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あらゆる天使は恐ろしい(アイカツスターズ!『荒野の奇跡』を読む) 2017/07/08(Sat)

西暦2022年7月30日に付された前註:
 .docxからnoteに直接コピー&ペーストするだけで本文内の各編集事項が直接反映されるということを今更知った。ここにアップロードされるのは、筆者が西暦2018年3月30日に電子書籍として無料頒布した「やばいくらい -『アイカツスターズ!』読解集成-」からの単体記事抜粋である。



・前提:『荒野の奇跡』は白銀リリィではない


『Poppin’ Bubbles』『Summer Tears Diary』の作曲者であるミトさんが、とある対談でとても重要な指摘をしています。「『アイカツ(スターズ)!』の楽曲はキャラクターを演じる声優が歌わない」「声優と歌唱担当とがそれぞれ別個に存在している」ことについての言及です。それを引き取って対談相手(さやわか)は以下のように続けています。

 自作自演で曲を作ったその人が心情の載った曲を歌うという、シンガーソングライター的なものを尊ぶ価値観からするとありえないことなんですよね。アニメと歌っている人が切り離されているのであれば、それは声優とも切り離されている。それをやった結果、いまミトさんがおっしゃったように二層の、それぞれ分裂した場所にファン層ができて構わないということになったわけですよね。

「キャラクターの歌声と音楽の場所」ユリイカ2016 9月臨時増刊号 105P

 ここで言及されている通り、『アイカツ(スターズ)!』の楽曲はいわゆる「キャラソン」とは別の意味合いを帯びています。まず劇中のキャラクターがパフォーマンスするための楽曲である、が、それを歌う声は本編でキャラクターを演じている声優とは別の人である。さらに作詞者はそれぞれの楽曲で異なり統一されていないので、たとえば「演技も歌唱も声優が担当」「すべて1人の作詞者(畑亜貴)で統一」という方針の『ラブライブ!』シリーズとは真逆の特性です。
 であるからこそ、『アイカツ(スターズ)!』シリーズの楽曲は奇妙に多層な声を持つことになります。もっと言えば、「この曲はこの人のものだ」とひとつの人称に固定しようとすると必ずそこから遁れてゆくような非人称性を結果として持っている、と言えるでしょう。

 そもそも歌うこと・詞を書くことは自分自身の心情を吐き出すこととイコールではありません。「内面」の「叫び」とかいうものが良い歌になることはありません(それだと単なる「自分語り」になってしまいます)。『アイカツ(スターズ)!』の楽曲はそのような人称的なものから遁れてゆく特性を持っていることは先に述べました。よって、『荒野の奇跡』を読むにおいて「命を削って歌っている白銀リリィ」とかいうわかりやすく感動的な姿にすがるのも避けるべきでしょう*1。むしろ「歌手」とはもはや自分自身とは言えない別の精神を引き受ける仕事を続けている人のことなので、それを無視して「これは白銀リリィによる白銀リリィのための歌なんだ」と思い込んでしまうことは、かえって彼女自身への礼を失することになります。

 なので、「『荒野の奇跡』を読む」と題されたこの原稿は、『荒野の奇跡』を担っている白銀リリィ・作編曲者である南田健吾・作詞者であるtzk・その歌唱担当である松岡ななせ・たちの創意の結果として生まれた作品を読む私・という数えられない数の誰かたちが持ってきた札をひとつの卓の上に集めていく、そういう作業の記録になると思います。それ以外の方法でこの楽曲を読むことは不可能だと思われるからです。
 前置きが長くなっています。早速始めましょう。

【凡例】
・『荒野の奇跡』の歌詞はどこで改行するか、どこにスペースを入れるかひとつで意味が大幅に変わる特性を持っているため、文中での引用も歌詞カードの表記に準拠する。歌詞カード中の改行箇所は全角スラッシュ「/」で表記する。
・特定の作品名は『』、歌詞カード・文献からの引用は “” 、また本稿で一般的なものとは意味をずらして使用している語句は「」でくくって表記する。


・『荒野の奇跡』構成表チャプター


(ここからはお手元に『Fantastic Ocean』の歌詞カードを用意した上でお読みください。CDをまだ買ってない? 買ってください。)

[0:00]イントロ(コロス1)
[0:16]1番Aメロ
[0:33]コロス2
[0:42]1番Bメロ
[0:56]1番サビ
[1:41]コロス3
[1:50]2番Aメロ
[2:07]コロス4
[2:15]2番Bメロ
[2:31]2番サビ
[3:00]Cメロ
[3:47]最後サビ
[4:31]アウトロ(コロス1)

