石垣島のパイナップルを通じて『ふるさと』をつくりたい
ハイサイ👋ゴーヤです!🥒
今回は私ゴーヤがインタビュー形式で、自分の想いや考えてきたこと、これから目指したいことを話させてもらいました。
※タイトル変えました(3月18日)
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まず、東京での仕事を辞めて、石垣島へ帰って家業を継ごうと思ったきっかけを教えてください。
昨日のnoteでも書いてもらっていた通り、僕はずっとバレーボールという競技を小学生のころからやらしてもらっていました。高校は福岡にある強豪校へ、そして大学も東京の法政大学へスポーツ推薦という形で進学させてもらいました。その後社会人になってからもずっと東京に住んでいたわけですが、どんなに忙しくても1年に2回か3回は石垣島に帰省をしていました。
やっぱり自分のふるさとなので、どうしても帰らないと気持ちや身体がリセットできないというか、体中に溜まった毒素のようなモノが抜けない感じがして、溜まってきてしまうと仕事も部活も不調になるんですよね。
東京での生活が疲れてしまった、ということなのでしょうか。(笑)
いえいえ(笑)
そういうわけでは無いんです。それが理由で帰ったわけでは無いですよ。東京の生活は楽しかったですし、島では味わえないような刺激も多く、なにより仕事も充実していましたから。
ですが、年に数回のリフレッシュがあったからこそ頑張れていたというのは事実です。いつでも帰ることが出来るし、いつでも帰りたくなる場所が自分にはあったので、東京でのハードワークも頑張れたのだと思います。
それではナゼ?
子供が生まれてからも年に数回の帰省は欠かしませんでした。石垣島までの航空チケット代って安くは無いので、僕と妻と子供で往復すると余裕で十数万円かかるんです。ですから、お金は全然貯まりませんでした。
子供も大きくなるにつれて、この子たちのふるさとってどこになるのだろうか、東京で生まれて東京で育っているから、やっぱり東京になるのだろうか。自分は東京で彼らの心の拠り所を作ることができるのかどうか、正直自身がありませんでした。自分が拠り所としていない場所を、自分の子供の拠り処にしてあげられるわけがない。
子供達にも心の拠り所、辛いことがあったらすぐに帰ってこられて、いつだって帰りたくなるような場所、つまりふるさとと呼べるふるさとを、彼らのためにも残してあげたいと考えるようになりました。
なるほど。子供たちの帰る場所を残してあげたい、という想いが帰るきっかけとなったのですね。
僕も東京生まれですが、転勤族であったこともあって、ふるさとと呼べるふるさとがありません。でも、東京人ってそういう人多いですよね。
そうですね。僕が石垣島出身という特殊性(?)もあって、よく職場の方とふるさとや帰省について話す機会がありました。
ふるさと=出身地というのが当然多くの方の認識なのですが、自分のふるさと(出身地)を心の拠り所とはしておらず、親が亡くなってしまったら全く帰ることがなくなった、と聞きました。僕の感覚からすると、それって人生辛くないのかなと感じます。
人生辛くないのかな、とはどういうことですか。
自分は色々辛いっす(笑)
(笑)
ふるさとは心の拠り所と言いましたが、もっと分かり易く表現すると、心の安全地帯なんだと思っています。心の安全地帯って不安や不満が除去されることによって、明日からの活力やパワーもチャージされますよね。マイナスからゼロの状態へ、ゼロからプラスへ。
つまりふるさとって、単に自分の出生地であるとは限らなくて、自分の心をリボーン(再生)できる場所をふるさとと呼んでも良いのではないかと考えています。
なので、このnoteを通して、あるいは石垣島や石垣パインを通して多くの方々のふるさとが、この石垣島となってもらえることができないかなと思っています。
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以前のnoteで、けいえすさんが石垣島のパイナップルのルーツについて寄稿してくれていましたよね。
そうですね。ゴーヤ店長から貰ってDVDや、色々自分で調べて書きました。
およそ100年近く昔に、台湾から多くのパイナップル農家が移住してきて、幾多の困難を乗り越えながら、パイナップル栽培を後世に伝えてくれた歴史であったかと思います。
実は僕もその子孫の一人で、ちょうど僕が3世代目で、僕の子供たちが4世代目ということになります。
僕の祖父も、初期メンバーだったか戦後であったのか、あまり聞かされていないのですが、はじめはパイナップル農家として石垣島に渡ってきたようでした。
10年以上の付き合いになるけど、僕も最近知らされました。ゴーヤ店長は昔から自分のルーツの話は知っていたのですか?
