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エッセイ | わりと日常を愛している
社会人になってから中学校時代の友だちや、高校時代の友人と出会うことがある。地元で就職する人や、地元へ帰っていく人が多い中、いまだに上京したままの人は珍しい。
こんなことを言う私も珍しい人の一人だ。
別に地元が嫌いなわけでも、上京した先が魅力的なわけでもない。いや、魅力的ではあるのだが、地元ではダメな理由は見つからない。どちらに住んでいても十分生活を楽しめただろう。
出会った友人も最初のうちは東京に住み続けたいと思っていたようだが、コロナのおかげなのか在宅ワークが主流となり、それであれば地元で仕事をしていても同じではないかと考えるようになったそうだ。
「コロナのおかげで仕事は暇になったよ」今も変わらず地元に住む友人が言っていた。
暇だから遊びに来たよと言って、それなら高校時代の友人を集めて食事でも行こうとなったのだ。
観光や農業が主な産業になっている地元では、旅行客がいなくなったコロナ禍で観光業を生業としている人たちは苦しんでいた。
「コロナがなくても暇だったでしょ?」友人の一人が茶化すがあながち間違っていないように思える。シーズンでなければ全く混雑しない観光地なのだからピークがはっきりしている。
「『さらに暇になった』の間違いかな」と友人は笑う。
「そういえば、あれ覚えている?」こんな言葉で尋ねられたら、ドラマや小説なら物語が動きだす合図だろう。ただ、これが日常であるために何かが動きだすことなんてない。
話題は授業中に起きたハプニングについてだ。あれはおかしかったねと盛り上がる。その後もどうでもいい内容だけど、なんだか覚えている出来事について話題となる。
意外と文化祭や修学旅行などのイベントについてが話題となることは少なかった。いろいろと面白いこともあったのだが、みんなが口にするのは日常ばかりだ。
思い返すと、他の友人たちとする思い出話も日常の話ばかりだ。イベントごとを「楽しかったよね」なんて話すことはあまりない。
楽しい思い出であるし実際によく覚えているのに、思い出話として再登場してくることはまれだ。
思い出として何気ない日常ばかりを覚えているのはどうしてだろう。
イベントは写真や動画で残っている。見返して懐かしむことも多い。だけど日常の写真や動画はなく、思い出だけで残っている。
日常の記憶はメディアとして残ることが少ないから覚えているのだろうか。それとも、無意識に私たちは日常を愛しているのだろうか。
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