空港でランジェリーを

ひとひとり入れそうなくらい巨大なキャスター付きのスーツケースを押す彼の後ろを彼女は歩いている。もう随分長い間この背中を眺めて過ごしてきたけれど、それも今日で終わりだ。彼女は午後の便で帰国して、二度とこの国に戻ることはないだろう。おそらく彼にも分かっているが、そのような素振りも見せず、口にもしない。だから彼女も。

「少し早すぎたかな」

出発便案内の電光掲示板を見上げながら彼が言った。

「大丈夫。チェックインしてくる」と、彼女はスーツケースに手を伸ばし、自分でカウンターまで運ぼうとするけれど、

「最後まで運ぶよ」と、彼の声はあくまで優しかった。

「ありがと」

彼はそのまま搭乗客の列の最後尾までスーツケースを押していき、

「じゃあ、あっちで待ってるから」

そう言って、チェックインカウンターの並んだゾーンの外を指さした。

空港は混雑していて、チェックインの列も長かった。保安検査場を抜け、出国審査を経て搭乗口に辿りつくまでの時間をざっと計算すると、早すぎるというほどでもなかったかもしれない。彼女はそんなことをぼんやり考えながら、おそらくは喫煙スペースを探しにいく彼の背中を見送った。その背中の先には、亡くなった前の国王の巨大な肖像画が南国の鮮やかな花々とともに飾られてある。国民が父と仰いだ男の姿だった。彼女にはなんの思い入れもない。



ようやく順番が来てチェックインの手続きをしようとすると、預ける荷物の重量のことで少し揉めた。彼女は英語があまり話せず、戸惑っているうちに航空会社の若い女性の方が諦めたのかそのまま受け付けてくれる。礼を言って搭乗券を受け取り、彼女は列から離れた。

「問題なかった」と、彼女を見つけて近づいてきた彼が訊ねる。

「うん」

かすかに煙草の匂いがした。かつては好ましく思えたこの匂いが、今の彼女には気に障る。

「なにか食べようか」

「いい。機内食も出るし」

「そっか」と、彼もそれ以上無理強いするつもりはなかった。

最近はずっとこんな感じだ。すぐに諦める。というより、彼が彼女になにか言うこと自体が減ってしまったし、そういう時でも言葉を選んでいるのが分かる。彼の恐れが彼女にも伝わって、ふたりの関係はさらにギクシャクするようになった。

「もう行くわ」

彼女はそう言って彼を見た。彼の顔を見上げるその角度が懐かしかった。こんなふうにまっすぐに目を合わせることは久しくなかったから。

「気をつけるんだよ」と、彼の言葉が雑踏のざわめきにかき消される。

「なに」

「いや、なんでもない」

それでもう、ふたりの間にはなにも残っていなかった。

「ここでいい」と、彼女は言った。

彼は頷き、じゃあねと手を上げる。




「君の選択を100%支持するよ」

彼女が帰国を決めた時に彼が言った言葉だ。思えば、彼女が自らの意思で何かを決めたのはそれが初めてだった。ただなんとなく彼の赴任についてきて、ただなんとなく一緒に暮らした。ただなんとなく流されてきただけなので、結局異国の暮らしにはまったく馴染めなかった。この国の言葉を覚えることもなく、友人もできず、買い物すらひとりでは行けなかった。ほとんど自室に閉じこもってネット動画ばかり見ている彼女を、彼は幾度となく連れ出そうとしたけれど、そうすると決まって彼女は癇癪を起す。

「ああしろこうしろってお父さんみたいに言わないでよ」

彼の正論が彼女を責めたてた。彼にそんなつもりはなくても。彼にそんなつもりのないことを、彼女は知っていた。知っていればこそ、苦しかった。だから逃げ出した。逃げたって構わない、死ぬよりはずっといい。

「支持するってなによ」と、彼女は今さらながらに彼の言葉を思い出す。出国審査を終えて、彼女は今、どこの国でもない場所にひとりきりで立っている。支持なんてしてもらう必要はなかった。ちゃんと歩いていける。

搭乗ゲートに向かう途中に並んでいる様々なブランドのショップを冷やかしながら、彼女は歩いた。ヴィトン、コーチ、モンブラン、スワロフスキー、ブルガリ、エルメス、ダンヒル、バーバリー、シャネル…これまでの彼女にはまったく縁のなかった店ばかりだ。欲しいとも思わず、必要なものもなかった。おそらくそんな彼女の雰囲気を察したからこそ、店員は誰ひとり声をかけてはこなかった。彼女は何者でもなく、フロアを吹き抜ける風のように自由だ。

「これ」

そんな彼女がある店の棚の前で足を止めたのは、むろんただの気まぐれだった。けれどそう口に出してみると、全く正しいことであるように思われ、

「これを買うわ」

真っ赤なレースをあしらったショーツだった。それはおそらく、彼女から最も遠いところに存在しているもの。しかも、下着にしては、というより、彼女が身につけているどんなものよりもそれは高価だ。ゼロの数を三度確認して思わず笑みが溢れた。屋台の食事なら四、五十回は食べられると、いつまでもそんなことを計算している自分が情けなかった。

「これを買わなくちゃ」

そうして買い求めたショーツに化粧室ではきかえ、古いものを捨ててしまうと、誰にも見えないし見せるつもりもない彼女のなかのある部分が息を吹き返す。生まれ変わった、と彼女は感じている。

「私の選択を100%支持するわ」

彼女は歩きだす。やがて搭乗の時間だった。















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