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名作/迷作アニメを虚心坦懐に見る 第5回:『超時空要塞マクロス』

はじめに

 歌・可変戦闘機・三角関係――この三要素は、2022年に40周年を迎えたマクロスシリーズの「お約束」とみなされている。シリーズ第一作にあたる『超時空要塞マクロス』(1982~1983年、以下『マクロス』と略記)は、「お約束」の成立に先鞭をつけた色々な意味で伝説的な作品である。「色々な意味で」と含みを持たせたのは、『マクロス』がシナリオ・作画の両面において、諸手を挙げて褒められるような作品ではないからだ(そもそも諸手を挙げて褒められる作品などない、という指摘はさておき)。
 アニメスタイル編集長の小黒祐一郎はコラム「アニメ様365日」において、『マクロス』は「立派なところはこの上なく立派だが、ダメなところは徹底してダメな作品」、「よくも悪くも、ムチャクチャなアニメ」だったと述懐している。

 模型文化ライターのあさのまさひこも、アニメーション・特撮研究家の五十嵐浩司との共著のなかで、「昨今のアニメファンがSNSなどですぐに騒ぎ出す作画崩壊とマクロスの作画崩壊ではそのレベルが雲泥の差であり、マクロスのそれには思わず唖然となった人が多数存在した」と書いている(あさのまさひこ/五十嵐浩司『’80sリアルロボットプラスチックモデル回顧録』竹書房、2022年、130頁)。
 こうした評価はアニメファンの側のみならず、制作スタッフの側でも見受けられるところであって、『マクロス』でメカニックデザインを担当した宮武一貴も、「バカ話をそのまま作ったら『マクロス』になった」、「TVシリーズから劇場版も含めて、『これがプロの作るものか』という恥ずかしい気持ちを抱いてしまうことに、変わりはありません」と証言している(『グレートメカニックG 2018 AUTUMN』双葉社、2018年、35頁)。
 宮武のインタビューが掲載された『グレートメカニックG 2018 AUTUMN』は『マクロス』を特集しているが、この特集は「当時を知る我々」の目線で編まれており(同書29頁)、懐旧の念も相俟って「バカな子ほど可愛い」といった評価に甘んじているきらいがある。いわゆる「思い出補正」を排して虚心坦懐に見ることで、『マクロス』の「立派なところ」と「ダメなところ」を改めて整理してみるのもまた一興だろう。以下では、冒頭で紹介した「お約束」、すなわち歌・可変戦闘機・三角関係という三つの観点に則して『マクロス』に対する所感を述べることにする。

歌:カルチャーショックとはいうけれど

 『マクロス』は一言で言えば、文化を知らない異星人との交戦をアイドル歌手の歌によって終局へ導くという荒唐無稽な作品である。アニメ評論家の藤津亮太は著書『アニメと戦争』(日本評論社、2021年)のなかで、「戦争に一定の距離感をもって接する、ポスト戦後的な感性」が『マクロス』の底流に流れていると指摘している(『アニメと戦争』、155頁)。藤津は1980年代という時代を、『機動戦士ガンダム』(1979~1980年)が用意した「誰も傷つかない『戦争ごっこ』のための箱庭」(同書119頁)がサブカルチャー化を深めていく過程と見ている(同書126-127頁。もちろん藤津は批評的な視点を盛り込んだ例外的な作品にも言及しているが、本稿では割愛する)。戦争のサブカルチャー化の進展は、「消費社会を前提としたライフスタイルと、あらゆるものを『等価』に見る価値相対主義の視線に支えられている」(同書140頁)。藤津は『マクロス』について、次のように整理している。

 『マクロス』は「メカ」と「美少女」を組み合わせた作品の嚆矢といわれている。これは「ファンの(あるいは作り手)の好きなものの組み合わせ」という説明をされることが多い。しかし大事なのは、その背景には、豊かさが前提となった消費社会の成立があり、あらゆるものを等価にみる価値相対主義の視線がある。だからこそ、それまでなら並び立つはずのない「戦争」と「ラブコメ」が同じ重さで作中に描かれることになったのだ。

(同書140頁)

