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随筆(2022/1/21):「反抗期の子供を社会に送り出せるような養育者と同等の立ち振る舞い」という、色恋沙汰における呪われた賢者の石の話(1_25)(反抗期の子供を社会に送り出せるようになること)

1_25.反抗期の子供を社会に送り出せるようになること

1_25_1.主体性と社会のウエハース構造の摩擦による地震としての反抗期

子供一人前の人間になるので、その過程で主体性が生えてきて、社会をやらねばならなくなる日が来る。これは当たり前のことだ。

主体性社会の話をすると、これはウエハース構造になっている。
主体性が生えて来る前には前の、生えて来た後には後の社会があり、その中で生きて行かねばならない。

主体性が生えて来る時、社会とはどうしてもある程度軋轢がある。
特に、子供の時の最大の人間関係、社会は、非常に多くの場合、だ。
つまり、親との軋轢はかなり避けがたくなる。
これが、反抗期というやつだ。
しかもこの過程は通常二回ある。
その都度うまくやらないと、過程においても結果においても、大変なトラブルになる。

「子供の反抗期は、「ある」ものだ。
これが潰れている場合、そこには何らかの不適応が疑われる。
そのうち、主体性が要請される事態が発生した場合、解決困難になる。
特に、大人の社会では主体性が要請されることがかなりある。
じゃあ、主体性は備わっていないと、その時に全部メチャクチャになる」

という話は、真剣に受け止めねばならない。

だから、せめて、親も子も、反抗期うまく乗り切らねばならない。

1_25_2.ウエハース構造を作る

1_25_2_1.子供の中に主体性や社会が生えてくるようにしなければならない。これは両方やらねばならない

まず、この長い連載記事は、子供が幼稚園等か小学校に進んだ後の話だ。
ほとんどの場合、ここまでに第一次反抗期がある。
これについては役所幼稚園で、専門性の高い人たちに話を聞くことにならざるを得ないだろう。餅は餅屋だ。
というか、俺もこの頃のことは全く覚えていないので、何も言えないんですね。

ポイントとしては、
「子供の中に主体性や社会が生えてくるようにしなければならない。
これは両方やらねばならない」

というところです。

1_25_2_2.主体性が生えてくる前にも社会があるし、親は子供がそこで適応出来るようにせねばならない

幼稚園等小学校においては、主体性が生えてくる前にも社会があるし、親は子供がそこで適応出来るようにせねばならない。
適応に問題があるようなら(難易度の高い医療等の話が伴わないならば)親はなんとかしなければならない。

「何があったのか本人に訊く」
「何があったのか外から注視する」
「問題行動の核となる問題点を見抜く」
「それを成り立たせているメカニズムについて、幼稚園か学校か役所に相談して、ヒントか解法をもらう」
「解法ないし改善策を採る」


というプロセスは避けられないでしょう。

***

「親は忙しい。そんなことをしている暇はない」?

そうですね。

でも、親が忙しい、大きな理由「子供を大過なく社会に羽ばたかせるまで育てる」ためです。
じゃあ「子供が社会に羽ばたけていない」、つまりは「うまく育たなかった」ら、目的は損なわれた。大きな失敗である。という話は避けられないように思います。
「何のために忙しかったのか!? 払った犠牲を全部ドブに捨てるためか!?」
この怒りと絶望は自分でも信じられないほど大きいものがあります。何もかもぶち壊しにしたくなるか、さもなくば自分がぶち壊れるくらい、キツイ。
長い人生である程度避けられない失敗であり、そこからしか得られない知見があるにせよ、出来るだけ避けた方がよいでしょう。

1_25_2_3.子供に主体性が生えてきて親がパニックになったり手をこまねいているようではいけない

子供はそのうち、もうちょっと細かく言うと世にいう第二次反抗期の頃に、主体性が生えてきて、社会(典型的には)と軋轢を起こすようになります。

それまでは主体性を考慮せずとも養育出来たのです。
が、「主体性を考慮しない」というのは、世間の大人や青年にやると、もちろん典型的なパターンの侮辱になります。
で、第二次反抗期の子供
「あれ? これは侮辱ではないのか?
なぜこれを自分は受けねばならぬ? 嫌に決まっているが?」

となり、侮辱に対して大きな抵抗感を抱くようになります。
繰り返しますが、これは当たり前です。

そもそも、侮辱をしてはならないのです。
主体性が生えてきたら、これを考慮しないでは済まされない。
その手の侮辱を、侮辱と思わない人、かなり面倒だ。
他人の主体性を無視したあかつきには、もしかしたら何らかの仕事はやれるかもしれないが、評価などされる訳がない。だから、馬車馬のように働かされてカスみたいな報酬をもらって使い潰されて死ぬ。

