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札切る後裔(『アイカツスターズ!』の1年間に捧げる7つのリスペクト) 2017/03/31(Fri)

西暦2023年2月12日に付された前註:
ここにアップロードされるのは、筆者が西暦2018年3月30日に電子書籍として無料頒布した「やばいくらい -『アイカツスターズ!』読解集成-」からの単体記事抜粋である。

 始まる前からやばいやばいと騒いでいた『アイカツスターズ!』ですが、1年目の放送を終えて、脚本でもキャラクターでも音楽でもあらゆる面において期待の3億倍くらい凄まじいものを見せられた、という事実に打ちのめされます。絶対にえげつないものになるとは思っていましたが、ここまでとは。
 本稿は、『アイカツスターズ!』の1年間を見せつけられたことに捧げる7つのリスペクトです(「考察」や「分析」などでは断じてありません)。音楽に関しては既にいくつか書いたので、本稿ではアニメ本編を創ってきた人々の尋常ならざる創意についてふれていくことになるでしょう。本編未見の方にとっては何が何だかな記述も多く含まれますので、まずはBlu-rayボックスを買う・バンダイチャンネルに課金するなどして今すぐ全話見てください。たったの50話しかありません。スタートレックTNGの178話とかに比べれば一瞬です。
 各項は独立した内容であるとともに横断的に絡み合っているので、まずは気になった項のRESPECTから先に読んでみてください。


◎RESPECT1 匠の手つきで火薬庫を造る(シリーズ構成:柿原優子の手際)


『アイカツスターズ!』のシリーズ構成を担当したのは脚本家:柿原優子。この名を銘記しましょう。前シリーズではあかりジェネレーション(A!ep102以降)7話ぶんの脚本を担当しておられた方ですが、(個人的には)前シリーズでは手放しで絶賛できる回はありませんでした。特にA!ep144、『オズの魔法使』ネタのドレスを氷上スミレが手にする回だというのに、『オズ』モチーフおよびデザイナー夢小路魔夜の存在などが等閑にされすぎでは……? と困惑したこともありましたが、

・「アイドルに代わって衣装をデザインする者=デザイナー」という存在の比重の小ささ:またはその代謝【→RESPECT4】
・それによって浮かび上がる博徒としてのアイドルたち:並びに勝負の成立可能性→【→RESPECT3】 , 【→RESPECT5】
・一話完結性ではなく、シリーズを貫通するキャラクターたちの関係性に重点を置いた作劇【本項】
 という、A!ep144で部分的に明らかだった脚本家:柿原優子の持ち味が全面的に炸裂したのが『アイカツスターズ!』だったと言うことができます。順を追って見ていきましょう。

・『アイカツ!』火気厳禁の世界
 ネガティブな出来事も起こりえるレトロなスポ根路線は消えてなくなり、代わりに、「皆で一緒に笑いながら身近な幸せを改めて感じ、明日を信じる力、未来への夢を持てる作品」が必要だろうということになった。前シリーズの構成担当である加藤陽一はそう証言しています。結果、『アイカツ!』はとても素晴らしい作品として記憶されることになりました。その大きな要因は、「ネガティブな出来事」が起こりそうになるとすぐさま鎮静される、言うなれば「消火装置」が内蔵されているかのような作劇法を取っていたことにあります。みてみましょう。

・消火実績

A!ep37
 紫吹蘭は美月のユニット「トライスター」の一員として選ばれたが、ステージで十分な力を発揮できない
→美月は蘭の苦悩を見抜き、トライスターを脱退して星宮・霧矢のユニットに合流するよう促す(その日のライブは蘭を除く2名で済ませる)
A!ep47
 過密スケジュールの無理がたたり、神崎美月の疲労が蓄積する
→美月のあこがれであるマスカレードの復活ステージを見たことで回復し、美月自身も最高のステージを見せる
A!ep96-97
 大空あかりは特訓を重ねてもスペシャルアピールを習得できず、自分にアイドルの資質はないと諦めかける
→先輩である星宮はかつて霧矢から受け取った手紙を思い出し、助言を授け、結果として大空は初めてのスペシャルアピールを達成する

 これでもほんの一部です。『アイカツ!』において、個人と外界との摩擦によって起こる苦悩や葛藤などは積極的に消火されるのが常でした。2年目以降では「このキャラクターがここまでのことをやれる理由は過去の経験にあった」という(以前「「事後報告」」として書いた)構造も内蔵されていて、それらの装置が『アイカツ!』のキャラクターたちの「成長」の描写を円滑にしていたと言うことができます。

 その「終着点」である劇場版短編『ねらわれた魔法のアイカツ!カード』を見てみると、大勢のキャラクターが出演しているにもかかわらず、それぞれがキメ台詞や得意技を披露しながら楽しく共存している世界が展開されています。星宮いちごによってバトンを授かった大空あかり、によって安全に管理経営された、みんな平等に出番が与えられる、誰も傷つかない、素晴らしいユートピアは、『ねらわれた魔法のアイカツ!カード』において完成を見ました。
 さて、そのようにして前シリーズは「解決」しましたが、『アイカツスターズ!』シリーズ構成たる柿原優子はどのような方途に打って出たか。

・『アイカツスターズ!』ここに火薬庫を普請する(AS!ep1-36)
「消火装置」を内蔵していた前シリーズになぞらえると、『アイカツスターズ!』の四ツ星学園は「火薬庫」のような世界だということができます。表を見てみましょう。

歌組の所蔵火薬一覧

 AS!ep1においてすでに虹野ゆめの謎めいた力(also known as 爆弾)の存在が示され、それとともに「なぜ驚異的なパフォーマンスができたかの謎」の装置(EE)が駆動するわけですが、じつは虹野ゆめの入学以前から四ツ星学園には爆薬が積み込まれていた━━どころか一度爆発事故を起こしていた━━ことが明らかになります。言うまでもなく、学園長である諸星ヒカルの姉に訪れた象徴的な死(アイドル生命の終焉)*1-1のことです。

