見出し画像

精神障害を装ってズルしようとした二大犯罪者

前回、精神障害者の犯罪者はとても少ないですよ、と書きましたが(→こちらの記事)

昨今では
「理解出来ないよね…」

としか思えない凶悪犯罪が目立つのもまた、事実と思います。


そうなると
「この事件の犯人、精神科医による精神鑑定になるのかな?」という話題になります。

私は医師ではないので、診断について多くは語れませんが、
ここ数年の精神科診断学の流れで顕著なのは

「正常か異常か、健常か疾患か、って白黒つけられるもんじゃないよ。
多角的に見て、どっちに判定するか、診断する医師の考え方、方針にお任せします」

米国診断マニュアルDSMの超意訳

というふうに、一般の人が聞くと
「えっ、そんな個人の感想ですみたいな、そんなテキトーな診断なの?!」

と不安になってしまいそうな状況です。

が、

いえ、これは精神科診断学がいい加減なわけではなくて、
白黒つけようと、長年、世界最高レベルの精神科医たちが必死で考えあぐねた結果、
一周してそうなった、というか

「いやだって精神疾患はガン細胞みたいに目に見えるわけじゃないし!文化の違いとか遺伝とか育ちとか環境とか、いろいろあるんだから仕方ないじゃないか!!!」

ということであり、
人の心を診断することの難しさを、真剣に物語っている、わりと誠実な結論なのです、
かなり大雑把に解説するとですね。


ところが。

司法の世界というのは、そうはいきません。

白黒つける世界、「有罪か無罪か」
どちらかしかない世界です。
で、「精神障害か健常か」
白黒つけることを迫られる領域であり、
精神医療領域とは、論理が違う世界です。


前回の記事で、
「ズルは良くない」ということと
「精神療法は病人が受けるもの、という前提ではない」
と書いたわけですが
ちなみにこの「ズルをする」心理は
「健常」です。

誰だって、ズルしたいものですよね、楽したいもの。
そういう欲求はある、誰でも。

でも
「それやっちゃオシマイだろ」
という、「良心」で踏みとどまっているのが、
「普通の人」。


この、「良心」がちゃんと作動してない人がズルをたくらむ。
すなわち、罪を犯してなおかつ罰から逃れようとする。

良心の欠如は、基本的に人としてのモラルの問題であって、それをも精神疾患の症状とみなすことは、かなりの証拠が無ければ無理な話です。


例えば、
あの麻原彰晃こと松本智津夫死刑囚。
松本は精神障害を装いましたが、精神鑑定で見抜かれて死刑になったと言えます。

ウィキペディアではあっさり触れられているだけですが、私の師匠である精神科医・斎藤学も鑑定人の1人であり、彼が東京新聞のコラムやブログで明かした内容によると、
松本に「私はあなたを(死刑にならないように)助けることが出来る。もし助けて欲しいならば、左の頬を左手で触って、合図してください」と伝えたそうです。
すると、鑑定のための対話終了間際に、松本は左の頬を左手で撫でたのだそうです。

このやりとりが
「松本の意識は明瞭であり、判断能力がある証拠」として提出されました。


「罪から逃れたい。助けて欲しい」
と思うのは「正常心理」であり、しかもその意思の疎通が成立しているのですから、
「助かりたいがために、今まで精神錯乱のふりしてたんだね」
とバレたわけです。


もう1人の有名な犯罪者は、死刑が執行された宮崎勤です。
この男も精神障害を装っていましたが、鑑定で見抜かれました。

宮崎の場合、
もともと小児性愛者(性倒錯者)ですらなく、成人女性を性の対象としていたが、
「成人女性は相手にしてくれないから」
という理由で女児をターゲットにしたという(←フジテレビの肉声公開番組より)、

己れの弱さを克服しようとはせずに
「弱い者なら手に入れられる」というものすごいズル、
なおかつ罪を逃れようとするズルという、救いようの無さでした。


ちなみに、前出の米国診断マニュアルDSM5編集委員の1人は、
新マニュアル刊行後のエッセイか何かで
次のようなことを書いていたと記憶しています。
(すみません、探したのですがソース発見出来ず)

「およそ人間の為すすべての悪行愚行に、診断名を付けようとは思わない」。


私は、精神科医ではなく臨床心理学の立場に立つ臨床心理士として、
診断名ありきではなく、
人間とは何か、
いかに生きることが幸福か、
向き合い続けることが仕事だと思っています。






この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?