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創作ネタ(2023/11/11):精進料理とシークレットシューズと蒲団とカサブタとサンドバッグ


1.俺の書いているもの、精進料理とシークレットシューズと蒲団とカサブタとサンドバッグではないか

1.1.精進料理小説

ここしばらく、小説創作のことについて思い悩んでいました。

思い悩む以前は、小説創作について考えていられる場合ではなかったので、
「ようやく小説創作について思い悩めるくらい暇になったではないか。良かった」
ということではあります。そこは本当に良かった。

***

さて、何を悩んでいるのか。
正確には、「悩んでいる」というより、「違和感を覚えており、それを整理してすっきりさせたい」という類いのことです。

何か。
まず引っかかっていたのは、
「ここしばらく、俺の書いている小説、要するに精進料理なのではないか」
ということです。
ここで言う「精進料理みたいな小説」とは、主題があり、それを組み合わせた結果、寓話のような物語が出来た、そんな骨格めいた小説のことです。

つまり、物語そのものに躍動感のある肉質がないんです。

こんなのは、ちゃんとしたお話はしたいが、面白い話はしたくない、ダメな姿勢だ。
そういう反省があったのでした。

***

ということで、自分の過去作を遡っていました。
面白くはあるものの、なんか引っかかる、というものばかりでした。

「これはシークレットシューズだ」
「これは蒲団だ」
「これはカサブタだ」
「これはサンドバッグですね」

何を言っているのか分からないでしょうが、これが率直な感想でした。

1.2.シークレットシューズ小説

背伸びしたい人に、
「ごらんなさい。これが『上』にあるものです」
と、ちょっとしたオトナの世界を示す作品を、書いていたことがしばしばあります。
SFや群像劇や架空歴史ものを書いていた時、だいたいこんな意識で書いていたと思います。
これを書くことで、

  • 読者はオトナの世界を垣間見て背伸びしてシャキッとした気分になり、

  • 作者はオトナだとみなされ承認欲求が満たされる。

そういう代物です(後者、ひでえこと考えて書いてたんだなお前)

で、それ、いわばシークレットシューズなんですよね。

本当にオトナになりたければ、背が伸びるまで待つしかないのです。
背が伸びることによって見えて来た世界が、コドモをオトナにする。
シークレットシューズ、やってる側は親切かもしれないが、コドモを「本当に」オトナにするのとは、本当は違う別の効果をもたらす。
即ち、「己は背が高い」と誤った自己認識を持って、ある日転ぶか、「己は何で本当は背が低いのだろう」と凹むか、そのいずれか、あるいは両方を。

そんなことを、果たしてしていてよいものなのだろうか?

1.3.蒲団小説

未知の世界に触れたい人、たくさんいます。
しかし、当たり前ですが、全部素通しで伝えられたものが、決して分かりやすいとは限りません。
というか、分かりやすくするために、掻い摘んで簡略化した世界観を提示することは、プロセスとしてはほぼ避けられないでしょう。

***

それと、相手の聞きたくないことを「何で分からんのか馬鹿ではなかろうか」と居丈高に言うと、これはもうびっくりするほど伝わりません。
というか、それは当たり前なのです。聞きたくないことを聞いてくれるようにするために、圧力で押し切ろうとしているのなら、相手としては嫌気と圧力で倍聞きたくなくなるだけです。
聞く側の主観に鑑みて考えたら、そもそも二倍嫌がらせをしておいて、聞いてもらえると思う方がおかしい。

***

また、利害関係のある集団についての説明は、脳内で利害が理解を圧倒するせいで、全く受け入れられなくなることは、極めてよくあることです。
科学者がどんなに説明の手続の適正を主張しても、扱っているジャンルが当たり障りのあるものならば、その説明を聞いた瞬間
「思想が歪んでいるやつや便宜を図られたやつが説明を捻じ曲げることはあり、その場合手続の不適正を口先で誤魔化すことはいくらでも可能である。
それを吟味するコストを払わなければならないようなねじくれた相手に、まんまとコストを割くこと自体が、彼らの政治の罠で仕掛けられた消耗戦にまんまと乗せられたということをまず疑うべきである。
平たく言うと、科学だか政治だか分からない領域で、「これは科学であり、私は科学を政治の出汁にしている訳ではない」と言うやつは、自分がどう見えているか理解していない馬鹿か、あるいは「実際には科学を政治の出汁にしている」邪悪生物と考えるのが当然の姿勢である。
聞くやつ? シンプルに馬鹿ですね」
と思ってしまう人はたくさんいます。

自分がそうでないと思ってはいけません。
あなたの気に入らない属性の持ち主に、これを思わないでいられると断言できるでしょうか。
当然、それは単に「思いません」と言うだけではダメで、この手の反応を今後一切しないことでしか証明できません。
訓練を受けていないと、ふつうここで、かなり早い段階で差別主義的言動が出てしまいます。
「あいつらは違うじゃん。ふつうの人間のルールが成り立たない連中じゃん」
とか、そういうひどくだらしない言葉が。

***

だから、
「ダイレクトに言うことで、なぜか伝わりにくくなっている状況がある」
のは、むしろ当然
と思うべきです。
だから、本当に伝えようとしたら、歯に物の挟まったような書き方は、ある程度避けられません。