 Aメロ・Bメロ・サビという構成はオーソドックスですが、たびたび挿入される5拍子の朗唱パートが耳を引きます。ここでは当該パートを仮に「コロス」と呼称します。『エレクトラ』とかのギリシア悲劇に出てくる、主要登場人物にかわって背景を解説したり囃し立たりする声の連なりのことです*2。
『荒野の奇跡』が収録されているCD『Fantasitic Ocean』のクレジット欄には「Chorus: 松原さらり(onetrap), 國土佳音(onetrap)」という2名の女性コーラスがクレジットされているので、おそらくこの2名がコロス部の朗唱を担当しているのでしょう。メインボーカルは白銀リリィの歌唱担当たる松岡ななせですが、それとはまた別の声が入っているわけです。よって、Aメロ・Bメロ・サビ(メインボーカル)とその間に挿入されているコロス(コーラス2名)は、歌詞のうえではそれぞれ別の話者による詞だと考える必要があるかもしれない、ということです。

・4つのモチーフ「天使」・「讃歌」・「下降」・「生命の有限性mortality


 さて、歌詞全文を読んでみましょう。一読すると、全編を通していくつか共通のモチーフが歌われていることに気づきます。

⑴「天使」
“その昔 勇気を胸に 荒野へ舞い降りた天使は/白い羽根を大地に蒔いて 花に変えた”(1番Aメロ)
 まず「天使」ですね。冒頭から登場します。この「天使」がどの意味でのどういう「天使」をさすのか、については後々言及します。
⑵「讃歌」
“いつか花ひらく生命のため ただ希望を 歌ってみたい”(1番サビ)
 この曲自体が何かへの讃歌のようでもありますが、この詞中の話者がいったい何者で何者に対して讃歌を捧げているのか、については後々言及します。
⑶「下降」
“花たちに生命吹き込むように雨よ降れ”(2番Bメロ)
 じつはこれが一番重要なモチーフです。2番に登場する「雨」をめぐる描写もそうですが、サビ冒頭の “抗えぬ力に寄り添いながら” の一節も重要です。
⑷「生命の有限性mortality
“誰もがいつの日か土へと還る”(2番サビ)
 これは本当ならひとつの単語で書きたかったのですが、「無常」と書くと意味が正しく伝わらないおそれがあるので敢えて「生命の有限性mortality」と表記しました。これについて注釈しておきましょう。
「無常」「諸行無常」の語には、本来「ああ、人はみんな死んでしまう、人生は儚いなあ」などの詠嘆が入り込む余地はありません。「この世の現象すべてには終わりがある」と端的な事実だけを述べているのであって、「儚いなあ」と詠嘆するタイプの日本的な無常観というのは、はっきり言ってろくでもないものです。先ほど私が “「命を削って歌っている白銀リリィ」とかいうわかりやすく感動的な姿にすがるのも避けるべき” と書いた理由の一端もここにあります。この「無常」はそもそも情緒的なものではない。
 では mortality とは何か。簡単です。もやし。スーパーで30円とかで売ってるもやしのパックを、冷蔵庫に入れずに台所に数日間放置したら、痛んでべちょべちょになって料理には使えなくなりますよね。それのことです。有機体の定義としての「死すべきものmortal」ということです。この定義は『荒野の奇跡』の詞では「人間」のみならず「鳥」「花」にも適用されていて、それら有機体は「死すべきものmortal」と定義されるものとして平等に扱われていると読むことができます(後述)。

・「天使」如何


 さて、これらのモチーフの中でまず ⑴天使 に注目しましょう。「天使」といっても一般名詞的なものからアブラハム宗教的なものまで色々あります。この辺をごっちゃにしたまま読むと混乱をきたすので、まず『荒野の奇跡』での「天使」がなにものか、について考えておきます。

 あれはたしかTwitterだったと思いますが、「『荒野の奇跡』の天使とは楽園を追われた存在のことである」という大意の読みを見たのですが、私は「そうかなあ」と思います。たぶん創世記のことを言っているのだと思いますが、そこでは天使(ケルビム)はむしろ追放されるのではなく追放する側ですよね(“こうして、神ヤハウェは人を追放し、生命の木にいたる道を守るため、エデンの園の東にケルビムと揺れ動く剣の炎を置いた” *3)。 あるいはルシファーの堕天のことを言ってるのかもしれませんが、白銀リリィが担っている星は冥王星なので、ルシファー=金星と重ねて見るのは無理がある気がします(エルザ フォルテとその曲『Forever Dream』が金星的、という話ならとてもしっくりきます。エルザは智慧と傲慢と誘惑の人なので、ひじょうにルシファー=金星的人物と言えます)。
 詞を読むと、『荒野の奇跡』の天使は 1:荒野へ舞い降り、白い羽根を大地に蒔いて花に変えた 2:嵐を呼び、雨を降らせる などいくつかの営為を担っていることがわかりますが、これらを行う天使の姿はもちろん先述の創世記の記述と異なります。よって、アブラハム宗教的な天使を『荒野の奇跡』の「天使」と同一視するのは有効な読みではないと思われます。

