見知らぬ息子

息子が生まれた日のことはよく覚えている。冬の曇天の底に暗く沈んだ世界がその吉報をなぜ理解できないのか、不思議だった。なにもかもが光り輝いているべきだった。工事現場で交通整理をしているガードマン、そこで重機を操っている作業員、タクシーの運転手や喫茶店の入り口でビラを配っている従業員、少なくともこの街の人間なら誰も彼も踊りだしていてもおかしくはなかった。昨日とまったく変わらぬ表情で生きている人々に違和感を覚えるくらいに、それは劇的なことだったのだ。

「文学をやりたいんだ」と、息子が宣ったのは高校二年の夏で、以来よくあの日のことを思い出すようになった。もっともっと祝福されて然るべきではなかったか。もしもそうであったなら、こんな馬鹿げた呪いに彼が囚われることもなかったはずだ。

「文学なんかで喰ってけるわけないだろ」

そう言うしかなかった。もちろん息子は納得しない。反対されてむしろ意固地になった。都心の大学の文学部を受験して合格し、奨学金さえ得たが、父と子はその喜びを分かち合うこともなかった。

「後悔するぞ」

家を出ていく息子に言った。ほかにもっと相応しい言葉があったはずなのに。そうしてもう、実家にはほとんどよりつかなくなってしまった。大学を中退したのも事後報告だった。しかもインドで投函されたエアメールで。

「いったいあいつはなにを考えてるんだ」

妻にあたったこともある。お前の育て方が、とは流石に言えなかった。

そんな息子が、久しぶりに帰ってくる。




新幹線の駅のロータリーに車を停めているとパトカーに駐車違反を咎められ、とりあえず一回りして戻ってきた時にはそこに息子の姿があった。TシャツにGパン、少し痩せたようだ。身を乗り出して助手席のドアを開けてやると、さかんに鳴き始めた蝉の声と熱い空気が車内に流れ込んでくる。

「久しぶり」

腰を屈めて覗き込んだ息子を急かした。

「早く乗れ」

車を出したところで再びパトカーとすれ違った。

「傲慢な奴らだ」

「なに」

「いや、なんでもない。元気そうだな」

「なんとかね」と、息子はそう言って窓の外を見る。目を背けたままで言った。「それより母さんの具合はどうなの」

「相変わらずだよ」

信号で止まる。信号で走り出す。信号は青だ。交差点を突っ切る。通っていた高校のグラウンドが左手に見えてきても息子は口を噤んだまま。

「そういえば健司くん、今年から先生になったらしいぞ」

「そうなんだ」

会話は続かない。

「どっかで飯でも食ってくか」

ちょうど昼時だった。

「どっちでもいい」

「なにか食べたいものあるか」

「なんでもいいよ」

息子の好物はなんだっただろう。デパートのクリームソーダが好きだった。アイスクリームをすくおうとしてソーダを溢れさせては泣きべそをかいた。イチゴを潰して牛乳をかけて食べるときにも同じようなことがあった。ポテトチップス、かき氷、みかんの缶詰、思い浮かぶのはまだ小さかった頃の情景ばかりだ。

「インドってやっぱりカレーばっかりなのか」

「それ、日本人は和食ばっか食べてるのかって訊くようなもんだよ」と、息子はあからさまにうんざりした表情を浮かべる。

「どういう意味だ」

「カレーっていっても色々だってこと」

「カレーはカレーだろう」

具の違いくらいしかないのではないか。父さんが知らないことだってあるんだよ、そう言われたような気がした。

「焼肉でも食うか」

「肉はあんまり」

「なんで、好きだったろ」

カルビやユッケなどを頬張っていたのをようやく思い出したのだった。

「最近は食べてないんだ」と、息子は言った。

「お前まさか、変な宗教にはまってるんじゃないよな」

「そんなんじゃないよ」

まただ。面倒くさそうに。言っても分かってはもらえないと、その口調が語っている。

「もういいって。じゃあ回転寿司かなにか」

「寿司だったらちゃんとしたとこだっていいぞ」

「回転寿司でいい」

遠慮している、という感じでもない。息子の本心が全く分からなかった。




信号で止まる。信号で走り出す。信号は青だ。交差点を突っ切る。商店街に差しかかった。たかだか数百メートルのバスターミナルの向かいにあったデパートは二年前に閉店してしまった。唯一残っていた映画館も、息子の同級生の家族が経営していた和菓子屋も、蕎麦屋も書店もなくなってシャッターばかりが目立つ。代わりに最近出来たのは、ブラジル食材の店とフィリピンパブ、タイ料理のレストラン。すっかり変わってしまった。

そのタイ料理の看板に反応したのは息子だった。

「あそこでもいいよ」と、聞いたことのない、おそらくは料理の名前を口にする。しかも懐かしそうに。

「父さん、辛いの苦手だっけ」

気遣いが、逆に腹立たしかった。

「いや、タイは昔、商工会の旅行で行ったよ」

「そうだっけ」

その旅にはまるで興味を示さない。当時は中学生だったか、息子のためにTシャツを買ってきたはずだが、それも覚えてはいないようだ。タイ料理は確かに口に合わなかった。旅行二日目にはもう、皆で日本料理屋に逃げ込んだのだったがもちろんそうは言わない。

「やっぱり寿司にしよう」

「別にいいけど」

「寿司ならほら、母さんも食べられるだろ。土産を持ってってやろう」

返事はなかった。まだ一度も視線を合わせない、見知らぬ青年を乗せて車を走らせている。












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