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アトピー地獄

 人が思う地獄はそれぞれ違うけれど、あなたが「地獄」という言葉に共感できるのであれば、その苦しみのほどはわかっていただけるかと思う。より正しく言えば「生き地獄」である。

 この投稿を読み進めると、つらくなってしまうかもしれません、ごめんなさい。

 ここに書き残すのは、私が三十代後半から十数年間苦しんだ「オトナアトピー」の記録である。今でも完治してはいないものの、あの生き地獄の毎日を思えば解放された生活を送れるようになった。そして、自分に起きた出来事を記録として残そうという気持ちにもなれた。ちなみに「オトナアトピー(大人アトピー)」とは、大人になって初めてかかる「重度のアトピー性皮膚炎」の俗称としている。

 いわゆるアトピー、アトピー性皮膚炎の症状は子どもから大人まで人によってさまざまだ。皮膚の生成サイクル(ターンオーバー)の時期によってもあらわれる症状が違う。原因は食物アレルギーや、生まれながらの体質、季節の変化や、過度のストレスなど。共通するのは、身体と心の果てのない苦しみだ。

 赤くただれてぼろぼろになった傷だらけの肌は、他人には見られたくない。無限に皮膚がこぼれ落ちる落屑(らくせつ)のせいで、色の濃い服は着られない。赤黒い斑点=苔癬(たいせん)に覆われて硬くなった皮膚を、むしり取ってしまいたい。全身を必死にかきむしっている自分自身が、嫌で嫌で嫌でたまらない。

 恥ずかしい、人に会いたくない、家から出たくない、消えてしまいたい。



1:オトナアトピーの原因

 私の場合、オトナアトピーの原因は仕事上の強烈なストレスだった。三十代の中頃、小さなデザイン事務所に勤務していた時、肘の内側に違和感を感じて皮膚科を受診した。「アトピー性皮膚炎」と診断された小さなぷつぷつは、この時は薬を塗っている限り大きく広がることはなかった。

 それから半年後、旧知のコンサルタントに促されて転職した会社で、私は壊れていった。

いてはいけない場所がある

 従業員数100人規模の会社は大手什器メーカーの製造協力会社で、自社の名を冠したいくつかの産業用機器や、イタリアブランドの高級スチール家具を製造していた。私は企画開発の責任者として、ブランドの構築やデザインに関わる業務全般を受け持ったが、働き出して1ヶ月も経たないうちに、業務改善の提案の多くがのらりくらりと有耶無耶にされていることに不信感を抱いていた。

 こんなことでは仕事にならない。まもなく退職を考えたが、このときは「もう少しだけ様子を見よう」「もっと頑張りさえすれば改善できる」と、前向きに自分を納得させてしまった。


2:生き地獄の一日

 どうしようもなく過酷だった頃の一日を、記憶を頼りに書き残す。アトピーの症状が最も酷かった、今から18年前の一日である。私は38歳だった。

帰宅

 午前0時過ぎに帰宅して遅い夕食を済ませる。身体中に巻いた包帯を解いてから少しの間、風呂に浸かる。午前2時前には布団に入るけれど、気づけば必死に歯を食いしばりながら、全身をかきむしっている。

深夜

 白いシーツには血の斑点と体液の滲み、剥がれ落ちた皮膚が散らばる。腕、脚、股、腹、背中、首などをひとしきりかきむしったあとは、痒みが鋭い痛みに変わる。まるで無数の太い針が、じんわり、じんわりと全身を突き刺していく痛みに、ひらすらじっと耐え続ける。

 助けて、助けて、助けて、助けて、助けて....行き場のないつぶやきで頭の中がいっぱいになる。横で寝ている妻に気付かれないように、小さく声に出してしまうこともある....助けて、助けて。

 この皮膚の表面を数ミリ剥がしてしまえば、綺麗な肌があらわれて楽になるかもしれない。そんなことを考えながら両手のひらで傷だらけの皮膚をそっと押さえると、ほんの少しだけ落ち着くことができた。

 眠っているとも起きているともわからない、意識が朦朧とした時間が過ぎてゆく。

 起床しなければならない午前5時。かきむしって血だらけになったパジャマ代わりのTシャツを脱いで裸になり、妻に頼んで薬を全身に塗ってもらう。特に酷い状態の両腕、両膝、下腹、首周りにはガーゼをあてて包帯を巻いてもらう。簡単な朝食を済ませてから、午前6時20分発の電車に間に合うように家を出る。