 「戦争」と「ラブコメ」の並列もさることながら、「ラブコメ」の利害関係者に中華料理屋の看板娘から歌手デビューするリン・ミンメイが含まれており、ミンメイの歌が異星人ゼントラーディの戦意を喪失させる武器となるという展開自体が突拍子もなく、いま見ると苦笑を禁じえない。ゼントラーディは文化を知らず、男女が行動をともにすれば災いが起こるという迷信を墨守しているため、女性アイドル歌手の歌を聞けばカルチャーショックを受け、男女のキスシーンを見れば心理的ショックを受けて、たちまち戦意を喪失してしまう。このバカバカしさを、前掲の『マクロス』特集記事は「若さ」というキーワードで説明(さらに言えば擁護)している。

 それは、結果的に本作の中心的な役割の一角を果たすことになる河森正治氏、美樹本晴彦氏、大野木寛氏などの、当時大学生だった「慶大生グループ」の台頭と活躍だけではない。企画の中心となった「スタジオぬえ」の中心メンバーも30歳前後。若手たちが先導役となり作り上げた作品であることは重要な意味を持つ。

(『グレートメカニックG 2018 AUTUMN』、29頁)

 『マクロス』とは、若い世代が自分たちのリアリティを投影して作った物語ともいえ、80年代後半以降、実写の「トレンディドラマ」も、親の姿がほとんど描かれないこととも共通する。つまり、それこそが若者たちのリアリティであったのだ。『マクロス』は、そうした新時代の作品の先頭打者なのかもしれない。

(同書23頁)

 この特集記事は「若者たちの感覚がそのままフィルムという『文化』になる新しい感覚や、それによる『ドキドキ感』」を高く評価しているが(同書29頁)、若者文化が存在するのはいいとして、もはや若者ではなくなった人たちが若い頃の感動や感傷を後生大事に保持するのはいかがなものかと思う。そもそも、若者文化や若気の至りといった表現を使わざるをえない時点で、一過性の感動や感傷を糊塗しているとは言えないだろうか。私が『マクロス』に気恥ずかしさを覚えるのは、アイドル歌手の歌が戦場における起死回生の策になるという展開自体がバカバカしいからというよりは(むしろバカらしいことを肯定的に評価すべき場合もある)、そのバカバカしさに制作スタッフの側の軽薄さや未熟さが滲んでいるように見えるからだ。
 『マクロス』は、宇宙船「マクロス」に乗り込んだ地球人とゼントラーディとの交戦を描いたロボットアニメでもあるため、当然ながら戦闘の過程で死傷者が出る。マクロスのメインクルーも例外ではなく、第18話「パイン・サラダ」では主人公の先輩・フォッカーが、第19話「バースト・ポイント」では主人公の後輩・柿崎が立て続けに死亡する。しかし、『マクロス』に充満するおちゃらけたムードのなかで、クルーの死に悲嘆に暮れる残された者たちの描写は不調和をきたしており、ここでは藤津の言うポスト戦後的な価値相対主義の悪い側面が際立つ結果となっている。確かに、ワレラ・ロリー・コンダという名前(!)の敵方のスパイ三人がミンメイの歌の虜になったり、ゼントラーディの記録参謀エキセドルが停戦交渉の場で「私の彼はパイロット」を歌ったりする(第26話「メッセンジャー」)のはだいぶ笑える。そのことは認めざるをえないが、このような茶化しは得てして戦争に血道を上げることの愚かさを暴くというよりは、戦争反対・平和主義をムキになって唱える「サヨク」を揶揄する方向に向かいがちであることには注意を要する。反戦主義者であるカイフン(ミンメイの従兄)が「私は争いを好みません。戦いは何も生み出しません。戦いのもたらすもの、それは破壊だけです」と語り、軍人からハンカチを受け取ることを拒絶したり(第16話「カンフー・ダンディ」)、「歌が人を殺す兵器に負けてはならない!」とミンメイのコンサート続行を訴えたりするとき(第22話「ラブ・コンサート」)、そこで愚かとみなされているのは戦争自体のみならず、真面目に戦争反対を唱えることでもあるのだ。
 このように、『マクロス』には「反・反○○」的な自称中立の姿勢(○○には「基地」「原発」など任意の政治的イシューが入る)が見え隠れする。ゼントラーディがカルチャーショックを受ける様子は確かに滑稽だけれど、カルチャーショックという描き方自体に当時の若者文化が持っていた価値相対主義が潜んでいる以上、もはや笑ってばかりもいられないのだ。