小説創作でそういう描写をする場合、居心地の良い環境を描いておき、その中で読者や主人公側の登場人物を刺激しないように言い回しに気を付けて、受け入れられなくはないイベントを起こすことになります。
こうすることにより、読者が読み終えてからだいぶ後で
「ああ、あれ、そういうことじゃん。今気づいた。
直接言われたら絶対聞けなかったと思うけど、まあ、今なら分かるよ」
と思うことになります。
きつい暑さ寒さを和らげて、脳がリラックスして落ち着くようにしてくれる。
いわば、蒲団のような小説です。(田山花袋の『蒲団』ではありません)

***

しかし、これをすると、どうしたって暗喩は増えます。
分かってもらいたい相手は、直喩にしたら聞いてくれなくなるので、直喩はとにかく減ります。
そして、困ったことに、これでは傍目からは何も理解できません。

もっと困るのが、「暗喩を多用して直喩を削った作品」を、別の書き手が「こういうはぐらかしこそが格好いい」と勘違いすることです。

それじゃいけないんだよ。
はぐらかすために暗喩を使っているからじゃあないんだ。
直喩だとキレる人でも、暗喩なら聞いてくれるからだ。
動機が逆なんだよ。

でも、そう思う気持ちは分からなくはないというか、むしろそう誤解するのはごく当たり前だと思います。
もし、当事者には暗喩の方が直喩より却ってスッと理解できたのだとしても、傍目からは直喩でないから何も理解できないのです。そりゃあそうなる。

こういう工夫を、安易に、是としちゃいけないんだよなあ。
それは、親切のつもりでやってる、不親切ですよ。

1.4.カサブタ小説

第二次反抗期なり、もっと狭く第二次性徴なり、自我が揺らぐ時期というものがあります。
そういう時は、脳が過剰に刺激に鋭敏になり、それをなだめるためにより強い刺激を求める。
脳のかゆみ、というものです。

そしてこれは、心身の変化を考えたら、当たり前の出来事です。
否定してはいけません。

親が子に、迷惑だから発達するな、と言ってはいけないのです。

さて、世間には刺激的な、そしてウッとなるものがあります。
死、死体、傷、暴力、軍、戦争、制裁、復讐、罰、虐待、禁忌、罪、反逆、犯罪、地下組織、侮辱、差別、年不相応な幼さ。
も、夜自室でやるにはよくても、昼の屋外ではウッとなるでしょう。これは男ですら割とそうです。

そうしたものを「刺激として」求める人たちは、大変多くいます。
理由は既に書いた通りです。
ひっかいた後に出来たカサブタを、人はしばしば、カリカリといじりたくなってしまうものなのです。
そうしないと、脳のかゆみが、感覚として残ってしまうのだから。

だから、そういうコンテンツや、ファッションは、一定の需要があります。
これはいわばゴス(Goth)のスタイルに属する話です。

***

そして、これも言うまでもないことですが、ウッとなるものの大半は、日常生活では歓迎すべからざるものです。
そして、低くない確率で、法と道徳にも反する。

もちろん、法や道徳に反するか反しないかの境界事例は、いくつもあります。
一個だけ言うと、性がダメな屋外の範囲や、屋外でダメな性の範囲は、ケースバイケースです。
つまり自分が「これはダメだろう」と思った基準は、たいてい他人の基準と一致しません。
だから、自分の基準は、他人の性をやめさせる正当性や強制力を、基本持ちえません。
自分の基準をどうしても通したい場合、他人と揉めることを覚悟するのが当然と思うべき、という話になってしまうでしょう。
「なぜ他人は自分と同じ基準でないのか? 他人はおかしいのではないか?」
そう思うかもしれませんが、それは他人というものを実際には認めていない、ということです。
だったら、基本、何を言っても他人に通用する訳がない。

その上で、正直に言いますと。
個人的には、ウッとなるものを、別段安易に逆張りめいて肯定する気にもなれないのです。
愛でたい人たちが自室やイベント会場で愛でるのは、上の基準に合っている。
これにまでケチをつける方については、そいつはおかしな話であるし、何にもスジが通っちゃいねえよ
、としか言えないんですよね。
ですが、その世界観を自室やイベント会場のお外に持ち出すと、たいていトラブルの元だし、しばしば道徳にも、最悪の場合はにすら反します。
それは、困る。

1.5.サンドバッグ小説

脅威や抑圧者である敵を倒して解決、という物語は、これはもう言うまでもなく絶大な人気があります。

そして、実生活を考えると、これが成り立つシチュエーションがかなり狭い事例に限られることに気付き、愕然とすると思います。
ほとんどの場合、警察に通報し、埒が明かなければ弁護士と共に裁判所。というコンボになります。(そういう意味では、警察ドラマや裁判ドラマが人気なのは、リアル系と言えるでしょう。本当にリアルであることは別段保証されませんが)
殴って解決? まずない。