 では、どうするべきか。ここではリルケの連作詩『ドゥイノ・エレギー』を参照します。どうして急にリルケが出てくるのか、恣意的な参照ではないかと思われるかもしれませんが、この詩を持ってきたのには明確な理由があります。先述した4つのモチーフ「天使」・「讃歌」・「下降」・「生命の有限性mortality」は、『ドゥイノ・エレギー』にも共通して登場するからです。まずはこの詩と『荒野の奇跡』の両方とを読み比べながら、われわれの読解における「天使」「有機体」そして「物」の関係を見ていきましょう。

・「天使」「有機体mortal」そして「物」

 誰が、私が叫んだとしてもその声を、天使たちの諸天から聞くだろうか。かりに天使の一人が私をその胸にいきなり抱き取ったとしたら、私はその超えた存在の力を受けて息絶えることになるだろう。美しきものは恐ろしきものの発端にほかならず、ここまではまだわれわれにも堪えられる。われわれが美しきものを称讃するのは、美がわれわれを、滅ぼしもせずに打ち棄ててかえりみぬ、その限りのことなのだ。あらゆる天使は恐ろしい。

『ドゥイノ・エレギー』第1歌 古井由吉訳

“あらゆる天使は恐ろしい”。『ドゥイノ・エレギー』で最も有名と思われるこの一節ですが、この詩の「天使」は絵画作品にあるような美しいだけのものでは、あるいはチョコボールのクチバシについているような可愛らしいものではないとされている。なぜ “恐ろしい” のか。それは有機体mortalたる人間が天使に抱かれたとしたら息絶えてしまうような、格の違う美を持っているから。第1歌によれば、この世に現れ出ている “美しきもの” を有機体mortalが称讃できるのは、天使(の美)がまだ有機体mortalを “滅ぼしもせずに打ち棄ててかえりみ” ない限りにおいてのことだ、と歌われています。

 第1歌では他にも「鳥」「春」「音信」など重要なモチーフが登場していますが、われわれは「天使」の読解に集中しましょう。第2歌ではいよいよ「讃歌」のモチーフが登場します。
“あらゆる天使は恐ろしい。それであるのにわたしは、哀しいかな、御身たちを、人の命を奪いかねぬ霊鳥たちよ、その恐ろしさを知りながら、誉め歌った” 。この “わたし” も有機体mortalには違いありません。一体どうすれば、生命に限りのある人間が天使たちを褒め称えることができるのか。一気に飛んで第9歌、そこでは「称讃」の手段として「物」が歌われています。長いですが一挙に引用します。一文字も読み落さないでください。

 天使に向かってこの世界を称讃しろ。言葉によっては語れぬ世界をではない。壮大なものを感じ取ったとしても、天使にたいしては誇れるものではない。万有にあっては、より繊細に感受する天使に較べれば、お前は新参者でしかない。単純なものを天使に示せ。世代から世代へわたって形造られ、われわれの所産として、手もとに眼の内に生きるものを。物のことを天使に語れ。天使はむしろ驚嘆して立ち停ることだろう。お前がいつかローマのなわいのもとに、ナイルの壺造りのもとに足を停めたように。天使に示せ、ひとつの物がいかに幸いになりうるか、汚濁をのがれてわれわれのものになりうるかを。悲嘆してやまぬ苦悩すらいかに澄んで形態かたちに服することに意を決し、物として仕える、あるいは物の内へ歿することか。その時、彼方から伴う楽の音も陶然として引いて行く。この亡びることからして生きる物たちのことをつぶさに知り、これをたたえることだ。無常の者として物たちは救いをわれわれにたのむのだ、無常も無常のわれわれに。目には見えぬ心の内で物たちを完全に変化させようではないか。これはわれわれの務め、われわれの内で、ああ、はてしのない務めだ。われわれが結局、何者であろうと。

『ドゥイノ・エレギー』第9歌 古井由吉訳


「天使」は有機体mortalには堪えきれないほどの美を持っているはずの存在でした。その「天使」を立ち停らせるためには「物」のことを語らなければならないという。どういうことなのでしょうか。「天使」と比べて有限な存在である有機体mortalがつくりだした「物」(“ローマの縄”・“ナイルの壺”)に「天使」が “驚嘆して立ち停る” とは。

 整理しましょう。 mortal は美において「天使」に劣っている。その mortal のつくりだした「物」も同様に劣っているのかもしれない。しかしここにこそ転倒があるのではないでしょうか。有機体mortalがそもそも「天(使)」の創造createした被造物creatureにすぎなくて*4、ただ劣っているだけの存在だとしたら、一体どうして「天(使)」と同じ創造createする力を持つことができたのでしょうか。有機体mortalが作り出した「物」が同様に有限な亡びやすいものだとしても、そうして生まれた「物」を示すことは「天(使)」が有機体mortal創造createしたのと同じ力を他でもない被造物creatureが持っていた、そのことを証明する結果になります。となれば「天使」は “驚嘆して立ち停る” ことしかできなくなるでしょう。脈絡はついています。そして他ならぬ白銀リリィは、虹野ゆめは、いや『アイカツスターズ!』に登場するすべてのアイドルたちは創造行為に取り組んでいたのでした。自分でデザインしたドレスに「星のツバサ」を降ろすために。

