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彼女の知らないいくつかのこと

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一日一本書き下ろし短編小説。
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記事一覧

青い光

青い光

目が覚めて昼夜の別が分からず、時計は二時三十分を少しまわったところだった。随分長い時間熟睡したように思ったのだが、実際には二時間ほどしか経っていなかった。白いレースのカーテンだけを閉めた窓には深海のような色の夜が溜まっている。その奇妙な現象に初めて気づいたのはそんな時のことだ。体の一部が仄かに青みがかっている。よくよく観察してみると、皮膚の内側で青く発光しているのだった。月の光のせいかとも思ったが

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明るくて暗い星

「で、どうする」

まるで自分の声じゃないみたいだ。

暗く静まりかえった洞窟の奥のような部屋にひとりでいる。目の前に映し出された3Dホログラムの彼女だけが外の世界と辛うじて繋がっている。

「例の話」

「どっちの」

午前八時、彼女は外出日だったようだ。UVカットの防御服をまだ身につけている。

「移住だよ」

「あたしは子供が欲しいの」

「分かってるよ。だから向こうで、ヘルシンキに引っ越し

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見知らぬ息子

息子が生まれた日のことはよく覚えている。冬の曇天の底に暗く沈んだ世界がその吉報をなぜ理解できないのか、不思議だった。なにもかもが光り輝いているべきだった。工事現場で交通整理をしているガードマン、そこで重機を操っている作業員、タクシーの運転手や喫茶店の入り口でビラを配っている従業員、少なくともこの街の人間なら誰も彼も踊りだしていてもおかしくはなかった。昨日とまったく変わらぬ表情で生きている人々に違和

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不在

四月二日の深夜、あるいは三日の未明に高田比奈子は姿を消した。前日の夜に近所のラーメン屋で遅い夕食をとってから翌朝までのどこかのタイミングで、彼女はいなくなった。新聞配達も牛乳屋も近所でラジオ体操をしているおばさんたちも誰ひとり彼女の姿を見た者はいなかったし、その日は燃やすゴミの日だったのだが、アパートの部屋にはきちんと口を閉めたゴミ袋があとは捨てるだけという感じで置かれてあった。私が部屋に入ったの

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台風

台風

大雨と洪水、それに暴風の警報が出ている。キッチンで家族の朝食を作っている午前五時十九分、今二十分になった。取り乱したように窓にあたるのは金木犀の枝だ。もちろんまだ花は咲いていない。暗い朝の光を歪に映す薄手の型板ガラスがその衝撃に耐えられるだろうか。時折、バイクのエンジンでも吹かすように風が強まり、大粒の雨も打ち付ける。その度にガタガタと窓の全体が震えた。こんな日にはついマサさんを思い出す。正確に言

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マルガリータにはまだ早い

マルガリータにはまだ早い

午後六時、街はまだ明るい。ドアが開くと若葉の色をしたその光と喧騒が薄暗い酒場のカウンターまで届いた。バーテンダーには入ってきた男の顔は見えなかったが、光の帯のなかに漂う細かな埃を眺めながら、いらっしゃいませ、と声をかける。やがてドアが閉まり、いつもの仄暗い、寂然とした空間が戻ってくる。男は四十代、黒っぽい麻のジャケットを羽織り、硬い靴音を響かせてフロアを横切り、カウンターに近づいた。ウェンジの一枚

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なんでも話して

監督が体罰によって部員をコントロールしていると、彼女は息子から聞かされた。

「サッカーなんてもう辞めたい」

しばらく欠席が続いていると高校から連絡をもらった午後のことだ。わざわざユニフォームを汚してから帰宅した息子がいじらしくもいじましく、哀れで、愛しかった。

「せっかく頑張ってきたんじゃない。全国大会、行くんでしょう」

「無理だよ。あいつのせいでみんなやる気なくしてる」

監督について、

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つばくろ②

前回のお話はこちら

(承前)

「なにかあげた方がいいかしら」

随分と長くなった日も暮れる頃、冷蔵庫のなかのあり合わせで夕食を作り始めた妻が言った。キッチンは居間と繋がっているのでその窓からも小さな庭と駐車場が見える。南瓜のシチューを食べ終えた彼らはブロック塀にもたれ、男はギターをつま弾き、女の方はスマートフォンを弄っている様子。

「なにかって」と、私は居間との間に設えたカウンターに手を付い

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自転車にのって

自転車にのって

自転車にのって

ちょいとそこまで歩きたいから

(『自転車にのって』高田渡)

セミドロップハンドル、ギアシフトレバー、フラッシャー付と聞いて思い当たる人はおそらく僕と同時代を生きてきた人に違いない。セミドロップハンドルはその名の通りドロップハンドルを中途半端にしたもの、五段変速のシフトレバーがトップフレームに取り付けられ、フラッシャーとは荷台後方に取り付けられた方向指示器。ど

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マイ・ソング

マイ・ソング

路上ライブといっても、最近はアンプやマイクを使って大きな音を出すミュージシャンが多くなった。打楽器やキーボード、ベースに管楽器まで入れた完全なバンドスタイルの演奏を見かけることもある。けれどその男はたったひとり、昔ながらのギターの弾き語りで駅前の広場に座っている。初夏の強い紫外線に晒されながら、まるで自宅の居間にでもいるような風情で胡坐をかき、ほとんど雑踏に埋もれてしまっている。むろん、声も聞こえ

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今という断面図

太陽の光が地球に届くまで八分十九秒、それが月に反射して月が月であるために一秒ちょっとかかるという。つまり僕らは、八分前の太陽に生かされ、一秒前の月を愛でながら生きている。仮に今この瞬間に太陽が爆発しても、あと八分間だけはいつもと変わらぬ日常を送れるというわけだ。もっとも、太陽が大量の水素原子を消費し続けて次第にヘリウムの割合が上がり、今より五十倍、やがて数百倍にも膨張して燃え尽きるのは四十億年ほど

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ある朝早くゴミを出しに行くと、ゴミ置き場の近くの路上に指が一本落ちていた。烏に荒らされないように青いネットで覆ったゴミ置き場にはすでにいくつかのゴミ袋が置かれていて、昨夜のうちに出した人がいるに違いなかった。燃やすゴミの日。昨夜降った雨のせいで青いネットは不潔に濡れていて、素手でそれを捲るのを躊躇したその時、黒ずんだアスファルトの上に何かが転がっているのに気づいた。最初はもちろん、誰かのゴミ袋から

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フローズン・ダイキリをもう一杯

大昔のアメリカ映画に出てきそうな旧式のエレベーターは折り畳み式の鉄の格子が二重になっていて、一階に着くとまず昇降機内のものを、さらに外側のドアを手動で開ける。古いけれどよく手入れが行き届いているとみえ、開閉の動きはとても滑らかだ。フィリップ・マーロウとすれ違いそうな錯覚を覚えるが、もちろん彼はいない。色あせた金髪のマダムを連れた紳士と入れ違いにエレベーターを下りると、ロビーの天井は高く、遠いところ

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空港でランジェリーを

ひとひとり入れそうなくらい巨大なキャスター付きのスーツケースを押す彼の後ろを彼女は歩いている。もう随分長い間この背中を眺めて過ごしてきたけれど、それも今日で終わりだ。彼女は午後の便で帰国して、二度とこの国に戻ることはないだろう。おそらく彼にも分かっているが、そのような素振りも見せず、口にもしない。だから彼女も。

「少し早すぎたかな」

出発便案内の電光掲示板を見上げながら彼が言った。

「大丈夫

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