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TVアニメ『回復術士のやり直し』が提示する凌辱のアイロニー:暴虐の彼方に広がる普遍性を求めて

はじめに

 もしサドが十八世紀に生れなかったならば――つまり信仰がもっとも俗的なものに覆われ、無力な形式と堕した時代に生れなかったならば、サドは基督者であったかもしれぬ。なぜならば後年、彼が探求したものの一つは肉慾と悪を通しての永遠だったからである。サドの魂はたえず、しびれるような魂の陶酔と、この陶酔が永遠にいわゆる神への没入の中に続くことをねがっていた。もし永遠と陶酔が基督教の中に発見されていたならば、彼は烈しい信仰者となったかもしれぬ。
(遠藤周作「サド伝」『遠藤周作文学全集 第十一巻 評伝Ⅱ』新潮社、2000年、12頁)

 「問題作が宣戦布告!? 最強ヒーラーの復讐譚が禁断のTVアニメ化!」
 2021年3月に放送が終了したTVアニメ『回復術士のやり直し』の公式ツイッターアカウントはこのように喧伝していた。本作は「復讐」と称した露悪的な暴力・凌辱描写を前面に打ち出した作品となっており、地上波放送の限界を試すことを「禁断」と呼ぶのであれば、確かにある種の「問題作」ではあった。
 本作は、四人構成の勇者一行(パーティ)が魔王を討伐する冒険の旅に出るRPGの世界観を下敷きにしている。パーティは近接攻撃を担う前衛、遠距離からの援護を行う後衛、傷ついた仲間を治癒する回復役から構成されるのが通例だが、本作のタイトルにもなっている「回復術士」とはこの回復役(ヒーラー)に当たる。
 本作の主人公である【癒】の勇者・ケヤルは、魔王を討伐する旅の過程で、癒すしか能がなく、戦闘において何の役にも立たない存在として他の勇者たち(【術】の勇者・フレア【剣】の勇者・ブレイド【砲】の勇者・ブレット)から蔑まれ、奴隷のように虐待され、嫐りものにされるという地獄のような日々を送っていた。ケヤルの回復魔術(ヒール)は、対象が生きていさえすれば、四肢の再生から病毒の除去に至るまでありとあらゆる治癒が可能な優れものだが、ある重大な欠点を抱えていた。この魔術は発動の代償として、治癒を受ける相手の感覚・記憶・感情を術者に追体験させるのである。ケヤルはヒールを使うたびに想像を絶する苦痛と恐怖を味わうことになるため、ヒールの使用を躊躇し、幾度となく戦場から逃げ出しては連れ戻された。ケヤルは他の勇者たちの手で薬漬けにされて自我を失い、ヒールを使う人形として利用され続けたが、ある日、薬物耐性を獲得して正気を取り戻すことになる。ケヤルは魔王討伐の果てに、「賢者の石」と呼ばれる魔王の心臓を触媒として世界を四年前からやり直し、勇者としての才を見出される以前の自分に戻って、二度目の人生に挑む。それは一度目の人生で自分を散々いたぶった者たちへの復讐の旅程であった。
 サブカルチャージャーナリスト・編集者の飯田一史は、Yahoo! JAPANニュースに掲載された記事(2021年2月26日公開)の中で、本作を評して「大薮春彦・西村寿行的ハードロマン・リバイバル」と言い、ケヤルを「アンチヒーロー」として扱っている。また、性差別やミソジニーに満ちた70~80年代娯楽小説の問題点が解消されないまま、当世風にアレンジされて売れていることに対して、懸念を表明している。

 かかる批評のように、過激な暴力・凌辱描写に対して懸念を表明するのは常識的な振る舞いではあるだろう。本作を単なる悪趣味で低俗な娯楽作品として退けるのはたやすい。しかし、本作が提示する暴虐の彼方に何があるのか考えてみると、そこにはむしろ健全な観念がアイロニックな形で控えていると言わなければならない。本稿は、まずジャンル整理も兼ねて、いくつかの隣接作品と比較しながら本作の特質を明らかにした上で、サディズムと普遍性との切っても切れぬ関係について論じるものである。それは、この手の作品が性差別や性暴力を肯定するものだという平板な理解の行く末を垣間見させることにもなるだろう。

