見出し画像

「うやまわんわん〜犬将軍を崇める一族〜」第一章 館林(その1)

あらすじ

徳川綱吉の生まれ変わりと伝えられる犬の子孫を代々守っている家老の家系の一族の物語――。

「いじめなんて逃げればいいじゃん」

高校の門の前で立ちすくむ暢、通りかかった幼馴染の犬守狛音がその手をひいた。

暢は小学生時代からいじめられていたが、狛音がいつも助けてくれた。彼女は両親が離婚して、館林の裕福な父に引き取られていたが、東京へ家出してきたという。

暢は連れもどされた狛音を追って犬守家を訪ねるが、主として紹介されたのは「公方様」と呼ばれるトイプードル。
徳川綱吉の生まれ変わりと伝えられる犬の子孫で、家老の家系の犬守家が58代目となる今日まで守っているという。

暢は屋敷の大奥ならぬ「犬奥」へ案内されるが……。

トーストのパンくずがついた皿を流しにさげると、調理台の上に置いてあるお盆を手にとった。
お盆の上には、赤いごはんに豚肉と白菜の煮物をかけ、焼いたバナナをトッピングした料理がのっている。

「また赤飯のやつ?」

食卓でワイドショーを観ている母に声をかけると、

「赤飯じゃなくて黒米ごはん。からだにいいのよ」

一瞬たりともテレビから目を離さないまま、母は言った。僕との会話より、熱帯夜の快眠法のほうが大事らしい。母のそばに突っ立っていると、

「はやく持ってってあげて」

小次郎に食事を届けるのが僕の日課だった。

リビングを通ってとなりの部屋にむかう。小次郎には、道路に面したいちばん陽当たりのいい部屋があたえられていた。

「小次郎、ごはんだよ」

お盆を持ったまま引き戸をあけると、小次郎は窓ぎわで伸びをしていた。おもちゃ箱がひっくり返っており、床におもちゃが散らかっている。

「朝からなにやってんの?」

部屋に入り、おもちゃを足でどかしたところ、気にさわったらしく怒られた。
「ごめん」と反射的に謝りながら、小次郎の前にお盆をおく。小次郎は面白くなさそうに皿をひっくり返し、肉だけを選んで口にした。

「また? もったいないなあ。せっかくお母さんが煮干しで出汁だしまでとったのに」

棚からティッシュを取って、こぼれた煮汁を拭こうとすると、みつかれた。
絶叫して手を引っこめる。ごはんを取られるとでも思ったのか、歯をむき出しにした小次郎がつぶらな瞳でにらんでいた。

指がじんじんと痛み、血も流れている。救急箱があるリビングにもどろうとすると、足の裏にごりっとした感触があり、痛みが走った。

骨のおもちゃを踏んづけてしまった。足を引きずりながら部屋をあとにすると、背中からワンワンと僕をとがめる声がした。

「ヘイ、Siri! あいつ、ぜったい自分のほうが上だと思ってるよ」

便座に座っておしっこをしながら、Siriに愚痴ぐちを聞いてもらう。いつものようにドアをすこし開けていた。ドアのすき間のか細い線は命綱のようなものだ。

〈すみません、よくわかりません〉

スマホのディスプレイに文字が浮かんだ。

「飼い犬に手を噛まれたの! 血だって出てるよ。3歳のトイプードルのくせに、一まわり以上も年上の僕より態度がでかいんだ」

そもそも人間の僕にはトースト1枚なのに、飼い犬の小次郎には毎朝手のこんだ料理が出されている。母が甘やかすから勘違いするのだ。
Siriはというと、僕が手を噛まれたと聞いてか、近所の病院を探してくれていた。

「そういうことじゃないって!」

画面をスワイプすると、親指の絆創膏ばんそうこうがにじんでいた。血を見たとたん、小次郎の世話よりはるかに深刻なことを思い出し、急に胃が痛くなった。

いじめのきっかけは些細ささいなことだった。身体測定のとき、上履きを脱いで身長計に頭をつけると、みんなにクスクスと笑われた。

ふと、足もとを見ると靴下がピンクだった。きっと母が赤いものと一緒に洗って色が移ったのだろう。それから、たびたびクラスでからかわれるようになった。

昼休み、教室に1人でいたら、親切なクラスメイトが「つぎの保健の授業は中止で、校庭でサッカーになった」と教えてくれた。

チャイムが鳴って校庭に出ると、女子しかいない。声がして校舎を見ると、みんな窓から顔を出して笑っていた。あきれ顔の先生はメガホンで、

「光村、お前いつから女子になったんだ? 男子は教室で保健だろ」

翌朝、登校すると僕の机にエロ漫画が入れられていた。おっぱいを出して大股開きをした美少女の表紙に、マジックで「保健体育」と書かれている。

机から取り出すところをスマホで撮影された。相手にせず淡々と席についたが、リアクションが悪いとつぎの日に撮り直しさせられた。

2回目は椅子に画鋲が仕込まれていた。僕が声をあげて飛び上がり、みんなに爆笑される動画がインスタにアップされた。
夜、浴室で制服のズボンをこすったが、鉄の臭いは落ちなかった。その後も〝ドッキリ〟と称して、毎日のように撮影は行われた――。