 確認しましょう。諸星ヒカルの少年時代に、なんらかの力(AKA爆弾)によって姉である雪乃(諸星)ホタルのアイドル生命が断たれてしまう。その力(AKA爆弾)の正体は作中でも具体的な説明が与えられず、ヒカルは憔悴していく姉をただ見ていることしかできなかった(ここでなぜ現在ヒカルが四ツ星の学園長に就任するに至ったか、について色々想像を巡らせることもできますが、やはり作中でも具体的な説明は与えられません。この諸星姉弟をめぐる運命に「具体的な説明が与えられない」ことについては後に触れます)。

 さらに2016年度のS4である白鳥ひめが、虹野ゆめと同様の力(AKA爆弾)を抱えていたことが明らかになる(AS!ep30)。しかし白鳥ひめは諸星ヒカルの指導によりなんとか現在まで生き続けており、ひめ本人も雪乃(諸星)ホタルの真相を知らされたのはAS!ep33の時点だった。なぜ事ここに至ってヒカルは過去の爆発事故のことを知らせたのか。もちろん、同じ爆弾持ちの虹野ゆめの症状が亢進している(力への依存度が上がっている)からです。かつて姉(ホタル)が在籍していた歌組のなかに、よりにもよって同じ爆弾持ちの生徒が2人もいる。ひめの症状は今のところ鎮静化しているけども、その力(AKA爆弾)に頼りっきりの虹野は、いつホタルのように爆発するかわからない。ただでさえ(夏季まで病者として高原で療養していた)白銀リリィが帰還し、虹野や桜庭とも交流を深め影響を与えあい、年度末のS4選が熾烈を極める予感が強まっているというのに……
 と、AS!ep1から始まる「なぜ虹野ゆめは驚異的なパフォーマンスができたか」の謎装置は「火薬庫」こと四ツ星学園に次々と爆薬を搬入する役割を果たし、その緊張テンションはAS!ep30-36にかけてピークを迎え、周囲の人物を巻き込みながら、虹野ゆめの生存が賭けられるエピソード群に突入する。いよいよ普請奉行たる柿原優子の手腕が発揮されてゆくわけです。

・保菌者たちの闘い
「爆弾持ち」という書き方をしましたが、これを保菌者carrierと置き換えてもいいでしょう。「力」に取り憑かれた者(ホタル・ひめ・ゆめ)は一様に病に憑かれたかのように憔悴しています。「同じ運命に選ばれた」とひめはゆめに言っていますが、この言葉尻をつかまえて「結局『スターズ!』は選ばれた人間(にしか与えられない才能)の話なのか!」と憤慨するのはさすがに無理があります。むしろ、『スターズ!』において「選ばれた」ことは「呪われた」ことをしか意味しない。「わたしを選んでくれたの ありがとう」どころの話ではなく、何の説明も与えられない、謎の爆弾めいたものをなぜか握らされてしまった、そこから始まる生存のための struggle が『アイカツスターズ!』です。『アイカツ!』では「受け取ったバトン次は わたしから渡せるように」でしたが、「そのバトンがダイナマイトだったとしたら?」なのが『アイカツスターズ!』です。「そんな、いかにも一面的な」と眉をひそめたでしょうか。しかし『スターズ!』(AS!ep1-36)は歌と生存とが賭けられている作品として首尾一貫しています。歌うことに憧れ、憑かれた人々は、往々にして半ば狂気に見える。歌やあこがれをめぐる描写から呪いや狂気を検閲しなかった、まずここにこそ前シリーズとの決定的な差異があります(が、「破滅」は注意深く切り捨てられています。歌手やミュージシャンの破滅的な人生とかとかいうものはごく凡庸で退屈なモチーフにすぎない。『スターズ!』は死や破滅に抗して生存を続けることにフォーカスを絞ることでその短絡を注意深く避けており、むしろ「破滅」とは別のブレイクダウンの過程を設定したところにシリーズ構成:柿原優子の手腕があります【→RESPECT2】。また、音楽と暴力を抱き合わせて「刺激」を描くような━━たとえば三流教師の虐待のもとに血を流しながらドラムを叩くことでなにか「刺激的」な「音楽への執着」みたいなものを観客に叩きつけた気になっている粗雑で幼稚な音楽映画のような━━手法も注意深く切り捨てられています。「学校での訓育」と「虐待」は絶対に同じものではない、というイズムさえ一貫しているのが『スターズ!』です【→RESPECT5】)。むしろ、前シリーズで SHINING LINE* の名で呼ばれていた「あこがれ」のプロセスは、その過程で何かの信管を抜くための措置だったのではないか、という問いも有効ではあるでしょう*1-2。

・生きとし生けるもの、いづれか歌を詠まざりける
 さて、ここに来て『アイカツ!』『アイカツスターズ!』両作品の差異が明確になってきたと思います。一息で言えば、「『アイカツスターズ!』は人が死ぬ世界の作品である」。もっと言えば、「人は mortal だが神は immortal で invisible な世界の作品である」
 順を追っていきましょう。

 諸星ヒカルは言います。白鳥ひめに憑いた力(AKA爆弾)は「ステージの神様に与えられた試練(AS!ep35)」だと。しかしこの「神」は姿を現しません。つまり目に視えません。である以上、なぜこんな力を与えられたか、具体的な説明が与えられない。神なるものは無限であるがために認識できず、有限である人間は、なぜ自分の身に苦しみが降りかかるのかも理解できない。ヨブ記です。「あなたの両の目は肉〔の目〕なのか、 / 人が見るように見るだけなのか」*1-3と神なるものに陳情しても、その謎を与り知ることができない。だから理不尽に肉体を呪われたところから始めるしかない、当事者たちの闘い*1-4。それはおそらく80年代にレーガン政権下で続いていたパラダイス・ガラージの闘いでもあり、そこでも歌が賭けられていた*1-5。以前『劇場版アイカツスターズ!』に関して「身体の内側になぜかとんでもないものを抱えてしまった人たちが、それでもそこでしか歌えない歌を残してゆく、ひじょうにフレディ・マーキュリー的なショーマストゴーオン精神に貫かれている」* と書きましたが、もちろん80年代のAIDS禍を意識してのものです。そこには歌があった。自分の肉体を蝕むモノの正体もわからないまま、それでも生存を続けようとする者たちの歌が(保菌者を意味する carrier が「続ける」をも意味する carry の名詞系だったことを思い出しましょう、あの絶唱の結句が “I have to find the will to carry on” だったことも)。