暴力・凌辱描写への注力と加虐の亢進

 作家・文芸評論家の大橋崇行は、現代ビジネスに掲載された記事(2021年2月21日公開)の中で、「なろう系」小説のトレンドが「追放冒険者もの」に移行してきたことを指摘している。

 本作の主人公・ケヤルが他の勇者たちから無能扱いされているのも、大橋の言うように「本当は実力を持っているのにパーティーの仲間たちから才能がないと見限られて一度は追放された主人公が……真の力を発揮して活躍する」というトレンドを反映しているからだ、と見ることもできそうだが、これは表面的な分析に過ぎない。
 確かに、本作は『魔法科高校の劣等生』(2014年4月期・7月期、第2期は2020年10月期)や『落第騎士の英雄譚』(2015年10月期)のような「既存の基準で測れないだけで実は最強」という作品群よりは、『盾の勇者の成り上がり』(2019年1月期・4月期)や『ありふれた職業で世界最強』(2019年7月期)、そして『八男って、それはないでしょう!』(2020年4月期)のような「ハンデを背負った立場で最強へのし上がる」という作品群に近い。しかし、『回復術士のやり直し』は主人公の刻苦勉励、臥薪嘗胆、立身出世の過程に重点を置いてはおらず、「復讐」と称した容赦なき暴力行使を露悪的に描くことに注力している点で(アニメ化された作品の中では)独特である。しかも、「賢者の石」で世界が一度リセットされているだけに、「復讐」はしばしば当事者にとって身に覚えのない「不意討ち」の恰好を取らざるを得なくなっており、ますます「復讐」の正当性は後景に退いていく。
 かかる主人公の攻撃性を緩和し、「復讐」の正当性を印象づけるためか、本作では「復讐」対象の異常性を強調するエピソードがたびたび挿入される。一度目の世界において、【術】の勇者・フレア(王国の第一王女)は薬物を自身の秘所に塗りたくり、ケヤルを「バター犬」よろしく使っていた。そして、いざケヤルが屹立の生理的反応を示すやいなや、逆上してCBT(Cock and Ball Torture)に及んでいた。フレアに執着する【剣】の勇者・ブレイド(サディストのレズビアン)は、フレアの秘裂を舐めたケヤルの舌を吸っては、「フレア様と一つになるためとはいえ、男と口づけを……」と言って嘔吐し、激昂してケヤルに何度も打擲を加えていた。【砲】の勇者・ブレット(少年性愛の聖職者)はケヤルを毎晩のように犯しては殴打し、若く美しいまま死んでくれと懇願する始末であった。ブレットの所業を見ていると、「死んでくれ杏寿郎/若く強いまま」(『鬼滅の刃』第8巻第63話)と望み、「絶対女を喰わなかった」(『鬼滅の刃』第18巻第157話)という上弦の参・猗窩座に対する見方が一変してしまいそうですらある。ともあれ、いかにも誇張されて描かれた通俗的な異常性のおかげで、暴力行使への誘惑が密かに忍び寄ってくるという事態は、よほど鈍感な視聴者でない限り生じ得ない。だからこそ、あからさまな凌辱シーンを含んだ作品が性差別や性暴力を肯定するものだという平板な理解は、後述するように深刻な問題を孕むことになる。