可変戦闘機:三段変形、特にガウォークの衝撃

 前述のように、『マクロス』がポスト戦後的な価値相対主義の陥穽に陥っているとしても、可変戦闘機というアイディアで一世を風靡した本作の功績は低く見積もるべきではないだろう。第1話「ブービー・トラップ」の後半で主人公・一条ひかるの乗り込んだ可変戦闘機「バルキリー」がファイター(戦闘機)・ガウォーク(中間形態)・バトロイド(人型ロボット)の三段変形を遂げたとき、戦闘機に明るくない私ですら素直に「カッコいい!」と思ったのだから、当時の最新鋭戦闘機であるF-14トムキャットに思い入れのある人にとっては、筆舌に尽くし難い興奮があったことが想像される。
 第2話「カウント・ダウン」において、輝とミンメイの出逢いに彩りを添えるため、ファイター形態とバトロイド形態では操縦の勘所が異なることが示唆されているのも気が利いている(輝はバトロイド形態をうまく操縦できず、ミンメイの家に突っ込んでしまう)。しかし、ここで特筆すべきはやはりガウォークという中間形態だろう。戦闘機に手足が生えたようなデザインのガウォークがホバリング移動したり、ミンメイを手で掴んだまま飛行したりするのは見ていて新鮮かつ刺激的であり、ガウォークの脚部が逆関節になっているのもこだわりを感じさせた。その後もガウォークは本編中、地上戦や戦艦内の移動などで多用されており、単なる中間形態にとどまらない活躍を見せてくれた。
 第11話「ファースト・コンタクト」から第12話「ビッグ・エスケープ」にかけては、マックスの操縦するバトロイドがゼントラーディの制服を奪って敵方の兵士になりすます様子も描かれる。ゼントラーディが巨人のため、金属製の人型ロボットが彼らの制服を着用することができるというアイディアもなかなか冴えている。こうして振り返りながら書いていると、改めて『マクロス』はアイディアの宝庫だと思わされるが、画面がアイディアに追いついていないからか、本編視聴中に息を呑むことが少ないのは玉に瑕である。
 そんなバルキリーについて、友人のガンダムファンP氏は、「バルキリーという名前はスカしていて面白味がない。それに比べて、ガンダム(フリーダムファイター・ガンボーイ)は“ポコニャン”と同じようなダサさと一体になった愛嬌がある。あと、マクロスシリーズに出てくるバルキリーは戦闘機に変形するというギミックが共通のコンセプトなのでどれもシルエットが似通っていて、それも退屈する」と語っていた。これに対して、P氏には退屈に映るバルキリーのシルエットについて、前掲の『マクロス』特集記事ではむしろ好意的な評価が下されていた。

 VF-1バルキリーがスゴいのは、基本すべて量産型の派生機なのに、頭部形状とカラーリングの変更だけで乗り切ったところ。主人公メカだからといって、必殺技も高威力の武器もない。そのあたりはマクロス艦の主砲が担っている。こうした傾向は、本作以降『装甲騎兵ボトムズ』や『銀河漂流バイファム』でも取り入れられ、いわば「時代の流行」の嚆矢といえるかもしれない。

(『グレートメカニックG 2018 AUTUMN』、24頁)

 この記事が解説しているように、『マクロス』のバルキリーがメカニックデザインの歴史においてエポックメイキングな位置を占めていることは否定できない。事実、『機動戦士Zガンダム』(1985~1986年)以降、ガンダムシリーズにも可変メカが取り入れられていくことになる。バルキリーなくしてメタスなし――そう思うと、『マクロス』には足を向けて寝られない。
 とはいえ、P氏が言うように、その後のマクロスシリーズにおいても戦闘機に変形するというコンセプトが忠実に守られていくのだとすれば、大人の遊び心は乏しいように思える。バルキリーという名前に表れるような「スカした」姿勢こそが、マクロスシリーズの基調をなしているということなのだろうか。「退屈する」というP氏のコメントの当否については、今後この目でマクロスシリーズを見たうえで改めて判断することにしたい。