『ドゥイノ・エレギー』第9歌における天使・有機体・物の関係


・破線になる話者(1番Aメロ・Bメロ・サビ)


 このあたりでよろしいでしょう。『荒野の奇跡』1番の歌詞を読みます。
 1番Aメロは “その昔” という歌い出しで始まります。口伝の決まり文句ですね。ここでの話者を仮に「語り部」と呼ぶことにしましょう。 “勇気を胸に 荒野へ舞い降りた天使は” と三人称で話していることから、すくなくとも「語り部」は「天使」ではないことがわかります。『ドゥイノ・エレギー』と同じ、有限であるがゆえに「天使」のことを褒め歌う人間、でしょうか。

 Bメロを飛ばして﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅サビの歌詞を読みます。ここでの話者は “傷ついた翼をふるわせながら/それでも羽ばたいてわたしは生きる” と歌っていることから「天使」であることがわかります(そもそも翼がついていない人間が “ふるわせ” たり “羽ばたい” たりできるわけがありません)。Aメロの話者は「語り部」でサビは「天使」。そこまでは明確になっているでしょう。

 しかし、Bメロ。ここが問題となります。なぜならこの箇所は主語を欠いた文で書かれているからです。 “寂しくて涙ポロリ こぼれ落ちた瞬間とき/月も花もその羽根さえも青く染まった” 。この描写の主語は何者でしょうか。最も混乱させるのが “その羽根” という文言です。「わたしの羽根 (my wings)」なら「天使」、「彼女の羽根 (her wings)」なら「語り部」が話者だと確定できるのですが、 “その羽根 (its wings)” という中性の所有格で書かれている(“寂しくて涙ポロリ” というオノマトペを交えた主観的な描写が入った後に “その羽根” という突き放した描写が入ることでよりいっそう主格を撹乱する)ので、Bメロの詞は
 甲:荒野に舞い降りた「天使」が独白している
 乙:「天使」のことを伝え聞いている「語り部」が語っている
 のどちらでも解釈可能なものとして書かれています。Aメロ「語り部」・サビ「天使」と明確な話者に挟まれたBメロでは、なぜか主語が確定しがたいものになっている。
 まとめます。『荒野の奇跡』の詞は、1番Aメロ・Bメロ・サビの時点ですでに話者を確定不能にする構造を持っている。「語り部」が語っている・「天使」が独白している という実線としての人称を破線に変えてしまう部分(Bメロ)を構造的に含んでいる、と言うことができます。

(括弧:この「人称の融解」についてはさらに入り組んだ読みが可能であるどころか、誰かへと呼びかける「詩(詞)」についての重要な問題系を含んでいるように思われます。が、ここで詳述すると本筋を外れるので註*5に譲ります。)

 ここまでこの詞を読んで、「パートごとに話者がバラバラだし、誰が何を語っているのかもあやふやだ」「だからこの歌詞はよく書かれていない」と判断してしまうのは、読むにしても書くにしても言葉の鍛錬を一切積まないまま生きてきた馬鹿な国語教師くらいのものでしょう。『荒野の奇跡』はそのように書かれた歌です。そのようにして書かれた歌なので、そのようにして読むしかありません。われわれはわれわれ自身の読解に集中しましょう。

・下降、飛翔のためでなく


 コロス3を挟んで2番Aメロに入ると、『荒野の奇跡』の人称はますます破線になってゆきます。とくに2番サビ、 “誰もがいつの日か土へと還る/ならば今ここで奇跡を起こそう” と歌われる箇所では、有機体mortalであるはずの存在が “奇跡” を起こすのだと宣言されていて、もはや「語り部」と「天使」の区別さえ存在するのかどうか。しかしこの “奇跡” が「物」を示すこと=創造行為createを示しているのだとしたら脈絡はついています。『ドゥイノ・エレギー』において有機体mortalが「天(使)」を驚嘆させるための唯一の手段が創造行為createだったことは先ほど確認しました。

 しかし、詞の中では「天使」の領分にしか属さない営為があると歌われています。「雨」。コロス4では “やがて来る雲たちが 太陽を隠すとき 青いその羽根は散り/雨粒になるという” と、Cメロでは “どうしてでしょう 天使が何度雨を降らせても/大地はまた 渇いてく 鳥も花も君も” と歌われています。天に属する「天使」が地を這いつくばる有機体mortalに向けて雨を降らせる……という構図で考えたくなりますが、しかしわれわれは既にこの詞が「語り部」と「天使」との区別を破線にするように書かれていることを確認しました。だとすればその構図もおそらく有効ではない。別の見立てが必要となるでしょう。

・物-語(As above so below)