実は自分が台湾にルーツを持っているということは、20歳台半ばになるぐらいまで知りませんでした。(笑)
(笑)マジで?まあ、教えてもらわない限り知りませんよね。
確かに祖父の家には中華風な飾りつけがしてあったり、中国語(台湾語?)で誰かと電話をしていたなと、今になっては思いますが、当時はそれに特別疑問を抱くことはありませんでした。
父親は集団帰化運動のタイミングで、高校生の頃に日本国籍を取得したようです。恐らくルーツの話を僕ら兄弟にしてこなかったのは、自らのアイデンティティで相当な苦悩や嫌な出来事があったからだと、想像するに容易いかと思います。当時はまだ1960年から1970年ごろであったため、今のように多様性やグローバリズムといった言葉なんか世の中に存在していませんでしたからね。
父親もその後を継いで、僕が小さい頃はパイナップル専業農家をやっていました。なので、小学生の頃は畑の手伝いをよくしていました。パイナップルの実に傷がつかないように、葉を針金で結わいて実を包み込むのですが、これがめちゃくちゃ難しいんです。
僕が中学に上がったぐらいのタイミングから、兼業でやっていた小売業(やおや)と卸業が忙しくなりはじめ、パイナップル栽培は親戚の方に任せてしまったんですね。なので、今は直接僕が畑をやっているわけでは無いんです。いつかパイナップル栽培も再開させたいですね。
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最近、台湾のパイナップルが話題になっていますが、石垣パインはあんなに美味しいのに何で東京でも出回ることが無いんですかね?
今、石垣島のパイナップル収穫量は年間で5千トンから7千トンぐらいなんです。物凄い量に感じるかも知れませんが、実はたいしたことが無いんです。
日経新聞でも取り上げれていましたが、日本のパイナップル輸入量は年間約15万トンで、その内97%がフィリピン産で占められているようです。石垣島産のパイナップル全てを全国に流通させられたとしても、1割にも満たないほどしか生産できていないのです。
さらに物流コストもかさむため、例えスーパーに並んだとしてもフィリピン産の2倍から3倍の値段にせざるを得ません。そのため、内地に出回ることはほとんど無く、本物の味の素晴らしさを知っているほんの一部の人たちの中だけで流通しているというのが実態です。
そうですよね。僕もまわりの友人にパイナップル調査したんです。そしたら、ほとんどの人が石垣パイン?なにそれ?でしたね。
本当に皆さん知らなくて、台湾パインで大騒ぎする前に石垣パインにも注目して欲しいなと思いました。
でもそれって、僕らのアピールが足りていないってことでもあると思うんですよ。楽天さんとかにも石垣パインを出品されている業者さんもいらっしゃいますけど、ただ単に「美味しいパイナップル!石垣産!」と、商品そのものの良さしか出していないんですよね。
今の時代って、お金を出せば美味しいものなんて、いくらでも手に入るじゃないですか?ですから「美味しいパイナップル!石垣産!」だけでは、買ってくれはするかもしれませんが、心に響かないし、記憶にも残りませんよね。
だから、僕はnoteという媒体を使って、アピールをしていきたいと思いました。Twitterのような瞬発力はありませんが、文章としてストックされていくので、140字では伝えきれない色んなストーリーをお届けできますよね。
確かに、今日本で出回ってる食品は美味しいのが前提で並んでいますから、それ以上の魅力を伝えなければなりませんね。
それでは最後に、これからのテーマをお願いします!
前置きが長くなってしまいましたが、台湾というルーツを持っているパイナップルと僕が、この石垣島でパイナップルを通じて、自分の子供達の為だけではなく、日本中の人々の心の拠り所となるような、ふるさとよりもふるさとと想ってもらえるようになってもらいたい、そんな風に考えながらやっていきたいと思っています。
もはやこれは、僕の使命であって、人生のテーマであるとも思っています。今後も石垣島のやおやさんの応援よろしくお願いします!
ありがとうございました!
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此度のインタビュー・編集・執筆も、けいえすが担当させていただきました。引き続きよろしくお願いいたします。
パイナップルの普及のために使わせて頂きます🍍