見出し画像

#249 未来を縛る教育なぞやめてしまおう

 司馬遼太郎の歴史小説『坂の上の雲』では、故郷・伊予松山を出て、同郷の親友・正岡子規と共に東京帝国大学の入学を目指し「大学予備門」に通う若き日の秋山真之が描かれています。
 高揚感に溢れた明治時代初期、立身出世を目指し、仲間と共に学問に励む彼の心は未来への希望に溢れていたのではないでしょうか。

 時は2023年。大学が誰にでも開かれるようになった時代。本来学問の最高学府である大学は「就職予備門」となっています。
 時代の煽りを受けた大学はキャリア教育を重視し、学生の就職支援に力を入れていますが、特にコロナ禍で大学時代を過ごした大学生は、就職活動に大きな困難を抱えているようです。

 今の就職活動では、「ガクチカ = 学生時代に力を入れたこと」が重視されるそう。社会が急速に変化する中、世界と戦うために企業もより良い人材を採用したい。だからこそ学力や偏差値だけではなく、自分が主体的に活動したことを重視するのかも知れません。

 記事の中で、中堅私立大学で勤務する女性准教授は

「私は学生相談の業務を担当しているのですが、『今さらガクチカを求められても、家でオンライン授業を受けていただけなので何もありません』とか、『3年生からでも、ボランティア活動したり、サークルに入ったりした方がよいのでしょうか』と真剣な表情で相談してくる学生が後を絶たない。『自分の学生生活には力を入れたものがない』とコンプレックスを感じている学生も多く、企業が『ガクチカ』を求める風潮が、就活生に大きなストレスを与えていることを実感します」

と述べ、“Fラン大学”と呼ばれる大学に勤務する男性教授によれば

「MARCH(明治・青学・立教・中央・法政)以上の学生であれば、あまり気にする必要はないのかもしれませんが、私の勤務先のような大学の場合、学生たちは『ESでほとんど落とされる』と嘆いています。どんなに学生時代にアルバイトや学外活動で頑張ったとしても、その『ガクチカ』をアピールする機会が圧倒的に少ない。『1年の頃からガクチカ作りのために頑張ってきたのに、結局学歴がすべて』となってしまい、そんな先輩たちの現実を目の当たりにした在学生たちは、やる気を失ってしまう。」

とFラン学生ならではの「ガクチカ」に関する悩みがあると話しています。

 今学生が抱えている問題の根源は日本教育の「歪」にあると個人的には思っています。本来的に自分自身のキャリアは自分の興味・関心と共にあるはず。自分が楽しいと思うこと、やりたいと思うことを理解することが、自分の豊かな未来を作っていきます。
 一方、日本の学校教育はある一定の価値観が重要視し、その他の要素を受け入れる土壌がない。彼らはその価値基準にどう自分を合わせていくのかを常に考えなくてはいけません。
 そのような過程を通った人々は徐々に「主体性」を失います。学歴という社会的な価値基準の中に飲み込まれてしまえば、当然「学歴」を持たないと、当然就職できない。
 結局、自分ではなく誰かに求められる像に合わせることが大切になってきます。しかし、その像に合わせることなど本当はできません。なぜなら一人ひとりは違う人間であり、その価値観に合わないことも当然あるし、「学歴」以外にも自分の能力はたくさんあるのだから。    
 就職活動も結局は、「企業が求める人物像」に合わせることを求められます。「ガクチカ」にしても、本来ならば、それは「企業が求めるから」するものではなく、自分がしたいからするもの。
 ですが、その「したい」という気持ちを抑制され続けた学生が、大学になっていきなりそうしろと言われても苦しい。そして結局、「学歴」で採用する企業の「価値基準」によって、自分の現状や将来が否定されるという理不尽を味わってしまうのです。

秋山真之は、子規の文学的熱狂を目の当たりにし、

「俺には大学でやりたいことがない」

と気づき、大学予備門を辞し海軍に入りました。

 大学を含めた日本の学校が、社会の従属システムとして機能していては、現在の状況を打破することは難しい。社会が求める多様性のない価値観の中に学校教育があるのではなく児童・生徒の「やりたい」を支える学校教育があるからこそ社会が多様になるのです。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?