 もう一度言いましょう、「『アイカツスターズ!』は人が死ぬ世界の作品である」。それはAS!ep1のラストで既に示されていました。保健室の壁に「インフルエンザ対策」のポスター。ご存知の通り、『アイカツ!』においてはアイドルに病的な・身体的な危機が迫る描写は注意深く切り捨てられていました。

(氷上スミレの喉のダメージが強調されるA!ep117が例外的ではありますが、その不調もエピソードの最後には完治していました。A!ep130で黒沢凛が足を負傷するのもさほど重要ではありません。あの回の要諦は『チュチュ・バレリーナ』の「さぁ脚を休めて」という歌詞をそのままスミレと凛の関係に適用することにあり━━「鉄の女サッチャー」と聞いてモビルスーツを連想するがごとき「慣用的表現を文字通りに描写する」傾向は、A!ep8で「地下アイドル」を「実際に地下のスタジオで活動しているアイドル」として見せたことからもわかるように、『アイカツ!』に特有のチャーミングさでもあります。だからこそ「壁を乗り越える」ことを描写するために「素手で崖を登る(A!ep9)」ような飛躍が可能だったわけです━━、やはり凛の負傷もエピソードの最後には問題でなくなっていたのでした。もちろん瀬名翼が体調を崩すA!ep167は勘定に入りません。瀬名翼はアイドルと同じくらいかっこよくてチャーミングな男性で私も大好きですが、彼は衣装を着てステージに立つわけではありません。A!ep13の星宮いちごの肥満はクローネンバーグっぽい危機描写━━精神的危機が身体に直接反映される描写。『THE IDOLM@STER MOVIE 輝きの向こう側へ!』の矢吹可奈も同様━━だとは言えますが、あれも神崎美月のアドバイスで最終的には解決されていました。あの回が神崎美月の食事シーンを含む唯一の回であることは特筆に値しますがここでは関係ないので註に譲ります*1-6。『アイカツ!』1年目はまだ気持ちがレイムだった頃の星宮が業界での振る舞い方を覚えてゆくエピソードで固められているので、この時期のエピソードを「プロフェッショナル論」「仕事論」として見ることは容易になっています。しかし『アイカツ!』初期において星宮のレイムぶりが矯正されてゆく流れは、星宮をモノホンプレイヤーに育て上げるためというよりはむしろ、星宮がレイムなままでは神崎がいつまで経ってもトップアイドルの座から追放されないから、もっと言えば目に視える神(神崎美月)の死を人-神(星宮いちご)が執行するという「物語」が成立しないから。ここに『アイカツ!』の構造そのものに要請される倒錯があった、と言うことはできるでしょう。『アイカツ!』のスターライトクイーンと『アイカツスターズ!』のS4が全く別の意味合いを持っていることなどについては【→RESPECT4】)

『アイカツ!』のアイドルたちは「消火装置」によって身体的・精神的な危機から遠ざけられていました。しかし『スターズ!』では病が人間を苛む世界=人が死ぬ世界であることがAS!ep1で宣言される。保健室のシーンで一緒にいる白鳥ひめ・虹野ゆめの2名がすでに「保菌者」であること、四ツ星学園ではすでに雪乃(諸星)ホタルがアイドルとして象徴的に死亡していたこと等、AS!ep36にいたるまでの主要素がAS!ep1ラストの時点ですでに出揃っている。人は mortal だが神は immortal で invisible な世界で、理不尽な呪いの中でどんな手段に訴えたらいいのかも知らない、それでも生存を続けようとする人々の賭場=四ツ星学園を周到に設計したこと。柿原優子が打って出た勝負はここにあります。

 なぜ『アイカツスターズ!』では素手で崖を登らないのでしょうか。落ちたら死ぬからです。人が死ぬ世界である以上、前シリーズのように素手で崖を登るなどの「超人」(A!ep102で霧矢が星宮を指して言うセリフ)めいた行動は許されない。代わりに必要とされたのは discipline, 生存のための規律と訓育だった。そこからしか始められない人間の製造【→RESPECT5】を描いた作品として、『アイカツスターズ!』は驚くべき一貫性を持っています。

*1-1「象徴的な死」の意味補足
 もちろん諸星ホタルは肉体的に死亡したわけではありません。彼女は現在(学生時代からおよそ20年後?)市井の人間としてかわらず生き続けており、AS!ep36では悩めるゆめのために朗らかにアドバイスする姿もあります。が、前述のとおりアイドルとしての生命はすでに喪われており(いつも飲んでいるはずのローズティーさえ冷まさずには飲めないほどの猫舌=舌を焼かれた人である というえげつない暗喩をさりげなく入れてくるのも『スターズ!』の恐ろしいところです)、かつての歌組S4たる雪乃ホタルの姿はもうありません。
 これは加齢とかではなく、あの力が爆発した時点でアイドルたる雪乃ホタルは死亡し、現在では市井の人間たる諸星ホタルが生きている、この断絶を強調するための描写だと考えるべきでしょう。雪乃ホタルはもういない、彼女がかつて生存していたことを目に視せてくれるのは、ただ写真におさめられた姿のみである。しかし一体彼女に何が起こり、どのようにして死んでしまったのだろうか……という想い(プンクトゥムがどうとか言うつもりはありません)は、そのまま虹野自身の「このまま力に頼り続けたら、一体どうなってしまうのだろうか」という先行き不明な未来ともかかわるものです。

 今はもういないアイドルの姿、それは前シリーズにおいてはレジェンドアイドル:マスカレード(現スターライト学園長の光石織姫・後に星宮いちごの母親となる星宮りんご)に相当するでしょう。その描写と比べると、両作品を分かつ差異はさらに明瞭となります。
 雪乃ホタル(アイドル)と諸星ホタル(市井の人)と━━死者と生者、と言ってもいいですが━━を分かつ分断線は不可逆なものですが、マスカレードの2人は現在でもマスクを着けさえすればアイドルユニットとして復活できた(A!ep47)し、その歌声は過労で倒れた神崎美月を全快させるほどの力を持っていたのでした。渡されたバトンが救いをもたらす、(シーズン2で名付けられるところの)輝きの SHINING LINE* 。それは素晴らしい。しかし『スターズ!』ではもはや「あこがれ」は救いを意味しない、なぜかダイナマイトを握らされてしまった状態から始まる生存のための闘いが賭けられていることは本項で書きました。どちらが良いとか悪いとかいう話ではありません。ここにこそ「人間は immortal・神は mortal で visible 」な『アイカツ!』と、「人間は mortal・神は immortal で invisible」な『スターズ!』との本質的な差異を見ることができるでしょう。