三角関係:錯綜する恋模様、ラブコメの空気感

 『マクロス』について「三角関係」というとき、それは主人公の一条輝、アイドル歌手のリン・ミンメイ、輝の上官にあたる早瀬未沙の三者間で渦巻く恋模様を指すと思われるが、実際にはカイフンを含めた「四角関係」が『マクロス』の中核をなしている。
 『マクロス』において、主人公が二人のヒロインのあいだで揺れ動くという「三角関係」が前景化するのは終盤(とりわけ第3クール)に入ってからのことだ。第34話「プライベート・タイム」は特に印象に残るエピソードで、輝が未沙とのデートをドタキャンしてミンメイとの逢瀬を楽しんだうえに、ミンメイから贈られたマフラーを未沙の肩にかけるという不誠実さを存分に堪能することができる(マフラーにミンメイと輝のイニシャルが入っていたことで輝の浮気が発覚するシーンは必見)。左車線を走行していた輝の車が次のシーンでは右車線を走行しているといういい加減な描写も相俟って、第34話は不真面目なトーンで一貫しており、そこには『マクロス』に満ちた軽薄さや未熟さが凝縮されているように思える。
 こうした「三角関係」が前景化するまでのあいだ、『マクロス』の中核をなしてきたのは「四角関係」とも言うべき錯綜した恋模様であった。とはいえ、「四角関係」も女性を中心とした二つの「三角関係」――①輝とカイフンのあいだで揺れるミンメイ、②輝とカイフンのあいだで揺れる未沙――に分解することができるため(下図を参照)、「三角関係」を「お約束」と評するのが完全に間違いとは言い難い。ただ、未沙がカイフンの人柄ではなく、初恋の人の面影に惹かれている点を考慮に入れると、「三角関係」という単純な図式的理解に弊害があることは認めなければならないだろう。『マクロス』は総合的なバカバカしさにもかかわらず、ラブコメ部分に関しては奇妙なこだわりの痕跡をとどめており、その点は看過できない。

『マクロス』における「四角関係」(筆者作成)

 このようなこだわり(あるいはバランスの悪さ)について考えるにあたっては、制作スタッフの発言が参考になる。『マクロス』でシリーズ構成と脚本を担当した松崎健一はインタビューのなかで、次のように証言している。

70年代後半、『週刊少年ジャンプ』や『週刊少年サンデー』など少年誌において、“萌え”、当時はまだこの言葉はありませんでしたが、そういったようなジャンルが認知されてきていると思っていました。『タッチ』などが代表作でしょうか。『メガロード』〔注:『マクロス』の前身となった企画〕はそのような時代を反映した企画でした。それは『マクロス』にも受け継がれています。

(『グレートメカニックG 2018 AUTUMN』、37頁)

 藤津も松崎の当該証言を引用して、「当時少年漫画でひとつの潮流になっていたラブコメ漫画が『マクロス』に影響を与えていた」と要約している(『アニメと戦争』、136-137頁)。つまり、『マクロス』のラブコメ部分については、1970年代末から1980年代初頭にかけて人気を博したラブコメと関連づけて説明するのが望ましいと言える。しかし、これは現時点での私の能力を超えているため、本稿では『マクロス』の錯綜した恋模様は当時のラブコメの空気感を色濃く反映しているらしい、と暫定的なコメントを付すにとどめる。『マクロス』はラブコメ部分に関しては大体面白いが、この面白さが『マクロス』独自のものなのか、それとも先行作品の蓄積に大きく依存したものなのかは現時点では判断がつかず、今後の検討課題とせざるをえない。ただ、第23話「ドロップ・アウト」の幕切れは『マクロス』屈指の名シーンだったと思うので、書き残しておきたい。輝と未沙がお互いに気づくことなく違う方向へ歩いて行く――そんなさりげない別れのシーンに、カメラが回転するような凝ったアングルが洒落たムードを添えている。これが今生の別れとなるかもしれない。しかし、そのことが二人のあいだで意識されることはない。『マクロス』を見ていて、静かな別れの演出に不覚にも舌を巻くことになるとは、まったくもって思いもよらないことであった。

『愛・おぼえていますか』との対照

 『マクロス』の放送終了から一年後、『超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか』(1984年、以下『愛・おぼ』と略記)が劇場公開された。『愛・おぼ』は『マクロス』とは比べ物にならないほどのハイクオリティな作画で有名な作品である。作画監督の一人に美樹本晴彦、原画の一人に庵野秀明が名を連ね、演技事務を松田咲実、音響制作をアーツプロが担当するなど、色々な意味で錚々たるメンツが関わっているのも瞠目すべきポイントだ。藤津も「20歳が観るべきアニメ38タイトルを選んでみた」という記事のなかで、『愛・おぼ』を「作画の進化」という文脈で取り上げており、匿名メッセージサービス「マシュマロ」に届いた質問への回答のなかでも、『愛・おぼ』に「デラックスな作画の作品」という評価を下している。

