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「うやまわんわん〜犬将軍を崇める一族〜」第六章 犬公方の呪い(その2)

ゆみ子さんが大事な用があるというので、人間椅子は綱プーの看病を虫江さんにまかせ、分犬守の屋敷をたずねた。
綱吉びょうの剥製とツナキチを見比べたかったので、僕も同行させてもらった。

玄関の前に立つと、僕らの気配を察したのか、なかからツナキチの吠える声がした。

「あら、のぼるさんもいらしたのね」

格子戸をあけたゆみ子さんは若草色の着物をきていた。いつも着物姿で上品ぶっているが、帯の下に一物も二物も抱えているのだ。

僕らはお座敷に通された。敷居をまたぐと、ツナキチが待ちかまえていたように、僕に飛びかかってきた。畳を見ると、おもらしをしていた。

「すみません、ティッシュください」

あわてて後始末を申し出たが、となりの間に行ったゆみ子さんに渡されたのは雑巾だった。受け取ってふりむくと、膝をついた人間椅子がハンカチでおしっこを拭いていた。

「僕がやります」

としゃがんだが、人間椅子は「いま終わりました」と立ちあがった。
上着の左内ポケットに仕舞ったハンカチに、「H・C」と刺繍ししゅうが入っているのが見えた。もしや「Human Chair」のイニシャルだろうか。

「公方様がご病気になられたとか。お気の毒だわ」

テーブルをはさんではす向かいに座ったゆみ子さんは、言葉とは裏腹にすこし口角をあげた。しめしめ、お百度が叶ったとでも思っているのだろう。

旧式のクーラーは壊れたままで、部屋は相変わらず蒸し暑かった。
テーブルには冷たいお茶と金平糖が出されているが、雑巾をもった手で金平糖を食べるのはためらわれた。お茶を手にとると、グラスの縁が欠けていた。

テーブルの下の足にツナキチが抱きついてくる。左右にふられた尻尾は巻いてあった。たしかツナキチは北海道犬だったはずだが、同じ和犬でも巻き方にちがいはあるのだろうか。

しばらく観察してみたが、綱吉廟の剥製は影しか見ていなかったので、同じ犬種かどうかまではわからなかった。

「ケビンさまはお元気ですか?」

となりに座った人間椅子が訊いた。

「もう何年も会っていないわ。アメリカに行ったきり、連絡ひとつ寄こしませんの」

〝ケビン〟というのはアメリカにいるゆみ子さんの弟らしかった。

「そうですか。英子さまとご結婚なされたときには、先代の久兵衛おうもたいそう喜んでいらっしゃいました。晩年はつねづね両家の不和を気に病んでおられまして」

「長男としての責任も果たさずに、ろくなもんじゃありませんよ。
こちらは英子さんの御母堂ごぼどうの父親代わりだった先代に義理立てして、年忌法要にも必ず足を運んでいるというのに。……やめましょう、こんな話」

お金もないのに堅苦しいだけのこんな家、逃げ出したくなる気持ちはわかる。

「これを本犬守のご主人に渡しておいてくださる?」

ゆみ子さんはテーブルの端に置いていた封書を人間椅子に差し出した。

「かしこまりました」

人間椅子が右内ポケットに仕舞うと、

「首輪も用済みかしら……」

聞こえるか聞こえないかくらいの声でゆみ子さんは言った。意味深なセリフだった。大事な用というのは封書のことらしいが、なかにはなにが書いてあるのだろう?

「あれ? お姉ちゃんがいない」

お座敷に鮪吉ゆうきちくんが入ってきた。狛音こまねにもらったニンテンドースイッチを手にもっている。

「ユウちゃん、きちんとご挨拶なさい」

「……こんにちは」

鮪吉くんは唇をとがらせて言った。東武動物公園での件をまだ引きずっているようだ。

「こんにちは。お姉ちゃんはショックで来られないんだ」

「公方様、病気なんだってね」

鮪吉くんは心底かなしそうな顔をした。狛音は綱プーの病気というより、ゆみ子さんのお百度参りがショックで来られないのだが。

「鮪吉くん、部屋で一緒にゲームしようか」

「いいけど」

人間椅子にスイッチのことがバレないよう、鮪吉くんを子供部屋へ連れ出した。

ふすまを開けると、インベーダーゲームのテーブルの上には、ほこりをかぶった学校のプリントや副教材が山積みになっていた。
「宝物」とまで言っていたのに、もうインベーダーゲームでは遊んでいないようだ。

