フローズン・ダイキリをもう一杯

大昔のアメリカ映画に出てきそうな旧式のエレベーターは折り畳み式の鉄の格子が二重になっていて、一階に着くとまず昇降機内のものを、さらに外側のドアを手動で開ける。古いけれどよく手入れが行き届いているとみえ、開閉の動きはとても滑らかだ。フィリップ・マーロウとすれ違いそうな錯覚を覚えるが、もちろん彼はいない。色あせた金髪のマダムを連れた紳士と入れ違いにエレベーターを下りると、ロビーの天井は高く、遠いところでファンが静かに回っている。少なくとも、開け放した窓や入り口から流れ込んでくるソンのリズムにかき消されて、ファンのノイズは聞こえなかった。

ソンはキューバ発祥の音楽で、軽快なラテンのリズムにほんの少しもの哀しいメロディが絡む。ギターにトレス、それにコンガとクラーベ。美しいコーラスパートが盛り上がっていくその歌は、ホテルの向かいにあるバーで演奏されているようだった。本当はロビーのバーで一杯やるつもりだったのだが、そんな音楽に誘われてホテルを出ると午後の強い日射しに世界は一瞬だけ色を失くした。そうして程なく、滲むように色彩が戻る。石畳の路地に石積みのくすんだ外壁、青やピンクなどの原色に塗られた木製のドアや窓が鮮やかだ。そのうちのひとつ、窓の格子の外に踊る人だかりが出来ている。ハバナ・ビエハ、オビスポ通りの午後三時。



路上で踊る人たちに混ざって窓からバーを覗くと、バンドはやはり四人編成で、歌い手が拍子木のようなクラーベでリズムを取っている。端正なスタンダードだったが、正直、私はもうこの手の音には飽いていた。『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』以降、同じ曲、同じ編成、高度だけれど同程度の技術で観光客からチップを稼ぐ音楽家たちばかりだ。それが国の方針なのかもしれなかった。この国で音楽家を名乗るにはライセンスが必要だと聞いたことがある。あまり楽しめずにぼんやり眺めていると、

「踊らないの」

隣に、ミラがいた。褐色の肌、大きな黒い瞳、柔らかに波打ったブロンドの髪が露出した肩の上で奔放に揺れる。

「みんな同じように聞こえちゃってね」と、私はもう笑顔だった。「調子はどう」

「最高よ」

天気はいいし、仕事はオフだし、アニエルはママが見てくれてるし、兄さんもいない、とミラは言った。

「お兄さんは」

「知らないわ。マレコンあたりで釣りじゃないかしら」

カリブ海の波を被るそのマレコンで出会ったのがロベルトだった。話すうちに仲良くなって家に招かれた。もう十年以上も前に横浜で開催された野球の国際試合のために来日したことがあるのが自慢で、そんな話を聞きながらラムのボトルを一本、ふたりで飲み切った。そこで紹介されたのが妹のミラだ。出戻り子持ちのバカ女だと。看護婦はもちろん、バカでは務まらない。

「それより、一杯飲みに行きましょうよ。どう」

「いいね」

断る理由はなかった。




値段交渉が面倒なので私は滅多に使わないビシタクシーをミラが止め、自転車が引くリヤカーのような客席にふたりで乗り込んだ。

「いい音楽が聴きたいんでしょう」というミラの言葉に頷き、あとはもう彼女に任せておけばよかった。

石畳の凸凹が直に伝わる車輪の振動にミラの華奢な体は幾度となく跳ねあがり、彼女はその度私の膝に手をついて支えた。それがわざとなのかどうかは分からなかった。いずれにしろ、ふたりで笑い転げている間にもう目的地に着いてしまう。古い教会の前の、ラテンジャズの店だ。ナイトクラブなのだが、午後のショーには若手の音楽家たちが出演しているのだという。

「友達が出てるの」

彼女はそう言って私の手を引いた。

「ボーイフレンドかい」

「まさか。女の子よ。すごいの、彼女」

もう男はこりごり、とミラのよく笑う口元が微かに歪んだようだ。

色とりどりの照明がせわしなく切り替わる薄暗い店内で、私たちは独創的なラテンジャズを楽しみ、フローズン・ダイキリを飲んだ。ミラの友達だという女性は、すぐに分かった。ベースを弾きながらボンゴを叩き、さらにはボーカルも担当していた。

「確かにすごい」と、私も認めざるを得なかった。

「でしょう」

ミラはフローズン・ダイキリをお代わりし、私はハバナクラブの七年を頼んだ。この国の音楽家たちは底が知れない。複雑なリズムとベースライン、なにより、ピアニストが素晴らしい。私はミラの耳元に口を寄せ、礼を言った。

「やっぱりキューバは最高だね」

「よかった。喜んでもらえて」

ミラはそう言って微笑んだ。




ショーは小一時間ほどで終わり、私たちが店を出ると街にはすでに夕暮れが迫っている。

「帰り道、分かる」と、ミラが訊くので、私は首を振った。

分からないけれど、本当は何とかなる。歩いてホテルまで帰れる距離なのは確かだった。

「もう一杯、というか、お腹すいたでしょ」

このままミラと別れてしまうのが名残惜しかった。

「でも、アニエルが待ってるし」

彼女は少し考えて、ケータイを取り出した。ちょっと待ってて、と電話をかける。石畳や教会の壁の凹みに夜が溜まり始めているようだった。建物の二階のテラスに、ぼんやりとした黄ばんだ灯りがひとつ灯る。馬車がすぐ目の前を通り過ぎていく。ミラはおそらく、母親に電話をしているのだろう。

ーーわかったわ、ありがとう。

そうして電話を切った。

「大丈夫」

「ええ。ママがね、よろしくって」

帰りは、歩くことにした。何を食べたい、と訊ねるとミラは肉、と即答する。そうして適当なレストランを探しながら歩くうちにすっかり日は暮れてしまった。群青色のガラス玉のような空に建物の輪郭が影となって浮かび上がる。ミラはほろ酔いなのかご機嫌で、どこかで音楽が鳴っているとそれに合わせてステップを踏み、私の手を拾い上げるように掴んでダンスを強請った。あまり得意ではないダンスを、私は照れながらもつきあって、彼女の体を不器用に回してみたりもする。

「上手じゃない」と、ミラは褒めてくれたけれど、無様なことは自分が一番よく分かっている。

「もう勘弁してくれよ」

とはいえ、それは本心ではなかった。私はこのままずっとこうしていたかった。ゴシック様式の建物の間をふたりで歩き続け、時折こうして手を繋いで踊る。また少し歩いて別のリズムに体を揺らす。音楽は止まらない。ずっとこのまま、と仰いだ尖塔の先に、カクテルグラスのような小さな半月が引っかかっていた。フローズン・ダイキリが零れそうだ。








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