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TVアニメ『迷宮ブラックカンパニー』と見果てぬFIREの夢:虚業と実業の波間にたゆたう現代日本の拝金主義

はじめに

演技的なSMプレイ――それに実際にかかわる人間たちはそれを「プレイ」と認めている――とその現実生活における非性的な上演エンアクトメントとのあいだには、きわめて重大な差異がある。……上司に「オレンジ」とはいえないのだ。……要するに、セーフワードは存在しないのである。たぶん、「辞めてやる」を除いては。

(デヴィッド・グレーバー(酒井隆史/芳賀達彦/森田和樹訳)
『ブルシット・ジョブ:クソどうでもいい仕事の理論』岩波書店、2020年、167-168頁)

 経済的自立と早期退職(Financial Independence, Retire Early)、略してFIREが持て囃されるようになってから幾年になるだろうか。新手の「脱サラ」運動とも言うべきFIREはサラリーマンの心を捉えてやまないが、貯蓄と投資を組み合わせた資産形成・運用・防衛は一筋縄では行かないことであり、多くの人にとってはFIREなど夢物語にとどまるであろう。そんな世相を映すかのように、「ブラック企業」に勤務する労働者の悲哀を題材にしたファンタジーコメディが現れた。
 2021年9月に放送が終了したTVアニメ『迷宮ブラックカンパニー』は、「ブラック企業」や「過労死」といった言葉で端的に表現される日本の企業風土を異世界ファンタジーという人気の箱庭フォーマットに写し取った作品である。本作の主人公・二ノ宮キンジ(24歳)は我が世の春を謳歌していた。二ノ宮はスイングトレードで増やした資産を海外不動産投資にあて、それによって得た収入を「実務労働なしの固定収入」として、都内に3棟のマンションを建てるにいたっていた。不労所得で怠惰に暮らす自称「セレブプロニート」として「あがり」を迎えたことを勝ち誇る二ノ宮だったが、その絶頂で突如、亜人たちの住まう異世界・アムリアに転移させられてしまう。二ノ宮は持ち前の口八丁で新規事業を興そうとするも失敗し、彼の手許には莫大な借金だけが残った。二ノ宮は借金返済のため、ライザッハ鉱業株式会社(以下、「ライザッハ」と呼称)の魔鉱作業者として、苛酷な肉体労働に従事することになる。彼は気弱な同僚・ワニベを唆し、迷宮に巣食うドラゴン型の魔物・リムを仲間に加えて、不撓不屈の精神で異世界の「ブラック企業」の悲哀からの脱出を企てる。
 本稿では、従業員(労働者)/経営陣それぞれの目線からライザッハという企業を分析することによって、本作において誇張して描かれる「ブラック企業」が日本のメンバーシップ型社会を反映したものであることを明らかにする。そして、「ブラック企業」をやりこめる本作の顛末が現代日本における拝金主義の瀰漫を如実に示したものであることも指摘する。

従業員の目線から:メンバーシップ型社会の「品格労働」

 本作において、ライザッハは「近代化」および「産業革命」の所産とされている。ライザッハは国家から認可を受けて、エネルギー源となる魔石の探索・採掘から流通・販売・研究開発にいたるまでをワンストップで担う巨大企業だ(第2話では資本金130億ギリー、従業員数3万人と説明されている)。要は迷宮(魔鉱遺跡)を管理する特許会社である。ライザッハは管理部・採掘部・探索部に分かれており、二ノ宮が最初に配属されるのは採掘部である。そこでは一日16時間の肉体労働を低賃金で強いられ、仕事が終わればすし詰めの雑居寝状態で眠るという劣悪な労働環境が待っている。注目すべきは、こうした『資本論』で描かれるような原初的な搾取に加えて、ライザッハはいわゆる「やりがい搾取」にも余念がないということだ。第1話の朝礼で、迷宮長のベルザは「競合他社に勝つ覚悟はありますか」「お客様の感謝を集め、己の手で出した成果はやがてやりがいという名の宝になります」と魔鉱作業者たちに語りかける。ここで見逃せないのは、魔鉱作業者は迷宮から魔石を採掘するという単純作業に従事しており、顧客との接点を持たないにもかかわらず、「お客様の感謝」を朝礼で意識させられているということだ。すなわち、驚くべきことに、ライザッハにおいては「感情労働」が単純作業にも侵入してきているのである。
 「感情労働」(emotional labor)とは、社会学者のアーリー・ラッセル・ホックシールド(Arlie Russell Hochschild)によって提唱された概念である。ホックシールドの所説については、社会学者の山口誠が簡にして要を得た整理を行っているため、以下に引用する。