*6

 だしぬけですが、『Fantastic Ocean』のCD盤面デザインを見てみましょう。陰陽のようにも見えますが、もちろん空と海をモチーフにしたデザインです。
 ここで仮に、空を「A(bove)」・海を「B(elow)」と見立ててみましょう。地上に海が存在するのはもちろん重力があるからです。そうして溜まった水=海のはるか上には空がひらけている。太陽光で海から蒸発した水分が空に雨雲をつくり、空から地上へ雨を降らせる……と考えても、やはりここでは「A(bove)」と「B(elow)」との間で双方向性の営みがあることが示されている。上だったものが下になり、下だったものが上になり……延々と繰り返す営み。『荒野の奇跡』Cメロ後半の詞を引用します、 “天と地は知っている 太陽と月然り 愛しさはかなしさよ/終わらない物語” 。

 結論に近づいています。一挙に言いましょう、『荒野の奇跡』では「天使」と有機体mortalの区別が、 「A(bove)」と「B(elow)」の区別が結果として不可能になる、そういう営みが歌われていると。「天使」から有機体mortalへ向けて与えられるもの、それが「雨」です。降らせるためにはとうぜん重力が必要です。しかし何度「雨」を降らせても “大地はまた 渇いてく 鳥も花も君も” 。ここで “鳥も花も君も” と歌われているからには、「天使」にとっては人間も鳥も花も被造物creature有機体mortalとして平等に扱われていることになります。ではその “亡びることからして生きる物たち(ドゥイノ・エレギー第9歌)” が「天(使)」に対して「雨」の返済を行うには、「天使」を称讃する歌をうたうしかなくなる。 “誰もがいつの日か土へと還る/ならば今ここで奇跡を起こそう深く 緑が燃え/鳥は舞い踊り花は謳う 伝説のそう天使を讃え”。 『荒野の奇跡』の “奇跡” とは、「天(使)」に属さない地上の被造物creature有機体mortalが歌によって返済を行うこと。その「天(使)」と被造物creature有機体mortalとの関係の端緒として贈り与えられたものが「(“抗えぬ力” =重力による)雨」だった、ということになります。

 よって、『荒野の奇跡』の詞の “物語” とは、辞書的な意味とは別のものとして理解しなければなりません。通俗的な意味での「ストーリー」「神話」「物語原型」などではなく、物の−語り創造createする被造物creature有機体mortalの語り。 “物のことを天使に語れ” 。「天使」→有機体mortal→物 という一方向の関係が結果として逆転する返済の営み、その手段が「讃歌」だったということになります。

・幸福なものは下降する


 さて、われわれはリルケの視た「天使」の姿をたよりにここまで読解してきました。では、『ドゥイノ・エレギー』最終歌の最終部を引用しましょう。

 しかし彼らは、無限の境に入った死者たちはわれわれに、ただひとつの事の比喩を呼び覚まして往った。見るがよい、死者たちはおそらく、指差して見せたのだ、はしばみの枯枝から垂れ下がる花穂を。あるいは雨のことを言っていたのだ、早春の黒い土壌に降る雨のことを。
 そしてわれわれは、上昇する幸福を思うわれわれは、おそらく心を揺り動かされ、そのあまり戸惑うばかりになるだろう━━幸福なものは下降する、と悟った時には。

『ドゥイノ・エレギー』第10歌 古井由吉訳

 幸福なものは下降する*7。ご存知の通り、『アイカツスターズ!』は飛翔ではなく下降を重んじたシリーズ作品です。AS!ep20、如月ツバサは自らが一流の女優であることを証明するために崖からマットの上へ飛び降りました。それは落ちぶれた共演俳優を救済し、同時にかつての自分の憧れを返済するためでもありました。AS!ep62、桜庭ローラは自らが如月ツバサのブランドを継ぐに値する人間であることを証明するためにバンジージャンプに踏み切りました。『アイカツスターズ!』では、もはや重力に抗うこと(=飛翔)は目指されていない。『アイカツ!』のように素手で崖を登ったり、星宮いちごのように「エンジェリー」な「超人」的な存在を必要とする作品ではないということです。『アイカツ!』は immortal ・『アイカツスターズ!』は mortal な世界であり、『アイカツスターズ!』は死に抗して生存を続けるための「賭け」を続けている作品として一貫している、ことについては以前書きました。だからこそ「飛翔」ではなく「下降」が重んじられるようになったわけです。それはAS!ep26での白銀リリィ・二階堂ゆずのシーンを見ても明白です。体調不良で倒れる白銀リリィ、よりも先に倒れて下敷きになった二階堂ゆず。「倒れないようにするため」ではなく「より安全に倒れるようにするため」。ただ落下しないように、落下したとしても絶命だけはしないように。四ツ星学園はそういう mortal な存在がそこでしか歌えない歌を残してゆく、生存のための訓育の場所でした。そして白銀リリィに担われた『荒野の奇跡』に導かれて、われわれはここまで読解を進めてきました。“上昇する幸福を思うわれわれは” 、“抗えぬ力に寄り添いながら” 、 “下降” することの “幸福” を歌っている詩・詞を前にして戸惑うばかりです。しかし “いつの日か土へと還る” “亡びることからして生きる物たち” =有機体mortalでしかなし得ない、「A(bove)」と「B(elow)」の区別自体を無効とするダンスのほうへ少しでも近づけたのだとしたら、この比類ない名曲に礼を失することなく付き添うことができた、のかもしれません。


