見出し画像

”コミュニティ”というものに対しての違和感(93/365)

何か最近”コミュニティ”という言葉が好きになれない。

人は何かしらのコミュニティに属している。
学校や会社、部活やサークル。
家族だってその一つだ。
僕もシェアハウスというコミュニティに属している。

この1年、コミュニティという言葉を更に耳にするようになった気がする。
コロナもあってか、何かとオンラインコミュニティが活発になった。
オンラインサロンなんかもやっとクローズアップされたりした。
この流れはこれからも止まらないと思う。
現にこれからの時代コミュニティを持っている人は強い。
ビジネスにおいてもそうだし、ビジネスでなくとも人との繋がりが持てる。
人は一人では生きていけないのだから当たり前だ。

僕もこの1年、いくつかのコミュニティに関わっては離れてを繰り返してきた。
今もシェアハウス以外にも関わっているコミュニティがある。
しかし、最近そこに関わるのがしんどくなってきたというか面倒くさくなってきた。
いくつも関わって離れてを繰り返してきて、その時とまた同じ状態に陥っている。

なぜ毎回同じ違和感を覚えるのかを考えてみた結果、僕はコミュニティで誰かと繋がっていると思いたかっただけなんじゃないかと思った。
コミュニティというものにいる人は、僕も含めて孤独で寂しい人たちなんじゃないか。
コミュニティを形成する上で何かしら主としている活動だったり、目的があって、それに共感した人たちが集まってきている。
関わる理由としては、大きくはそれかそこの人たちが好きだからのどちらかだと思う。
しかしその人たちは本当にその活動がしたくて、又はその人たちが好きで、そのコミュニティにいるのか。
ネットワークビジネスやマルチ商法コミュニティの人たちも本当にお金儲けがしたいのか。
結局のところ、どのコミュニティも関わる本質はみんな独りになりたくないだけなんじゃないか。

今の時代SNSで「こんな事やりたい!」「〜な人たちが集まるコミュニティ作りたい!」なんて発信すればリテラシーが高い人が見つけて、ある程度人は集まる。
僕が関わっているコミュニティもそんな感じだ。
僕も「面白そう!」「楽しそう!」と思って関わった。
最初はオンライン上でみんなと話してお互いの価値観なんかを知ったりするのが楽しかった。
ある程度人が増えてきたら、コミュニティとしての理念を考えていったり「こんなコミュニティにしたいよね〜」なんて皆で意見を出し合ったりした。
そこからみんなの意見を取り入れた理念や目標・活動が創り上げられてきた。

しかし、みんなの意見を取り入れているから100%共感できているかと言われれば違う。
そこが違和感の原因の1つかなとも思う。
これに関しては、この期間でも僕の中で価値観が微妙に変わったというのもある。
仮に最初から理念が決まっていたら、それに共感するかしないかで関わるかを決められる。
会社だって社員全員で企業理念を考えたりしない。
どんなコミュニティにしたいのか何をやりたいかなど、目的である理念は一人のエゴでいい。
それに共感する人だけが集まってくる。

また、関わったからといってお金が発生するわけでもない。
ドライかもしれないが、これは結構重要なところだと思う。
仕事としてやっているなら多少の違和感があったとしてもやれる。というかやらなければならない。
そこに責任が生まれるから。
しかしこれは仕事ではない。
別にやらなくたって損はしない。

これが自分主体で始めた事なら話は別だ。
巻き込んだ人がいるなら、巻き込んだなりの責任がある。
そして完全に一人で勝手にやっている事であるならば、違和感を感じようががなんだろうが、他者に迷惑を掛けていないなら誰も文句は言わない。
仮に損をしたり苦しくなったとしても責任は自分にある。
しかし、今は仕事でもなければ自分主体でもない。
一人で勝手にやっている訳でもない。
無責任である。
責任の所在が自分にない状態において、優先順位を高く置けるほど余裕がない。

あとは、それこそコミュニティ化しているなという事。
最初から大きな活動目標的なところはあった。
理念は曖昧だったが、そこに関しては「面白そう!」「楽しそう!」と思った。
だから関わった。
だが、今はその目標に向かうというより、コミュニティ形成に重きが置かれ始めてきている気がする。
いや、これも大事な事だ。
分かる。
そもそもみんなの事を知らないと深く関わっていけない。
しかし、理念にも完全に共感している訳ではないという現状の今、そこまでしてこのコミュニティに関わりたいかと改めて考えた時に、違和感が生じたのだ。
その違和感に加え仕事でもないとなると僕の熱は冷めてしまった。