アメリカの社会学者A・R・ホックシールドがその著書『管理される心』(1983)で論じたように、現代の労働者たちには理不尽な客の要求にも笑顔で対応することが求められ、自らの感情を管理するスキルと標準的なサービスに付加価値を生み出す能力が常に要求される。もはや現代人は肉体労働者や頭脳労働者であるよりも感情労働者であり、その象徴が航空会社の客室乗務員であるとホックシールドは指摘する。そして……接客業のスタッフや医師や教師や公務員も、あるいは現代社会の多くの労働者が、程度の差こそあれ客室乗務員と同様に感情労働者であり、自らの感情を労働の資源として管理し活用することが要求される感情労働に従事しているといえる。
 そうして動員される感情の質と量が高まるほどに、われわれは精神や情緒が疲弊し、ときに取り返しがつかなくなるほどに自らの感情から疎外されていく。それでも賃金低下や解雇の影に苛まれる現代の感情労働者たちには、自らの感情を「高度化」していき、その対価を得るための「商品化」に勤しむほか術がない。

(山口誠『客室乗務員の誕生:「おもてなし」化する日本社会』岩波新書、2020年、213-214頁)

 ただし、ホックシールドが「感情労働」を汎用的な概念として用いていないことには注意を要する。ホックシールドは、顧客との接点を持たず、単純作業に従事する低階層の労働者は「感情労働」からほぼ完全に解き放たれていると論じている。

 感情労働が求められる職業は、客室乗務員と集金人という極端な例の中間に多数存在し、それらは共通する三つの特徴を備えている。まず第一に、このような職種では、対面あるいは声による顧客との接触が不可欠である。第二に、それらの従事者は、他人の中に何らかの感情変化――感謝の念や恐怖心等――を起こさせなければならない。第三に、そのような職種における雇用者は、研修や管理体制を通じて労働者の感情活動をある程度支配するのである。

(A・R・ホックシールド(石川准/室伏亜希訳)『管理される心:感情が商品になるとき』
世界思想社、2000年、170頁)

 感情的な〈負担〉を伴う職業は、どの社会経済階層にも存在する。しかし、そのような負担は、感情労働の実質的な〈遂行〉とさほど密接な関係を持たない。低階層に属する仕事の場合、その多くが単調な単純作業であり、労働者には、ただ決められたままに作業を続けることが要求される。そのような状況下では、不満や怒り、恐怖といった感情を抑えること、あるいは、いかなる感情をも抑えることが課題となる。これは、労働者にとってたいへんな負担となりうるが、感情労働とはその内容をまったく異にしている。……航空機の客室乗務員や集金人と〈同じようには〉個人の人格を投入する必要はないし、社交性を発揮することもないし、感情が職業上の拘束を受ける場合もないのである。

(同書177頁)

興味深いことに、社会階層の最下段に位置する労働者たちは、他者に感情規則を課す権限をまったく持たないのだが、にもかかわらず、これらの規則からのほぼ完全な自由を享受している。彼らは、持たざる者のみに許された特権を楽しむことができるのである。

(同書179頁)

 したがって、ホックシールドが「私たちのほとんどは、他者や自分自身の感情をある程度操作する必要のある仕事に就いているのであり、その意味では、私たちは誰でも部分的に客室乗務員なのである」(同書12頁)とか、「あらゆる会社、特に温情主義で組合を持たない会社は、ポリシーとして、個人的な満足感と会社の繁栄や存在意義(アイデンティティ)とを一体化させようとする」(同書153頁)などと述べている箇所についても、過度に一般化した読解をすべきではない。本作において、「感情労働」が単純作業にまで侵入してきており、単純作業に従事する魔鉱作業者ですら「持たざる者のみに許された特権」を奪われて、非対面で仮想の「お客様」への感謝の念を喚起させられているのは自明のことではないのだ。この点について考えるにあたっては、日本で広く喧伝されている「おもてなし」なるものが「感情労働」をこえて、自発的な無償奉仕を美徳とする「品格労働」の域に達しているという山口誠の指摘が重要な手がかりとなる。

欧米のホスピタリティと日本の「おもてなし」の最大の違いは、感情の商品化に対する評価の違いにおいて顕著に現れる。前者では雇用先からの賃金だけでなく、チップに象徴される個別の対価とその金額の多寡による評価が期待されるのに対し、日本の「おもてなし」はチップなどの金銭的対価を極端に忌み嫌う。むしろ日本の「おもてなし」では、無償の自発的奉仕であることを裏付けとする「非商品化された感情」こそが尊ばれ、相手の見返りを求めない潔さによって質的に保証される「自分磨き」の実践という、非金銭的で人格的な機会こそを期待する。いわば金のためではなく人のため、他人のためではなく自分のために喜んでおこなうのが、理想的で伝統的な日本の「おもてなし」とされる。