出勤

 電車を3回乗り換えて、会社までは1時間30分かかる。乗り換えの時、歩く速さは周りの人たちの半分以下だ。膝を曲げ伸ばすと、体液の中途半端な固りがひび割れて、柔らかい皮膚に突き刺さる。その痛みでとてもゆっくりとしか歩けない。肘を曲げても、首を曲げても、同じように鋭い痛みが走る。

 古いおもちゃのロボットのように、私は奇妙な摺り足で少しずつ前に進む。

会社

 朝礼とミーティングが終わった午前10時過ぎ、トイレにこもって滲みだらけの包帯を新しいものに取り替える。仕事はデスクワークが多いので、肘や膝の曲げ伸ばしが少なくて済むのは助かる。

 格安の仕出し弁当で昼食を済ませた午後は、眠気と、痒みと、痛みが代わる代わる襲ってくる。周りの社員はいつも見て見ぬ振りだった。私に声を掛けて身体のことを心配してくれたのは、年嵩の男性設計者と経理担当の女性社員だけだった。

 定時の17時30分を過ぎて近くのコンビニへ軽食を買いに行き、会社へ戻ってしばらく残業する。ぼうっとしてしまうこともあるが、ひとりの作業は気が楽だった。他の社員が誰もいなくなった22時過ぎに、会社の戸締りをして帰宅する。家に着くのは午前0時を過ぎる。

頑張ったけれど

 この頃の私は、大学病院の主治医から「重度のアトピー性皮膚炎」と診断されていた。「規則正しい生活をするように」とか「ストレスを溜めないように」とか言われていたけれど、毎日の仕事が頭を離れなかった。

 一年と2ヶ月、なんとか耐え続けたけれどついに限界となって退職。その3ヶ月後、売上が一年前の半分に落ち込んでいた会社が廃業したと聞かされた。


3:身体が壊れると心も壊れる

 アトピーの症状が徐々に酷くなっていくのと、抱えていた仕事が行き詰まっていくことが、二重に私を苦しめた。しばらくは「仕事が成功すれば、きっと全てが上手くいくはずだ」と信じていたが、状況は悪くなるばかり。

 次第に仕事上でも怒りに震えて、不愉快に振る舞っている自分に気づくようになった。「なんでこんな目に遭わなきゃいけないんだ」怒りと失望、諦めの感情がぐちゃぐちゃになって私を支配していた。心はもう壊れていた。

だめだ

 心が壊れるとは、まともな思考や感情が奪われた状態だ。勉強にしろ仕事にしろ、人は自分をコントロールしながら生きている。その源は集中力だ。生き地獄の日々は私から集中力を奪っていった。ものごとへの興味が薄れ、自分への関心さえも失っていた。


4:地獄の風景

 私はとても静かな場所にいた。立っているのか座っているのかもわからない「ここにいる」という感覚があるだけだ。周りは薄明るいけれど、何かが見えているわけではない。生き物の気配は感じられない。

 自分をひたすら小さく圧縮して、ただ耐えている。何かが過ぎ去ったり、終わったりすることもない。同じ時間がいつまでも続く世界で、ただ耐えている。

地獄に果てはない

 私が見た地獄の風景には、血の池も、針の山も存在しなかった。もがき叫ぶ人々も、泣き喚く人々も、誰もいなかった。


5:怨み

 壊れていく身体と心。行き場のない苦しみは怒りとなって、この状況をもたらした理不尽な仕事、会社へと向かった。この会社の実態を見誤って転職を斡旋したコンサルタントへの怒りが湧きあがる。

 「こいつらを刺し殺してやろうか」

 その考えが浮かんで、まもなく消えた。私の家族を、犯罪者の家族にするわけにはいかない。私の親を、犯罪者の親にするわけにはいかない。もし私が身寄りのない独り者だったとしたら、このとき一線を超えていたかもしれない。

冷静な狂気

 怨みは十数年経っても決して消えないが、その落とし所は「こんなクズどものために私の人生を潰されてたまるか」という思いだった。そして、どんな結果にせよ「選択したのは自分だ」という厳しい現実を受けとめるしかなかった。