 ケヤルは二度目の人生において、かつて恥辱を与えられた連中への「復讐」を成すため、時に慎重に、時に大胆に事を運んでいく。ここで重要になるのが、ケヤルはヒールの最中、魔力のパスで相手と接続状態であるため、相手の記憶や経験を奪ったり改竄したりすることが可能という設定だ。ケヤルは《回復》から派生した《略奪》・《改良》・《改悪》などの各種ヒールを駆使して経験値を集め、「復讐」のために成長を重ねていくことになる。この点で本作は「ハンデを背負った立場で最強へのし上がる」パターンに当てはまってはいるのだが、以下に示すように、ヒール(による無双)は暴力・凌辱描写を引き立たせるための添え物という性格が強く、本作の特質はやはり加虐の亢進に求められると言うべきである。
 当然といえば当然だが、世界を四年前からやり直し、勇者として覚醒する以前の自分に戻ったケヤルは、平凡な村の少年に過ぎない脆弱な段階へと退行していた。「復讐」を完遂するためには、経験値を集めて強くなる必要がある。だからケヤルは、フレアからの薬物調教を見越して麻薬効果のある野草を繰り返し服用した上で、二度目の人生でも敢えて薬漬けにされる道を選ぶほかなかった。再び自我を失い、地下牢に閉じ込められたケヤルは、昼はヒールを使う人形として酷使され、夜は男女問わず犯され続ける日々を送ることになる。なぜなら、勇者の体液は身体能力を強化する効能を持つからであり、そのためであれば鶏姦すら厭わぬ者がいる様子も描かれる。半年後、《略奪》のヒールの効能によって経験値がたまり、一度目の人生よりも早く正気を取り戻したケヤルは、いよいよ「復讐」の挙に出る。
 ケヤルはまずフレアの部屋に侵入し、《略奪》と《改悪》のヒールで王女を無力化した後、彼女の指を一本ずつへし折っては《回復》のヒールで元に戻す拷問を行う。そして、王女を打ち据え、凌辱した後、彼女の顔と記憶を《改良》のヒールで変えて、自身の従者とする。フレアへの「復讐」を遂げたケヤルは王都から脱出し、道中で奴隷商から氷狼族の少女・セツナを買い、彼女の「復讐」に手を貸すことになる。ケヤルは自身の体液を注ぎ込んでセツナを強化することで、氷狼族の村を襲った王国軍への「復讐」を果たす力を授け、彼女の身も心も自身に隷属させる。続いて、ケヤルは自身の生まれ故郷で人間狩りを行い、育ての親を公然と強姦した近衛騎士隊長レナードを少女の姿に《改良》し、男たちに犯させながら絶命させる。そして、自身を女性の容姿に《改良》して【剣】の勇者・ブレイドをおびきよせ、毒で弱体化させた上で、食欲と性欲どちらが勝るかというゲームを仕掛ける。ケヤルはブレイドに対して、猛烈な飢餓感を植え付けて怪物化した男たちへの性的奉仕を強要する。心が折れたブレイドは毛嫌いする男たちに犯されながら死を迎えるのだった。
 本作には上記のほかにも陰惨な暴力・凌辱描写はいくつもあるが、もう本作の特質は十分に伝わっただろうから、これ以上の贅言は不要としよう。本稿で掘り下げたいのは、本作が前述のような暴力・凌辱描写を重ねることによって、視聴者に何を想起させているのかということである。次節からは、加虐の亢進の裡にあるものを解き明かす手がかりとして、二つの小説を取り上げる。一つはジョリス=カルル・ユイスマンス『さかしま』(1884年)、もう一つはミシェル・ウエルベック『服従』(2015年)である。