 確かに、『マクロス』と『愛・おぼ』を続けて視聴したときの落差はあまりに大きく、「あの『マクロス』がこんなに立派になって……」という感慨を抱いてしまうのは避け難いが、本稿では作画のクオリティについては掘り下げず、『マクロス』との設定の違いに着目して話を進める。
 『愛・おぼ』は『マクロス』の単なる総集編にとどまるものではない。『愛・おぼ』では、物語の開幕時点でマクロスの航海が始まって5ヶ月が経過しており、ミンメイはすでに艦内のアイドル歌手として不動の人気を得ている。輝ははなからミンメイのファンの一人にすぎず、戦闘に巻き込まれたミンメイを救出するという偶然がなければ、輝とミンメイが知り合うこともなかった(輝はミンメイ救出後に彼女からサインを貰っている)。『愛・おぼ』の序盤で描かれるのは、歌手活動の過密スケジュールからのひとときの解放を楽しむ奔放なアイドル歌手と若き少尉が惹かれ合う様子だ。これは貴種/高嶺の花との恋愛妄想であり、大胆に「映画的」と言ってもよいかもしれない。これに対して『マクロス』が描いていたのは、民間のパイロット上がりの少年と中華料理店の看板娘がお互いに実力をつける過程で引き裂かれていくという青春妄想だった。『マクロス』の第4話「リン・ミンメイ」において、マクロス艦内で遭難したミンメイは輝と結婚式ごっこを繰り広げ、「どうせ死ぬならこのまま一思いに……外に飛び出しましょう! 一緒に死のう?」と潤んだ瞳で輝を見つめるが、この時点ではミンメイは歌手デビューしていない「普通の女の子」であるということを忘れてはならない。「普通の女の子」に「いや、こんなこと言う女の子はおらんのよ……」という妄想じみた台詞を言わせるのが『マクロス』なのである。
 『愛・おぼ』では、輝の性格にも成長が見られる。最終的にミンメイではなく未沙を選ぶ結末こそ同じとはいえ、『マクロス』では最終話直前まで決断を先延ばしにした優柔不断ぶりは影を潜め、輝は主体的な決断をできるキャラクターに成長を遂げている。『愛・おぼ』のクライマックスにおいて、ミンメイは恋愛感情に振り回され、戦いを終局に導く歌を歌うことを拒否する。輝は聞き分けのないこと(下掲)を言うミンメイをビンタできるほど、表面的には情けなさを脱ぎ捨てている。


僕らだけの問題じゃない! マクロスに乗っている、みんなのために……。
ミンメイ
そんなの関係ないじゃない! どうして世の中にいるのが、あたしたち二人きりじゃないの? あなたとあたし以外……みんな死んじゃえばいいのに!

 『愛・おぼ』は、カイフンを省いたシンプルな「三角関係」の構図を採用したうえで、ミンメイを違う世界(芸能界)の住人に据えたことによって、輝とミンメイのアヴァンテュールを演出することに成功した(カイフンの排除によって「小白竜」が劇中で浮き上がってしまったうらみはある)。言い換えれば、輝が憧れのアイドル歌手ではなく釣り合いのとれた身近な女性を選ぶ結末は、戦時から平時の日常への回帰と捉えることができる。
 以上述べたように、『マクロス』と『愛・おぼ』では気色悪さの質に変化が生じている。「普通の女の子」から「一緒に死のう?」と言われたい、あるいは「普通の女の子」が有名になって自分から離れていってしまうという青春妄想と、いまをときめくアイドル歌手と恋の火遊びをしてみたいという恋愛妄想――どちらのほうが気色悪いかは各人の判断に委ねるが、後世の人が『マクロス』と『愛・おぼ』を共感性羞恥を覚えながら見比べて判断することを想像するに、私は後世の人に同情を禁じえない。
 なお、『愛・おぼ』の隠れた魅力として、コンダ88333役をケント・ギルバートが演じている点も挙げておきたい。ケント・ギルバートは歴史修正主義に「ヤック・デカルチャー」(この表現は『愛・おぼ』が初出)と思って、今日にいたるのだろうか。「プロトカルチャー」とは縄文文化のことだったのか、などと考えてしまう。