(山口『客室乗務員の誕生』、215頁)

品格労働の特徴は、「感情の商品化」をともなう感情労働の論理とは異なり、その実践者に非商品化された自発的な無償奉仕を求めつつ、個人的な人格に集合的な品格への同化を促すことにあり、いわば自身の品格を磨くために対価を求めない無償奉仕の「おもてなし」を自ら喜んでおこなう思考様式にある。……日本の「おもてなし」では、個々人の感情を超えた集合的で審美的な「美しい日本の私」の品格こそが、究極の労働資源となる……。

(同書218頁)

 山口の指摘する「非商品化された感情」や「自発的な無償奉仕」は、日本で暮らす人々にとっては馴染み深いものであるからこそ、盲点でもある。本作の第3話における「社畜島」での教育研修は「いかにも感」にあふれているが、異文化研究のつもりで見てみるとなかなか興味深い。「ありがとうございます」を連呼させられる、飲み食いを禁じられた状態で登山をさせられる、精神修養と称して座禅を組まされる、ライザッハ創業者の言葉が書かれた本を読まされる、穴を意味もなく掘らされる――こうして心身ともに疲弊させられた参加者たちは、洗脳音声/呪文と相互監視のなかで集団的な洗脳状態へ誘われ、「会社のため、ひいては社会全体のために、滅私奉公の精神で働くことを誓います!」と叫ぶにいたる。このように誇張されて描かれる「ブラック企業」は、次の三つの特徴を備えていると整理することができる。

・会社への帰属意識、会社/上司への忠誠心を構成員に強制する
・自発的な無償奉仕を美徳とする「品格労働」を構成員に強制する
・構成員の長時間労働が常態化している

 これらの特徴は、いずれも日本のメンバーシップ型社会を前提としたものであると言えるだろう。労働法学者の濱口桂一郎は、労働者の雇用形態を「ジョブ型」と「メンバーシップ型」の二つに分類し、後者を「日本における雇用の本質」と位置づけている。

日本以外の社会では、労働者が遂行すべき職務(job)が雇用契約に明確に規定されます。ところが、日本では、雇用契約に職務は明記されません。あるいは、明記されるか、されないかというよりも、そもそも雇用契約上、職務が特定されていないのが普通です。どんな仕事をするか、職務に就くかというのは、使用者の命令によって定まります。これは、日本人はあまりにも当たり前だと思っていますが、私はここに日本の雇用契約、日本の雇用システムの最大の特徴があると考えています。
 この点を私は、日本の雇用契約は、その都度遂行すべき特定の職務が書き込まれる空白の石板であると、その特徴を捉えました。そして、日本における雇用の本質は職務(job)ではなく、会員/成員(membership)であると規定しました。

(濱口桂一郎『ジョブ型雇用社会とは何か:正社員体制の矛盾と転機』岩波新書、2021年、25頁)

 新卒一括採用と職業訓練の軽視を基本方針とするメンバーシップ型社会では、未経験の素人を教育訓練する役割をそれぞれの会社が担わざるをえない。その結果として、教育訓練の過程で上司や先輩から新人に対してのハラスメントが起こりやすくなっている。濱口は日本企業におけるハラスメントについて、次のように論じている。

 メンバーシップ型の社会では……採用であろうが、異動であろうが、最初はとにかく未経験者をそのポストに就けることになります。ですから、最初は必ず素人です。その素人を上司や先輩が鍛えるのです。どのように鍛えるのか。実際に作業をさせながら技能を習得させていくのです。……OJT(On the Job Training)が日本の教育訓練の中心になるのです。一方、素人を上司や先輩が鍛えないと物事が回っていかないということが、日本でパワーハラスメント(パワハラ)と教育訓練とがなかなか区別しにくいことの一つの原因になっています。

(同書33頁)

日本のまともな大企業で、上司や先輩から若い正社員相手に発生するハラスメント事案の多くは、性格がいささか異なります。少なくとも上司や先輩は、いじめのためのいじめをしているつもりはさらさらなく、その若手社員の成長のために、教育訓練の一環として厳しい対応をしてあげているつもりであることが多いからです。決して悪意ではなく、むしろ善意にあふれているのです。若いうちは厳しく叩いてこそ大きく成長するのだと、自分もそのように会社に育ててもらった上司たちは考えているので、自分も同じように鬼軍曹として鍛えてあげようと思ってやり過ぎると、相手がポキッと折れてしまうケースが多いわけです。

(同書226-227頁)