胸を押さえてトイレでうずくまっていると、カチャリと音がして足もとが暗くなった。顔をあげると、ドアのすき間の命綱が消えている。

ドアのおもてには、うしろのルーバー窓からもれた光がいくつも横方向の筋を描いていた。
跳び箱のなかを思い出し、息が苦しくなった。焦ってノブをつかみ、勢いよくドアをあけた。

「あら、入ってたの? ドアが開いてたから、いないのかと思って」

廊下の奥から母の声がした。じんじんする指をのばして電気をつけ、また命綱のすき間を残してドアを閉めた。

荒い息を吐きながら、便座のふたに背をつける。ふと、ドアの横の細長いカレンダーが目に入った。
ペットサロンでもらったもので、7月のカレンダーだ。なぜか照明に近い上旬と中旬の日付に影がさし、下旬の日付が光って見えた。

朝から強い陽射しが照りつけるなか、住宅地のなかの通学路を歩いていた。
目の前につづくアスファルトが灰色のプールのように見えた。道路の白線は日光をはねるコースロープ、ぼやけた電線の影はプールの底のコースラインのようだ。

プールのなかのように足どりは重かった。もうすぐ夏休みだというのに、家を出てからずっと嘔吐えずいている。
のどの奥から酸っぱいものがこみ上げてきては、あわててごくりと飲みこんでいた。

幼いころ、父と区民プールに行ったときのことを思い出した。急に気分が悪くなった僕は、プールのなかで吐いてしまった。

父はほかの利用客に背をむけ、僕そっちのけで水面に浮かぶゲロをかき集めると、プールの端まで運んでいった。
こっそりと排水溝に流している背中を、僕はぽつんとプールのなかから見つめていた。

僕のからだより他人の目のほうが心配なの? 幼心にそう思ったが、いつのまにか自分も父と同じような行動をとっていた。

どんなにひどいいじめを受けても、毎日きちんと学校に通っていた。
不登校や高校中退になって、社会のレールから外れてしまうことを恐れたのだ。自分の心やからだより世間体のほうが大事だった。

野球部のリュックを背負った制服に追い抜かれる。囚人服のような制服のすがたが道に目立ちはじめた。

あと数日で夏休み、もうすぐ大手をふって不登校になれる。
夏休みまでの数日は刑務所の1カ月にも感じられたが、高校までの道のりは万里の長城のようにつづけばいいと思った。このまま永遠にたどり着かなければいいのに……。

「学校に行きたくないよ」

角を曲がり、校門が見えるとついに足がとまった。砂場に埋められたみたいに下半身が動かない。

〈教育は人をつくるといいますよ〉

Siriは言った。まわりの話し声がすべて自分の悪口のように聞こえ、彼女の見当違いの答えが僕をいっそう孤独にする。

あのころみたいに狛音こまねがいてくれたらな、と切に思った。小学生のころもいじめにっていたが、そんなときいつも狛音が助けてくれたのだった。

いまの家ができる前、まだマンションに住んでいたころ、彼女はとなりの部屋に引っ越してきた転校生だった。
ひとつ年下だけど大人びた彼女は、子供じみたいじめっ子どもを追い払ってくれた。放課後はきまって彼女の家でDSをした。

「――きのうのミニゲームんとき、パスミスで失点しやがったから、罰としてオオタにすね毛ファイヤーしてやった」

手首にミサンガをつけたサッカー部の集団が通りかかった。

「なんそれ?」

「コールドスプレーかけて火つけるんだけど、毛が燃えてマジくさかった」

「俺も後輩にやったことあるけど、チリチリになるだろ?」

「そうそう、あいつ『俺のすね毛がー』つって、涙目でくそウケた」

「あー、俺も見たかったわ」

「動画あるけど、いま観るか?」

スマホに顔を寄せ合いながら、つむじ風のように通りすぎていった。

「Siri……怖いよ」

雑踏のなか僕はつぶやいた。小さな声はサッカー部のバカ笑いにかき消されるように思われたが、

「大丈夫、私がついています」

余韻が消えてなくなる前に声が返ってきた。Siriが助けにきてくれた? 彼女にしては生々しい声だった。

肩をぽんと叩かれた。クラスの女子がからかっているのだろうか。こわばった顔でふりむくと、えりにペールグリーンのリボンをつけた制服の女の子が立っていた。

「――なんつって。なにやってんの、のぼるくん。Siriに相談? マジきもいよ」

懐かしい声は、高校生になった犬守いぬもり狛音だった。きりりとした目にツンとした鼻。顔は昔と変わっていないが、髪はセミロングからショートボブになっていた。

白いブラウスにグレーのスカート。白いハイソックスには学校のシンボルマークが刺繍ししゅうされている。
彼女は中学受験で女子御三家のあおい学園に入学し、遠くの街に引っ越したはずだった。