「ぼくひとりでスイッチするから、お兄ちゃんはインベーダーでもやってて。カギはママがもってる」

スイッチは2人プレイもできるはずだが、自分勝手なガキである。まあいい、目的は達成した。カギをもらいにお座敷に引き返すと、ゆみ子さんは人間椅子と話しこんでいた。

「もうすぐ綱吉様の七五三なんだけど、本犬守ではどうなされたの?」

「わたしくは所用があって参加しておりませんが、太田の冠稲荷神社でいたしました」

「すみません、インベーダーゲームのカギ貸してくれませんか?」

ゆみ子さんは帯からカギを取り出し、どうぞと僕の手の上においた。前をむくと、七五三の相談をつづける。僕はお礼をいって、子供部屋にもどった。

インベーダーゲームの前の椅子に座り、財布をひろげて100円玉を探したが、見つからなかった。ふり返ると、鮪吉くんはベッドに寝転んでスイッチに熱中している。

インベーダーのテーブルの上を片づけるのも面倒だったので、僕はカギをおいて部屋をでた。
ゆみ子さんの相談話も長引きそうだったので、お座敷にひと声かけ、人間椅子を残して先に帰った。

綱プーの病状は悪化の一途をたどった。頼みの綱の病院も見つからず、腫瘍しゅようは肥大化してマグマのように不気味にうごめいていた。毛は艶がなくなり、まだらに抜けていった。

「公方様、元気になったらまた納豆うどん食べよう」

カラーのなかの顔はうつろで、呼びかけても反応は鈍かった。目のまわりが黒く変色している。

「取ってもとっても目やにが出てきます」

虫江さんが困り果てたように言った。狛音がベッドの頭側のふちにかけてあった靴下を手にとると、虫江さんは、

「上様は宝物をくわえる力もなくされたようで」

僕らは弱っていく綱プーを見ていることしかできないのだろうか。

人間椅子から封書を受けとった久作さんは、封を切るのにまごついていた。封筒を破る気力も失っているようだ。
虫江さんのそばにいた人間椅子がさっと近寄り、ペーパーナイフを差し出した。

ゆみ子さんの手紙を読みながら、久作さんは苦渋の表情を浮かべていた。かつての目力はなく、文字を追うごとに目は細く消え入るようだった。
左どなりに座った工房さんが文面をのぞきこみ、一瞬にやりと笑ったような気がした。

「分犬守から申し出があった」

ゆっくりと手紙をおくと、久作さんは口をひらいた。唇がかすかにふるえている。「公方様と綱吉号とのあいだに養子縁組を結びたいそうだ」

「それって……」

久作さんの右どなりにいた円香まどかさんが言葉につまると、工房さんは、

「分犬守の犬が公方様の後継者になるってことですね」

「まだ元気になるかもしれないのに……」

「息を引きとられてからでは手遅れだからな」

久作さんはベッドの綱プーに目を落として言った。
「お世継のいない家綱公が逝去せいきょされる直前、弟の綱吉公をご養子に迎えた将軍家の歴史を踏まえてのことだそうだ。このように言われてはいかんともしがたい」

ゆみ子さんの「首輪も用済みかしら」という不可解なセリフを思い出した。
綱プーの病気につけこみ、公方様の乗っ取りに成功しようとしているが、彼女の呪いの結果だとすれば、とんでもない悪党だ。