サディズムの根幹をなすもの

 ユイスマンスの『さかしま』(À rebours)は、ジャン・デ・ゼッサント(Jean des Esseintes)という貧血症で神経質な貴族の末裔が、放蕩を経て田舎に引きこもり、非社交的で頽廃的な生活を送る様子とその末路を衒学的な筆致で克明に描く小説である。デ・ゼッサントは頽廃派の理想的イメージとされることが多いキャラクターであるが、彼の思考・行動様式がサディズムと普遍性との密接な関係について貴重な洞察を提供していることは見逃されがちだ。『さかしま』を「デカダンスの聖書」として持ち上げるだけでは、この小説の核心に触れているとは言い難い。
 例えば、デ・ゼッサントが愛好する芸術作品の一つとして、作中ではオランダの彫版家ヤン・ロイケンの銅版画集が挙げられている。そして重要なことに、デ・ゼッサントを昂奮させるのは、ロイケンの作品の残虐さに加えて、それを生み出した本人が熱烈なカルヴィニストであったという事実なのである。

 彼はこの幻想的で陰惨で、熱烈で残忍な芸術家〔注:ヤン・ロイケン〕の、『宗教的迫害』と題された一連の銅版画集を所持していた。宗教的狂気が考案したあらゆる拷問を描いた、この怖るべき版画集には、炭火の上でこんがり焼かれる肉体やら、剣で頭の皮を剝がされ、釘で孔をあけられ、鋸で切りこまざかれる頭蓋骨やら、腹から繰り出され巻框(まきわく)に巻きつけられた臓腑やら、やっとこでじわじわと剝がされる爪やら、くり抜かれた眼玉やら、鑿で裏返された眼瞼やら、丹念に折らればらばらにされた手脚やら、永いこと剃刀で肉を削られて露出した骨やら、およそ人間の苦痛の光景のすべてが描きつくされていた。
 この忌わしい想像力にみちた、恐怖と呪いの叫びでいっぱいな、焦げ臭い匂のする血みどろの作品群は、デ・ゼッサントをぞっとさせ、赤い書斎のなかで彼を息づまるような感動に誘い込んだ。
(J・K・ユイスマンス(澁澤龍彦訳)『さかしま』河出文庫、2002年、87、90頁)

ロイケンの生涯も、彼にとってはさらに魅力であった。またそれこそ、その作品の幻惑を解く鍵でもあった。熱烈なカルヴィニストであり、聖歌と祈りに身を捧げた狷介固陋なキリスト教徒である彼は、みずから宗教詩をつくってその挿絵を描き、讃美歌の文句を詩に直し、聖書の繙読に没頭した挙句の果てに、血なまぐさい主題に憑かれた頭と、宗教改革への憎悪、また恐怖と怒りの歌によって歪められた唇をもつ、熱狂的な、狂暴な芸術家として誕生したのである。(同書90-91頁)

 デ・ゼッサントは少年期をイエズス会の学校で過ごしたという設定になっており、そんな彼がカルヴィニストの芸術家に惹かれるというのは興味深い。何となれば、宗教改革勢力が「聖書のみ」(sola scriptura)を掲げてカトリックの伝統と権威に反旗を翻したことを踏まえれば、カルヴィニズムへの関心はカトリックからの逸脱やカトリックの否定に繋がるからである。
 デ・ゼッサントはカトリックの信仰に背を向けて、趣味に邁進する隠遁生活を送ろうとするが、次第に神経症が悪化して、通常の生活にすら支障をきたすようになるばかりか、カトリックの引力に苛まれるようになっていく。

 たしかに、自分の考えを一言で言ってしまえば、あくまで彼は宗教というものを一種の見事な伝説、一種の堂々たる詐欺と見なしていた。にもかかわらず、すべての理解を裏切って、彼の懐疑主義は動揺しはじめていた。
明らかに奇妙な事実が存在していた。すなわち、彼は少年時代におけるほど現在において心の安らぎがないのである。少年時代には、身辺にイエズス会修道士たちの気遣いがあり、彼らの教訓は不可避であり、彼は家庭の絆もなく、彼らに対して外部から反抗し得る力もなく、身も魂も彼らに属し、彼らの掌中にあったのだ。また、彼らはある種の超自然(merveilleux)への嗜好を彼に教え込んだ。それは彼の魂の内部で、ゆっくりとひそかに枝を分かち、現在、孤独のさなかで花をひらき、固定観念の狭い運動場をさまよい歩く、黙しがちな、閉じこめられた精神に、是が非でも働きかけようとするのであった。
 己れの思考作用をしらべ、思考の糸を結び直し、その起源と動機をあばき出してみると、彼には、世俗的快楽を追い求めていた頃の自分の行動も、それ以前に受けた教育の成果ではなかったかと思いなされてくるのであった。たとえば、人工的なものへの好みも、風変りなものへの欲求も、それらはすべて要するに、美しい外観をもった学問、この世のものならぬ洗錬、準神学的な思弁の結果ではなかったろうか。ありていに言って、それは理想への、未知なる宇宙への、また聖書がわれわれに約束する至福とひとしく望ましい、はるかな至福への飛躍であり、熱狂であったのだ。
(同書114-115頁。フランス語原文も参照し、適宜原語を補った)