「暢くん、背のびて声変わりしたけど、中身はぜんぜん成長してないね」

小学生のころ僕より背が高かった狛音があきれ顔で僕を見あげて言った。「で、なにが怖いの?」

「……学校」

小学校を卒業してから5年ぶりの再会なのに、きのうの続きのように僕らの空気はなじんでいた。
彼女が現れるのを願ったとたんに叶えられた奇跡も、あのころみたいに当たり前に感じられた。

小声でわけを話すと、狛音はぎゅっと眉根をよせた。

「いじめなんて逃げればいいじゃん」

僕の手をとり、学校とは反対方向に引っぱった。

体育倉庫の跳び箱のなかに閉じこめられたときも、彼女が助けにきてくれた。
いじめっ子を跳び箱から引きずりおろし、「いじめなんてダサイことしてんじゃねえよ!」と電気あんまを食らわせた。彼女はいつだって僕のヒーローだった。

「ダメだよ。無断欠席になっちゃう」

狛音は登校の群れのなかをスタスタと逆行していく。重力から解放されたように、僕は凧みたいにフワフワと引っ張られていく。

周囲の注目が僕らに集まり、そのなかにいじめのリーダー格の唯野ただのの顔もあった。
名門校の制服の女子に手を引かれ、朝から学校をサボる僕を見て、呆気にとられる彼に、不思議と優越感をおぼえた。

動画の早戻しのように、いまきた道をどんどんもどっていく。見飽きた通学路が急に新鮮に映り、背徳感と解放感が夏の陽射しに照らされていた。狛音のほうを向き、

「どこ行くの?」

僕の声には場違いな高揚感がにじんでいた。灰色のプールはコバルトブルーの大海原に変わっていた。

「Siriにでもけば?」

前を見すえたまま狛音は言った。僕はタグボートに引かれるのろまなタンカーのようだった。

いつのまにか抵抗するふりもやめ、彼女のあとをトコトコと追っていた。
駅に向かっているのは予想どおり。信号でとまって手が離れても、彼女はふりむきもせず、僕の行動を確信したように青になるとまた歩を進めた。

鉄道の高架下に「SEIYU」の文字が見えた。もうすぐ練馬駅だ。
高架下にもぐり、西口の階段をあがる。構内に入っても彼女は無言のまま、分厚い財布をかざして改札を抜けた。そして音が鳴り、僕は締め出された。狛音はそこではじめてふり返った。

「――暢くんって、ほんと鈍臭い」

狛音はため息まじりに言った。電車もプシューと息をついた。

僕らは都心にむかう各駅の電車に乗っていた。朝のラッシュはすぎていたが、車内はまだ混み合っている。2人ぶんの座席を彼女がすばやく確保してくれた。

「そういえば、ポートボールのときもミス連発して、ハタヨウにキレられてたよね」

〝ハタヨウ〟とは、小学生のころ僕を跳び箱に閉じこめたあいつの名前だった。名前を耳にするだけで胃がきゅっとなる。僕は話題を変えて、

「でも、なんで練馬にいるの? 学校はいいの?」

「……うん、いい」

狛音のトーンがふいに陰りを帯びた。

伏し目がちの表情は、あのころ僕がゲームに完敗して、「ごめん、ごはんの時間だからもう帰る」と告げたときと同じだった。
わざわざ玄関まで見送りにきて、「バイバイ」と言葉少なだった。

「じつは、ママが入院してね」

「おばさんが?」

「病気はたいしたことないんだけど……」

狛音の語るところでは、練馬にいたころ、彼女は母親と2人で暮らしていた。

父親の浮気が原因で両親が離婚して、母親と一緒に引っ越してきたのだった。
中学に進学するとき、学校に近い街にふたたび引っ越したが、さいきん母親が入院して、群馬県の父親のもとに引き取られたという。

「だけどね、館林の家には〝新しいママ〟がいたの」

狛音はおとぎ話でも語るみたいにけろりと言った。僕は声を落として、

「〝新しいママ〟って……」

「浮気相手の女。パパ、その人と再婚してたの」

彼女の語尾には力がこもっていた。心ならずもといった感じで、顔をまともに見ていられなかった。鼻にかかった声で、「いやになって家出しちゃった」

行く当てはなかったが、ふと練馬に足がむき、街をさまよっていて偶然、僕を見つけたということだった。それを聞いて、僕はどんな言葉をかけてあげたらいいかわからず、

「……そうなんだ」

「あんな家、二度と帰らない」

そこまで話し終わると、狛音はふて寝してしまった。

うしろの窓に目をむけると、副都心の超高層ビルがちらほら見えてきた。ビルのすき間のせまい空には、陰影に富んだ不気味な雲が浮かんでいる。

僕を引っぱりつづけて疲れたのか、狛音は寝息を立てていた。群集のなかに残された僕は、急に不安になった。

この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?