結びに代えて

 以下では、本稿の結びに代えて、項目を立てて十分に語ることができなかった雑感を書き残しておく。

1. 『マクロス』第3クールについて

 『マクロス』第3クール(第28話~第36話)の評価は大別して、蛇足だという見解と(意地悪い口調で)面白いという見解に分かれているようだ。一方で、小黒祐一郎コラム「アニメ様365日」において、第3クールは「グダグダな展開」であり、「僕だけでなく、多くのファンが『愛は流れる』〔注:第27話〕で終わらせておけばよかったのに、と思ったはずだ」と所感を述べている。他方で、五十嵐浩司あさのまさひことの共著のなかで後者に傾いたコメントを残している。

いま見るとなかなかコクがあってよいんです。地球をマイク一本で救った英雄、スーパーヒロインのリン・ミンメイが、翌週には酒瓶を手にしたリン・カイフンにクダを巻かれるっていう。いま見返すとあの台本はすごいですよ(笑)。あの、にわかには信じ難い大炎上感がすばらしい!

(『’80sリアルロボットプラスチックモデル回顧録』、131頁)

 第27話「愛は流れる」において、地球人とゼントラーディの戦いはボドルザー撃破によって一応の決着を見た。しかし、事後的に決まった放送延長に伴い、話を綺麗に畳むことが難しくなり、第3クールでは終戦から二年後の復興過程が描かれることになった。しかも復興過程といっても、実際に描かれたのは、ミンメイが酒浸りのカイフンとドサ回りを続ける一方で、肝心要の輝は最終回直前までミンメイと未沙のあいだを優柔不断に揺れ動くというどうしようもないドラマであり、これまでにまして「いったい何を見せられているんだ?」との思いが強まった。
 サブカルチャーに明るい先輩のQ氏が『愛・おぼ』には見られない味わい深いキャラクターとして評価していたのは、ゼントラーディの残党を率いる不敵者のカムジンだった。第3クールでは前述のどうしようもないドラマに加えて、カムジン一味の活躍も楽しむことができる。彼らがカルチャーショックを乗り越え、キスやタバコを「文化」と呼んで嗜む様子(第32話「ブロークン・ハート」、第36話「やさしさサヨナラ」)は失笑を誘うとともに、中国文学者・評論家の竹内よしみが「中国の近代と日本の近代」(1948年)のなかで述べていたことを思い起こさせる。

 東洋には……精神の自己運動はなかった。つまり、精神そのものがなかった。もちろん、近代以前には、それに似たものはあった。儒教や仏教のなかにはそれがあったが、それはヨーロッパ的意味の発展ではなかった。近代以後には、それさえない。その証拠には、日本の言葉の歴史を見ればよくわかる。言葉は、かならずダラクするか消えてしまう。「文明」はカステラになるし「文化」はアパートや鍋になる。そのアパートだって、鉄筋から木造にダラクする。木造から鉄筋への方向にはけっして進まない。新しい言葉が次々にうまれはするが(言葉がダラクするから新しい言葉が必要になるのだが、同時に新しい言葉が古い言葉をダラクさせている)、それはもともと根がないので、うまれたように見えても、うまれたのではない。のび、みのり、内容の重みで自然に割れて、そこから新しい芽が出たという言葉があるだろうか。

(竹内好『日本とアジア』ちくま学芸文庫、1993年、23-24頁)

 竹内の記述を読んでいると、ゼントラーディは図らずも日本人の似姿なのかもしれないと思えてくる。文化を知らないオクテな異星人を笑いものにする行為は、実は「精神そのものがなかった」日本人にとって自虐であり、それゆえに『マクロス』は必然的にアイドル文化と親和性が高かったと言えるのではないだろうか。何となれば、国や文化の恥部(要するに「精神そのものがなかった」という国恥)を大々的に外部に露出させておきながら、恥はフロントの少女たちに代表させているため、そうした無責任な構造を論難されると逆ギレしてしまうという問題がアイドル文化には伏在しているからだ(この点については、内藤千珠子『「アイドルの国」の性暴力』新曜社、2021年を参照)。『マクロス』はアイドルに対する熱狂を正面から肯定したという意味でも、エポックメイキングな作品であったと言えるだろう。