西暦2022年7月30日に付された後註:
 この記事が書かれた頃は、せいぜい北朝鮮からなんとなくミサイルが飛んできている程度で、世界的な擾乱の気配は今よりずっと仄かであった。
 そして西暦2018年3月末、「藝術による世界大戦」をラストシーンとする第100話の放送をもって、『アイカツスターズ!』という世にも稀なる傑作は2年間の役目を終えた。
 翌2019年3月3日、試金は他ならぬ『アイカツスターズ!』の将星たちによって導かれたヒップホッププロジェクト SAYSING_BYOUING のアルバムを完成させた。
 続いて同年7月18日、「自分の小説を盗まれた」と称する者による京都アニメーションへの放火が行われ、肉体労働の休憩時間中にその凶報に接した試金は、同月21日より、霊感によって導かれるままに小説を書き始めた。のちにχορόςコロスと題されたその小説は、約15ヶ月間の執筆を経て全編64万字の文量をもって結実した(ちなみに、第2部の執筆中であった2020年2月末に古井由吉氏の訃報が届いた)。音楽・文学問わず無限の着想源を持つこの小説は、とりわけリルケの『放蕩息子の出立』、『ドゥイノ・エレギー』、そして『オルフォイスに寄せるソネット』に多くを拠っていた。これらの詩たちが『χορός』第1章と最終章で繰り返し引用されていることが何よりの証である。
 そして2021年、自分に発揮できる創造性は全て出し尽くしたと思っていた試金は、なんと『χορός』完成の6ヶ月後に新たな音楽を着想してしまう。『蛾の死』と題された楽曲は、彼自身の30回目の誕生日であり、ムスリムとして信仰告白を済ませる予定でもあった6月5日に発表された。このイスラーム思想とヒップホップのふたつを典拠とするプロジェクトは Parvāne と名付けられ、同年11月末にセルフタイトルの1stアルバムを発表するに至った。最後に収録されている9分超の楽曲に付されたサブタイトルは “ein Glückliches fällt”. もちろん『ドゥイノ・エレギー』最終歌からの引用句である。

 このようにして、『アイカツスターズ!』放送終了を経てもなお、私の創造の路にはリルケ的精神が常に伴にあった。いや、『荒野の奇跡』をきっかけとして浸潤したリルケ的精神が、常に新たな霊感を与え続けていた、というのが正確であろう。『χορός』と『Parvāne』、私が今日まで生存を保ってきたことを心の底から誇りに思える両作品は、他ならぬリルケの詩によって支えられていた。その先触れを告げていたのが西暦2017年7月時点での本稿であったし、私は伝達を虚心に受け取ったが、今ではリルケの導きをも通り越し、真なる一神教に服する者となっている。リルケが生前の書簡で『ドゥイノ・エレギー』の天使の観念に明確なイスラームからの影響を認めていたことなどは、今更言うまでもない。
(いきなり、しかも確信とともに書くが、「『アイカツスターズ!』の影響でムスリマ(ム)になりました」という若い世代は、これからどんどん出てくるに違いない。なぜなら『スターズ!』こそが「アイドル」を通して秋元康的な意味での「アイドル」がいかに無意味で無価値なものかを暴き、それによって「ただの(藝術的技能を備えた)人間しかいない」という真実を浮かび上がらせるという、徹底的な偶像破壊を果たした作品だからだ。)

 さて、なんの因果か本稿を読むことになった諸君。私が諸君らに問いたいのはひとつだけだ。私は5年間でこれだけの変転を遂げた。では諸君は、この西暦2020年代・かつてリルケが100年前に直面した世界大戦や疫病や既存文化の頽落といった諸事が刻々と再現されつつある現今において、いったい何になろうとしているのか? ということだ。何も変わらない、などという選択肢はありえない。私がこの文を打鍵しているのは、なんの根拠もなく「はいコロナ終息しました」と思い込んだ輩どもが、数年間の無策のツケを政府に払わせるために大規模なデモを組織するでもなく、単にまた「推しの現場」に行けるようになったわあいきゃあきゃあうれしいなと目を覆いたくなるような卑小な安逸(スピノザの言ったコナートゥスとはまさにこのことだろう)を偸み続け、その結果として世界最多の感染者数を叩き出すに至った、そういう国の現在なのだから。

