食い逃げ
食い逃げをしたことがある、という人はあまりいないと思う。空腹を満たすための方法としてはリスクが大きすぎる。食い逃げは割に合わない。
だが、僕は過去に一度…
先に言っておく、もう10年以上前の話だ。許して欲しい。
【無銭飲食】
無銭飲食(むせんいんしょく)とは、後払いの飲食店で飲食して代金を支払わずに逃げることをいう。刑法上の詐欺罪に該当することがある。俗に食い逃げ(くいにげ)ともいう。
無銭飲食によって詐欺罪が成立すると法定刑は10年以下の懲役、時効は7年。ただし民事の場合、時効は損害及び加害者を知ったときから3年(民法724条)、無銭飲食を行ったのが誰か不明の場合、時効期間は無銭飲食のときから20年とされている。
そのころの僕は今と違っていた。
断然、松屋派 だったのだ。
牛丼にみそ汁がついてくる。それだけでも強力なアドバンテージだ。
さらに朝食、定食、カレーなど豊富なメニュー。そのどれもが魅力的だ。朝、昼、晩、夜食と一日四食。松屋になら、食の全てをゆだねられる。
圧倒的な満足度。
価格じゃない。
僕が松屋に求めたもの、そして松屋が僕に与えてくれたもの、それは圧倒的な満足だった。
家が近かったこともあり、僕は毎日のように松屋に通った。
自動ドアをあける。食券機の前まで二歩。お金を入れ牛丼大盛を選ぶ。食券を持って席に着く。
そのすべての動きを見ていたかのように瞬時に、本当に瞬時に、スッと牛丼が出される。
体感では席に着いてから牛丼が出てくるまで9.79秒。
あの頃の松屋のスタッフは、みんながベン・ジョンソンだった。
そのスピード感に応えるように、僕は牛丼とみそ汁をかきこむ。
リズム。
大切なのは、牛、米、汁のリズムだ。
いいリズムを刻めば、味は舌の上でグルーブしてくれる。
時間にして数分。僕は松屋とのセッションをソウルで楽しむ。
そして。
何も言わず、僕はすっと席を立つ。背中で「また明日な」と語りながら。
そんな感じで僕と松屋の関係はうまくいっていた。
だがある日。
あの日のことは今でも覚えている。なぜあんなことをしたのか、今考えても魔がさしたとしか言いようがない。
その日のお昼、僕は、すき家に入った。
そこまで考えていなかった、本当に気楽に、スッと、何も考えずに、すき家に入ってしまったのだ。
すき家には食券がない。慣れない動きに少しとまどいながらも僕は席に座った。
店員さんが水だかお茶だかわからない、茶色のコップを差し出した。
「お決まりですか?」
この国でのルールを、僕は見せつけられた。
すべてが違う。松屋では店員さんに何か聞かれることなどない。松屋ではすべてが呼吸でやりとりされる。それがコミュニケーションなのだ。だが、ここでは違う。
うろたえるな。僕は試されてるんだ。
「牛丼、大盛で」
落ち着いて僕は答えた。
入国審査をパスしたようだ。店員さんが下がっていった。
牛丼が出されるまでのタイムは、松屋のベン・ジョンソンに対し、すき家はマイケル・ジョンソンだった。
ロケットスタートではないが中盤から伸びるタイプ。100mではベンに勝てないが400mならマイケルが勝つ。もし、注文したのが牛丼じゃなかったら、違った世界線を見れたのかもしれない。
出された牛丼を見て、僕は唖然とした。
「みそ汁が… ない… 」
福祉が行き届いていない。この国ではみそ汁は有料なのだ。
周りを見渡した。一部の富裕層が誇らしげにみそ汁を飲んでいるのに対し、我々庶民の目の前にあるのは牛丼のみ。
この国の政治とは、いったい…
明らかな 二極化、格差、断絶 がそこにはあった。
牛丼の味は、松屋のそれとは違ってはいたが、悪くはなかった。だが、うまくセッションできたかと聞かれれば、その答えはノーと言わざるを得ない。
リズムが刻めない。
汁が、みそ汁がないのだ。
エアウィーヴを忘れてきた浅田真央と言えば伝わるだろうか。一般の人から見れば「たったそれだけのこと」「たったそれだけの違い」。だが、アスリートにとっては100でなければゼロなのだ。99はゼロなのだ。
みそ汁がない。
たったそれだけのことで、僕は完全に、フィジカルに加えてメンタルのバランスも崩されていた。
牛丼を食べ終わると、静かに立ち上がり、僕は店の外に出た。
あの時の僕はどんな顔をしていたのだろう。
わからない。
あの時の僕の背中は何を語っていたのだろうか。
わからない。
文化の違いに打ちひしがれ、歩き出したところで。
ふと頭の中で声が聞こえた。
「オカ… ッテナイ… 」
え?
何か聞こえる。
なんだこの声は?
これは、俺の… 心の声なのか?
足を止め、僕は心の声に耳を傾けた。
「オカネ… ハラッテナイ… 」
お金、払ってない?…
やべぇ! 金払ってねぇ!
松屋の食券に慣れ過ぎてて、金払うの忘れてた!
食い逃げしてる!
やっぱり、すき家はダメだ!
松屋は食べる前に食券を買うので、食い逃げは不可能。対してすき家は、先に食べさせておいて、あとから徴収するシステム!
あわてて戻って「あの、すいません。さっき、お金払うの忘れちゃって」と店員さんに伝えたところ「あ、そうですか」とあっさり塩味で対応された。
気付いてなかったのだろうか。いや、気付いていたとしても、300円程度のことで僕と格闘する覚悟もなければ、そこまでする必要性もこのバイト君は感じていなかったのだと思う。
ひょっとしたら、この国の制度は貧者に厳しいが、この国の人たちは優しいかもしれない。
ありがとう。
すき家の人。
あなたのおかげで、僕は犯罪者にならずに済みました。
それから僕はすき家のファンになりました。
もしそれが叶うなら、松屋、すき家、両国の親善大使になりたいと、今僕は思っています。
◇ ◇ ◇
先日、すき家で食べ終わったあとに、財布の中に200円しか入ってないのに気付いて「ちょっと待って、これは食い逃げか!」とこの時のことを思い出しました。
ちなみに、落ち着いてSuicaで払いました。
10年前にはなかったテクノロジーに感謝です。
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