 本作の第1話では、ワニベは職場の先輩から「わからねえことあったら聞け」と「仕事は見て覚えろ」を併用するダブルバインドを受けている。これは部下や後輩がどのように発言・行動しようと、「自分の頭で考えられないのか」「どうして質問せずに勝手に進めるのか」などと怒鳴り散らすことができるという「後出しジャンケン」型の指導であるが、職務ジョブのスキルを入口段階で殊更に要求しないからこそ生じる負の側面の一つと言うべきだろう。
 そして、「のびしろ」を期待して未経験の素人を採用するからこそ、メンバーシップ型社会における評価基準は「やる気」に偏らざるをえない。評価対象者は「やる気」を可視化するため、長時間労働やサービス残業を含む無償奉仕についつい手を出してしまうことになる。

能力という言葉は、日本以外では、特定職務の顕在能力以外意味しません。具体的なある職務を遂行する能力のことを意味します。ところが、日本では、職務遂行能力という非常に紛らわしい、そのまま訳すと、あたかも特定のジョブを遂行する能力であるかのように見える言葉が、全くそういう意味ではなくて、潜在能力を意味する言葉になっています。それは仕方がありません。末端のヒラ社員まで評価する以上、潜在能力で評価するしかないのです。
 では、外に現れたものとしては何を評価するかというと、人事労務でいう情意考課です。情意というのは、一言でいうとやる気です。やる気というのは、企業メンバーとしての忠誠心を評価しているわけですが、やる気を何で見るかといえば、一番分かりやすいのは長時間労働です。

(同書35-36頁)

 仕事ができないのは仕方がないけれども、やる気がないのは許されないという、メンバーシップ型社会独特のこの規範意識が、労働者を否応なく長時間労働に導いていくことになるのは見やすい道理です。

(同書59頁)

 本作の第1話で、ベルザは「やる気、元気、死ぬ気で頑張りましょう!」という言葉で朝礼の挨拶を締め括っていた。「やる気」と「お客様の感謝」を強調し、末端のヒラ社員まで事細かな評価対象とするライザッハは、まさしく日本のメンバーシップ型社会を反映した象徴と言うことができる。
 それでは、こうした「ブラック企業」の悲哀から逃れるためにはどうすればよいのだろうか。一方で、二ノ宮は怠業と「ライフハック」の戦術を駆使してライザッハという巨大企業に立ち向かおうとする。同僚を魔法の杖で幻惑・洗脳して苛酷な肉体労働を肩代わりさせる(第1話)、ドラゴン型の魔物であるリムの監督のもと魔物を放牧し、角などの生え変わる素材を効率的に採取できるようにする(第4話)、誇大広告(優良誤認表示)と中毒性のある成分の混入で栄養ドリンクを売りさばき、暴利をむさぼる(第9話)――これらの作戦はいずれも一過性のものとして描かれており、失敗に終わる(だからこそ、愉快なドタバタギャグとして成立している)。
 他方で、二ノ宮はライザッハを乗っ取るために「迷宮ブラックカンパニー」(以下、「BC」と呼称)を秘密裏に設立して暗躍を開始する。変身薬を使って迷宮アリに化け、働きアリを組織して女王アリも手懐ける(第2話)、「勇者の再来」と讃えられる辣腕の上司・シアを捕縛・脅迫してBCに引き込む(第3話)――こうしてBCは着実に地歩を固めていく。BCがライザッハを打ち負かす過程については、節を改めて詳述する。