 かかる逡巡を経て、デ・ゼッサントは瀆聖(sacrilège)という観念に到達する。ここでは冒瀆するためには聖なるものや普遍性を信じなければならないという逆説が立ち上がる。すなわち、サディズムは「カトリシズムの私生児」(bâtard du catholicisme)なのである。この定式は重要なので、少し長くなるが引用しておこう。

全能の神に対して、今や、その競争相手たる力づよい悪魔が立ちはだかっていた。怖ろしい歓喜とサディスティックな悦楽のうちに、聖なる物を冒瀆し、凌辱し、これに不潔なものを浴びせかけるという欲望に夢中になった一信者が、教会のなかで犯した罪悪からは、ある物恐ろしい偉大さが生ずるにちがいない、と彼には思われた。(同書118頁)

 このまことに奇妙な、まことに定義しにくいサディズムなる状態は、実際、無信仰者(mécréant)の魂においては起り得ない状態である。それは単に血なまぐさい暴力によって欲望を掻き立てて、肉の放蕩三昧にふけるだけでは成立し得ないのである。なぜかと言うに、そうした場合はただ生殖の感覚が錯乱するだけであって、それは一種の極端な老熟に達した淫乱症(satyriasis)の症例にすぎないからだ。そうではなくて、サディズムは何よりもまず、瀆聖の実行、道徳的叛逆、精神的放蕩、完全に観念的でキリスト教的な錯乱の裡にこそ存するのである。それはまた、恐怖によって鎮められた歓喜、両親が触れてはいけないと言って禁ずれば禁ずるほど、いよいよ禁じられたもので遊んでみたくなる、あのわがままな子供の邪悪な満足感に似た、一種の歓喜の裡に存するのである。
 たしかに、もし瀆聖ということがその中に含まれていなければ、サディズムは存在理由を失うであろう。一方、瀆聖は宗教の存在そのものから生じるので、信仰者にして始めて瀆聖は故意に、かつ妥当に実行され得る。自分に無関係な信仰や、自分の知らない信仰を瀆したところで、どんな歓びも感じる理由はないだろうからである。
 したがって、サディズムの力、およびサディズムがあらわす魅力は、ひとが神に対して捧げるべき敬信の念や祈りを魔王(Satan)に引き渡すという、禁断の享楽の裡にすべて存する。したがってまた、それはカトリック教会の掟の違反であり、キリストを最も手ひどく嘲弄するために、キリストが最も憎んだ罪、すなわち礼拝の冒瀆や肉の饗宴を実行することによって、カトリックの戒律をまさに逆転させる(à rebours)ことでもあるのである。(同書220-221頁、強調は筆者による。フランス語原文も参照し、適宜原語を補った)

 サディズムの根幹をなすのは、聖なるものや普遍性を汚すという瀆聖の観念である。『さかしま』において、汚される普遍性にはキリスト自身や教会法が代入されているが、現代的にはここに人権や倫理を当てはめてもよいだろう。例えば、法学者のミュリエル・ファブル=マニャンは、2005年のヨーロッパ人権裁判所の判決を批判して、「サディズムは人権の一種ではない」(Le sadisme n’est pas un droit de l’homme)というタイトルの評釈を発表している。当該判決は、常軌を逸したSMプレイの参加者を処罰したベルギーの刑事手続が、「私生活と家庭生活を尊重する権利」の不可侵を謳うヨーロッパ人権条約第8条に違反するのか否かが争点となったものであり、結論としてはベルギーで言い渡された有罪判決を支持しつつ、原則として公権力/刑法は個人の性的行為の領域に干渉してはならないとの一般論を判示したため、物議を醸した。ファブル=マニャンは評釈のなかで次のように述べている。

 そのたぐいのサドマゾ行為は人間人格の尊厳(la dignité de la personne humaine)に関することであった。なぜなら、人間人格の尊厳は人間性(humanité)が侵害を受けるたびに問題となるからだ。……人間人格の尊厳という概念が登場したのは、もはや個人、その自由、その私生活、そしてその自律に焦点を当てた伝統的な人権では、明確に不十分な状態となっていたからである。……尊厳の原理は人類の一体性(unité)を表明するものである。個々人を貫いて、侵害を受けるおそれがあるのは人間性であり、ということは全ての他人なのだ。そうだ、尊厳の原理が登場したのは、個人の意思を超越する何かがあるという証左である。
(Muriel Fabre-Magnan, « Le sadisme n’est pas un droit de l’homme », Recueil Dalloz, 2005, pp. 2978-2979)