サンドバッグを殴って解決、という話は、需要はあるかもしれませんが、真に受ける人がいたら、そいつはとんだ見当違いです。
それでは問題は解決しませんし、状況の打破としては一般にマズイやり方です。
(何しろ、自分が警察に捕まり、裁判所で訴えられることを考えるべき事態なのですから)

そして、世の中には、たとえば『それいけ! アンパンマン』を暴力アニメだと感じる親がたくさんいるのです。
サンドバッグみたいな作品を書くと、やはり暴力作品のそしりは、一定の確率で、ある。
そいつは嫌なことである。少なくとも俺は言われたくない。

(とはいえ俺は、暴力のない『おかあさんといっしょ』だけ見せて育てた子供を見たら、宗教案件やスピリチュアル案件に起因する情報制限による虐待やまず疑うし、ふつうに児相に通報すると思います)

1.6.俺の悩み

極めてまずいのですが、今、私は、これらを書く気になれなくなっているのでした。
「これらは、そういう内輪の小説である。
その外に向けては小説としての説得力の強さを持てない。
説得できないなら、それは話としてはインチキであろう。
インチキな話を面白がる人はいない。
だから外野が、面白くないということは、つまりは本当につまんない話しかできていないってことだ。
お話を扱う立場で、それ、論外なんだよな」

そんな風に見えてしまっています。

身内での話は、身内に向けて喋っている。身内は面白い。そこはいい。
だが、幅広い層に受けたいのであれば、基本的にその話で面白がってくれる人はいない。
アンケート調査の結果、
「ほとんど誰も読んでくれていない。というか売れていない」
という結果が明らかになり、ふつうに打ち切りになるだろう。
だから、幅広い層に受けるために、万人に届くように、書くものや書き方を考えねばならない。

***

しかし。
何が困るかというと、これらの話が面白いとしたら、それは、正に
「ちゃんと背伸び出来ているか」
「ちゃんと刺激を和らげられているか」
「ちゃんと痛気持ちいいか」
「ちゃんと打破の爽快感があるか」

がまともに成り立っているからこそ面白いのでした。
正にそれがシークレットシューズなり蒲団なりカサブタなりサンドバッグなりであること自体に依存しているので、それらのスタイルをやめたいと思った時点で、その話は自動的に面白くなりようがなくなる。
これらのスタイルがインチキに見えるからと言って、面白さだけを抽出することはできない。
それらの面白さは、基本的にはスタイルと抱き合わせで、断念して放棄せねばならない。

その結果、つまんない話しか書けなくなる。

そもそもは万人に面白い話をするために、上のスタイルを放棄した訳です。
ならば、スタイルを放棄したら話がつまんなくなるのは、端的に失敗でしかあるまい。
論外なんですよ。これは。

2.それはそれを求めている人たちにとって断固必要であるし、だから書けばよいのである

上の
「万人に届くように、書くものや書き方を考えねばならない」
という話は、一部の界隈で、基本的にはネガティブな文脈で言われる、『透明な傑作』問題、と呼ばれるやつです。
(詳しくは『タイムパラドクスゴーストライター』で検索すれば概ね分かりますが、検索を勧める気にはあまりなりません)

私が精進料理みたいな小説を書いていたのも、ある程度そのせいです。

んで、そもそも、上の「万人に届くように」という話自体、おかしな話なのです。
万人に届くように、というか、実際には特定多数に受ければ、それで支持としては十分でしょう。
その支持売上に、そして連載継続に問題なく効く。
じゃあ、それで申し分あるまい。

そして、特定多数は、それを断固求めている。
場合によっては、断固として必要だから、その人たちはそれを求めているのである。
だったら、書けばよいのである。
御託はいいから、欲されている商品をお出ししろ。
御託なんかより、相手の聞きたい話を喋れ。

お話を扱う立場で、それが嫌だというのなら、それはお話を扱うこと自体に向いてないんだよ。

万人に、というのは、そういうおこだわりに過ぎない。
ずいぶんとフワフワした寝ごと言ってんな。

今振り返れば、ここしばらく精進料理を書くのに慣れ過ぎた結果、逆に他のスタイルがインチキに見えてきた、とも言えます。
どう考えても、だいぶ重い悪い病ですよ。それは。
というか、これらがインチキに見えて来て、しかも書けなくなってしまったこと自体、作家としてはマイナスの特質であるか、贔屓目に見てもスランプの時期に入ってはいる、としか言えないのです。

3.とはいえ、それら以外に書くことはないのか

というか、だからこそ、こんなフワフワしたおこだわりのことを考えていられる余裕が出てきたとも言えるでしょう。
今原稿書かなきゃならんのなら、こんなことは絶対に言ってないはずです。脱稿が一番大事。

自分が今魔境に入っているのはよく分かる。
とはいえ、こんな寝ごとを言い出したからには、せっかくだから、そこになんか拾うべきものはないか。
あったら、それはひょっとして、面白さを保ちながら、かなり広い普遍性を備えられる、そういうかなり有利な武器になるかもしれない。
転んでもタダでは起きない。

まあ、ちょっと寄り道です。しばらくの間、考えてみましょう。
上手く行けば良いが、全部無駄になっちゃうかもしれない。
少しでも何か得られるものがあるといいですね。
うーん…

(以上です)


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