2. ブリッジ三人娘について

 ヴァネッサ・キム・シャミーの「ブリッジ三人娘」について、前掲の『マクロス』特集記事は「元祖属性キャラ」という整理を行っている。

 戦艦のブリッジといえば「漢の職場」なはずだけど、『マクロス』では、「オンナの職場」なのが新しかった。しかも今で言う「属性」がキチンとしていたのだ。シャミー(ドジっ娘→元祖?)、キム(ボーイッシュ)、ヴァネッサ(メガネっ娘)、これにクローディア(お姉さん)、ダブルヒロインのミンメイ(アイドル)に未沙(ツンデレ、マジメ)を加えると完璧な布陣といえるだろう。

(『グレートメカニックG 2018 AUTUMN』、19頁)

 「属性」萌えはともかく、私が「ブリッジ三人娘」のなかで最も魅力的なキャラクターに思えたのはシャミーだった。シャミーは「ドジっ娘」という言葉に収まらないくらいぶっ飛んでいて、未沙からは「あれでも専門教育受けてるのよ」とまで言われる始末(第21話「ミクロ・コスモス」)。「キャラ立ち」は『マクロス』の作中随一と言ってよいだろう。終戦後、ヴァネッサだけが昇進したことを受けて、シャミーがキムに「やあねえ、あなたは論外として、知性・人格・容姿、どれをとってもあたしのほうがヴァネッサより優れてるのに、なんでえ〜?」と語るシーン(第28話「マイ・アルバム」)は何度見ても笑える。前掲の『マクロス』特集記事は、「とぼけちゃって、ツンツンしちゃうから」という台詞(第18話「パイン・サラダ」)をやたらと推しているが、シャミーの真髄はそこにはない、と言いたい。
 なお、私が『マクロス』で最も好きなシーンは、第33話「レイニー・ナイト」において、「ブリッジ三人娘」がオタク風の男性スタッフ・町崎(あくまで松崎ではない!)を罵倒するシーンだ。たった15秒間とは思えないほど多様な罵倒を三対一で浴びることができるお得なシーンなので、是非何度も繰り返し視聴してほしい。

キム    鈍いのも困るけど、敏感すぎるってのもやあねえ。
ヴァネッサ すぐ女の会話に耳をたてるんだから!
シャミー  ズボン脱がしちゃうから!(中略)やだー、本気にしてる!
キム    異常体質!

 「ブリッジ三人娘」は、見てくれは立派になった『愛・おぼ』の前身があの『マクロス』であることを思い出させてくれる貴重な存在でもある。『愛・おぼ』の序盤で、ヴァネッサとキムはミンメイの恋愛スキャンダルに接して、「いまどき清純派なんているわけないのよね~」、「芸能界なんて乱れて当然よ。今度の男だっていったい何人目だか……」という会話を繰り広げるが、こういうオタクの妄想のなかの女子会トークが聞こえてくると、『愛・おぼ』も『マクロス』と紙一重なのだなという思いを新たにする。

3. 早瀬未沙は「オバサン」なのか

 未沙は輝とたいして年齢が違わないにもかかわらず、『マクロス』では輝から「オバサン」と呼ばれている。男女雇用機会均等法の施行以前、社会通念上何歳から「オバサン」だったのかはこの際どうでもいい。重要なのは、男性が女性を「オバサン」と呼ぶとき、言葉の裏には女性を「オバサン」と呼べば傷つくはずだという卑しい計算が控えているということだ。このような男性は、女性に対して「お前は性的商品として魅力がない」というレッテルを貼ることによって、女性を傷つけることができると考えているわけだが、これはきわめて幼稚かつ有害な思い込みである。未沙に対する「オバサン」呼ばわりからは制作スタッフのホモソーシャルな欲望が垣間見えるが、このアンチフェミ的な思考の種となる欲望が自覚されている気配はなく、無邪気な空気感であるだけに問題は根深いと痛感させられる。
 
作家の笙野頼子は小説のなかで「ブス」と「ばばー」を対照しながら、この問題を糾弾している。世の男性は笙野の手厳しい指摘を受け止め、自問自答する時間を設けるべきではないだろうか。

 もし悪い男がストレスをためているとする。そこにもしブスとばばーが各ひとりずつ出現したとする。その時、その男はどっちを苛めるであろう。
 もしブスの方を苛めるとしたらその男はどちらかと言えば個人的にとても性に飢えかつえているのではないだろうか。例えば潰れて中身のとびでたコンビニのおむすびを高い金をだして買うのは悔しいという感じの怒りである。
 その一方、――。
 もしばばーの方を憎んで来るとしたら、その男は飢えているというより女性を抽象化し、性的商品として見る女衒タイプの人間ではないだろうか。若さは性的に一般的に好まれるものである。賞味期限切れの清潔なおむすびと賞味期限内の潰れたおむすびを比べるようなものだ。潰れていても、並べておけば、最後の一個なら誰か買っていくかもしれない。しかし期限が切れていれば、食品として販売する事が出来ないのだ。

