗の話でもある。

 そんな経緯があるから、18:30分になっても終わらない打ち合わせにイライラするのは許されてもいいと思う。18:30分とは仕事の定時であり、あるバンドのライブスタート時刻。今まさに打ち合わせが続くこの瞬間にも、1曲目のイントロがはじまっているはずだ。18と、30という数字をパソコンで見てから、手元のスマホでも確認した。60秒がこんなにも大切で、もどかしいなんて!もはやその時の打ち合わせ内容は私の問題ではなくなっていた。ライブの平均時間や遅刻できるのかについてをもう一度調べる。なんたって10年ぶり人生2度目のライブ。できるだけスマートに参加したかった、カッコいいファンでいるために。

 定時を過ぎてからの打ち合わせラスト議題は予定外に追加された、オプショナルな話だった。あるアンケート調査結果をみて今後の方向性を検討するというもの。まだ不完全と伝えられていたデータをもとに、5名が1人ずつ意見(というか感想)を言う。主催者が一方的に質問するだけで、とくに盛り上がりはない。まず私の上司、次に私、次に他社スタッフ2名と続く。聞きながら、今日に限っても時間を守らない主催者の意識にイライラしてくる。契約上私はもう帰っていいはずだけど、そんなことしたらどうなるんだろう(途中退席のイメトレはことごとく失敗に終わる)。

 もがいたって早く終わるわけではないから18:30分になっても私はとても冷静で、なにもない部屋で嵐が過ぎるのをなにもせずに(できずに)待つしかないようだった。打ち合わせをしているのは明らかに私以外の4人。申しわけないけれど頭の中は、ライブでいっぱい。ライブで歌われるだろう曲のプレイリストをこの一週間はずっと聴いていて、最新曲もばっちりだ。そんなことするのは初めてだったけど、ライブで知らない曲が出るとノれないんじゃないかと思った(きっと間違っていないはず)。問題は、ライブまでの道のりをきちんとスムーズに確保できるか。私はパソコンの中で帰りの準備を進めていた。

 私は想像した。この打ち合わせが終わった瞬間にどうするかを。まずデスクに戻り、パソコンをシャットダウンしたら机の周りを片付ける。ひざ掛けをたたみ、水筒をリュックに詰め込む(あらかじめ洗い終わったお弁当箱は打ち合わせ前にしまっておいた)。イスが机にうるさくぶつからないようにしまう、あいさつをする、ジャケットを羽織る。今日のジャケットはなんだかライブにぴったりなんだよね。そうして退勤。小走りで社内のトイレに移動しながらタクシーを呼んだら、19時には会場に着くかな。そうしたら平均2時間半のライブのほとんどは楽しめる。ライブがどんな感じなのかは、全く想像ができなかった。プレイリストを何度も聴いて、身体に染み込ませただけ。
そんな中でも打ち合わせは続き、18:35分を過ぎたところで打ち合わせが終わりそうな気配を感じた。目の前に朝日が昇るようなまぶしい希望を感じたとき、口数の少なかった上司が会社の印象を更新するが如くあたらしい意見を述べた!事情を知る由もない上司の、空気の読めなさ具合に絶望。朝日は一瞬で落ちた。これで打ち合わせはプラス5分となるだろうな。ああ、3曲目も聴けなかった。若干ひねり出した感のある上司の意見を、主催者は喜んでいた。誰もみずから意見しなかったから。

 予想どおり、そのあとは5分ほど話し合いが続いた。いまは2曲目の途中だろうか。せめて5曲目には間に合ってほしい。好きな曲が歌われる可能性が高いのだ。
ついに18:40分ごろアンケートの話が終わった。ようやく!ようやく次の打ち合わせ日程のすり合わせに入る。さぁさぁ、急いで!
主催者が、3社4人のスケジュールを一人ずつ聞いていく。いつもの流れのはずなのに、異様にゆっくりに感じいらだってくる。日程が決まりそうなところで、打ち合わせ初参加の新人さんが自分のスケジュールを勘違いしていることに気づきもう一度はじめからになる。なんともいえない気持ちで漫画のように口角がぴくりとなった。どうして今日に限ってこうなのか。

 18:45分、定時とライブ開始から15分が経っていた。一瞬の沈黙の後、打ち合わせ終了のゴングが鳴った!それは私の1日のスタートでもあった。ノートパソコンをしずかに閉じて足早に席を移動する。シミュレーション通りに、音を立てず風のように動く。さっきと異なるのは、トイレに行きながらタクシーを呼ぶのではなく、完全に会社を出てから道路で手をあげようと思い直したことだけ。トイレの鏡に私の姿は見えない。お腹も喉も意識がなく、足に脳があるみたいに自動的に動いていた。
いま求めるのは、気が利くタクシー。道をよく知っていて安全に、だけどすごく急いでくれるタクシーだけ。
ちゃんと進行方向のタクシーを捕まえて、乗り込みながら会場名を伝える。やや焦りながら、伝える。道の混み具合や、運転手さんとの相性で到着時刻が決まるから、それだけでは安心できなかった。