 私は絶え間ない変転の結果としてのみ『アイカツスターズ!』を愛し、その結果として多くの武器をめぐんでもらっただけの人間だ。『スターズ!』の続編と称するものが売り出されたって、1円たりとも払わないだろう。何故なら「前に見たことがあるものをそのまま出す」という時点で、既に『スターズ!』的な精神への裏切り以外の何物でもないからだ。変わり続けること、常にフレッシュであること、未知のグルーヴと詩文をつねに両方同時に生み続けること。私が『スターズ!』から学んだのはまさにそれらの事どもであり、5年間ひとときもそれらの智慧を裏切ることはなかったという事実は、この澱みの時代におけるささやかな、しかし確かな果報であった。

 一方、変わることを拒み続けて反復強迫に陥った物どもがどのような精神的荒廃を経るかについても、この記事の2ヶ月後に『この幼形成熟の世紀に』として既に書かれていた。今読み返すと、下手なホラー映画の100倍くらい怖い内容である。いまだに『アイカツ!』の同人誌なんか出して、とおといとおといと体液を分泌しつづけ、いつまでもわたしたちかわらずに同じものを同じように弄んでいられるよねと追認するための奇怪なセラピーに慣れ親しんでしまった、あまりにも純情可憐な人々には荷が勝ちすぎる記事だが、いちおう覚悟してから読むといい。



*1 私はこの「命を削って~」とかいう物言いをまったく好みません。それはそもそも歌っている人間に命が削れていない者はいないということもそうですが、『荒野の奇跡』および『アイカツスターズ!』はそういう劇的な姿にだらしなく感動して終わりにできるような安易な作品ではないからです。そうではなく、白銀リリィのようにステージの上で怪物的な存在が、ひとたびステージを降りればわれわれと同じように(さっきまで歌っていたその口で)ものを飲んだり食べたりしているという、その事実に驚くべきなのです。

*2 コロスの構造がポピュラーミュージックに登場するのはさほど珍しいことではありません。 クイーンの『Good Old-Fashioned Lover Boy』は “Ooh love ooh loverboy” “Hey boy where do you get it from? Hey boy where did you go?” という冷やかしの声が入ります。あるいは『Bring The Noise』でチャックDを煽りまくるフレイヴァー・フレイヴは理想の音楽的コロスと言えるのではないでしょうか。「コロス」と「合いの手」がどう同じでどう違うのか、ということに関しては用語を厳密にすべきとは思いますが、しかし私はコロスの構造を最も上手く音楽的に生かしているのはアフロアメリカンミュージック、とくにヒップホップではないかと思います。ここから複声によるコロス型楽曲とスリック・リックやエミネムのようないわゆる単声ストーリーテリング型との違いを考えることもできると思いますが割愛します。さらに言えば『Dreaming bird』はコード譜を読むと明らかにアフロアメリカンミュージック(とくにブルース)の要素が色濃く残されており、『荒野の奇跡』にはコロスも採用されているということで、じつは白銀リリィが担う楽曲はとてもアジア・アフリカ・ギリシア的=非白人的要素を持っている、ブラックアテナミュージックの先鞭ではないかという件もあります。註で大風呂敷を広げすぎている気がしますが、これらは本稿で述べたことと直接関係があることです。

*3 創世記 3:24

*4 ここで唐突に有機体が「天(使)」が創造したものとして定義されたことが訝しまれるかもしれませんが、これは『荒野の奇跡』の天使の営為(「雨」)を先取りしているためです。単純に、水分がなければ有機体は絶命するしかありません。われわれは有機体=死すべき者について話をしています。よって、ここで本稿内での「創造」は「生を定礎する」ことの意味を帯びてきているのでしょう。『ドゥイノ・エレギー』第9歌で “目には見えぬ心の内で物たちを完全に変化させ” ることが “われわれの務め” と歌われていたことを思い出しましょう。ここで「天使→有機体→物」をめぐる一連の「生を定礎する」流れを見いだすことは可能です。「天使」は雨を降らせることで有機体の生を定礎する。有機体は “世代から世代へわたって形造られ、われわれの所産として、手もとに眼の内に生きるもの” をつくることで「物」の生を定礎する。しかし有機体 が「天使」を驚嘆させるためにはそもそも被造物creatureである有機体がつくった被造物creatureである「物」を示すことが必要であり……という、単に一方向ではない、或る双方向性の営みがあると言い当てるための理路がここで進行しています。これについては「・物-語(As above so below)」の項で詳述されます。

*5 話者の融解に関する註
 1番Bメロ以外にも、話者が融解している箇所は存在します。最後サビの一節を読んでみましょう。
“いつかめぐり会うあなたを夢見る天使 わたしは歌う”
 この箇所は、どこで文意を区切るかによって話者が「天使」・「語り部」のどちらにも変わってしまいます。

