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短編小説「皿を割る」

夜、流しで皿をうまく割ろうと思ったら、それにはやはりコツが必要で、ただやみくもに叩きつけたり、おそるおそる高いところから落っことしても、ステンレスが「べぐん」という衝撃を吸収してしまい、うまく割れない。

だから私はいつも、最初に割れやすいガラスのコップを2つ3つ割って、土台というか地面をつくることにしている。

ビールを買うとついてくるロゴ入りの景品のグラスなんて、割れやすいし破片も大きいので最適だ。そうしておいてから、その上にメインの食器を落としていく。固いガラスの破片とぶつかると、皿はおもしろいように、ひびが入り、砕け、割れる。

小さく振りかぶって勢いよく投げ込んでもいいし、空中でいったん手を止め、さっという感じで手を離してもいい。結婚式の引き出物のティファニーの絵皿二枚組、ずいぶん前に百円ショップで買ったご飯茶碗、無印良品の白いつるっとした湯呑み。いかにも「瀬戸もの」という感じのうす緑色の大ぶりの鉢なんかも、割れるときにごづん、と渋い音をたてて、割り甲斐がある。

ガシャン。ピシッ。ゴリン。パキ。

次第に流しの中には様々な色が飛び散り、決してきれいとはいえない曼荼羅模様が広がる。

皿を割るようになって間もない頃は、ベランダのコンクリートの床に景気よく投げつけたりしていたが、破片が飛び出して階下に落ちて危なかったり、後片付けが大変だったりで、なにかと気苦労が多い。

もちろん、屋外で割る爽快感というものはあるのだけれど、がっしゃーんと景気よく音を響かせたあと、すぐに中腰になってうろうろとかけらを拾い集めるのも間抜けというか興ざめなところがあるので、ここ数年はもっぱら「流し」派だ。

がるん。ぼくん。ばりん。ずしゃ。

ひとつひとつゆっくりと、食器ごとに落とす角度やねらい場所を変えながら、割っていく。

割るのはたいてい、今日のように夜中が多い。雰囲気を出すために、明かりは流しの蛍光灯だけにする。手元と流しの残骸たちが黄色く照らし出され、グロテスクな光景が目にちかちかと焼き付く。

父が皿を割るのも、たいてい夜中だった。普段、母から受ける執拗な責めに対してじっと耐えることの多い父も、たまに感情を爆発させることがあり、そんなときには必ず皿を割った。

リビングでテレビを眺めている私と母の耳に、キッチンの方から派手な音が聞こえてくると、びくっと体を震わせる私をよそに、母は薄い冷笑を浮かべるのが常だった。

不思議と、翌朝キッチンの床に破片がちらばっているのを見た記憶はないので、父は割った後にひとりでちまちまと片付けていたのかもしれない。あるいは、早朝母が無言で掃除機をかけていたのだろうか。

私が耳にした以外にも、そうしたことは頻繁に起きていたはずだから、あの家で犠牲になった食器の数は相当な数に上るはずだ。私は高校を卒業すると長野の実家を離れ、一人暮らしを始めたので、もう10年以上父の皿を割る音を聞いていない。

コップ、茶碗、皿、小鉢、と締めて10個ほどを割り終えると、流しいっぱいに広がった破片の山を、しばしの間、達成感とともに眺め、私はそそくさと片付けを始める。ビニール袋を取り出し手を切らないように気をつけながらかけらを一つ一つつまみ上げ、袋に入れていく。

大きな破片どうしがぶつかって、ちりんと小さな音がする。手でつまめないぐらい小さいかけらを、排水溝の網で集め、ひっかかっていた残飯のくずと一緒に袋へ放り込む。ついでに、簡単にぬめりを掃除してから、ビニールの口をぎゅっとしばる。

初めて皿を割ったのは、就職して2年目のころだった。当時、いろいろなことが重なってだいぶ弱っていた私は、ふと実家の父のことを思い出し、試しに、長年使い込んでもう捨てられなくなっていたマグカップを、割ってみたのだ。するとこれが思いの外、気持ちよく、なるほどなるほど。なるほどお父さん。と声に出して感心したのを覚えている。

ささやかな罪の意識なんてものはあっという間に麻痺し、「深夜にひとりで食器を割る独身女性っていうのは、どう考えてもあぶないよなあ」とひとごとのように見るようになり、そのうち「何かほかのことで発散するより、よっぽど健康的」と自己弁護するうちに、皿を割ることは私の習慣のひとつとなった。

ひところは毎週のようになにかしら割るので、食器が足りなくなって不便な思いをしたりもしたが、ここ数年は3〜4ヶ月に一度のペースで落ち着いている。

もはや、何か発散させるという本来の目的よりも、時折厳粛な気持ちにひたるための儀式となっていて、もしかしたら父も案外こんな醒めた思いで皿を割っていたのだろうか、などとも思う。