そして、仕事や勉強、個人でやっている事の優先順位が高くなり熱が冷めてしまっている僕にとって関わること自体が自分の意思ではなく、関わらなければならないことになってしまっている。
週一のオンラインミーテイングなるものに参加するのも義務感的なのが生じ面倒くさくなっている。
別にその人達が嫌いとか悪いとかでは全くない。
なんなら過去の経験から学ばずノリで関わった僕自身の責任だ。

コミュニティ内でも改めて目的やどこを目指すのか?ナゼ関わるのか?を考える流れになりつつあるけど、正直そこがない。
というか僕はそこを求められると、途端に頑張れなくなる。
この一年で感じたことだ。
多くの人は目的があるから頑張れるという。
人生においてもそうだ。
理屈は分かる。
でも、僕は目的があることで頑張れなくなってしまうタイプなんじゃないか。
そうなったら、仕事として割り切るか、ワクワクが原動力でしかない。
しかし、それが薄れてきている。
今一度本当にやりたいのか?と聞かれると「うーん…」となる。
いっときの「面白そう!」「楽しそう!」で得た推進力なんてこんなものだ。

 

何か理屈っぽくなってしまい自分でも面倒くさいなと思うが、これが今の僕が感じている事だ。
では、なぜ色んなコミュニティに関わっては毎度違和感を覚えるのか。
それは、最初にも触れた関わる本質がコミュニティの目的や活動・人ではなく独りになりたくない・誰かと繋がっていると思いたかったから。
否定される環境は論外だけど「いいね!いいね!」と肯定してもらうことを求めているわけでもない。
そりゃ居心地は良いだろうけど、それで満たされるかと言えば違う。
自分でさえも自分のことを理解しきれていないのに、人に理解なんてされたくない。

簡単に人と繋がれるようになったが故に、コミュニティに依存しなければ人は生きていけなくなったのかもしれない。
しかもネット上での繋がりとなればより希薄なものになる。
しかし、それでも誰かと繋がっていると思わないと孤独で不安になる。
例え孤独が消えることがないと分かっていたとしても、離れる事ができない。
結局みんな独りになりたくないだけだと思う。
やっていることは人の為になっていたり、キラキラ楽しそうに生きているように見えても、みんな寂しいだけだと思う。
自分の居場所を探し求めて彷徨っているのだと思う。

 

最近はこんな感じで冷めきっている。
今回述べたコミュニティに関しては書いたとおりだが、別のコミュニティにおいては関わっていて利害関係で繋がっていると感じた時も一気に気持ち悪くなった。
その時は病んだ。
独りになりたくないだけなのに、その繋がりが利害関係なんて。
そして、そんな事に自分で気づいてしまった今、一気にコミュニティというものに違和感が生じた。

こう書いてて思うが、僕は社会というコミュニティの中ではうまく生きていけないのかもしれない。
だから会社という組織からも離れたし、仕事も自分でやっている。
仕事でなくても自分で楽しいと思ったことは続いている。
責任は自分にあるから。
全ては自分のためでいい。
自分のためにやった結果誰かのためになっているなら、それでいい。
誰かのためにと気張って責任をその誰かに押し付けるくらいなら、それでいい。

コミュニティなんてものは作るものじゃない。
誰かと一緒にやりたいわけでもない。
何かを届けたいわけでもない。
正論や綺麗事を言いながら生きたいわけでもない。
誰かを救いたいとも思わない。
人との繋がりは大事とか口では言いながらも、それもそれで面倒くさい。
孤独なものこそ美しくなる。

だから、最近こんな事を思うのかもしれない。
いや、でもやっぱり孤独は怖い。
一人になりたいけど、独りはイヤだ。
うまく生きなくても、キレイに生きなくても、器用に生きなくても、孤独でも、
生きてさえいれば、勝手に人は集まってきて独りではなくなる。
ハズ。

 

目的や目標なんてなくとも、ただ存在しているコミュニティこそが家族なんじゃないか。
だからシェアハウスには違和感なんて感じずに住めているのかもしれない。

 

結局一番孤独で寂しいのは自分で、常に戦っているのも自分自身だと思う。

それでも生きていくしかない。

生きるのって面倒くさ。


サポートして頂いたその優しさは、他の誰かのサポートに使わせていただきます!