*1-2 このことについて、以前「デザイナーなるものの存在の有無」から前シリーズと『スターズ!』との質的な違いを検討したことがあります。

*1-3 ヨブ記10:4(旧約聖書翻訳委員会訳)

*1-4 当事者性についての註
『アイカツスターズ!』で繰り広げられていることを見るにおいて「当事者性」はとても重要です。以前私は、『アイカツスターズ!』の学校観についての記事で「いや、そこまで考えて作られているでしょうか」「そんな入り組んだことを描いて、こどもたちが理解できるでしょうか」と言うのは端的に誤りです。なぜなら、『アイカツスターズ!』のメインターゲット層である彼女ら彼らは、このノートで書いてきたすべてのものごとの当事者なのですから。今まさに学校のなかにいて、読み方を、書き方を、数え方を、走り方を、座り方を、「仕込まれ」て「調教され」ている最中なのですから」と書きました。逆に言えば、私たち(就学年齢を終えて成人した人間)はもう当事者ではない、学校空間での訓育を経て彫り出されたあとの人間であるということで、これはのちの特権的視点=視聴者【→RESPECT3】とも関わってきます。また、(それを受けるまでの経路は様々であれ)いま自分が読み書き演算ができるのは何らかの訓育の結果であるということ(自分がどのように製造されたか、ということ)を見ることができない態度が何を意味するか、については別註でもふれています* し、「自分がどのように製造されたか」を誠実に見据えた結果が早乙女あこの賭けだったことも付け加えておきます【→RESPECT2】。
 また、『スターズ!』の呪い(爆弾)がヨブ記やAIDSに結びつけられたことに眉をひそめたでしょうか。そこにこそ「(非・)当事者性」がまつわっています。ヨブの友人たちが好き勝手なことを言い散らすことができたのはあの呪いの非・当事者であったからからで、何の因果でこんな目に遭わなければならないのか苦悶しているヨブとはそもそも対話が成り立たない。もし(今のところ)非・当事者である私たちが『アイカツスターズ!』のヨブたち(ホタル、ヒカル、ひめ、ゆめ)の苦悩に寄り添うことができるとしたら、「お前はああいうことをしたからこうなったのだ、そうに決まっている」式の因果応報思考を捨て、「どうしてこうなったのか」のわからなさに向き合うことでしか為され得ないでしょう。さながら80年代初頭のAIDS禍でこの症状の「わからなさ」に向き合っていた人々のように(さすがに未だにAIDSをゲイやニードルワーカーに特有の病気と思っている者はいないと信じています。ちなみに、AS!ep30でひめがゆめに「力」の話をする場面は、『ストレイト・アウタ・コンプトン』でEazy-EがHIV陽性の検査結果を告げられる場面のカットに酷似しています。この回の絵コンテを描いた木村隆一が『ストレイト~』をみていたかどうかはどうでもいいことです。多分みていないと思います)。

*1-5 これをへんに情緒的なこととして解釈しないでください。彼らが互助組織(GMHC)運営資金を調達するためにヒット曲が必要とされていた、という実際的な事情のことを言っています(『パラダイス・ガラージの時代』下巻に詳しい)。

*1-6 以前*、神崎美月について「彼女が食事を摂っている場面は全く描かれない」と書きましたがこれは間違いです。A!ep13では肥満した星宮に助言する流れで焼き芋を口にする描写があります。これを差し引いても神崎にまつわる食事描写の少なさは際立ったものですが、トップアイドルの座を追われる以前の彼女を踏まえると、A!ep122の劇中劇で「食べ物を食わされる」ことによって神崎が退治されていたのは色々な意味で象徴的だったと言えるでしょう。「あなたはもう one visible god ではない、他のアイドルたちと同じ one of them なのだから、地上の糧を食べ、超越的な存在でいることをあきらめなくてはならない。あなたは星宮によってトップアイドルの座を追われたし、その「バトン」は既に大空に渡されたのだから」。

“Learning that we're only immortal - For a limited time”
Dreamline / Rush

 という、「あらかじめ目に視える神(神崎)として設定された者がいて、人のような神のような存在(星宮)がその座を襲名し、そこから選ばれた人間(大空)が統治が引き継ぐ」プロジェクトによって『アイカツ!』は回されていました。別項【→RESPECT4】で私が「王権神授的」と書いているのはこのことですが、さらに「新約聖書的」と加えることもできるでしょう。偶像崇拝が禁じられていたのにもかかわらず、偶像と図像の深い隣接関係から豊富な図像を生み出すことになった「キリスト=新約聖書的」と*1-6-1。書くまでもないことですが、本稿では「人は mortal だが神は immortal で invisible な」『アイカツスターズ!』の世界を「ユダヤ=旧約聖書的」なものとして見なしており、この両作品の世界観には明確な断絶線があります。(……と書いていたら、『アイカツスターズ!』2年目でほんとに箱舟*が出てきたのでぶったまげました。)

 食事描写以外にも、神崎美月がシーズン1(A!ep1-50)で唯一「親族」の描写が無いアイドルであることにもふれておきましょう。もちろん神崎以外の全アイドルに親の描写があるわけではありません。有栖川おとめはA!ep13で海外旅行に行っていたことから間接的に親の存在が示され(両親が幼稚園を経営していることが示されるのはA!ep83)、一ノ瀬かえでは直接姿は描かれないながらも父親の存在に度々言及しています。が、神崎美月だけは「親族」の存在が一切示されない。これはそもそも美月と光石織姫が擬似親子的な関係性であったこともありますが、自分を出産した者たちがいない=この地上に係累を持たない存在(one visible god)としての彼女の立ち位置に一定の根拠を与えるものでしょう。

