春を愛している
ずっといろいろなことがあったな、と思う。
ずっといろいろなことがあったうえで、迎えることができた今年の春が、去年でも来年でもなく今年の春で本当に良かった。すべてのタイミングがここに合わせてくれて、良かった。
春に、このまちにいない年もいくつかあった。春に、ひとのかたちを保つことができていなかった年もあった。春にかぎらず、ずっと怒涛だから(今もだけれど)疲れている命と向き合うことが難しいときばかりだった。
でもいまは、このまちにいる。このまちで生きることができている。心身への負担はそれなりに相変わらずだけれども、五感は全て、ちゃんとに春を感じられる。そんな私で今日を彩ることができて嬉しいな。忘れたくない。
十二年ぶりに"四月八日の太田山公園(木更津)の桜"をみることができた。十二年前の思い出を基準に、それから毎年の開花予報の季節になっては、「今年は早いな」と過ごしていた。年を重ねるたびに早くなっていくから、観測による「例年並み」の印がどんどん変わって、地球の気候的にもう同じ日に感動することがないのではないかとも思っていた。
そうやってずっと、肌に触れる春よりも開花の話題が先になることがあたりまえになってきていたのに、今年は、少しだけ遅い気がして、「遅い気がするな」と自ら開花予報を検索した。そのとき、私の勝ちだと思った。何に勝つわけでもなく、でも勝ちだと思った。
大好きな場所、太田山公園の桜の満開日予測と同時に天気も毎日のように気にしていた。「このままいけば四月八日の夜桜は完璧だ」と密かに期待して、誰と共有することでもなくひとりで待ち望みながら、すこし緊張もした。
それくらい、この場所の桜のことを、このまちで迎える春のことを、心の底から愛していて、おかげで私は春に愛されている。
書けば書くほど、中途半端には伝えたくないような特別を永遠に大切にしている。今がどうとか、これからがどうとか、どんな幸せを持っているかとか、それらは何も関係なく、ただただ大切にしたい春がある。いつかきちんと小説にすると決めている。いつか、だけれども、すぐではない。でもそのいつかがあるから、今日は中途半端な文字数のまま、記録する。
私の詩・ポエトリーリーディングの作品に『現在地』という曲がある。
今日はその詩でうたわれている物語のはじまりの日。午後六時に校門前で待ち合わせをする記憶のイントロダクション。
「方向音痴と馬鹿にしたこと覚えていたらまた笑っていて」
「桜の花咲く馴染みの場所で懐かしい青色の風があなたにだけ吹いて」
"縋る"と書けば儚くて良い気がするけれど、ただの拗らせといえばそれまでで、「それをいかに大切にし続けられるかだよね」と、自分自身と会話をしては戦っている。まだいける。春のことはまだ手離してあげない。
自業自得に花びらに刺され続けたい。刺され続けるために、私は一生、ことばをかたちにすることをやめない。そのおかげで一生、そのことばたちがわたしのための薬にも毒にもなる、本当に助かる。
私にとっての「たいせつなものを大切にする」ことの手段は、詩にすること、言葉にすること、それが誰かがどんな捉え方であっても触れてくれること。絶対に辞めずに続けていたい。
そして、そんなふうにつよく生き延びていることを、少なくともこうして春がくるたびに、確認して肯定をして、「やっぱり私はこうだよね」と、また信じてみたい。
二〇二四年四月八日 あまりにも愛
こころの底から感動した桜
爆満開、すごかった。
あのひの景色と同じだったよ。
それがたとえ、美化して塗られた記憶であっても、こんなにうつくしいものとしてこれからも抱えられるなら、しあわせだと思う。
2024年4月8日 彩結ゆあ
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?