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#404 学校教育における「厳しさ」の本質は何か?

 学校教育における「厳しさ」とは何か。

 以前の厳しさとは、体罰や恐怖、威圧などを背景にした権威主義の中に組み込まれることだったと言えるでしょう。

 もちろん、体罰・恐怖・威圧は児童・生徒の成長にとって悪影響を与えるという根拠がありますし、一人ひとりの人権を守るという観点から言っても、現代では決して許されることではありません。

 ただ、今回はちょっと違う視点で考えてみたい。そもそも上記のような指導は、「厳しい」のかと言うことなのです。つまり、権威の言うことだけを聞いていれば良いのです(ま、私は学生時代無理でしたが)。自分で考える必要がない。主体性や思考は、そこには必要ありません。そのシステム中に、ただ組み込まれて行けばいい。ただそれだけで、評価を受ける。これはある意味では「楽」なのではないかと考えてみる。

 私の同僚にも、今は主体性や多様性が叫ばれる中、厳しい指導ができないと嘆いてる人たちがいました。児童・生徒は時代に甘やかされていると、彼らは語っていたことを覚えています。

 しかし果たしてそうなのか。私は逆なのではないかと考える。今時代は今までの人類の歴史の中で圧倒的に早いスピードで進化をしている。そんな時代を生きる中で、主体性や多様性と言う言葉が生まれ、自分で考えることを求められる。それはある意味では大変なことなのではないかと。

 今学校教育で求められてるのは、児童・生徒が本当の意味での「自由」の扱い方を学ぶ支援をすること。それは彼らにとっては、非常に難しい。目の前に、ただ荒野があるだけで、どこに行こうとも自由、されど、その責任は全て自分自身の中にある。そんな厳しい時代を生きぬくためにこそ、生涯にわたって学び続ける土台を構築しなければならないのです。

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