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「うやまわんわん〜犬将軍を崇める一族〜」第五章 東京(その2)

風呂あがり、部屋にもどってきた僕は電灯の下で、浴衣の片そでを脱いでわきの様子をチェックしていた。
高校生なのにツルツルでいまだに生える気配もなかった。恥ずかしくてSiriにも相談できず、ずっとコンプレックスだった。

のぼるくんって、脱毛してるの?」

声がしてふりむくと、狛音こまねがサンドイッチの載ったお盆をもって、部屋のなかに立っていた。

「なに勝手に入ってんの! ノックくらいしてよ」

みるみる自分の顔が赤くなるのがわかった。「脱毛なんてしてない。生えてないだけ」

「そりゃあ、部屋くらい入るよ。あたしの家だもん」

狛音はズカズカとベッドに歩いていくと、腰をおろして横にお盆をおいた。「あたしの家だもん」とは家出娘が聞いてあきれる。

「それにしても、暢くんって……」

「……な、なに」

僕は浴衣にそでを通しながら身がまえた。

「中身だけじゃなくて、からだも子供だったんだね」

「しょうがないじゃんか! 成長の早さは人それぞれだし、犬彦くんも中2けど、まだ声変わりしてないでしょ」

「なに言ってんの? 犬彦は小学生のころから声変わりしてるよ」

狛音は夕食がわりのクラブハウスサンドをかじった。「そんなことより、聞いてよ。パパ、説教長いし、ほんとムカつくんだよね」

彼女の口からパンくずが飛び散る。僕はシーツにコロコロをかけながら、

「なんでお父さん、怒ってたの? 3人で動物園に行ったくらいで」

「ユウちゃんを連れてったのが気に入らないんだよ。分犬守と仲良くするなって」

「じゃあ、鮪吉ゆうきちくんにスイッチなんてプレゼントしたらやばいじゃん」

「あの女がプリクラ見つけて、ペラペラしゃべるからだよ。今度は証拠がないから大丈夫。暢くんもしゃべんないでね」

とりあえず、久作さんに殴られることはなさそうなのでほっとした。頭上からパンくずが紙吹雪のように降りそそぐ。

「わかったから、お盆の上で食べてよ」

「やだ。あたしの家だもん」

「………」

狛音は父への不満を延々としゃべりつづけた。久作さんの説教が長いと言ったばかりなのに、血は争えないようだ。
僕はまともに聴く気分になれず、コロコロをかけながら別のことを考えていた。犬彦くんの声のことが気になっていた。

熱中症で倒れた日の夜、壁越しに犬笛を教えてもらったとき。家出した狛音を探していて、廊下で鉢合わせしたとき。彼と話した2回とも子供みたいな高い声だった。

「ねえ、最後に犬彦くんと顔合わせたのはいつ?」

「はあ? なにいきなり」

狛音は愚痴をとめてカルピスをごくりと飲んだ。右上に視線をむけ、「おじいちゃんのお葬式のとき。そのころはお調子者の犬彦だったね」

「もう声変わりしてたんだ?」

「うん、それはよく覚えてる。パパとママが離婚して、あたしはママについて行ったから、ひさしぶりに会ったら声が低くなっててびっくりした。犬彦が小6のとき。

中学に入ってから不登校になったらしくて、おじいちゃんの一周忌には引きこもって出てこなかった。
跡取りのくせにって、パパがゆみ子さんになじられて、三回忌ではあの男が段ボールかぶって犬彦になりすましてたわけ。ママが入院してあたしが帰ってきてからは一度も見てない」

「お風呂に入るときがチャンスだから、犬彦くんに会いに行こうよ」

「やだよ。あの女も一緒なんでしょ」

彼女は口内炎にトーストが刺さったみたいに顔をしかめた。「暢くん、お風呂のぞきたいだけじゃん」

「ちがうって! 犬彦くんにまた会いたいだけで……」

「そういえば、お葬式のとき、犬彦とツイッターをフォローし合ったんだった」

「狛音って、ツイッターやるの?」

「いまはやってない。犬彦をフォローしたはいいけど、あいつがしょっちゅうパパとあの女と行った海外旅行の写真をアップするから、いやになってミュートしちゃった。

あと、犬彦にフォローされてから、〝箱男〟っていう変なアカウントにもフォローされて、ID見たら〝@inukoubou〟ってあったから、すぐにパパが伊怒工房に監視させてるのがわかって、ツイッター自体やんなくなった」

