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マイ・ソング

路上ライブといっても、最近はアンプやマイクを使って大きな音を出すミュージシャンが多くなった。打楽器やキーボード、ベースに管楽器まで入れた完全なバンドスタイルの演奏を見かけることもある。けれどその男はたったひとり、昔ながらのギターの弾き語りで駅前の広場に座っている。初夏の強い紫外線に晒されながら、まるで自宅の居間にでもいるような風情で胡坐をかき、ほとんど雑踏に埋もれてしまっている。むろん、声も聞こえなかった。交差点のガードレースにもたれて人を待っていたのだが、何故だか私は、彼のことが気になって仕方がない。信号が変わって動き出した人並みを横切って、彼に近づいていく。



男は汚れた白いTシャツにジーパンという貧しい身なりで、裸足の足の裏が真っ黒だった。アスファルトに直に尻をつけ、業務用トマトの空き缶をひとつ正面に置いている。その佇まいは、子供の頃にはまだ街角で見ることができた傷痍軍人の姿を彷彿とさせるが、彼らの方がずっと存在感があった。無精髭のせいで老けて見えるけれど、本当はかなり若いのかもしれない。せいぜい三十五、六歳といったところ。そんな彼の目の前に立っても、集中して耳を傾けなければなにを歌っているのか聞き取れなかった。ギターの方はそれなりに大きな音が出ていたから尚のこと。G、C、Dのスリーコードで、どうやらブルースのようだ。

この三十年

一日たりとも

酒を抜いたことがない

この三十年

一滴たりとも

酒を零したことがない

中毒ですか

アル中ですか

やばいですか

どうせもう死にますか

確かに死にそうな声だ。よくある感じで一曲歌い終わると、私は五百円硬貨を一枚、空き缶に入れる。缶の底に硬貨が落ちる音がして、なかにはいくらも入っていないのだろう。歌よりさらに小さな声で礼を言う男は目を合わせようとはしないが、

「オリジナルですか」と、私は訊ねた。「三十年間もずっと飲み続けてるにしては若そうだけど」

そこでようやく男は顔をあげ、時間をかけて瞬きをひとつするとこう言った。

「あなたの歌ですよ」

聴く人の内面を歌にできるのだと。




それは人生そのものかもしれないし、恋愛や仕事、ちょっとした悩みごとかもしれない。とにかく聴く人の抱えているなにかが歌として乗り移る。俄かには信じられない話だった。しかし確かに、私はもう随分長い間、ずっと酒を飲み続けている。アル中なのかもしれなかった。

「よくオーラが見えるとか、守護霊が見えるとかっていう人がいるでしょう。僕にはなにも見えませんが、代わりに歌が聞こえるんですよ」

彼の言うことが本当だとしたら、五十年近く生きてきた私の歌がアル中のブルースだなんてあまりに惨めではないか。他になにもないのか…私は彼の前にしゃがみこみ、声を潜めた。

「でもそれじゃあ、こんな人混みにいたらそれこそ煩くてたまらないんじゃないの」

私はまだ半信半疑だった。それに対する彼の答えは、繋がらなければ大丈夫。

「ラジオと同じですよ。誰かが耳を傾けてくれると、周波数が合うみたいに歌が聞こえてくるんです。あっ」と、彼はそこでまたギターを鳴らす。さっきと同じコード進行で、

この三十年

一日たりとも

女なしでいられなかった

この三十年

助けられたり

慰められてばかり

中毒ですか

ただの女好きですか

やばいですか

いつか刺されますか

おいおい。聞いていて恥ずかしくなる。

「勘弁してくれよ」と、私は彼の歌を止めた。

背後を通り過ぎていく無数の靴音と喧騒が戻ってくる。パトカーのサイレンと量販店のBGM、横断歩道のシグナルと呼び込みの声…なるほど、そうした雑音に聴覚を開放しておく限りこの失礼な男の歌を聴かなくて済む。私は飛び跳ねるようにして立ち上がり、一歩、二歩と後ずさる。その背中が誰かとぶつかって罵声を浴びた。

「あの、ちょっと」と、路上の歌うたいが手を伸ばして、それがこれまでで一番強い発声だった。「もう少し投げ銭を」

私はもちろん、耳を貸さない。



元いた場所に戻って周囲を見渡した。街路樹の緑が鮮やかで、道行く人々の服装も随分と軽やかになった。ビールの美味い季節だ。そろそろ一杯やりたいところだが待ち人は未だ現れない。気づけば待ち合わせの時間はとうに過ぎていて、あの男の歌を聴いている間に行き違いになってしまったのかもしれなかった。だが、ケータイを取り出して電話をかけようとしたその時、横断歩道の向こう側に彼女の姿を見つける。日焼けを気にしているからか笑顔はなかった。そうして信号が変わると、互いに互いの方へ向かって歩き出したスクランブル交差点の真ん中あたり、混沌とした流れが一瞬で不穏な秩序を取り戻す。見事なまでの放射線状に人が散って、私だけが動けずにただ、彼女の手のなかのナイフを見つめていた。その眩い光の乱反射を。






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