 タクシーの運転手さんはとてもいい人で、安全に急いでくれた。今日は別の会場でもバンドがライブをやっているんです、さっき旅行で来たお客さんを送ったばかりなんですよと言っていた。これから参加するライブ以外に意識は向かなかったけど、話しているうちに運転手さんはコミュニケーション力の高い、話のわかる方だと気づいた。10年ぶりのライブだということや、終わらない打ち合わせの話をすると「途中で、お先にと出ればよかったでしょう」と二度も言われた。日報を書いたことを話すとすこし驚き、それをスマホでアプリにアップしたことを伝えると、別の意味で驚いていたようだった。まだなにがあるかわからないけど、25分遅れほどで参加できそうで少しほっとした。なんだか4曲目からはちゃんと参加できることを思うとわくわくと、どきどきが高まってきた。ライブ、どんな感じなんだろう。
運転手さんは駐車場所から少し手前の信号で支払いを済ませてくれた。1,300円くらいだった。

 私は走って会場の入り口に向かう。外に並んでいる人がいて、横目で見ながら会場に入る。私みたいな人はいない。グッズ販売の矢印が軽く胸を打つ。帰りにグッズ販売してくれるのかな。ここ、に前にきたのは大学の卒業式だっけ、とふわふわ思い出しながら案内ボードにしたがい小走りで左に曲がる。
SPみたいな黒服の若い男性が数人、多分アルバイトの大学生がホール入場口にいた。私はスマホで見せるチケットを二本指でしゅっとした。指で飛ばされ見えなくなったチケットと引き換えに、白くちいさな爆弾みたいなものをさっと手渡される。とっさに「これはなんですか?」と聞く。腕につけて光るやつです、と早口で言われた。なるほど。そして気づくとその黒服の男性も一緒に急いでくれていた。ライブ入場の空気はすこしずつ温まっていた。

 スタッフである黒服の若い男性は、別の黒服の男性に私の案内をバトンタッチする。席までの移動を助けてくれるらしい。その人がホールの外の廊下でどこから入ると席に近いかを確認している傍ら、私は事前に調べた席情報を思い浮かべる。席情報が公開されたときには驚いたものだった。席はほぼ入り口付近で、ステージからは一番遠いけど、遅刻してもすぐに辿り着く場所だったから。
ホールの廊下には既に音が外にもれている。なんだか別のバンドのライブにきたみたいだ(行ったことはない)。白い壁に何重にも囲われて音はこもる。すぐになんの曲かわかったが、そのときはまだ、聞こえないふりをしていたかった。その後まるで要人のように連れられて20段ほど階段をのぼり、厚みを思い出せないホールのドアを開けて会場に入るとそこは。プラネタリウムのようでもあり、一瞬はたしかに宇宙のようだった。ただっ広く、青や白の線や点が一面にひかり河川敷の空のように広がっていたから高さや距離を感じさせなかった。とても賑やかだった。
恋でもない、やましいことでもない、動悸を感じる。新しい感情にも思えるし、響く音が鼓動の真似をしているのかもしれない。
黒服の若い男性は、腰を曲げて指定席まで私を導いた。既に盛り上がっている会場の中で席を探すのはひとりでは難しいにちがいない。あちこちから飛んでくる腕と光の下をくぐり、映画館よりもわかりにくい平仮名の席記号「う」を探した。黒服の男性は途中で混乱したのか、短い時間の中で二度も指定席の場所を聞いてきた。

 私の席は、ちゃんと空いていた。全体が見渡せる後ろの方のスタンド席。席に荷物を置いた。上着はあとで脱ぐことになるし、ポケットの財布とスマホも重たいからリュックにしまうことになる(ついでに言うと腕につけるぴかぴかも途中でゆるめようとしてベルトが取れて焦る)。なんとか4曲目の途中で参加できたみたい。
私の周りは暗かったけど、遠くをみるとどこもきらきらしていて、とてもちいさな人たちが4人、ステージに立っていた。暑くないけど、アツい。あらためて会場を見渡すと、なんだか涙が出そうになった。
重厚音はずっと響いていて、星のような人の数は、その広さを伝えるのに十分すぎていて、ゆれていて、光の線は斜めにさして、120%の声が聞こえる。イヤホンで聴いた声だけど本物だ。音は建物を通り越して、私の胸骨あたりまですごい速さで叩くように打つ、響く。やっぱり音なのか、胸の鼓動なのか分からなくなる。濁音をつけても表現できない低い音。ちかちかと塵のように光るひかりと本物の音に圧倒され、目はすこし乾く。ああ仕事はいやだったけど、急いで来てよかったな、と心の底から思った。遅刻しても来れてよかった。うれしくてうれしくて、マスクの下でほほえんだ。不思議な感覚で、大好きな曲のイントロが始まったのに心の準備は間に合わない。騒がしいのにそこは静かで、ひとりで長い一瞬のあいだ、宙を見つめていた。


エッセー:あの広さと、星のような数の人を思い出しながら。
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