狛音はクラブハウスサンドを完食していたが、皿には4つトマトのスライスが残っていた。

「トマトは食べないの?」

「そうだ、思い出した」

彼女は急に手を叩き、手からパンくずがパラパラと落ちた。「昔からそうだったわ。あたし、トマト苦手なんだけど――」

狛音は僕の言葉をてこに幼少期までさかのぼり、父への恨みをぶちまけた。

「パパ、あたしがトマト残したら怒るくせに、犬彦が好き嫌いしても怒んなくて、ごはんの代わりにケーキ食べても許しちゃうの。
パパはいつもそう。犬彦は長男ってだけで甘やかして、あたしには厳しかった。あー、だんだんムカついてきた」

トマトスライスが散らばった肉片のように見えた。僕はとんでもない地雷を踏んでしまったようだ。

「犬彦はバカだし、なんもできないの。なのに、犬彦ばっかかわいがられて、あいつは勉強できなくても怒られないのに、あたしは成績がちょっと下がると怒られる。

でも、テストでいい点取ってもほめてくれないし、それどころか、あたしが勉強してるあいだに、犬彦だけナイターにつれていくの。
さすがに文句いったら、『野球きらいだろ』だって。そういう問題じゃない! 犬彦は暢くんと一緒で運動もぜんぜんダメで――」

犬彦くんのことを「バカだし、なんもできない」と言い出したときから、自分のことのようで胸にグサグサきたが、ついに真正面からとばっちりを食らった。

「サッカー習ってたけど下手くそなの。あいつはベンチなのに、試合のときは家族みんなで応援に行って、でも、あたしのダンスの大会には、パパは来てくれないし、審査員特別賞をもらっても、『あ、そう』って感じ。

だからある日、犬彦ばっかひいきしてズルイってパパに抗議したら、『平等にしてる。お前の被害妄想だ』って言われて、納得いかないから食いさがったら、『生意気だ。子供のくせにかわいげがない』『お前はお姉ちゃんなんだから、跡継ぎの弟を支えてやれ』って逆に説教された。
いつも『お姉ちゃんだから』『お姉ちゃんだから』……あたしは一生、弟の裏方なわけ!?

パパにふりむいてほしくて、一生懸命勉強したけど無駄だったよ。今度はパパを見返してやろうと、がんばって葵中学に入った。
でも、ぜんぶ無駄。バカバカしくなって、高校で勉強も放りだして家出しちゃった」

狛音の積年の恨みはよくわかったが、ひとりっ子の僕はいまいち共感できなかった。むしろ兄弟のいる彼女をうらやましく思った。

小学生のころ、狛音がマンションのとなりの部屋に引っ越してきてからは、毎日のように一緒に遊んで、本当の兄弟ができたみたいでうれしかった。
1つ年下の彼女のほうがお姉さんみたいで、僕をいじめっ子から守ってくれた。

狛音の愚痴を聞きながら犬彦くんの写真のことが気になっていた。ツイッターに家族写真を投稿していたなら、犬彦くんの顔をすぐ確認できるはずだった。

「ツイッターの犬彦くんの写真見せてよ」

「いま、スマホない。となりに置きっぱなし。お盆さげたあと持ってくるから待ってて」

1時間以上話しつづけてすっきりしたのか、彼女は意外なほど素直だった。

「すぐ見たいから俺が行くよ」

「来なくていい。どうせあたしの部屋、物色するつもりでしょ。前もあたしのスマホのぞき見したしね」

「誤解だって!」

立ちあがろうと膝をつくと、

「おすわり」

狛音も立ちあがり、僕の前に右手をかざした。「もう警察のお世話になりたくないでしょ」

彼女は左手でお盆をもつと、あとずさりして部屋を出ていった。

……僕は犬じゃない。

「暢くん、いい子。おすわりして待ってたね」

約束どおり、狛音がスマホを手にしてもどってきた。僕はベッドのふちにもたれかかり、受けとったスマホに目を落とした。

ツイッターの犬彦くんのアカウントには鍵がかかっていたが、狛音はフォロワーなので見ることができた。IDは〝@inukubou58〟というもので、もちろん〝犬公方〟のことだろう。

犬彦くんの写真を探すと、すぐに小学校の卒業写真が目にとまった。
教室で撮られたもので、「卒業おめでとう」と書かれたコサージュをつけた5人の少年が写っているが、誰が犬彦くんかわからなかった。