水が垂れてこないよう、とがった破片が袋から突き出てこないよう気をつけながら、ビニールをそっと持ち、ポケットに財布とカギだけ押し込んで外へ出る。11月になってぐっと夜の空気が冷たくなった。

今日は金曜で明日は土曜だから、燃えないゴミの日でちょうどいい。アパートの裏の街灯に照らされたゴミ捨て場に、てごろな重さになっている袋を、遠くからひょいっと投げる。

ぼすっというくぐもった音がする。私は、この時間帯になっても車通りの減ることのない大通りの方へ、ぷらぷらと歩き出す。

母はお姫様のような人だった。地元の警察署長の娘として大事に育てられた彼女は、小さい頃から目鼻立ちがくっきりとしていて、かわいい女の子だった。

小さい頃の写真を見ると、田舎の小汚い子どもたちに混じって、お人形のような服でドレスアップされた母は、明らかに周囲から浮いていて、あの有名な天才子役みたいだった。さらに、両親の方針でまったく方言を話さないように教育された母は、大人になると、華やかな容姿と綺麗すぎるほどの日本語で、さらに浮いた存在になっていった。

美人で社交的で、姿を見せるするだけでその場がぱっと明るくなる。そんなお姫様が、21歳の時見合いで結婚したのが当時32歳のうだつの上がらない高校教員の父だった。

父は生まれつき極度の弱視で、遠くのものがよく見えない。背は低く、顔もよくない。さらには陰気で、人付き合いの苦手な性格だった。どう見ても不釣り合いな二人は、最初からうまくいかなかったらしい。

母はあからさまに父を恥じ、パーティなどの人の集まる場所に父を伴って出席することは決してなかった。それだけでなく、ことあるごとに、父の容姿、性格を馬鹿にし、非難した。

「すてきな人とは言わないけど、せめて普通の人と結婚したかったわよ」と子供の前でもはばからずになじり倒し、私と兄になにか身体上の疾患(喘息、アレルギー)が見つかると「これはあなたの遺伝子のせいだ」と真顔で責めたてた。

父も、引け目を感じるのか言い返すこともなく、笑ってやり過ごしたり話題をうまく変えたりすることもできないものだから、そのたびにむっつりと押し黙ってしまう。夕食の席はしばしば母の一言で気詰まりなものになった。

さすがに母の感情が兄や私に直接向けられることはなかったものの、母はつねに明るく、前向きであることを、子供たちにも強要し、期待した。「もっと明るい人気者の友達と遊びなさい」と注意をうけることもあった。

私は、小さい頃から母にあちこち連れ回されるものの、すべての人の眼中に私の姿はなく、みんなの関心は母ににだけ向けられることに気後れし、内向的でひねくれた性格になった。さらには、父から弱視とアトピー肌(と、ちょっとした絵の上手さ)を受け継いだ私のことを、いったい母はどういう思いで育てたのだろうか。

駅前のコンビニで牛乳とパンを買い、雑誌をぱらぱらと眺め、私は寄り道することなく、もと来た道を帰り始める。

空は曇っていて、月や星は見えない。秋独特のひんやりした空気が頬と鼻に気持ちいい。大通りから一本路地にはいるとあたりはぐっと静かになり、クラクションの音も遠くにかすかに聞こえるだけになる。

コンビニの袋がかしゃりかしゃりと足に当たるのがおもしろくて、わざと強めに足にぶつけながら、歩く。

明日は友人夫婦の家に招かれているので、これ以上あまり夜更かしするわけにはいかない。二人目の子供が最近生まれたらしく、それを見せられに行くのだ。待ち合わせは何時だっただろうか。手みやげは買ってないが、明日駅ビルで何かお菓子でも買えばいいだろう。

大学時代の同期であるその家は、夫婦ともに大きな外資系の会社に勤め、昨年にはマンションも購入し、それぞれの両親から祝福とさまざまな面でのバックアップを受けている、絵に描いたような恵まれた若夫婦だ。

そういうまぶしい感じの人が苦手な私にとって、明日の訪問はまったくもって気乗りしないが、とりあえずそつなく、友人の顔をしてこようと思っている。

ゴミ捨て場の前を通りかかる。さっき捨てたビニール袋をなにげなく遠目に確認しようとするが、暗くてよく見えない。手をつないで、深夜の散歩をしているカップルとすれ違う。男のかぶっているニット帽がやけに黄色い。

長野には2年前の正月以来、帰ってない。母も最近では、周囲の人間が次々に亡くなり、あれだけ馬鹿にしていた父と寄り添って生きていかざるをえなくなったようだ。父も今では皿を割るようなこともないだろうか。実家の食器棚で、じっと息を潜めている食器たちのことを、つかの間、思う。

もう一度、なにかに呼ばれたかのように、ゴミ捨て場の方を振り返ったあと、私はアパート脇の階段をトントンと登った。

photo by Ayurvedic India

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