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トルストイ作『クロイツェル・ソナタ』を読んだ。

ベートーベン バイオリンソナタ第9番 op.47 クロイツェルを聴いていました。
トルストイ先生のクロイツェル・ソナタのタイトルはこの曲にちなんで付けられたものです。
具体的な男女の間の愛がテーマになっていて、男が妻を殺害するに至った流れを(精密に)語る形式で書かれています。

結婚は儀式的に男性が女性を所有する目的でするものだとか、結婚は愛によってされるべきではない、なぜなら愛が永遠だというのは点火した一本の蝋燭が永遠に火が灯し続けているようなことであり不可能だからつまり愛によって結婚したとしても愛はすぐに消えてしまうとかそんなことを話していて、
それらは私にはどこか前時代的な考えに思えたし女性を卑下しているところがあって胸が傷みました。でも、これは昔(たぶん19世紀)のロシアの上流階級の話だからそれがおかしいとは思いませんでした。

戦争と平和といいアンナ・カレーニナといい、トルストイの書いた作品でしか知らないけど、こういった上流階級は精神的に病んでいる人たちの世界だと感じました。私の理解の範疇にない事が平然と起きているのだと。
この小説の主人公も自分を廃人だ言っていたし、私も読みながら彼は狂ってる!と何度も思いました。でも、現在の私たちもあながち彼らとは大差ないようにも思いました。
人は誰かを愛し、信じては疑い、憎み、赦したり赦さなかったり。

昨日読んだ『人間失格』では葉蔵が罪のアントニムは罰か、いやドスト先生は罪のシノニムに罰を置いたのかみたいなことをヨシ子が階下で犯されている時に考えていたように思いますが、その時に愛のアントニムは憎しみだとか言っていたし、ネットで調べても人に尋ねても「愛の対義語は憎しみ」とされているでしょう。
でも私には分かりませんでした。

私は嫉妬は愛の副産物だと把握しています。嫉妬の怒りによって憎しみが発生するのも分かっています。でもこれは矛盾しているように思えてしまうのです。
愛しているのに、いつの間にか憎んでいる、みたいなことは、そのプロセスは理解できますが、本当に起こるのでしょうか。愛と憎しみは拮抗するものだと思っていましたが、両者は共存するのでしょうか。小説の彼に、愛と憎しみは張り合っていたのか。(語彙力なくてうまく言えない……)
私には難しくて分かりません。そもそも、愛していたのか、それなら愛とは何か。それさえ分かりません。

この小説では、彼は妻を愛していないとか、喧嘩ばかりとか言ってたように思いますが、妻がバイオリニストと不倫するとすごく憎しみを感じていました。そもそも愛していないのなら、なぜ嫉妬して妻を憎むのか分からないです。
(たとえ愛がなくなっていても)自分の妻が他の男と良い雰囲気になるのは耐えられないということか。
自分の妻に不貞行為が認められたら、怒るのが当たり前なのに、敢えて、逆に、バイオリニスト(家族全員の平穏を乱し、幸福を破壊するためにやって来た男だと分かっている)を歓迎するような態度を取って、自分はこれしきのことでは動揺しないという素振りをしながら(妻もそんな感じ)、心の中では怒りの炎か燃えていて、舌の先まで酷い言葉が出かかっている。また、彼は妻に酷い態度を取るんです。食事の後で部屋に来た妻に対して皮肉を言ったりしていて、「あなたがどんなことをしても私驚かないわ」と妻に言われると、「出て行け!さもないとぶち殺すぞ!」とか「もう自分のすることに責任は持てんぞ!」とかそんなことを言って気が狂った様な態度で彼女を部屋から追い出すんです。妻はヒステリーを起こしてしまいますが、朝には落ち着いて、夫婦は「『愛』と名づけていた感情の影響で」和解したのです。
妻とバイオリニストの不倫現場に乗り込むときも、わざわざ靴を脱いで靴下姿になって悟られぬようにひっそりと近づいて、ドアを開けて言い訳する彼らにナイフを持って飛び掛かって、妻を刺して、逃げるバイオリニストを追い掛けたかったけど靴下姿のまま追い掛けるのはみっともないから追うのはやめようと思ったり、どうやら理性があるんです。彼も自分が何をしているかをわきまえていたようですし。
翌日、「今度は自分を始末する番だ」と拳銃を手に取って自殺することは簡単にできると思いながら、でも自分は自殺しないと分かっていたり。そして、(自分が刺したせいで)死にそうな妻のところへ行き「妻も罪を悔いたのだろう」とか「死んでいくんだから許してやってもいいだろう」とか考えているんですが、妻に「さぞかし本望でしょう、人殺しをして」などと言われます。「なぜこんなことになったの?」と言う妻に、彼は「許してくれ」と言いました。自分が犯した罪の大きさを悟ったように。ずっと憎んでいたし殺すつもりだったくせに。なんだか白々しいとも違う感じがしました。なんと言い表すべきか分かりませんが。
本当に狂ってると思いました。でも、彼の立場も理解できます。
面白い話だったけど分からないことだらけでモヤモヤしています。
簡単に言うなら、本当に生きづらい世の中だと思いました。