*1-6-1ここでは「アイドル」なるものをなんか「宗教一般」的なものと見なしているわけではないことに注意してください。やれ「前田敦子はキリストを超えた」だの「僕にとって観音様もアイカツも同様にありがたい」だのと軽率な人たちが軽率なことを言っているのを聞いて皆さんもうんざりしていると思いますし、私もうんざりしています。「偶像=アイドル」という単一路から(とくにアブラハム宗教の)「教祖(こんな言葉は何をも意味してはいないし書くだけで胸糞が悪くなるのですが)」と現代のアイドルとを接続しようとする論法が有効なわけありませんし、「宗教一般」なるものが存在してその「教祖」たちも自分のしていることが「宗教的」な活動だと思っていたなどという考えはすべて誤りですし、ついでに言っておけば「人類の物語には普遍的な原型がある」のを前提として作品をその類型にあてはめて良いとか悪いとか言ってしまうのもすべて罠です(作る側にしても見る側にしても)。神話だの神と悪魔との戦いだの大上段なモチーフを軽率に取り入れて大爆死した『マン・オブ・スティール』『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』の脚本を反面教師にすべきでしょう。あと、なぜ本稿で『アイカツ!』の「物語」について書かれるときその語が鉤括弧に入れられているのか、についても考えていただけると助かります。


◎RESPECT2 S4選・導火線の走り(タイムリミットの設定とその成果:AS!ep37-50)


 さて、AS!ep30をピークにここまで大量の爆薬を搬入した『アイカツスターズ!』ですが、虹野ゆめの力(AKA爆弾)の件はAS!ep36でとりあえず落着します。もし『続・猿の惑星』のようにほんとに全部爆発させて終わっていたとしたら別の賛辞が与えられていたと思いますが、AS!ep37以降の『スターズ!』は来年度へ向かうフェイズに切り替わります。AS!ep35で今までのゆめとローラの戦歴にリセットがかけられていたことからもわかるように、力(AKA爆弾)には頼らない別の卓での戦い、すなわちS4選が始まるわけです。

 ここで注目すべきは、AS!ep37以降は別の爆弾、それも爆発が運命付けられた爆弾の工夫によって成り立っていること。つまり「時限」です。S4のメンバーは年度ごとに入れ替わらなければならないので、それを頂点に戴いている四ツ星学園も否応なく変化の時を迎える。この「1年毎の新陳代謝」の効果は大きく、彼女たちの闘いを「(学園の中での)階級闘争」に限定することを避け、むしろS4は3年制の学校空間のなかで機能するにすぎないものである(卒業生には卒業後の未来がある)として相対化することに成功しています(A!ep46,47におけるツバサ、夜空のセリフに明確)。もちろん学園に在籍している時間をフルに活用した作劇が必要とされるわけですが、そこを疎かにする柿原優子ではありません。AS!ep37以降のS4選までのエピソードには、「もう残された時間が少ない」ことを強調するセリフが執拗に入れられています。

「S4選まで、まだ時間はあるわ。それまでに、自分に何ができるか、あらためて考えてみて」(AS!ep38)
「まずは学園のトップ、S4になる。そしてその暁には、プレミアムレアドレスを着る。それが私の新たな夢なのです」(AS!ep39)
「卒業に向けて、S4の先輩方も本気を出してきたって感じだね」 (AS!ep40)
「冬フェスが終わったら、いよいよS4選ね」(AS!ep41)
「先輩たちもみんな、S4選に向けて全力でアイカツ中」(AS!ep42)

「S4選」は前作の「スターライトクイーンカップ」とは全く別の意味合いを持っていますが【→RESPECT4】。ここではS4とは一年ごとに解体を運命付けられている法人格のようなものだと理解すべきでしょう。「いうまでもなく、すべての生とは一つの崩壊の過程である」と白銀リリィなら引用するでしょう。AS!ep50の「色々あったけど最高のチームだったし、もう一緒に仕事できないのは寂しいなあ」感に『イミテーション・ゲーム』のラストシーンを重ねてみるのもいいでしょう。
 同時に、現S4たちの有終の舞台でもあり、同時に来年度S4(つまり今年の2年生以下の学生たち)が選抜される場でもあるのが「S4選」です。ここではAS!ep37以降の1年生、とくに早乙女あこの導火線の走りを追ってゆきましょう。

・誰かのファンであること(早乙女あこの捨て札)
 早乙女あこ。劇組の1年生として登場し(AS!ep6)、他の1年生と大差をつけてオーディションに優勝できるほどの実力者である彼女ですが(AS!ep29)、本編ではおもに(男子部の結城すばるへの片想いから)コミカルな描写が多くなされていました。AS!ep32では虹野ゆめのリハビリをサポートするなど利他的なポジションにも立てていた彼女ですが、S4選絡みのエピソードでは1年生のなかでも最も劇的な展開を迎えます。

(AS!ep29 大差をつけて勝利する早乙女。わざとらしい強者描写が控えられているので見逃されがちですが、実力者としての布石もしっかり敷かれています)

「特別なグリッター」。S4選での勝負ドレスを作るための素材です。入手条件は「大きなステージを成功させること」。たとえば虹野ゆめがここぞというタイミングでの歌番組出演を成功させたことで、また真昼・ローラが学校内のイベントを成功させたことで入手できていることから、必ずしも巨大ドームとかの大規模公演が要求されるわけではないようです。メインキャクター以外の学生たちもグリッターを入手できたと談笑していることから、各クラスで飛び抜けた実力者だけが入手できるというわけでもないようです。

 AS!ep44時点ではまだ「特別なグリッター」を入手していない早乙女あこですが、視聴者は当然あこも入手に成功したうえでS4選に臨むと予想するでしょう。なぜならあこには公式のカードゲームで特別なグリッターによる「カラフルキャットコーデ」が用意されているのですから。しかし、

・Either/Or (Go on and lose the gamble)
 結果として彼女は「特別なグリッター」を手にすることはありませんでした。「大きなステージ」に向かうことはありませんでした。その代わりに彼女が選んだのは、映画の出演で獲得した新たなファン(キッズ)の熱意に応え、デパート屋上の小規模なステージでパフォーマンスすることでした。

 なぜその選択をしたか、理由は明確です。AS!ep45で「学校でのステージを成功させ、S4選での勝ちを磐石にするか」・「S4選での有利を捨ててでも、ファンの熱意に直接応えるか」の二択を突きつけられたあこですが、彼女は後者を選んだ。なぜなら彼女は劇組の実力者である以前に、結城すばるのファンだったから。台詞を引用しましょう、