 この一節からは、現代ヨーロッパにおいても、サディズムが「人間人格の尊厳」という普遍的な概念に対する挑戦として捉えられていることが分かる。ただし、挑戦といっても、『さかしま』でサディズムが「カトリシズムの私生児」と定式化されていたように、普遍性を前提として普遍性を傷つけるという両義性がここには見て取れる。
 また、『さかしま』はサディズムと普遍性の密接な関係のみならず、普遍性の喪失という問題にも言及している。デ・ゼッサント曰く、普遍性を担っていたはずのカトリシズムは司祭たちの手によって自壊してしまったという。

カトリシズムを損わせてしまったのは、生理学者でもなければ不信心家(incrédules)でもない、司祭たち自身なのだ。司祭たち自身が粗忽な所業によって、揺るぎなき信仰の固さをぐらつかせてしまったのだ。
(『さかしま』、299頁。フランス語原文も参照し、適宜原語を補った)

 しかし、人間は普遍性や超越性を求めてやまないものである。それでは、カトリシズムの自壊によって空いた穴を埋めるものは何なのだろうか。この点に関する思考実験を行った近年の話題作こそ、ウエルベックの『服従』(Soumission)である。節を改めて、『服従』についても分析していこう。

普遍性への渇望と服従

 ウエルベックの『服従』は、イスラーム政権が成立した近未来のフランスを描き、センセーショナルに話題を集めた小説である(なんと刊行当日にシャルリィ・エブド襲撃事件が起こったことで有名)。作中では2022年のフランス大統領選の決選投票に、極右政党・国民戦線(Front national; FN)のマリーヌ・ル・ペンとイスラーム同胞党(Fraternité musulmane)のモアメド・ベン・アッベスが進む。一次投票で敗れた保守・左派勢力は、極右よりはイスラーム勢力のほうがマシと考え、後者への投票を呼びかける。そして、投票所への同時多発テロなどの妨害に見舞われつつも、結局ベン・アッベスが大統領選で勝利を収める。
 本作の主人公・フランソワは前述のユイスマンスを専門とする大学教員であるが、イスラーム政権の成立によって大学を解雇されてしまう。フランソワは当初、年金生活者となる道を選ぶが、新学長のルディジェ(イスラームに改宗済み)から説得を受け、最終的にイスラームへの「服従」、すなわち改宗を受け入れて、パリ=ソルボンヌ・イスラーム大学に復職するに至る。
 本作において、フランソワがユイスマンス研究で博士号を取得したという設定になっていることと、彼のイスラームへの「服従」によって物語が幕を閉じることには、実は密接な関係がある。この点を2018年7月のある研究会報告で指摘したのが、文学研究者の長谷川晴生であった。当時のレジュメから引用すると、「『服従』の全体的な構図としては、かつてカトリックが担っていたものをイスラームが代替する、というものが見え隠れ」しており、「無神論者である主人公自身、ユイスマンスを通じてカトリック的なものに惹かれている様子がうかがえる。総じて、カトリックへの改宗者であるユイスマンスとイスラームへの改宗者となる主人公とを平行的に描いている」。この報告の最大の力点は、EUとは別の統合のあり方、すなわちローマ帝国的秩序の再建がイスラーム勢力に期待されているということに置かれていたが、前節で述べたカトリシズムの自壊を踏まえたとき、少々異なる解釈をすることも可能であるように思われる。思うに、『服従』という小説は、失われた普遍性や超越性をヨーロッパに取り戻す役割を担うのはイスラームである、という思考実験なのではないだろうか。
 『服従』のなかにも、『さかしま』がカトリシズムの自壊に言及したのと同様に、聖なるものや普遍性をキリスト教(特にカトリック教会)が担えなくなっているという現状認識が見て取れる。新学長のルディジェは自身の改宗のきっかけを次のように語っている。