経営陣の目線から:もの言う株主の攻勢と現代日本の拝金主義

 本作の第5話から第7話にかけて、二ノ宮とリムは300年後のアムリアにタイムトラベルしてしまう。そこで出逢った男の娘巫女のランガから人類を救う救世主と呼ばれ、困惑する二ノ宮に対して、未来人は300年間の歴史を次のように物語った――「資本主義の負の病巣」として生まれたライザッハは従業員を奴隷のように扱う人心支配によって急成長を遂げ、社会全体に社畜を量産することに成功した。人類は次第に考えることをやめ、生物としての力を弱めた。これを奇貨とした魔王は魔物を引き連れて侵攻を開始し、魔王軍に敗北した人類は地下シェルターへ逃れたのだ――と。なお、ランガはベルザの子孫であり、世界を破滅へ導いた「魔女」の末裔として迫害を受けてきたのだった。
 これに対して、地上を占領した魔王軍は一日8時間労働、週休二日制、労働保険を導入する「ホワイト企業」化していた。しかし、それでも労働者は怠業し、不平不満を言うことをやめないため、魔王軍の幹部は頭を抱えていた。週40時間労働でも長すぎるとの意見もあるかもしれないが、ここで重要なのは、「ホワイト企業」の厚遇ですらサラリーマンの悲哀から人を解放しないということだ。言い換えれば、従業員(労働者)目線では出口を見いだすことができない。同盟罷業に訴える可能性もほとんど残ってはいないだろう。そこで、本作は何らかの方法で会社の経営陣に影響力を及ぼすという方向に舵を切ることになる。
 二ノ宮はリムとランガを引き連れて、300年のあいだに「ジェネラルアント」に昇格を果たしていた迷宮アリAのつてを頼って魔王軍に寝返り、職場の構造改革を通じて魔王軍のなかで出世を重ねていく。二ノ宮は魔王軍特殊業務部役員互助会、通称「魔王軍三羽烏」――ロウ=ガイン(痰を所構わず吐く老人)、パワー=アッシュ(パワハラ女上司)、ゼクス=ハラー(セクハラ男)――からの無理難題や嫌がらせをはねのけ、とうとう魔王との謁見を果たす。そこで二ノ宮は魔王から、過去に戻って世界を救ってほしいと頼まれる。迷宮の地下に眠っていた古代文明の技術を悪用し、機械化した人類による完全社畜国家を理想とするライザッハとの最終戦争が迫っている――そんな馬鹿げた話を魔王役の富田美憂が真面目なトーンで語るのはくだらなさに拍車をかけて失笑を誘うが、「この星の寿命」がライザッハによる資源の濫用によって削られているという問題の立て方は、資本主義を終わらせなければ人類の歴史が終わるという環境左翼的な「人新世ひとしんせい」(Anthropocene)の想像力とも響き合っていて、実は時事的でもある。二ノ宮は魔王の頼みを聞き入れ、リム・ランガとともに過去に戻り、世界破滅のきっかけとなった古代文明の技術をベルザよりも先に手に入れて、BCによる世界征服の礎を築かんと暗躍を再開する。
 第10話では、迷宮の「腸内環境」整備の様子が描かれる。ただ魔石という資源を掘り尽くすだけでは自然環境から逆襲を受けるというわけで、魔力循環の再生によって生態系の悪化と迷宮の劣化を抑止しようとする試みは、資本主義体制における「大衆のアヘン」こと持続可能な開発目標(Sustainable Development Goals; SDGs)の潮流とも軌を一にしており、第7話以来一貫して環境保護への目配りがなされていると言える。要するに、ここでは根本的な体制批判が忌避され、無効化されるなかでいかに「やってる感」を出すか、罪悪感を減らすかということを追求する「ぬるい抵抗」が如実にあらわれている。BCはこうした「ぬるい抵抗」を経て、きわめてベタな方法による会社乗っ取りに踏み込んでいく。後述するように、BCの一連の選択は資本主義の観点では一貫しており、かつ、日本の浅ましい銭ゲバ根性をさらけ出していると評価できる。
 第11話で、迷宮の地下6階に眠る古代文明の技術を掌中に収めた二ノ宮はライザッハを退職し、BCの総帥として「ニノミヤダンジョンランド」なる迷宮テーマパークの運営を始める(この段階で借金も完済するにいたる)。テーマパークの来場者が増えるほど外部からますます多くの魔力が注入され、迷宮の魔力循環は活発になる。そして、迷宮から採掘される魔石の量も増える。この仕組みを利用して、BCは市場に高純度の魔石をあふれさせ、ライザッハの収益の柱となっている魔石の価格崩壊を引き起こす。さらに、安価に採取できるようになった魔石を使ってプライベートブランド(PB)商品を開発し、古代文明の転移技術と魔物による運搬を利用して流通網も支配するにいたる。こうしてライザッハを徐々に追い詰める二ノ宮であったが、ベルザの陰謀によって一時的に身柄を拘束されてしまう。
 第12話(最終回)は、二ノ宮が11月19日午前9時50分に魔石取引法違反、略奪・横領等の容疑で逮捕されるシーンで始まる(ちなみにカルロス・ゴーンが金融商品取引法違反の疑いで逮捕されたのが2018年11月19日。偶然の一致だろうか)。二ノ宮の逮捕によって、BCの「緊急マニュアルブック」なるコンティンジェンシープランがすかさず発動することになるのだが、このあたりも意外に手堅いつくりである。BCはプランに沿って、水面下でライザッハの「持株」(「発行済株式」のことか?)の40%を確保し、株主から15%の委任状を取得することに成功する(*)。そして、ライザッハの臨時株主総会において、ワニベが現代表取締役の解任と二ノ宮の代表取締役選任を提案し、晴れて誤認逮捕であることが認められた二ノ宮はライザッハの代表取締役に就任する。その後、BCがライザッハを完全子会社化し、とうとうベルザは二ノ宮の軍門にくだるのだった。

