なんでも話して

監督が体罰によって部員をコントロールしていると、彼女は息子から聞かされた。

「サッカーなんてもう辞めたい」

しばらく欠席が続いていると高校から連絡をもらった午後のことだ。わざわざユニフォームを汚してから帰宅した息子がいじらしくもいじましく、哀れで、愛しかった。

「せっかく頑張ってきたんじゃない。全国大会、行くんでしょう」

「無理だよ。あいつのせいでみんなやる気なくしてる」

監督について、父兄会で話が出たことはあった。前の学校でも色々あったらしいと。それでも実績が評価されてここまで来た。去年の県大会は準優勝だった。

「なにがあったの」と、彼女は訊いた。「なんでも話して」

「言っても分からないよ」

そんな息子の言葉に彼女は傷ついた。これまで、息子のために出来ることは全てやってきたつもりだった。汗臭いユニフォームやソックスの洗濯はもちろん、毎日弁当を作り、夜食を用意し、試合も欠かさず観戦したし、雨の日などは車で送り迎えすることさえあった。合宿の費用を捻出するためにパートにも出るようになり、何より気が重かったのは父兄会の付き合いだが、それも横断幕の制作など率先して引き受けることでうまく立ち回ってきた。息子が好きなサッカーに打ち込めるように。

「話してくれなきゃ分からないでしょ」

自分がどれだけあなたのために、という言葉は寸でのところで飲みこんだが、結局彼女は何も聞きだせなかった。

そうして部屋に引きこもってしまった息子のことを相談しようと、彼女はその日、眠らずに夫の帰りを待った。夫はだが、いつにもまして帰りが遅い。午後十時ごろ、息子の部屋の明かりがついていたのでいつものように夜食を作って声をかける。

「サンドイッチ、ここに置いておくね」と、それをドアの外に置いた。

返事はなかったけれど、一度、ドアが開閉する音が聞こえたので少し安心した。とりあえず食べてくれる気にはなったようだ。それから彼女はリビングのソファーでうたた寝をしてしまい、夫の車の音で目を覚ました。すでに午前〇時をまわっていて、玄関まで迎えに出ると夫が言った。

「起きてたのか」

「あの子のことでちょっと相談があって」

彼女のその一言で、夫は不機嫌になる。

「疲れてるんだ」と、取り付く島もない。「明日にしてくれ」

だが、明日になればまた同じ台詞を繰り返すだろう。明後日も明々後日も夫はきっと疲れている。もう随分長い間、夫婦でゆっくり会話をする時間などなかった。だから彼女は食い下がった。

「今聞いてほしいの。あの子、サッカー部辞めるっていうのよ」

「いい加減にしてくれ」

辞めたいなら辞めさせればいい、どうせいつまでも玉遊びなんかしていられるわけじゃないと、夫は言い放ってバスルームに消えた。


✳︎


「よくある話だ」

だからそう言うしかなかった。

「なんでそんな話を俺にするの」

「なんでって」

シーツにくるまって話し続ける彼女のことが時々よく分からなくなる。

「だって、他に聞いてくれる人もいないから」

「不倫相手に家庭のことをいちいち相談するか、普通」

「不倫、これは不倫なの」

「世間的にはそうだね」

もう三年になる。出会った頃には中学生だった彼女の息子も今年は高校三年生だ。思えば、彼の高校受験の話も聞いたことがあった。

「私は恋愛だと思ってるけど」

もちろん、そうであって欲しかった。

「俺はそのつもりだけどね」と、彼女を抱き寄せ、その体をまさぐるとまだ温かく湿っている。「お母さんはやらしいな」

ふざけて挑発したつもりのその言葉に、彼女は動揺した。

「止めて」と、意外なほどの強い力で体を離し、背中を向けてしまう。「そういうこと言うのは止めて」

「ごめん」

「私だって色々悩んでるんだから」

それはその通りだろうが、答えの出せない悩みは自分に対する言い訳でしかない。口に出せない正義や行動に移せない道義心と同じように。お互いさまだった。

今にも泣きだしてしまいそうな彼女の白い肩に手を置いて、もう一度詫びた。すぐには返事をしない彼女から体を離し、軟かすぎるそのベッドに仰向けになる。古いシティホテルの薄汚れた天井に、しっかり閉じたはずのカーテンの隙間からひと筋の光が射しこんでいた。

「なにか食べに行かないか」と、その光の行き先をぼんやりと眺めながら言うと、彼女はようやく体をこちらに向けてくれる。

「お腹空いたの」

彼女の目が少し赤みを帯びて見えた。

「そうだね」

「そういえば、最近この近くにインド料理屋さんオープンしたって」

シーツで胸元を隠しながら体を起こした彼女の、脇腹あたりを軽く撫でた。彼女は敏感に反応して体を捩り、笑いを堪え、

「止めなさいってば」と、子供を叱るように言った。

サグチキン、ダルマサラ、マトンカリー、サモサとチキンティッカ。チャパティがあれば嬉しいが、と、服を着て化粧を直す彼女を待ちながらインド料理を思い浮かべる。そうしていないと、取り返しのつかない結論を出してしまいそうだった。

「ねぇ、本当にどうしたらいいと思う」

狭いスペースに無理やり薄型のテレビまでのせた窓際のテーブルに化粧道具を広げ、壁に取り付けた鏡に向かう彼女の話はけれども、まだ終わってはいなかった。

「とりあえず、他の父兄の方に相談してみたら」

そのくらいしか思いつかず、

「今どき、本当に体罰なんかしてたら大問題だろうし」と、言葉を重ねてみても空しいだけだ。

「そうよね」

彼女もまた、あまりに当たり前過ぎる言葉に落胆したのかもしれない。

「ところで、家族に俺のこと話したりする」

紅をさす手を止めて、彼女が振り向いた。カーテンはすでに開け放たれ、逆光でその表情は塗りつぶされていた。抑揚のない声だけが聞こえる。

「話すわけないでしょう」

「だよね」

力なく笑うしかなかった。人が誰かになにかを隠す時、それはその誰かを失いたくないからだ。本当に大切な人間にしか隠し事をしたりはしない。





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