また、主体性が生えて来た後で、遡って
「今まで自分が受けた仕打ちは侮辱的なものだった」
と思われるリスク
が当然ある訳です。
だから、親としては
「これまでの間に侮辱的な仕打ちはしていなかった」
と言い切れるようにする。
というのも、大事な話です。
やったことは事実であって、それそのものは取り返せないので。
もしやっちゃってたら、この時点でいかなる言い訳も効かないので。

だから、子供に対して、主体性を無視して、「ウルセーし勝手に動く障害物」「何らかの親の願望を満たすために使われている道具」として扱ってはいけない。
それらの気持ちはある程度避けがたいが、大人に入門した第二次反抗期人間が、当時のことを覚えていたら、これはトラブルになるに決まっている。
まして、第二次反抗期人間になってからこれをやるようでは、速攻揉める。最悪だ。

「子供の意に反してでも親がやらなければならないことがある。
それを怠るような親は、そのフェーズにおいて、子供を育ててないし、先に進ませないようにしている。論外」

という話と、
「子供が先に進むために、子供の主体性が必要であるフェーズがある。
そこで主体性を減衰させる類いの破壊工作を仕掛けるような親は、このフェーズにおいて、子供を育ててないし、先に進ませないようにしている。論外」

という話は、親となったら何となくでも両方とも頭の片隅に置いておかねばなりません。
まして、パニックになったり、手をこまねいているようではいけない。
備えよう。
ということです。

1_25_2_4.主体性が生えたら終わりではない。主体性を持ちながら社会で適応出来るようにしなければならない

さて、主体性のある大人でなければ構築できないレベルの、高度な社会というものがある。
売買等の契約や、婚姻等、民法に関する事項は、たいてい「社会において成人のやれること」に関するものである。
成人にはフルセットの主体性があると見なされるから、これが成り立っているのだ。

未成年者だとそれはかなり制約された形でしか出来ないと見なされるし、現にしばしば責任が取れないので、恐ろしい揉め事になる。
主体性があると、やったことや言ったことの責任が取れる。
というより、やったことや言ったことに対する

「これ自分がやったことや言ったことやんけ。
知らんぷりしたいが、これが自分と関係ないというの、端的に嘘やろ。
ここで自分に嘘を吐いて、自分の中に引っかかりはないのか?
脳がかゆくならんのか? 混乱せんのか? 耐えられなくならんのか?
そういうことを考えたら、正直、知らんぷりできねえよ」


という切実さが出て来る。

主体性に関する
「これ自分がやったことや言ったことやんけ」
という感覚
は、
「知らんぷりしたいが、これが自分と関係ないというの、端的に嘘やろ。知らんぷりできねえよ」
という大人の責任感
の、大きな基盤だ。
主体性と責任がある大人によって、民法における事項が何の問題もなく出来る社会は、いろんな約束事が成り立ち、何をやるにしても非常に円滑になるので、たいへん強く求められている。

だから、主体性が生えたら、そこで終わりなのではない。
主体性を持ちながら高度な社会で適応出来るようにしなければならない。
「これ自分がやったことや言ったことやんけ」
という主体性の感覚と、
「知らんぷりしたいが、これが自分と関係ないというの、端的に嘘やろ。知らんぷりできねえよ」
という大人の責任感が、備わらなければならない。

という話を、親は第二次反抗期人間に伝えておかねばならないし、そうなってないならうまく誘導しなければならない。

もちろん第二次反抗期人間
「親の言うことが、最悪の場合何もかも、イラつくので聞き入れられない」
という状態になっていることが多い。
上の話、聞き入れてもらうには、かなり時間がかかる。

だから、第二次反抗期になる「前に」あらかじめ上の二つの話をしておくというのが、おそらくは大きなメリットがあるだろう。
その時なら素直に
「へー、将来自分に、切実な主体性の感覚というのが備わるのか。
で、そうなった時に知らんぷりを決め込むと、脳がかゆくてバグって耐えられなくなるのか。
あーなるほど完全に理解した(わかってない)」

となるだろう。
そして、主体性が生えてきて実際の主体性の感覚が伴った時に、
「あーなるほど完全に理解した(完全ではないがわかってはきている)」
という感じになっていくでしょう。

