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犯人はいつもそばに?

小学生の頃から推理小説や刑事ドラマが好きだ。
コナンくんも好き。

しかし、ぼんやりと気になっていたことがある。
いつも犯人って探偵や警察の近くにいて、捜査の過程ですでに顔なじみだな。それも3人くらいのうちの1人という高確率。

そして、犯行の動機。
パトカーに乗る直前または取調室の中でちょろっと。
なんだかみんな衝動的に見える。
現実、何か事件が起こったとして、犯人は遠くに逃亡していることも多いだろうし、逮捕のときにはじめましての場合もあるはず。
動機も数分で語れるようなわかりやすいものばかりではないだろう。
むしろ、そのようなものは少ないかもしれない。

しかし、限られた文字数や時間の中で現実に則した表現をすることは不可能なのかもしれない、できたとしても盛り上がりに欠けるのかもしれない、
仕方ないことなんだ、とむりやり自分を納得させた。

そんなある日、私は衝撃的な出会いを果たす。
それが、今回のタイトル、『緋色の研究』である。

皆様御存じのとおり、コナン・ドイル作の不朽の名作である。
私が読んだのは創元推理文庫の深町真理子氏翻訳のもの。

読後、もう、言葉にならない。
いろいろな気持ちがないまぜになってしばらく動けない。
どういう気持ちから涙が出ているのかもわからない。

そんなに厚くない、むしろ薄い方であるこの小説を読んでいくと、本の半分のところで犯人がわかり、拍子抜け。
しかも、なんとその犯人、推理を明かす段階ではじめてホームズたちの前に現れる。
もちろん読者の私もはじめまして。前のページを確認。やはりいない。

この段階で今まで読んできたものとなにか違う。

そして、犯人はわかったけれど本の残り半分はどうするの、と疑問。
するとなんと、犯人のことを何もしらない私たちに向けて、後半部分すべてを使い、犯人の半生から犯行にいたるまでが詳細に語られる。

凄絶

長い人生において、犯人が被害者のときだって確かにあった。
被害者のときの方が多かったように思う。

切り取る場面や切り取る側の立場によって、白が黒に、黒が白になる。

私も、犯人と同じ立場だったら同じ道を選択するかもしれない、とまで思わせられる。

真っ白も真っ黒もない。
真っ白にも真っ黒にもなれない。

私のぼんやりとした違和感をすべて解決してくれる小説が100年以上も前にすでに存在していたという衝撃と感動。