「わたしは反対です。公方様はきっと回復します」

「俺もそう願ってますけど、犬守家の伝統を守るためには早めに手を打っておかないと」

そう言って、工房さんは久作さんに目くばせをした。〝夢丸の首輪〟を盗まれた件をうやむやにしようとしているのだろうか。久作さんはゆっくりうなずくと、

「犬守家の300年の伝統がついえることを思えば、この道をとるよりほかにしかたないのかもしれん」

狛音は膝の上でぎゅっと拳を握っていた。父の言葉をどんな思いで聴いていたのだろう? 僕には想像もつかなかった。

家族会議のあと、僕は部屋にもどったが、思い立って狛音の部屋をノックした。

「鮪吉くん、スイッチに夢中だったよ」

ドアから顔を出した狛音に分犬守のことを伝えると、

「うん、LINEでリクエストされたから」

「そうだったんだ」

彼女は警戒するように上目づかいで僕を見て、

「ゆみ子さん、どんな感じだった? 病気のこと話したんでしょ」

「ちょっと、うれしそうだったね」

「そりゃあ、分家の綱吉様が念願だった本家の公方様になれるんだからね」

狛音は複雑な表情を浮かべ、めずらしく僕を招き入れた。うしろ手にドアを閉めると、

「家同士の確執とか、公方様の問題とかどうでもいいし、犬守家なんて潰れちゃえって思ってたのに、なんでこんなにムカつくんだろう? あたしにも本犬守の血が流れてるからかな?」

彼女の握った拳には青い血管が透けて見えた。古い絵画に入っている小さなひび割れのようだ。

「わかんないけど、俺だってムカつくよ。病気で苦しんでる公方様を見てたら」

狛音は目をうるませた。彼女の顔を見ていると、僕も涙がこみ上げてくる。ほっぺたの内側を噛んでぐっとこらえた。

玄関前の石畳の上には綱プーの大名駕籠かごが置かれていた。金細工がギラギラとした朝の陽射しをはね返している。

綱プーと養子縁組を結ぶことになったツナキチを分犬守に迎えにいく駕籠だった。黒いうるし塗りの柄の下では、担ぎ手のお兄さんたちが膝をついて構えていた。

「光村くん、よろしく頼む」

紋付はかま姿の久作さんに声をかけられた。人間椅子や虫江さんは綱プーの看病にいそがしく、見送りに出てきたのは久作さんだけだった。家の一大事にしばらく会社を休むという。

円香さんは養子縁組の最後の準備に追われていた。3日前、養子縁組が正式に決まると、最後まで反対していた彼女も、当主である久作さんの意思を尊重した。

「江戸時代からの両家の因縁を乗り越えるいい機会かもしれない。万が一のことがあったら300年の伝統がとぎれるわけだし、変わることでしか守れないものもきっとあるんだよ」

そう自分に言い聞かせるように、食堂でシャンパングラスを傾けながら話していた。このところはKCJケネルクラブでの手続きや、親戚筋への挨拶まわりに奔走ほんそうしている。

今朝は狛音も見かけないが、養子縁組の話がまだ受け入れられないのかもしれない。大人たちとちがって簡単には割りきれないのだろう。

「まかせてください。道順もばっちりです」

僕は案内役も兼ねた担ぎ手を頼まれていた。〝御散歩〟のときには迷惑をかけたので、名誉挽回のつもりで引き受けた。

久作さんと握手をかわし、玄関の軒下を出ると、プードルの銅像と目が合った。青銅色の顔は血の気を失っているように見えた。

綱吉廟で公方様とおぼしき和犬の剥製を目撃した。
いぜん工房さんが軍に供出された初代の銅像は、いまの見た目とはぜんぜん違ったと教えてくれたが、もしかして和犬の銅像だったのだろうか。

「公方様の銅像は2代目だって聞きました。戦前にあった初代の像はどんなだったんですか?」

思いきって久作さんに訊いてみると、

「さあ、よく知らんね」

一拍の間のあと、久作さんは視線をそらして言った。
「わしの生まれる前の話だからな。空襲で焼けて写真も残ってない。まあ、公方様が分犬守に代替わりしたら、遠からず北海道犬の銅像に取って代わられるかもしれんがな」

久作さんは自嘲じちょう気味に笑った。冗談にできるほど吹っ切れたのかと思ったが、不器用に頬を歪めたあと、急に落ちこんだ顔をした。
とぼけられた気もしたが、本質を射抜いた答えだったのかもしれない。

「変なこと言ってすみません。じゃあ、行ってきます」

一礼して駕籠の先頭にまわった。太い柄を肩にのせ、声を合わせて駕籠を持ちあげる。中身はからっぽのはずなのに、相変わらず重かった。

「がんばってください」

駕籠を担いで屋敷を出ると、門前に立っていた運転手さんに手をふられた。
かたわらには漆塗りのように黒光りしたセンチュリーが停まっている。時間をあけてゆみ子さんたちを迎えにいくそうだ。僕らは屋敷の前の路地を右に折れた。