「そう、わたくしがこの学園に入学したのは、すべてはすばるきゅん、あなたに逢いたかったから」

(AS!ep17)

「誰かのファンである自分」。劇組の実力者として割り当てられた立ち位置よりも優先されるべき自分の姿があったということです。「自分はこのようにして(誰かのファンとして)造られた」という事実。早乙女あこにとって、その事実から逃げることはS4選での不利以上に許すべからざるものだったのです。自分自身のファン━━デパートでのライブを楽しみにしてくれる━━の姿を前にしてはじめて、早乙女あこは「誰かのファンである自分」に仁義を通す決意をした。なぜなら再三確認したように、早乙女あこは結城すばるの、誰かのファンとして造られた人間だったからです。
(『アイカツスターズ!』は前シリーズとは別の水準での「人間の製造」に真正面から向き合っている作品です。S4選をめぐるあこの描写は、「自分自身がいかにして造られたか」を見据えることから逃げない、もっと言えば自分修正主義に与しない態度として一貫しています。)

 その結果として、あこはグリッターを手にすることはありませんでした。「わたくしは何が何でも夢を叶えてみせますわ」と出演映画の台詞を繰り返し口にするシーンがありますが、尋常の作品ならここでピロロン♪とかいって、「規定の条件は満たしていないけど、よくがんばりました」とばかりにグリッターが与えられていたでしょう(再度確認しますが、公式のカードゲームではあこの勝負ドレスが用意されているのですから)。しかしその思いは報いられません。なぜなら、もう確認しましたね。諸星ヒカルの言う「ステージの神」なるものは知覚不可能で、 mortal な人間が陳情してそれで報いてもらえるような存在ではないからです。「わたくしは何が何でも夢を叶えてみせますわ」の言葉が(グリッターとして)報いられなくても、自分の手札から有利なカードを捨ててでも、それでも早乙女あこは「誰かのファンである自分」の来歴に仁義を通した。それを修正してしまうことは、彼女にとって何よりも耐え難いことだったからです。

 ……本稿では可能な限り非情緒に徹しようと努めていますが、私はこの早乙女あこの姿に撃たれずにはいられません。なんという真摯さ、なんという気高さでしょうか。そしてなんと堂々たる賭けっぷりでしょうか。一番有利な手札を捨ててまで、「自分はこのようにして造られた」の役にベットするとは。それでも彼女は後悔しているふうはありません。なぜなら結城すばる(「誰かのファン」である自分を造ってくれた張本人)から「アイドルとして合格」という言葉を受け取ったから(この言葉が直接あこに伝えられたわけではないことも重要です。すばるは吉良かなたが話題に出した「とあるチャンスを蹴ったアイドル」が早乙女あこであることを知らず、ラジオ番組の中で誰ともなく賞賛の言葉を贈ったにすぎないのです。長くなるので割愛しますが、前シリーズと違って『スターズ!』で「直接目掛けられたわけではない言葉」━━届かなさ、聞こえなさを含む━━が多く放たれているのは重要なことです)。

 結果として、早乙女あこは現S4たる如月ツバサに敗北します。それでも順位がツバサに次ぐ第2位だったので来年度S4の座は確定されたわけですが、彼女は勝負のあとにこらえきれず落涙する。ツバサに敗北したから悲しいのか? それとも有利な札を捨てたことを後悔したのか? もちろんどちらでもありません。「誰かのファンである自分」に仁義を通したことに後悔はない。しかしそれだけでは勝てなかった、という端的な事実に向き合えたからこその涙でしょう。来年度からの彼女は、1年生の頃よりいっそう(学校の高位ヒエラルキーとしての、劇組S4としての)自分を確かにすることが課題となるのかもしれません。しかしいま涙を流すことができる彼女と、あの場で「自分がいかにして造られたか」に向き合うことなく学校のヒエラルキーに諾々と迎合しながらS4になった場合の彼女とでは、強さ(真摯さ、気高さ)に天地の離れがあったはずです。早乙女あこがS4選の卓に並べた札たちには、そこまで多層的なエモが織り込まれている。勝ち・負けの判定が冷厳と下される一方で、その札を切った人間(博徒)の指先の慄えまでもがどよもしてくるかのような闘いの場。それが「S4選」であることを、早乙女あこの導火線の燃え尽きが印象付けるのです。*2-1

*2-1
 よって、『アイカツスターズ!』が「学校内での出世や成り上がりに偏っている」とか、「最初から実力者が勝つのが目に見えている」とかいう雑な批判はすべて無効となります。勝てた・うれしい、負けた・かなしいといった二分法自体が機能しない、ひとりの人間がいま賭けの卓につくまでの来歴(つまり「自分がいかにして造られたか」)を直視することでしか描けないことがあるということです。それは前述した早乙女あこの姿からも瞭然です。S4選という場が来年度のトップの選抜のみならず「(現S4に敗北することで)自分は現状この程度」であることを認識させる場としても機能していること、並びにその勝負模様が前シリーズの「スターライトクイーンカップ」とどのように違うか、について書くのは贅言となるでしょう。

(香澄真昼の導火線の燃え尽きについては【→RESPECT6】)


◎RESPECT3 特権的視点の優位の排除(博徒と観衆)


「俺にはわかる。アイドルとしての夢が破れても、いい裏方になれるよ」
 虹野ゆめがTV局スタッフ(山口さん)から言われたセリフなのですが、おそらく多くの人が「ちょっとそれどうなの」と思ったでしょう(初見では私もそうでした)。しかしこの「ちょっとそれどうなの」を感じるに至った線を遡っていくと、『アイカツスターズ!』全体の進行とその視聴者とをめぐる特異な構造が、思いがけず浮かび上がります。

 まず、このセリフが言われた時点がAS!ep4であることを確認しましょう。この時点での虹野ゆめは、入学すぐのステージでなぜか驚異的なパフォーマンスを見せ(AS!ep1)、先の驚異的なパフォーマンスと比べて実力が追いついていないことを見抜かれながらも光るものがあることをローラに認められ(AS!ep2)、組分けオーディションで歌組に合格するに至った(AS!ep3)のでした。なぜ驚異的なパフォーマンスができたかの謎(EE)は解明されないながらも、アイドルとして少しずつ歩を進めている虹野ゆめに(視聴者が)移入し始める段階、それがAS!ep4時点だと言っていいでしょう。そこで「アイドルとしての夢が破れても、いい裏方になれるよ」と(よりによって彼女を裏方スタッフとして使役していたTV局側の人間に)言われてしまうことで「(この子はアイドルとして頑張ってるのに)ちょっとそれどうなの」と感じるに至ったと。