下にスクロールしていくと、シンガポール旅行の写真を見つけた。マーライオンとマリーナベイ・サンズを背景に、頬をゆるめた3人家族がならんで写っている。
久作さんと円香さんのあいだには、「I♥SG」と書かれたTシャツをきた知らない少年が立っていた。

「この子は?」

ベッドに腰かけていた狛音にスマホを見せると、

「犬彦に決まってるじゃん」

写真の少年は色黒で眼鏡をかけており、廊下で会った犬彦くんとは別人のように見えた。

2人の犬彦くんは別人? もしそうだとしたら、あの人形のような少年は誰だったのだろう?
いや、中学生になると顔つきが大きく変わるし、日焼けと眼鏡のせいで印象がちがって見えるだけかもしれない。別人とは言いきれない。

犬彦くんの顔がわかったので、さきほどの卒業写真を見返した。まんなかの眼鏡をかけた少年が犬彦くんらしく、ピースサインをして笑っていた。

顔を見比べようとしたが、写真の画質が悪い。レトロな風合いを出すためか、インスタントカメラで撮られているようで、ズームしても顔まではっきりわからなかった。

シンガポール旅行の写真にもどって、犬彦くんの顔をズームした。見れば見るほどわからなくなってくる。
うす暗い廊下で一度会ったきりなので、犬笛を教えてくれた少年がどんな顔だったか、だんだん自信が持てなくなってきた。

青白くて華奢きゃしゃな少年だったが、引きこもりの影響ですっかり印象が変わったせいで、別人のように見えただけかもしれない。

今度は上にスクロールして、時系列でツイートをたどってみた。
一見、まっ黒に見える画像は、友達4人とふたご座流星群を観に行ったとき、夜空を写したものらしい。

ほかにクラスの女子から手作りのバレンタインチョコをもらったツイートもあり、卒業写真をつけたツイートには、〈今日でみんなともお別れ。さみしいけど中学校もいまから楽しみ!〉と書きこんでいた。

小学生のころから狛音しか友達のいなかった僕はうらやましく思った。一度でもこんな学校生活を送ってみたかった。
でも同時に、こんなに友達に恵まれていても、あるときを境に不登校になってしまうのかと恐ろしくもなった。

小学校時代で犬彦くんのツイートは途切れてしまったが、最後に2つだけ明らかに毛色の違うツイートがあった。投稿日は半年後、中学に入ってからのツイートだった。

犬守犬彦 @inukubou58・2017年9月29日
先祖は、左足を尻の下にしきこみ、右足を顎のまえにたて、まるで出来のわるい張子の骸骨のようにじっと坐っていた。襖の隙間からさしこんだ光に、おびえたように、かすかに喉をならし、それから身をふせごうとしてのろのろと腕をあげ、こわばった首を体ごと向うへねじまげようとする。(続

犬守犬彦 @inukubou58・2017年9月29日
すると、鉄の鎖が、カラカラと音をたてた。首に、犬の首輪をつけられ、鎖で柱に、つなぎとめられているのだった。(安部公房『家』)
前もつぶやいたけど、この「先祖」ってやっぱ俺みたいだな……。

2つのツイートは連続しており、どちらも安部公房の『家』という小説からの引用のようだ。

最後の〈前もつぶやいたけど、この「先祖」ってやっぱ俺みたいだな……〉という一文は、犬彦くん自身の言葉である。
〈前もつぶやいた〉と書いてあるが、そんなツイートは見当たらなかった。なにか理由があって削除したのだろうか。

〝安部公房〟という名前は工房さんの書斎で見かけた記憶があった。どうして犬彦くんのツイートに〝安部公房〟が急に出てくるのだろう? たんにファンなのだろうか。
工房さんといえば、狛音が話していた〝箱男〟というアカウントのことが気になった。

「暢くん、ずっとなにやってんの? 目が血走ってて怖いよ」

スマホをのぞきこんだ狛音が不安げに言った。僕は立ちあがり、

「ちょっと気になることがあるから、工房さんの部屋に行こう」

ドアをノックして開けると、工房さんはコピー機の前に立っていた。本のコピーを取りながら、「どうしたんだい?」とふりむく。
僕は部屋に入り、〝箱男〟のアカウントについて訊いた。