「このまままっすぐ行って、教会の角を左に曲がります」

道の先を見ながらうしろのお兄さんたちに伝えると、

「暢くん、かっこいい!」

沿道から聞き覚えのある声がした。顔をむけると、スマホを構えた狛音が立っていた。

「なんでいるの? 部屋にいたのかと思った」

「いや、車のなかに隠れてたんだよ。暢くん、通りすぎたのに気づかないんだもん」

スマホの写真をチェックすると、彼女はスタスタと僕の横を歩いた。肩にずっしりと重しをのせた僕とは反対に、軽やかな足どりだ。

「分犬守には行きたくないんじゃなかったの?」

「暢くんの応援。近所まできたら引き返すよ。それよりファミマでね――」

青の絵具をベタ塗りしたような空に、狛音のチョコミントアイスの話がこだまする。頭上の電線が溶けてしたたり落ちてきたチョコレートのように見えた。

息苦しさにあごがあがり、暑さで意識が朦朧もうろうとしてきた。
足がもつれてくるが、狛音の手前とまってくださいとは言えなかった。彼女はとなりでペラペラと喋りつづけているが、かまっている余裕はない。

「ねえ、ちょっと聞いてる?」

「……うん、聞いてる」

「暢くん、ちゃんと力入れてもってるかい?」

今度はうしろからお兄さんが訊いてきた。

「もってます」

「ほんと? いつもよりだいぶ重いんだけど」

「もってます……けど、もうダメ! すみません、すこし休ませてください」

わずか10分ほどで降参した。道沿いにある駐車場にせーので駕籠をおろした。特別な日でお兄さんたちは張り切っていたので、露骨にいやな顔をされた。

「ダサイなあ、暢くん……。あたしが代わってあげようか?」

あきれ顔の狛音が言うと、お兄さんたちに笑われた。僕のすぐうしろを担いでいたお兄さんが腕時計を見ながら、

「じゃあ、5分だけ。スケジュール決まってるんだから」

駐車場のアスファルトに腰をおろした。「かっこいい」と言ってくれた狛音になさけない姿を見せてしまった……。

ハンドタオルで額の汗をぬぐって顔をあげると、目の前を「水の救急車」の軽ワゴンが走りすぎる。からっぽの駕籠は〝御散歩〟のときより明らかに重く、じんじんと肩が痛んだ。

ふと、視界の端で駕籠がすこし動いた気がした。気のせいかと思ったが、駐車場の白線と平行に置いてあった駕籠が明らかにねじれている。
野良猫がなかで昼寝でもしていたのだろうか。僕は座った姿勢のまま、のそのそと駕籠に近寄り、格子戸のなかをのぞいた。

心臓がとまりそうになった。うす暗いなか、大きな影がガタガタとふるえていた。猫にしては大きすぎる。注意深く目をこらすと、格子のすき間から怯えきった目が見つめ返してきた。

「犬彦くん! なんでここにいるの?」

びっくりして戸を開けた。駕籠に乗っていたのは、犬笛を教えてくれたあの少年だった。どおりで重いわけだ……。
暗がりに溶けこもうとするように、少年は膝を抱えて縮こまっていた。人形のような白い手がふるえる膝からすべり落ちた。

「この子、だれ?」

そばにやってきた狛音が駕籠をのぞきこんで言った。駕籠のむこうで立ち話をしていたお兄さんたちもこちらを向いていた。

「だれって……犬彦くん」

狛音の目を見て答えると、彼女は眉をしかめ、

「この子、犬彦じゃないよ」

駕籠の入口をふさいでいた僕らのあいだから光が射し、少年の青みがかった白い顔を照らした。彼は光を恐れているように、背中をハリネズミのように丸めて顔を隠した。

「君はだれ?」

なるべくやさしい声で話しかけると、

「……みくる」

膝のあいだに顔を埋めたまま、女の子のようなか細い声で「犬彦くん」は言った。


★次回の更新は7月1日(月)です。
(毎週月・水・金・土曜更新)

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