ある朝早くゴミを出しに行くと、ゴミ置き場の近くの路上に指が一本落ちていた。烏に荒らされないように青いネットで覆ったゴミ置き場にはすでにいくつかのゴミ袋が置かれていて、昨夜のうちに出した人がいるに違いなかった。燃やすゴミの日。昨夜降った雨のせいで青いネットは不潔に濡れていて、素手でそれを捲るのを躊躇したその時、黒ずんだアスファルトの上に何かが転がっているのに気づいた。最初はもちろん、誰かのゴミ袋からこぼれたものだろうと思った。見て見ぬ振りをしておけばよかったのに、何故だか柄にもない道義心が頭をもたげ、処分しようと手を伸ばしたところで愕然とする。指だ。見間違えではないかともう一度よく見てみるけれど、それは紛れもなく指、指以外の何物でもなかった。爪に艶やかなオレンジのマニュキュアを塗った、おそらくは女の、多分、人差し指。驚きはしたけれど、不思議と恐怖感はなかった。手入れの行き届いた綺麗な爪のせいかもしれない。落とした人はきっと困っているだろうと、そんなふうに考えてしまったのが運のつき。つまみ上げた指は、その大きさから想像する感じよりも重かった。気のせいか仄かに温かく、それぞれの関節が緩やかに曲がっている。付け根の部分で鮮やかに断ち切られ、血が滴るようなことはなかったが、決して血の気がないわけではない。むしろ生き生きと、言い方はおかしいかもしれないが、まるで生きているようだった。あるいはまだ、近くに指の持ち主がいるのではないかと辺りを見渡してみてもそれらしき人影は見当たらず、そうしていると向かいのマンションの管理人が現れて怪しむような目つきでこちらを睨みつけるものだから、つい、パーカーのポケットに指を放り込んでしまった。隠した、のかもしれない。いずれにしろ、あの年老いた管理人のものだということは絶対になかった。



交番に届けようとも思った。遺失物には違いなかったし、他にこんなものを引き取ってくれそうな機関は思いつかなかった。実際にその日、いつものスーツに着替えて出勤する途中、駅前の交番に立ち寄ったのだが警官は不在だった。机の上に、お急ぎの方はこちらへと電話番号が残されていたが、急いでいる人間が電話などできるはずもない。面倒なことになって会社に遅刻するわけにもいかなかったので、指を胸のポケットに入れたまま出社して仕事をしているうちに失念してしまった。スーツの胸ポケットなど、煙草でも入れていない限り滅多なことで使うものではないでしょう。営業先でちょっとしたトラブルもあって大変に忙しく、帰宅したのは深夜になった。疲れていたのでスーツをハンガーにかけ、シャワーも浴びずに眠りこんだ深夜、というより朝方のことだ。声が聞こえる。女の声だ。

「おなかがすいた」

思えば、眠りは深い方なのにそんなささやかな訴えで目を覚ましたのも不思議だった。ひとり暮らしの部屋に他に誰がいるわけでもない。カーテンの隙間から開け始めた青い空の光がうっすらと射しこんでいた。

「何か食べさせて」

正確に言うとそれは、音としての声というより脳内に直接流れこんでくるようなメッセージ。耳を澄ましたところでだからよく聞こえるようになるわけではないのだが、バスルームの方からだということだけは分かった。開け放したバスルームのドアの枠にスーツのハンガーがかかっていて、すぐに思い当たった。睡眠を妨げられたことに若干腹をたてながら、仕方なく起き出していってスーツの胸ポケットから例の指をつまみだす。

「おはよう」と、指が言った。




失くしたはずの腕や足の痛みを感じる幻肢痛という症例があることは知っていたが、本体の方の感覚を末端の指ごときが覚えているなど、なかなか信じがたいことだった。

「でも本当なの。おなかがすいてたまらない」

キッチンのダイニングテーブルの上で指が話している。いつか食べたカップ麺の空き容器とビールの空き缶、三日も前の新聞やダイレクトメールの類と一緒に指はそこに寝そべっていた。そうとしか表現できない。

「でもいったいどうしたらいいんだ。君はどこから、何を食べるの」

ひとり暮らしでよかった。傍から見たら完全に気が違っているとしか思われない。

「分からないけど、とりあえずなにか作って」

まぁいい。昨夜は結局何も食べられなかったから、流石に空腹だった。冷蔵庫を開け、食材を確認する。ろくなものがなかった。とりあえず米を炊き、目玉焼きを作ってレタスを千切る。みそ汁が欲しいところだったが、代わりにシーフード味のカップ麺にお湯を注ぎ、それらをテーブルに並べた。

「いい匂い」と、指が言った。「そのスープを少し、皿に分けてくれない」

言われたとおり、小皿にカップ麺の麺とスープを取り分けてやると、

「そうじゃないの。麺じゃなくて、スープにはライスを」

「だけどこんなことしても君は食べられないだろ」

指はしばらくなにか考えている様子だったが、やがて少し恥ずかしそうに言った。お願い、と。

「あたしをそのスープに浸してくれない」

まともに考えるのも馬鹿らしいので、もう勝手にさせておくしかなった。小皿の縁に指を置き、その指先がスープにつくようにしてやる。

「少し熱いかな」

「大丈夫。ありがとう。これで充分」

指は本当に満足そうにそう言った。やっぱり手で食べるのが一番ね、と。

指は、彼女はインド人なのかもしれなかった。だとすればこれまでのやりとりは英語だったのか。違う、と思う。言葉の通じない異国でも大抵のことが分かるように、言語に頼らずとも伝えられるものが確かにあるようだ。




彼女の記憶や感覚は他にも色々とあって、様々な場面や刺激によって顕在化する。例えばとあるデパートに営業に行った時のこと。吹き抜けの広場に置いてあるピアノの音色を聞いた途端に指はごそごそと動きだし、ピアノが弾けるのだということが判明した。もちろん一本ではどうにもならないけれど、彼女のなかでは十本の指を駆使しているイメージがあるようだった。なにを弾いているのか訊ねると、

「知らないの。リストよ、『愛の夢』」と、小馬鹿にされた。

指は時々、頭が痒いと言い、逆さ睫毛を痛がり、耳たぶを触りたがった。排泄の欲求はなかったが、性的な衝動は覚えるようだ。自慰に耽ることは叶わなかったが、どきっとすることを口ばしることもある。彼女の名誉のためにもここでそれを紹介するのは憚られるけれど。

もうお分かりかと思うが、朝食を共にしたあの朝以来、どこに行くにもいつも彼女と一緒だ。いや、指だ。指をポケットに忍ばせている。

「いつか君の本体と出会うかもしれないだろ」というのが表向きの理由だが、いつの間にか離れがたくなってしまった。

新規の営業先に飛びこむ時、部長に呼びつけられた時、駅の雑踏で誰かに背中を押された時、酒場で酔っ払いに絡まれた時、そんな時にはポケットのなかで彼女をそっと握りしめる。ひとりぼっちだと感じる冷たい朝、なにもかもうまくいかないと嘆く真夜中、怒りで破裂しそうになる白昼のビル街や漠然と死んでしまいたいと思う地下鉄のホームでも、何度となく彼女に縋って生きている。いつか誰かに見咎められるのではないかと危惧しながら。



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