(*)この手法については、水面下で株式を集めるのは不意討ちにつながるという野暮な指摘を一応しておかなければならない。アムリアに株式市場があるのかは定かではないが、非上場株式の譲渡制限も上場株式の公開買付け(TOB)規制もない様子ではある。異世界における金融法の不在をとやかく言っても始まらないが、ルールの潜脱によって勝利を収めるスタイルは二ノ宮らしいと言えば二ノ宮らしい。

 ライザッハを買収した二ノ宮は「ニートを目指して頑張っていたつもりだが、どうも俺は、目標のためにあれこれ動くほうで充実感を感じていたらしい。だから、もっと自分に正直な気持ちで動こうと思った」と述べる。主人公が利ザヤ(margin)をとるトレーダーから法人の実質的支配者、ひいては実業家へ転身を遂げる本作の構成が、株式を導きの糸として織り上げられた美しい構成であることには疑いはない。しかし、一度立ち止まって考えてみると、一株一議決権原則を振りかざすもの言う株主アクティビストの手法については、「スカッとジャパン」的に消費してよいのかという疑問が残る。
 商法学者の上村達男は2021年10月26日の講演会で、東芝の不正会計問題に寄せて、日本の会社・金融法制に欠けている視点を指摘している。上村は「年間を通じたガバナンス・システムよりも、一瞬の株主総会決議の方が優越するということはありえない」と主張する。

 取締役会、監査役、各種委員会、情報開示、公認会計士監査といったシステムは、年間を通じて、あるいは中期経営計画であれば三年、そういう単位で機能するガバナンスで、これ自体が、業務財産状況の調査等を実施するという仕組みです。株主総会が無機能化した分、このような経常的な仕組みに頼ることになって長い時間が経っております。したがって、株主総会の一回の普通決議で監査委員など中核的な人物を事実上葬り去ることができる、そんなことがあっていいはずがありません。ファンドが入ってくれば株主総会は急に機能するのかといったら、そんなことはありえませんで、やはりガバナンスの充実が一番大事ということは揺るがないわけです。

(上村達男「そもそも株主とは何者か:東芝事件の基礎理論」
『証券レビュー』第61巻第12号、2021年、9頁)

私は、経営者とそれを取り巻くガバナンスの権威を強調し、買収者の側もそれを超えた経営目的や理念の主張、そうした対決でなければならないと考えており、したがって、そこに自信があれば取締役、取締役会限りの対抗策で全く問題ないと思っております。買収者の属性が悪ければそれで取締役の任務懈怠は通常生じない。ガバナンスのレベルが低いのは問題ですが、株主総会を嚙ませればガバナンスの水準の低さがカヴァーできるという話にはならないと思っております。

(同講演録12頁)

たとえガバナンスが未熟であったとしても、それを少しでも向上させるための努力を信頼し、守り立てていくしかないわけです。年間を通じたガバナンス・システムよりも、一瞬の株主総会決議の方が優越するということはありえないことです。

(同講演録30-31頁)

 上村は「観客なき喜劇」と揶揄され、すでに百年前から無機能化が指摘されていた株主総会の決議が経常的なコーポレート・ガバナンスに優越するのはおかしいと主張するが、その根底には拝金主義への批判とデモクラシーへの憧れがある。上村は「日本の株主像には何も関門がない、そこに本質的な問題があるのではないか」と聴衆に問いかけ(同講演録21頁)、一株一議決権原則の批判へと突き進んでいく。

ヒトの集まりとしてのsociétéがなくなり、共同体のメンバーとしてのassociéが消え、companyが消えて、shareholderだけが残った。株主はshareholderであり、カネがあれば必ずshareholderになれる。ヨーロッパで「会社は株主のものだ」と言えるのは、株主が個人や市民だからです。すなわち、社会の主権者が株主だから株主主権と言えるのであって、カネがあって株を買えれば主権者になるわけではない。ここは決定的に重要な点です。
 フランスでは株式会社も「société anonyme」で、これはそのまま訳すと「匿名の組合」です。つまり、大規模公開株式会社でも匿名の組合であるということです。

(同講演録20頁)

 一株一議決権が、カネがヒトを支配する強力な根拠となっていますが、共同事業に関する民法の原則(組合契約)は頭数の多数決です。つまり、出資が多かろうが少なかろうが、要は人間の人格単位(頭数)で賛成・反対が決まります。わずかな出資の人でも別の貢献の仕方はありますし、多く出資した人が「自分は事業の目的達成のためにより貢献した。だから多くよこせ」というようなことが当たり前の世界ではありません。

(同講演録23頁)