 ファシズムはわたしの目には、死んだ国家に再び生命を与えようとする、幽霊または悪夢のような偽りの試みと映っていました。キリスト教がなければ、ヨーロッパの諸国家は魂のない抜け殻に過ぎないでしょう。ゾンビです。しかし、問題は、キリスト教は生き返ることができるのか、ということです。わたしはそれを信じました。何年かの間は。それから、疑いが強くなり、次第にトインビーの思想に影響されるようになっていきました。つまり、文明は暗殺されるのではなく、自殺するのだ、という思想です。
(ミシェル・ウエルベック(大塚桃訳)『服従』河出文庫、2017年、266-267頁)

 イスラームへの改宗に揺れるフランソワも、次のように独白している。この箇所では確かに秩序の再建という要素が前面に打ち出されているが、最終的に神が持ち出されることからして、普遍性の問題に踏み込んでいるとも言えるだろう。

〔注:ルディジェ〕は、トロツキーはスターリンに比べれば正しかったと強調していた。というのも、共産主義は、世界中に広まらなければ勝利したとは言えないからだ。同じ法則はイスラームにも当てはまると彼は主張する。実際、イスラームは普遍的でなければ意味がないだろう。
(同書287頁)

 カトリックの教会は、進歩主義者たちに媚び、おべっかを使い甘やかすことで、恥ずべきことに、頽廃的な社会の傾向に対抗不可能になり、同性愛者の結婚や、妊娠中絶や女性の就労の権利をきっぱりとそして厳格に否定できなくなったのだ。はっきりとさせておかなければならない。吐き気を催すような解体がここまで進んでしまった西欧の社会は、自分で自分を救う状態にはもうないのだ。古代ローマが五世紀に自らを救えなかったのと同じだ。移民人口が大量に増え、それらの移民がまだ自然のヒエラルキー、女性の服従や先祖崇拝の色濃い伝統的な文化の影響を受けていることは、ヨーロッパの道徳及び家族をリセットする歴史的なチャンスであり、この旧大陸に新しい黄金期をもたらす機運なのだ。これらの移民は時にはキリスト教徒であったが、その多くがイスラーム教徒であったことは認めなければならないだろう。
 ルディジェは、中世キリスト教が偉大な文明であって、その芸術的な達成は人類の記憶に永遠に生き続けるだろうと認めていた。しかし、少しずつ、それは領土を失ってしまい、理性主義と共に生きることを強いられ、地上の権力に従わざるを得なくなり、そうして次第に自らを死に追いやったのだが、それはどうしてなのだろう。それは謎に包まれていた。神がそのように決定したのだ。(同書289-290頁)

 そして、次のルディジェとフランソワの会話からは、普遍性なき無神論者として生きることの困難が窺われる。少なからぬ人間はどうしても普遍性や超越性を求めてしまうのだ。

「それから、わたしは、あなたがまったくの無神論者だとも思いません。実際、真の無神論者は稀ですから」
「そうでしょうか。ぼくは反対に、無神論は西欧には至るところに広まっていると思いますが」
「わたしに言わせれば、それはうわべだけのことです。わたしが出会った真の無神論者たちは、反逆の徒です。彼らは冷酷に神の不在を確認するには飽きたらず、その存在をバクーニン流に拒否しているのです。『もし神が存在しているのだとすれば、追い払わなければならない』というように。もちろんそれはキリーロフ流の無神論で、彼らが神を拒否したのは、人間をその代わりに据えようとしたからであり、彼らは人間中心主義、人間の自由や尊厳に高邁な思想を抱いていたのです。わたしが思うに、あなたはそのケースに含まれることはありませんね」(同書261-262頁)