この悲劇を全く理解できたとは思っていません。経験も知識も不足し過ぎていると感じました。
いつかこの小説を理解できる日が来るのか、それは分かりません。というか、そんな日が来ることを私は望んでいないです。

でも、彼の妻とバイオリニストがクロイツェル・ソナタを演奏する様子を想像していたら私もピアノを弾きたいと思いました。本当に良い曲です。
バイオリンは弾けないけど、ピアノなら高校三年まで習っていたので趣味の程度で多少は弾けます。この曲をバイオリニストと演奏できたらきっといい気分がするでしょうね。いつか演奏できたらいいです。
もちろん純粋に音楽を楽しむためで、小説のように合奏の練習と称して他人と物理的に近付くなどという疚しい目論みはありません。

ここ最近精神的に参っているようで、自分は病気なのかと思うことさえあります。でもそれが本当なのか錯覚なのかはどうだっていいのです。
こんなお叱りを受けると分かりきっていることを直接言うのは正気ではありませんが、
医者は何にだって名前を付けて「あなたは○○という病気だ」と言って薬を買わせるものだと思っています。私は医者を信じていません。別に病院に通うのは結構なことですが、医者と名乗る偉そうな人に自分のことをあれこれ話すのが苦手です。診察と呼ばれるそれが嫌なのです。脱毛の施術時に衣類を脱ぐのは慣れましたが、自分の裸体を見られることと同じくらいそれは恥ずかしいです。
病気になったら医者に行かなきゃいけないですが、医者を信じすぎるのも違う気がしています。私は医者のお陰で命を救われた経験がありませんのでそう思うのです。
私の義侠心と関係があるのかどうかは分かりませんが、先生とかお医者様とか呼ばれている人たちの気が知れないだけです。医者は神じゃないですから。神は自分が医者じゃないと知っていますが。
医者は合法的に人を傷害することができます。あれこれ知識や技術、道具を用いて他人の人生を伸ばしたり縮めたり怪我や病気を治してみせたりできるのは医者だけです。と言ったものの、彼らは疚しい職業ではありません。全て私の妄想の中の医者の話です。今の私には縁のない職業ということは知っています。

とにかく。侘しい、というかこの憂鬱の原因は何なのか、昨日一昨日から読んでいるガリレオの生涯とか人間失格とかそういう本の影響だと思いました。一時的なものですぐに治ると思います。
本当はプラトンの本か、サガンの小説を読もうと思っていましたが、明日はもっとライトな小説を読もうと思います。
『嵐が丘』とか『ジキル博士とハイド氏』は先日買ってまだ読んだことないので候補ですが、内容が重たいかもしれないので
一度読んだことのある本でライトに読めると分かっている本を読むのもいいかもしれないと思っています。次に目が覚めた時に考えます。

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