「俺じゃないよ。ツイッターやってないし」

工房さんはコピーの束を取り出しながら答えた。原稿と一緒に机にもっていく。

狛音は奥の部屋の剥製が怖いのか、ここに来るのをしぶっていたが、なかに入ろうとせず入口で待っていた。工房さんはチェアに腰かけると、

「『箱男』は安部公房の代表作のひとつだよ。頭から段ボール箱をかぶった男の話」

「……安部公房ですか? 犬彦くんのツイッターにこんなのがありました」

工房さんに狛音のスマホを渡した。工房さんは犬彦くんのツイートに目を通しながら、

「安部公房を犬彦くんに教えたのは俺なんだ」

壁の本棚にはやはり『安部公房全集』が並んでいた。犬彦くんはここから借りて読んだのだろうか。工房さんは狛音に毛ぎらいされていたが、犬彦くんとはいい関係を築いているようだ。

「工房さんは安部公房が好きなんですか?」

工房さんは僕にスマホを返すと、机に積まれた本の上に置いてあるコーヒーカップを手にとり、

「そうだな。カフカとかボルヘスとか実験的な作風に憧れて、安部公房のフォロワーでもあったけど、なぜか伝記作家になっちゃった。
ペンネームもエドガー・アラン・ポーにちなんだ江戸川乱歩みたいに、安部公房をもじってつけたんだけど――」

犬彦くんのツイートを読んでも反応がうすかったのに、自分のことになるとたちまち饒舌じょうぜつになった。

工房さんがツイッターをやっていないことと、犬彦くんは安部公房のことを工房さんから教わったのだとはわかったので、僕はお礼を言って、すぐに部屋をあとにした。

「もしかして、ツイッターやってないとか信じてる?〝@inukoubou〟なんてID、あいつ以外使うわけないじゃん」

狛音はスマホをスカートにこすりつけ、必死で指紋を拭きとりながら言った。

どうして明るくて人気者だった犬彦くんが、中学に入って不登校になってしまったのだろうか。どうして小学校卒業後、半年もして不可解なツイートを投稿したのだろうか。
僕は考えをめぐらせながら、あてどなく廊下を歩いた。

どこからかすすり泣く声が聞こえてきて、狛音と顔を見合わせた。
寝静まった町を吹き抜ける木枯らしのような声。犬彦くんの声のような気がした。

彼はせまい部屋に閉じこもり、夜な夜な声を殺して泣いているのではないだろうか。狛音に目で合図を送り、声のするほうに行ってみた。

屋敷のどこに迷いこんだのだろう? 天井の照明が切れており、廊下の先は闇に包まれていた。
そのなかに、縦方向の淡い光の筋が走っていた。わずかに扉が開いているようで、その部屋から声は聞こえてくるようだ。

ごくりとつばを飲みこみ、忍び足で光のほうへ進んだ。2人でなかをのぞくと、狛音が強く腕をつかんだ。

部屋では無数の蝋燭ろうそくの火が静かにゆれていた。
薄明かりのなか、犬の剥製が壁に沿って前後2段に並んでおり、それぞれの前に線香と蝋燭を立てた小さな机が置いてあるのが見えた。

ここが久作さんの言っていた「綱吉びょう」なのだろうか。異様な光景にからだが固まった。狛音のふるえが腕に伝わってくる。

壁に映った尻尾の影がゆらぐ。影はダンゴムシのように丸まっていた。
和犬の尻尾のようだが、ここが「綱吉廟」だとしたら、なぜ和犬の剥製が並んでいるのだろう? 首をひねりかけたとき、狛音の手のふるえがとまった。

「パパ……泣いてる」

部屋の奥では久作さんが背中をふるわせていた。声の主は久作さんのようだった。蝋燭の前で正座していたが、その背中は小さく頼りなげだった。

声をつまらせて泣き崩れたとき、2本の蝋燭のあいだに置かれた木箱が見えた。
紫の光沢ある布が敷かれた箱のなかはからっぽだ。箱の奥にもなにかあるようだが、闇に溶けこんでいて見えなかった。

廊下から騒々しい足音が聞こえてきた。狛音に手をひかれ、廊下の奥の暗がりに逃げこむ。間髪いれず、人間椅子が部屋に駆けこんだ。
壁に耳を当てると、久作さんになにか報告しているようだ。まもなく2人は一目散に部屋を出ていった。

「……聞こえた?」

壁から耳を離し、重い首をうしろに向けると、

「公方様の体調がおかしい」

暗闇ににじみ出すような狛音の声が返ってきた。

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