 以上、蛇行しながらも『さかしま』から『服従』へと分析を進めたことで、元来サディズムと普遍性が表裏一体であること、現代ヨーロッパにおいて宗教的な普遍性が失われていること、しかし人間は程度の差こそあれ普遍性を求めてやまないことが明らかになった。とはいえ、普遍性を宗教だけに限定して考える必要もなく、ファブル=マニャンが生真面目に述べていたように、人権(または尊厳)や倫理を普遍性として扱うことは十分ありうる。そして、西欧の法秩序及び法思想を継受したことになっている本邦においても、後者の普遍性を観念することは可能と言うべきであろう。
 そろそろ話をまとめよう。サディズムの悦楽が普遍性を冒瀆することに起因する以上、徹底的な蹂躙のためには、基準・尺度となる根本的な規範を内面化していなければならない。矩なき踰越はありえないということだ。したがって、暴力・凌辱描写に満ちた『回復術士のやり直し』も、一見単なる悪趣味なポルノグラフィにとどまっているように見えて、その実、かえってその裡に人権(または尊厳)や倫理を透視させる作品であったと評価すべきではないだろうか。人形浄瑠璃文楽やギリシャ悲劇の凄惨な演目に没入して哀泣し、幕が下りて現実に引き戻された者が最悪の結末に至らぬためのifを模索し始めるように、『回復術士のやり直し』における加虐の亢進は性差別や性暴力を肯定するどころか、翻って性差別や性暴力を断じて許さぬための現実の戦いへと我々を押し戻していく。かかる凌辱のアイロニーこそ、本作が視聴者を惹き付ける最大の魅力なのだ。

おわりに

 かつて、アリスソフトの『超昂天使エスカレイヤー』(2002年)のキャラクターをアイコンにしている人が「性的搾取はよくない」旨の発信をしたことに対して、「女性を暴力的に陵辱するエロゲをアイコンにしながら女性差別うんたらかんたら叫ぶ下衆です」とか、エロゲ愛好家がセクシズム糾弾の先頭に立つのは「ブーメラン」である、などと声高に主張していた手合がいた。その手合のうち、ある著述家は実際に知人女性への性的暴行(強制わいせつ未遂)で書類送検され、ある大学教員は在日コリアン女性に対するセクハラ・レイシズム的発言で謝罪に追い込まれたばかりか、教え子をホテルに連れ込んだことや酒の席で女性の胸部へのボディタッチに及んだことを暴露されるに至った。これらの事件は、凌辱のアイロニーを理解できない者が実際に性犯罪の陥穽に落ちた事例として、非常に示唆に富んでいる。つまり、かかる手合は現実において人権や倫理といった普遍的な概念を軽視しているからこそ、そことの相対距離でしか測れない凌辱ゲームを性差別や性暴力を肯定するものだと平板に理解してしまうのではないだろうか。彼らは自己認識としては言行一致を求めているつもりなのかもしれない。しかし、上述の顛末を見るにつけても、凌辱のアイロニーを理解できないほうが実害は大きいのであった。
 最後に、ケヤルとフレアを熱演した保住有哉渋谷彩乃の二人(いずれも賢プロダクション所属の若手声優)には、特に最大限の賛辞を贈りたい。ケヤルの呻き声と高笑い、フレアの絶叫と嬌声はダイレクトに劣情を催させ、生理的反応を引き起こす。もはや、これは声の暴力である。そんな声の暴力に前後不覚とならぬよう、画面の前に凝り固まって、薄ら笑みを浮かべながらも、欲望に抗い続けるという濃密な時間を過ごせたのは刺激的な視聴体験であった。また、第10話と第11話で「ケアーラ」(ケヤルが女装した姿)を演じた日笠陽子も貫禄の悪役(?)っぷりであったが、「いかにも感」が出なかったのは、作品の懐の深さに救われたか。松岡禎丞と並んで「追いかけきれない」声優となっている日笠陽子が、他の声優と対等に同居できる枠組みは昨今珍しいので、その点でも独自性を強く感じる視聴体験でもあった。本作は、凌辱のアイロニーの入門編として語り継がれるべきアニメであろう。

参考文献(2022年1月12日追記)

『遠藤周作文学全集 第十一巻 評伝II』新潮社、2000年(「サド伝」を収録)。

ミシェル・ウエルベック(大塚桃訳)『服従』河出文庫、2017年。

J・K・ユイスマンス(澁澤龍彦訳)『さかしま』河出文庫、2002年。

Muriel Fabre-Magnan, « Le sadisme n’est pas un droit de l’homme », Recueil Dalloz, 2005, pp. 2973-2981.

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