***

あと、大人の世界に入門するなら、侮辱はダメだ。ということも、付けくわえておかねばなりません。

いい大人
「お前のやったことは一切の評価にも報酬にも値しないし、お前の立ち位置は蹂躙されてよいし、路頭で飢えて凍えて野垂れ死ね」
という侮辱合戦をやると、どうしようもなく、揉める。
揉めると偉いの、野暮天の背伸びしたイキリだから、イキリだということは念頭に置きながらやることだ。
大人の社会では、それは胸を張るようなことじゃあない。

***

というか、大人の世界では、揉めること過程に過ぎない。

成果や評価や報酬を得るために、あるいはそれらが得られない社会を得られる社会にするため揺るがし打ち破るために、足掻く。
これは大人の世界でも通用するし、何なら肯定されるだろう。
そういう時「には」揉め事にも価値がある。

だが、それが追放と飢餓と野垂れ死ににしか行きつかないなら、何ら望ましくない。それは要するに追放と飢餓と野垂れ死にだ。
挙句、「追放と飢餓と野垂れ死ににしか行きつかなくて良い」と言い出すの、負け惜しみならあまりにもみっともない。酸っぱいブドウではないか。
何処にも行けない、何も創れない。追放と飢餓と野垂れ死にの閉塞感は、ものすごいものがある。
滅びの美しさに酔っている。滅びたものは美しいが、滅びるものは無残だろう(隆慶一郎『一夢庵風流記』前田慶次郎曰く)

***

そういう揉め事「やっていい」場「解放感」があり、「やってはならない」大人の場「閉塞感」を覚えるのは、これは当たり前だ。
ふつうはやってはならないことをやったら、そりゃあ解放感があるだろう。
逆に、別の所では許されていることを、ふつうはやってはならないのなら、そりゃあ閉塞感もあるというものだ。
が、それは大人イキリ侮辱真剣に受け止めてない、言葉の通じない動物の怯えた喚き声と同程度に見ているから成り立っている、ストリートのお花畑だ。

もちろん、
「こいつはガキだから真剣に受け止めないでいいことにしよう。
言葉の通じない動物の怯えた喚き声と同じ。
はいはい、よしよし。
こいつらがこっちに近付かなければ、そして人に噛みつかなければ何でもいいです。
どうでもいいから近寄らんとこ」

というの、それはそれで、大人からイキリに対する、大きな侮辱なのだ。

まして、これを
「しめしめ。大人が自分をこのように侮辱しているおかげで、これで俺は安全に揉めることができる」
と思うイキリ、
「大人が自分をこのように侮辱しているおかげで」
という話が含まれている時点で、ヘラヘラ笑ってる場合じゃないんだよな。

「こいつらがこっちに近付かなければ何でもいい」
というの、
「大人の社会には出入禁止」
ということを、結果的には意味している。
後でそいつが出禁によるデメリットを被っても、たいていそいつはそれまでに出禁ポイントが積み上がっているから、挽回はとてつもなく困難になっているだろう。
この手のアクセス制限を食らうと、追放と飢餓と野垂れ死にをされているのと酷似した効果があるし、何なら実際に追放と飢餓と野垂れ死にになる。

反抗期の子供のまま、社会にたどりつけていない。野垂れ死ぬ。
これは、そういう、詰みです。
不毛な成り行きですね。
ダメなんだって。こういうの。

***

え?
「そもそも大人が侮辱してることだってあるじゃねえか」?
そうだね。
でもそれ、その人たちが、今までの膨大な工程、別して「反抗期の子供を社会に送り出せるようになること」に失敗した、未熟な大人失敗者だからですよ。
だから、それを嫌うべきで、決して真似しちゃいけないんだよな。
最後の最後で詰んじゃった人の、詰んじゃったところ真似するの、やめよう。
(最悪な言葉がどんどん出て来る)

***

とりあえず色恋沙汰で求められているニーズの話はここまでとします。
ここから先は、起業とか、政治とか、老後とか、そういう話であり、色恋沙汰とはかけ離れてしまいます。

起業家迫力サービス精神潤沢な金銭的サービスで、
政治家迫力利害関係者への貢献万人への奉仕精神で、
老人底知れぬ無限の賢さで、
好かれることがあるかもしれません。

ですが、これらは、今まででできることの延長上なので(質量はおのずから異なるが)、説明しません。
基本的には、この話ここまで。

次回最終回の予定。本当に長かったなこの連載)
(終わるの?)
(終わるようには努力いたします…)

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