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他人の自死を止めたら表彰される



他人の死にたさに対して、"無力かもしれないけれどとりあえず救ってあげたい"と思えるひとが、すごいというか、なんというか。優しさのつもりだろうけれど、悪気のない本心だろうけれど、私はその気持ちをわからないままでしかいられないと思う。

他人ではない関係の相手、すきなひとや友だち、仲の良い家族には、死んでほしくない・生きていてほしいと思うことは当然だろう。

でも、本人の『死にたさ』があなた(わたし)に救える程度のものならとっくに助かっているはずではないかと思ってしまう。生きたいならばまずは助かる方法を探すし、それがどうしようも叶わないときに死しか選べなくなる。

あくまでも私は、そう知っている。

大切なひとや大事な友達が一時的に本自分の意思をなだめることができたとして、それで互いが「これで良かった」と思えるとしたら、救うことは正しいのかもしれない。

自死を踏みとどまらせたひとが感謝状を送られているとか。それ、まちや警察が送っているものですか。救われてしまった側が、助かったことに感謝をしてやっと、正しいことになるものではないのだろうか。(物理上の事故を阻止することは必要であるのかもしれないけれど、それでも)

死にたさを無理やり否定されて、でも根本的な原因や症状などを含めた、その先の人生に寄り添わない、それっぽっちの覚悟で救うなんて、私は本当に恐ろしいことだと感じる。

例えば今、友だちがどうしても死を選ぼうとしていたら。友だちだからこそ、それしかないのだということを理解できるくらいの関係で、話も聞かせてくれていて、私ができる限りの具体的なサポートをしても尚、これからの将来に繋げてあげられないとしたら、

「無責任だけど生きていてほしいよ」

なんて、言いたくない。

世間的に言わなきゃいけない機会があっても、
言いたくない。

言ったあとにみんながハッピー!*・゜゚・*:.。..。.:*になれるのではないのなら。

本当になにも解決ができないのなら、そこに至るまでのことを何度も何度も理解したのなら、

「今までよくがんばったね」

としか言えない。それと、きっと
実際の自死が失敗しないことを願うと思う。

失敗して、自力で動けないような障がいが残ってしまったら、今よりも辛くなる。そしてその体では『もう一度』ができない。それまでの死にたさよりも最悪な人生になるかもしれない。

だったら、あなたが最期まで悩んで悩んで苦しかったことを肯定してさよならをしたい。

『死ねなくて良かった』なんて思えたなら、それでいい。どちらにしても、そのときのあなたを肯定したい。


私は冷たい人間なのだろうか。

「なんでも聞くよ」「誰かに話して頼るべきだよ」「みんな辛いし大丈夫だよ」「ひとりじゃないよ」「いのちの電話に相談を」

これらの声かけが、私には笑ってしまうくらい薄っぺらいものにしか聞こえない。

芸能人の死をここぞとばかりにおもいきり報道をしておいて、「このニュースを見て辛くなったら専門の機関に電話を」ってさ、笑っちゃうよ。

テレビ局のひとって、アナウンサーって、
精神力すげーなー。そのひとたちの私生活がどうだとしても、仕事としてそれができることがすごい。怖い。


死にたさが死を決断するとき、
話せるひとに話して頼れるところに頼って、
やり尽くしたからしぬ。
または、精神的な病気が原因なら、理由も前触れもほとんどなく急に自分を殺せてしまう。

どうせみんないつかは絶対に消えるのだし、こころをもって生まれてしまった以上は死の選択だってできる。あくまでも、やり尽くしたうえなら、しかたがない。


私は、私自身に対しても他人に対しても、そして大切なひとに対しても、よっぽどの納得できる説得がない限り、そして私が人間として間違っていて人間ではないとされたとして強制的に歪みを正されるまで、この考えでいると思う。


きみのしにたいに、"やめて"と言えない。

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