⑴「いつかめぐり会うあなたを夢見る天使 /  わたしは歌う」
 と区切れば、「いつかめぐり会うあなた(わたし以外の誰か:二人称)を夢見る天使(三人称)、わたし(一人称)は歌う」、一文の中に人称がみっつ存在していることになります。もし「天使」の後に(よ)がついていたとしたら、「いつかめぐり会う『あなた』を夢見ている天使よ、わたしは歌う」となります。「天使よ、わたしがその『あなた』なのだ」とばかりに声を上げているわけです。しかし、詞では単に「天使」と体言止めになっているので、同時に他の解釈も可能になっている。

⑵「いつかめぐり会うあなたを夢見る / 天使 /  わたしは歌う」
 さらに区切ることもできます。「いつかめぐり会うあなたを夢見る」の直前の詞は「それでも羽ばたいてわたしは生きる」なので、「わたしは生きる」・「あなたを夢見る」で対句になっていると解釈するのも自然です。とすると、「(わたしは)いつかめぐり会うあなた(=天使)を夢見る、天使よ、わたしは歌う」となり、やはり「わたし」から「天使」への呼びかけだと解することができます。しかし、

⑶「いつかめぐり会うあなたを夢見る天使  わたしは歌う」
 一切区切らないとしてもこの詞は読めてしまうのです。つまり「いつかめぐり会うあなたを夢見る天使=わたしは歌う」。「わたし」から「天使」への呼びかけではなく、「(いつかめぐり会うあなたを夢見るあまりに)天使であるこのわたしが歌う」。先述した通り、直前に “傷ついた翼をふるわせながら/それでも羽ばたいてわたしは生きる” と「話者=天使」らしき描写が入っているので、このように解釈することも成り立ってしまう。

 このように、「わたし(一人称)」「あなた(二人称)」「天使(三人称)」それぞれの人称がまったく確定性を持っていない、もっと言えばそれぞれの人称が交換可能なものとして書かれているのが『荒野の奇跡』なのです。「あなた」は「わたし」なのかもしれないし、「あなた」は「天使」なのかもしれないし、「わたし」は「あなたを夢見る天使」なのかもしれない。
 気をつけてください、「自分と他者の区別がついていない」状態は精神病の症状に極めて近いということに(極めて近いと言ったのであって全く同じだと言ったのではありません)。おそらく『荒野の奇跡』の話者が陥っているのはそういう精神状態なのでしょうし、それを読むわれわれもその影響から無縁ではいられません。しかしそのように書かれている詞である以上、そのように読むしかありません。

 また、この註で述べたような「私(Ich)」から「君(Du)」へ投げかけられる詩と精神病・暴力との関連性を論じた小説作品に『晰子の君の諸問題(著:佐々木中)』があります。

*6 “As above so below” は Tool の名曲『Lateralus』に引用されていたりホラー映画のタイトルになっていたりしますが、出典はなんかヘルメスどうたらとかいう錬金術モノのやつらしいです(原典に当たってないので知りません)。日本語訳らしきものをここで読むことができますが、正直に言うとこの文書には「奇跡(奇蹟)」「太陽」「月」「大地」「風」など『荒野の奇跡』の主要モチーフが多く登場するので、作詞家 tzk が参照したのであろう文献としては『ドゥイノ・エレギー』より先にこっちを提示するべきなのかもしれません。しかしそうしませんでした。なぜなら私は “太陽がその父であり 月がその母である” とかいう安易なシンボリズムが大嫌いだからです。

*7 本稿で引用した『ドゥイノ・エレギー』の翻訳者である古井由吉さん本人が「下降」および「上昇」について言及している文があります。引用しましょう。

 人間を個人の観点から見ると、たしかに年を取るということは下降です。であるけれど、個人がひとりでものを書いているわけではないんですよ。無数の人間のもやもやを相手にしているわけだから。この無数のもやもやは、年を取らないんですよ。

 下降と上昇はどこか似ているところがある。ある下降のポイントがきわめて上昇に似ている。大病をしたことがあるんですが、だんだん症状が進んでいくでしょう。全身に衰えが出ます。でもその時の感情はたとえば思春期の感情によく似ているんです。上昇と下降というのはひとりの人間のなかに絶えず同時にあるんじゃないかな。僕の小説の舞台はその交差点ですね。*7-1

「四〇年の試行と思考」『この熾烈なる無力を』河出書房新社刊 219P


 加えて、その古井由吉さんの翻訳による『ドゥイノ・エレギー』第9歌から引用します。

 このとおり、わたしは生きている。何処から来る命か。幼年期も未来も細くはならない。数知れぬ人生が心の内に湧き出る。

 この “幼年期も未来も細くはならない” “心のうちに涌き出る” “数知れぬ人生” が古井氏の言う “年を取らない” “無数の人間のもやもや” と同じものなのか、および “ひとりの人間のなかに絶えず同時にある” “上昇と下降” が本稿で述べた「A(bove)」と「B(elow)」のダンスと同じものであるかどうかは、読者の皆さんの判断に委ねます。

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