 しかし、ここで一歩退いてみましょう。「退くって、誰が何から?」もちろん視聴者である我々が『アイカツスターズ!』に移入している視点から、です。
「アイドルとしての夢が破れても、いい裏方になれるよ」と言った側(TV局の山口さん)は、入学してすぐの虹野ゆめが驚異的なパフォーマンスを見せたことなど知るべくもない、学園の外にいる(=虹野ゆめの「謎」の文脈を共有しているはずがない)側の人間である。以前書いた記事に寄せれば「謎装置の中に囲われていない人」と言うことができるでしょう。なのだから当然、裏方として労働力を提供している他の人々(TV局スタッフはもちろん、四ツ星の生徒たちも含む)と同程度のリスペクトしか払われないのは当然ということになります。AS!ep4の時点において、市井の人(山口さん)から虹野ゆめに対するアイドルとしてのジャッジは、端的にフェアなものになっている。

 ここで明らかになるのは、『アイカツスターズ!』においては「この子たちはこれだけ頑張っているのだ、だから周囲の人々から報われてしかるべきではないか」という特権的視点の優位が排除されていることです。特権的視点、とはもちろん視聴者のことです。前シリーズ『アイカツ!』においては、むしろ特権的視点=視聴者とのランデブー*3-1を積極的に図ることで「成長」を描写してきました。以前書いたとおり、そこには「これだけ努力をした→それをデザイナーさんが認めてくれた→そのおかげでプレミアムドレスを着られた→だから良いステージができた」という定式が成立しえたからです。この「特権的視点=観客に見てもらうものをキャラクターの成長と結びつける」定式は、『アイカツ!』において最後まで円滑に用いられていました。*3-2

 しかし、『アイカツスターズ!』ではその定式が原理的に成立しない状態での戦いが展開されている。であるからには、虹野ゆめをはじめとするアイドルたちは、自分に対する評価が白紙のままである市井の人々を相手に支持を集めながら、自分の闘い方を確かにしていくしかなくなる。それは桜庭ローラの行路(AS!ep7,21,29,33)においても一貫しています。迷える彼女にせめてもの路を示すきっかけになっていたのは、(そもそも『スターズ!』の世界には存在していない)プレミアムレアカードを与えるデザイナーではなく、市井の人々や指導教員たちでした。虹野ゆめも地道な活動を続けつつ、AS!ep10で初めて単独のステージを成功させたのでした(たった10回ぶんのエピソードしか貯金がないにもかかわらず、ゆめが一緒に仕事をしたりファンになってくれたりした人々をブレーメン式に巻き込んでステージの成功に結実させる流れの、まるで針を通すような丁寧さと確かさは特筆に値します)。ゆめのステージを観に来た人々のなかには例のセリフを言い放った山口さんの姿もあります。AS!ep4の時点では無名の「デカリボン」としてしか認識されていなかった虹野ゆめが、AS!ep10でようやくアイドルとして認められるに至る……わけなのですが、

・Just trying to get inside (I stand on the outside, looking in…)
 ここでさらにひとつツイストを加えているのが『アイカツスターズ!』の恐ろしいところです。AS!ep10でのゆめのパフォーマンスではサビの直前にカットイン(彼女に取り憑いている謎の力が発現する描写)が入ります。AS!ep10のステージを目にした人々は喝采をおくるわけですが、この時点ではゆめ本人もその観客も、謎の力(AKA爆弾)の存在は知るべくもない。AS!ep10までの虹野ゆめの頑張り自体は確かなものである一方、良いパフォーマンスができた一因には謎の力(AKA爆弾)も介在している。つまりAS!ep10での虹野ゆめの「成功」は二層化されていることになります。謎の力(AKA爆弾)の存在が劇中の人物に察知されるのはAS!ep18になってから(それも結城すばるだけが虹野ゆめの驚異的なパフォーマンスに違和感を覚えている、といった程度)で、AS!ep21-29でのゆめは力に頼ることでローラとの戦いに暴虐的な勝利を収め、そしてついにAS!ep30で自分自身をも破壊しかねない謎の力の脅威(AKA爆弾)に直面したのでした。
 繰り返しますが、上記の経緯を観察できるのは特権的視点の保持者(=視聴者)にのみ可能なことです。「なぜ虹野ゆめは驚異的なパフォーマンスができるのだろうか」「おや、同じように違和感を覚えているキャラクターもいるようだ……」と鳥瞰的にみはるかすことはできますが、その視点の特権性を共有しているキャラクターは『アイカツスターズ!』において存在しない。謎の力(AKA爆弾)について最も危機感を抱いている諸星学園長ですら、実姉を象徴的に殺したあの脅威をどのようにして退ければいいかわかっていない。つまり、誰も勝ち方を知らない。ステージで札を切るアイドルたちも、それを見届ける教員たちも、誰も正しく有効なひとつの道を知っているわけではない。特権的視点の優位を保っている者などどこにもいない。だから『アイカツスターズ!』における人々の生き様は「賭場」としてたとえられるしかないのです。

 よって、『アイカツスターズ!』の視聴者は、特権的視点を許されている自分自身と、博徒たる彼女ら彼らとの断絶をまたぐことになります。アイドルの成長を自分の代わりに(プレミアムドレスを与えることで)担保してくれるデザイナーも存在せず、こちらとランデブーを図ってくれる成長の定式さえ存在しないのだから、視聴者は特権的視点を一方的に許されたまま、彼女ら彼らの賭けの結果を見届けるしかなくなる。ここにこそ前シリーズと『アイカツスターズ!』との最大の差異があります。この断絶に耐えられるかどうかは、『アイカツスターズ!』を支持できるかどうかの質的な問題とも関わるものでしょう。