(笙野頼子『だいにっほん、おんたこめいわく史』講談社、2006年、130-131頁)

4. 「素人」の起用と「声のざらつき」

 『マクロス』は『魔法の天使クリィミーマミ』(1983~1984年)と並んで、「素人」同然の新人を主役に起用した典型例である。『マクロス』で輝役を演じた長谷有洋とミンメイ役を演じた飯島真理について、映画・アニメ研究者の石田美紀「非定型的な声と演技」、「決して連続テレビアニメの声の演技としては定型的なものではなかった」と述べる(石田美紀『アニメと声優のメディア史:なぜ女性が少年を演じるのか』青弓社、2020年、138-139頁)。石田の指摘する「非定型的な声と演技」とは、換言すれば物語を帯びていない(つまり、従前の出演作や既存の演技法を想起させない)「素人」の声と演技ということであり、これは「いかにも感」(英訳するとしたら“stereotypical”か?)を打破する可能性を有している。しかし、「素人」には平板ならざる「声のざらつき」(le grain de la voix)が官能的なあり方では認められないことが多いため、融通無碍な「素人」の起用が必ずしも演技の幅を広げるとは言えない。そこが非常に悩ましい。
 『マクロス』においては、マックス役を演じた速水奨(第8話「ロンゲスト・バースデー」において大浜靖名義で初登場。第13話「ブルー・ウインド」以降は速水奨名義で出演)の声によって、「素人」起用の明暗が際立つ結果となった。マックスは自己紹介の第一声だけで、輝を凌ぐ天才パイロットであることを視聴者に予感させてしまっている。速水奨の声は色気のある「ざらつき」によって、キャリアの浅さにもかかわらず、再帰的に物語を帯びてしまっている。速水奨自身は藤津亮太が聞き手を務めたインタビューのなかで、初期のキャリアについて「オンエアを見ると、やっぱり自分の声だけ浮いて聞こえるんですよね……テンションとかちょっとしたことが下手だから浮いて聞こえる。全体の流れを自分の台詞のところでちょっと停滞させているような感覚は、2~3年ぬぐえなかったです」と謙遜したコメントをしているが(『プロフェッショナル13人が語る わたしの声優道』河出書房新社、2019年、91頁)、長谷有洋の声の質朴な響きを思うにつけても、速水奨の声が「浮いて聞こえる」原因はむしろ周囲にあったのではないかと考えてしまう(**)。
 「トランジスターグラマーってやつだよ」(第9話「ミス・マクロス」)、「美しい……バストは85ぐらい……意外と着痩せするタイプだな」(第24話「グッバイ・ガール」)といったキワドイ台詞もしれっと言えてしまうマックス。いま思えば、『マクロス』はマックスというキャラクターを世に問うために作られた箱庭だったとすら言えるのかもしれない。

(**)「プロの声優」ではない「素人」を起用する意義、そして物語を帯びる声と「ざらつき」のある声の関係については、『ユリイカ』2022年7月臨時増刊号(総特集=湯浅政明)に寄稿した文章(「ボーイミーツガールにおけるささやかな奇跡:『きみと、波にのれたら』と片寄涼太の声」『ユリイカ』第54巻第8号、2022年、191-196頁)のなかで詳述したので、是非併せてお読みください。

 次回更新は2022年12月、主題は『機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争』を予定している。

参考文献

あさのまさひこ/五十嵐浩司『’80sリアルロボットプラスチックモデル回顧録』竹書房、2022年。

石田美紀『アニメと声優のメディア史:なぜ女性が少年を演じるのか』青弓社、2020年。

笙野頼子『だいにっほん、おんたこめいわく史』講談社、2006年。

竹内好『日本とアジア』ちくま学芸文庫、1993年。

内藤千珠子『「アイドルの国」の性暴力』新曜社、2021年。

『プロフェッショナル13人が語る わたしの声優道』(聞き手=藤津亮太)河出書房新社、2019年。

藤津亮太『アニメと戦争』日本評論社、2021年。

『グレートメカニックG 2018 AUTUMN』双葉社、2018年。

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