6:日常

 会社を離れてしばらく経つとアトピーの症状は変化していった。ジュクジュクした皮膚は乾燥することが多くなり、包帯を巻かなくても済むようになった。それでも、酷いかゆみは決してなくならない。

 かきむしり、かき壊しを繰り返した皮膚はこわばり硬くなって、両脚のすねからふくらはぎのほとんどは、醜いアミロイド苔癬に覆われてしまった。その赤黒い無数の斑点を見るたびに辛く悲しくなった。

 免疫力が落ちるときはヘルペスがあらわれる。そして度々、両目の周りや、胸元が赤いぶつぶつ(カポジ水痘様発疹)に覆われることもあった。左脇腹の帯状疱疹にも何度も苦しめられた。

 必死でかきむしるたびに歯の食いしばりを繰り返したことで、私は自分の歯を三本も砕いてしまった。治療のために義歯やインプラントを選択しなければならなくなり、他のグラグラになってしまった歯を含めて、自動車が一台買えるほどの治療費負担を余儀なくされた。オトナアトピーは経済的にも私を苦しめた。


7:理解してもらえない悔しさ

 身近にいる妻は、私を一番よく見ている。いつも身体中をかきむしって血だらけになっている私をケアしてくれるのも彼女である。だから時折「かいちゃだめ」と言うことがある。

 そんなことは自分が一番よくわかっている。掻きこわして肌が傷だらけになれば、余計に痛く苦しくなるだけなのだから。

 でも、どうしようもなくかゆみが続く肌を、ほんの少しの間だけでも引っ掻くことで、かゆみから解放されるわずかな時間が得られるのだ。少しでも楽になりたいのに、なんでわかってくれないんだ。

自暴自棄

 このことで何度、妻を強く罵ってしまったかわからない。苦しみから逃れたくて、他に方法が見つけられなくて、もどかしくて、悔しくて、わかってもらいたくて、ただひとり甘えられる妻に感情のままをぶつけていた。自分のことだけで頭がいっぱいだった。

 そんな私を見捨てずに、ずっと支えてくれた妻には頭があがらない。ありがとう、ごめんなさい。


8:何よりつらかったこと

 退職して半年後、肺癌の手術で入院することになった父親の仕事を肩代わりするために、一か月ほど実家で寝泊まりしたことがあった。

 三十数年ぶりに寝食を共にする老いた母親に「代わってやれたらいいのに」と言わせてしまった。

親不孝者

 これは本当にきつかった。八十を越えた母親を苦しませてしまうとは、これほどつらいことはない。毎日一緒に生活している妻には申し訳なく感謝もしているけれど、離れて暮らす親にだけは今の姿を、私が抱えている苦しみを見せたくなかった。

 「大丈夫、たいしたことはない」と言っても、母親はすべてを見透かしてしまう。ただただ申し訳ないという思いを隠して、何でもないように振る舞うことしか、その時の私にはできなかった。


9:今とこれから

 オトナアトピーは私の毎日を根本から狂わせた。働き盛りに失った膨大な時間は戻らない。かつて憧れ描いた自分の姿は遠く過ぎ去ってしまった。悩み、苦しみ続けた果てに、諦めの感情が自分の多くを支配するようになってしまった。

 ただし、命だけは落とさずに済んだ。人を怨んで殺人犯になることもなかった。オトナアトピーのつらい毎日は続いているが、私はまだ生きている。

 多くの人が目指すように前を向いて進む必要はない、と今は思う。残りの人生は自分にできることを静かに受けとめながら歩めれば、それでいい。

たとえ傷だらけの心だったとしても

 今も地獄で苦しむ皆さんに、ほんの少しでも、安らぎが訪れますように。


あとがき

 自分や誰かの苦しみを追体験するのは、つらい。あるいは共感し安堵するかもしれない。最後まで読んでいただいた皆さんには感謝するとともに、本当に申し訳なく思います。

 私と同じ経験は誰にもしてほしくありません。性格が生真面目な方は特に気をつけてください。人はあなたが思うほど誠実ではなく、正直でもありません。

 もしもそういう状況になってしまったら、迷わずそこから離れてください。決して無理や我慢はしないで、あなたの心向きに素直に従ってください。人は、いてはいけない場所にいてはいけないのです。

(了)

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