単にカネの多寡だけで人間社会のあり方を左右してはいけないという従来の世界が、いつの間にか、むしろ一株一議決権が当たり前という世界になってしまいました。これは、我々の先人たちが考えてきた議決権の考え方から大きく逸脱しています。皆さんおっしゃいませんが、一株一議決権原則は出資に対して議決権(支配権)を過剰に付与した姿なのではないか。そして、実は議決権をめぐる株式会社法の中心的な課題は、こうした議決権の過剰付与問題を背景にしていたのではないか。結局、株主の属性論なき株主論と議決権の過剰付与問題こそが、アクティビスト問題の根源にあるのではないかということであります。

(同講演録24-25頁)

 「社会の主権者が株主だから株主主権と言えるのであって、カネがあって株を買えれば主権者になるわけではない」という上村の指摘はきわめて重要だ。上村は「仏造って魂入れぬ」状態に陥り、一株一議決権原則が当たり前となっている日本法の継受不全を嘆いてやまない。ここで上村の指摘を逆さまに読めば、「カネにものを言わせる」ことで会社を支配しようとする拝金主義的な行動様式は日本におけるデモクラシーの不在に起因していると言えるのではないだろうか。本作における40%の株式と15%の委任状を取得して株主提案を通すという結末は、もの言う株主アクティビストが実際は「カネにものを言わせる」株主であることを暴いており、ひいては横断的連帯の理解を拒否する銭ゲバ根性が日本で猖獗を極めていることを垣間見させる。なお、上村はこのような荒涼たる状況を「腕づくの世界なき規制緩和」と呼んでいる(同講演録28頁)。
 本作の主人公・二ノ宮は信用ならない人物である。彼の発言は本音なのか、嘘なのか、照れ隠しなのか、つねに曖昧であり、その内容から彼の人生哲学を析出するのは至難の業だ。だから、どこまで彼が本気で言っているかは度外視しなければならないが、彼は弱者とは「心から戦う力を奪う毒」であると口に出して述べている(第12話)。そもそも第1話の時点ですでに、彼は次のようにワニベに言い聞かせていた。

横につながりのある弱者は群れようとする。たいしたことはできないくせに、不満ばかりを言うようになるんだよ。生産性のないルーチンワークを無難にこなして、弱者であることを盾に下から上を見下す、世の中に澱みを撒き散らす唾棄すべき存在――俺はそんな連中を使う気にはなれない。なぜなら俺は勝者だからだ! 勝者はただ働くことをよしとしない。

 こうした表現に見え隠れする自助努力への傾倒、弱肉強食の肯定、ある種のウィークネスフォビアといった要素が、「カネにものを言わせる」拝金主義の実質的な中身であることは言うまでもないだろう。BC、いや二ノ宮の一連の選択が描出したもの、それこそ新宰相の「新しい日本型資本主義」構想とやらをお題目に帰する「世間の一般常識」なのではないだろうか。
 思想家のスラヴォイ・ジジェクは2021年12月の寄稿のなかで、「新自由主義的資本主義」はすでに死につつあり、「企業中心の新封建主義」が立ち上がりつつあると論じているが、多方面で周回遅れの日本において「新自由主義的資本主義」が死につつあるのかは、予断を許さないと言うほかない。『迷宮ブラックカンパニー』が視聴者に見せるイメージを資本主義の歴史のなかに位置づける作業は、未来に向かって開かれているのだ。

本作の出演者について

 本作の出演者についても雑駁に触れておく。二ノ宮キンジ役を演じる小西克幸は、『旗揚!けものみち』(2019年10月期)に続いて一癖も二癖もあるが憎めない主人公を好演している。小西克幸はコメディに欠かせない男性声優の一人であり、『べるぜバブ』(2011年1月~2012年3月)の男鹿辰巳、『ディーふらぐ!』(2014年1月期)の風間堅次といったがらっぱちだが情に厚い主人公役を務めてきた。小西克幸は頼れる兄貴分やヤンチャな悪役も魅力的だが、やはり妙味は濃いメンツに振り回されて叫び声をあげる主人公役にある。そんな彼が徐々に周囲を振り回し、周囲に迷惑をかける主人公役に恵まれてきたのは喜ばしいことだ。『旗揚!けものみち』の柴田源蔵/ケモナーマスクは変人で、『迷宮ブラックカンパニー』の二ノ宮キンジはジコチューである。しかし、変人やジコチューをタコ殴りにできるサンドバッグとして客体化するのではなく、物語を牽引する主人公格として描くということは、程度の差こそあれ、人間誰しも変人やジコチューなのだという当たり前の事実を再認識させてくれる。デフォルメされたパワフルなジコチューとしてこの上ない輝きを放つ小西克幸の勇姿をどうか見逃さないでほしい。
 ワニベ役を演じる下野紘は、さすがに安定した三枚目芝居を聴かせてくれる。先日、『ダイヤのA』で下野紘を知ったという人と話す機会があったのだが、その人は『鬼滅の刃』の我妻善逸を「下野紘にしては珍しい演技」と評していて、世代や観測範囲によって声優に対するイメージは大きく変わるものだと思い知らされた。筆者も往々にして視野狭窄に陥るので、この話は他山の石とする。リム役を演じる久野美咲は、近頃ようやく金田朋子や井澤詩織と似たような使われ方をしている印象で、皆さん意外にも久野美咲に人間をやめてほしくなかったのかな、と筆者は少し驚いている。本作では登場人物の大半が主人公を「二ノ宮」と呼ぶなかで、リムは「キンジ」と下の名前で呼んでおり、そんな特別感も久野美咲の魅力を十二分に引き出している。2022年放送予定のTVアニメ『メイドインアビス 烈日の黄金郷』も念頭に置きつつ、引き続き久野美咲から目が離せない。
 シア役を演じる戸田めぐみは「死ぬまで働く、死んでも働く」をモットーとするボーイッシュな役柄を爽やかに務める。本作最大の社畜にして常識人のポジションを占める彼女は、ともすれば(キャストのせいで)しつこくなりがちな本作の味付けに清涼感を与えている。ランガ役を演じるM・A・Oは相変わらずよく化けるものだ。男の娘という役柄からしても、役者の本分からしても、うまく「化ける」ことは悪いことではないのだが、それだけに統一的なイメージがぼけてしまい、とらえどころがなくなってしまう。M・A・Oに一家言をもっている方にご指導を賜りたい所存である。そして、ベルザ役を演じる佐藤聡美はややご無沙汰感もあるが、二ノ宮に追い詰められる過程で鉄面皮が少しずつ剥落し、往年(?)のトーンを少しだけ聞かせてくれた。第11話の終盤、ベルザがバーで泥酔してくだを巻くシーンは聴きどころだろう。なお、端役としては、ゴブリン上司役の高木渉とゼクス=ハラー役の三木眞一郎がねっとりとした味わい深さを醸し出していた。突如として役者の姿を拝んだり、声を聴いたりする新たな機会が失われることもある昨今、まだまだ声を聴かせてほしい。素直にそう思えた年の瀬だった。

おわりに

 『迷宮ブラックカンパニー』について、批判も含めて書き連ねてきたが、とはいえ、株式投資を改めてTVアニメの俎上に載せてくれたことには十分な意義が認められると言わなければならない。ライブドアのニッポン放送買収計画の頓挫(2005年4月)をよく知らない世代が積み上がり、「恋のミクル伝説」(2006年)で後藤邑子が「TOBで株を買い占め」と歌ってから15年、『あいまいみー』第1期(2013年1月期)で「FXで有り金全部溶かす人の顔」と称してFX(外国為替証拠金取引)が茶化されてからおよそ9年が経過し、いまや「イケてる」連中の「ホットイシュー」は暗号通貨やNFT(非代替性トークン)に移っている。投資が投機やギャンブルと同視されるのはいまに始まったことではないが、そんな逆風のなかで株式投資という古典的なテーマを選び、株主総会における議決権という株式のベタな性格に着目して、投機的ではない描き方をした本作は貴重な一作であると言える。
 日本においては悲しいことに、大半の消費者は企業側からあらかじめ用意されたラインナップを主体性なく「コンプリート」させられることを「買い支え」と呼んで、「経済を回す」ことに躍起になっている。どうせカネ以外の評価軸がない拝金主義の荒野で威張りたいのなら、自己判断・自己責任で資産形成を意識してもよいのではないだろうか。あなたが「カネにものを言わせる」場所はそこではない! そんな声が本作から聞こえてきそうだ。

参考文献

上村達男「そもそも株主とは何者か:東芝事件の基礎理論」『証券レビュー』第61巻第12号、2021年、8-39頁(リンク先PDF注意)。https://www.jsri.or.jp/publish/review/pdf/6112/02.pdf

濱口桂一郎『ジョブ型雇用社会とは何か:正社員体制の矛盾と転機』岩波新書、2021年。

山口誠『客室乗務員の誕生:「おもてなし」化する日本社会』岩波新書、2020年。

デヴィッド・グレーバー(酒井隆史/芳賀達彦/森田和樹訳)『ブルシット・ジョブ:クソどうでもいい仕事の理論』岩波書店、2020年。

A・R・ホックシールド(石川准/室伏亜希訳)『管理される心:感情が商品になるとき』世界思想社、2000年。

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