*3-1「ランデブー」に関する註
「製作者と視聴者との視点が癒着する(相互の結託により欲望を生産する点)」として敢えてこの語を採用しています。「あらかじめ近接関係にある両者が相互の欲望とともに落ち合う地点」の意味を含んだ語を選ぶ必要があったからです。他の候補としては(スタートレックにおいて「別種の宇宙船がその機体を接続する」の意で「ランデブー」と並んで使われる)「ドッキング」の語がありましたが、1:実体的なボディの結合の意だけが誇張されがち 2:「ドッキング」の語感だと否応なく「ドギースタイル」が連想され、両者の視線が向き合わない体位での結合までもが含意されがち(「ランデブー」が重要なのは相互の視点が向き合った時点での通い合いが成立するニュアンスだったので、こちらは適切とは言い難い)などの理由から却下されました。

*3-2「感情移入」に関する註
 良きにつけ悪しきにつけ、「感情移入」が可能であるか否かをまるで絶対的条件のように評価する人々は一定数存在します。とくに映画の感想とかで。この「感情移入」の四文字を無批判に使うことでいったいどれほどのことが無視されどれほどのことが美化されうるのか、についてはここでは書きません。しかし確認しておかねばならないのは、この「感情移入」の評価は、劇中の登場人物と自分自身(視聴者)との視点を、同一・または同質の次元に置かなければ成立し得ないものであるということ。視聴者の「支持できる」「支持できない」の価値判断と劇中の登場人物たちの振る舞いとの癒着点━━これこそが本稿で「特権的視点の優位」として呼び成してきた現象です。なぜ視聴者の視点が「特権的」か? それは劇中の「物語」を試飲tasting検査testingする席に視聴者が座(らされちま)っているから━━もっと言えばその席に杯を供する側の者(製作者)こそが積極的にランデブーを取り持とうとする状況があるから。「感情移入できる物語」の評価と「特権的視点」との癒着は、このランデブー にこそ始まります。確定不可能な要素はどこにもない、「物語」の過去現在未来すべてが鳥瞰可能になる、くまなく光に照らされた、歴史小説的な視点。それはすべての人物のすべての帰結を説明付ける光の体制だと言うことができるでしょう。

『アイカツスターズ!』はその(tasterでありtesterである)特権的視点を視聴者に許す一方で、劇中人物たちの(誰も正しい勝ち方を知らない)「賭け」の有様を見せることで、「感情移入できる物語」の評価と「特権的視点」との癒着を拒絶した。その特性が一挙に噴出したのが白銀リリィの帰還の瞬間にあったことは以前書きました。諸星ヒカルの盆暮闇については【→RESPECT5】。歴史の闇に埋もれていることもできた存在があえて光の体制に身を晒すことから始まる闘い、それを見せることによって逆説的に光の体制に晒されていない部分を偲ばせる、鳥瞰視点を脱臼させるための、この戦略。
 それはおそらく、なんでも見える・聞こえる・届けられる・予測できることを自明として、自分自身が「物語」へと「感情移入」できて然るべき「特権的」な主体であると(極端な言い方をすればフィクションの中で全能な主体だと、つまり想像的に神であると)思っている人々にとっては耐え難いものでしょう。しかし『アイカツスターズ!』は読めなさ・見えなさ・届けられなさを(描き続けている、と書くとそれは目に見えているではないかという撞着を招くので━━むしろこの撞着、読めるはず見えるはず聞こえるはずがないのにそれが知覚可能なものとして目の前に届けられてしまっている、この出来事にこそ非・特権性のすべてがある、と書きたいのですがそれは以前書いたことなので繰り返しません━━、ここはやくざだとしても)やりつづけている(というのが適当でしょう)。確定不可能性、すなわち博打。本論でも書いたことですが、この「おぼつかなさ(勝てなさ、聞こえなさ、届かなさ)」を選んで札を切っている人々の姿と、特権的視点を許されている自分自身との断絶をまたぐことに耐えられるか。もっと言えば、「特権的視点」に拠る「感情移入」を絶対の評価軸として立てることを拒絶できるか。『アイカツスターズ!』を支持できるかどうかは、その質的問題にかかっていると私は思います。


◎RESPECT4 いばらのショーマストゴーオン(勝負の成立可能性・札切る後裔)


『アイカツ!』においても勝負なるものは成立していた、ように思えます。しかしどうでしょう、私は『アイカツ!』において(2人以上のアイドルによる)勝負が一応成立していたのは、A!ep10までだったと考えます。有栖川おとめの初登場回であり いちご VS おとめの対決オーディションが行われる回ですが、勝たなかった側であるおとめには即座に敗者復活席というケアが与えられ、さらに「おとめちゃんのファンになっちゃった」と星宮が言うことで「勝てない」側のストレスは解消されていました。この時期から既に「消火装置」の運用は順調だったというわけです。
 しかし、『アイカツ!』内での勝負の不成立性を云々しても仕方ありません。先述した通り、『アイカツ!』における「勝負」なるものは、目に視える神(神崎美月)の死を人-神(星宮いちご)が執行するという「物語」を成立させるために要請されていたのですから、それ以外のキャラクターどうしの「勝負」をどうこう言うことには意味がない。だからA!ep152ユニットライブの結果を見て「どうしてトライスターが下級生ユニットのルミナスより下位なんだ!」と目くじらを立てることほど不毛なことはなかったというわけです。

 それよりも、『アイカツスターズ!』がなぜ前作とは違う「勝負」に打って出ることが可能だったかを追うために、両作品のスタート時期を確認しましょう。
 まず、『アイカツ!』の放送開始は2012年10月8日、『アイカツスターズ!』の放送開始は2016年4月7日。季節上の違いがあります。A!ep1で星宮と霧矢が受けたのは編入試験で、そこから半年後のA!ep26ではもう中学2年生になっていた。対して、AS!ep1は学校年度の頭なので、ゆめやローラの入学時のタイムラインから話を進めることができた。という、単純に放送開始時期しばりの違いが両作品にはあります(『スターズ!』の楽曲を収録した四枚のCDが四季のタイトルを持っているのもそういうことです)。
 よって、『スターズ!』が学校年度終了ごとにメンバーが解散し、ふたたび2年生以下の学生によって再編成される法人格=S4を頂点に戴く構造を採っていたのも、わかりやすくなるでしょう。
 対して、前シリーズ『アイカツ!』でのスターライトクイーンカップは(50話で1シーズン=1年間という構成上)秋季(2013年9月26日放送のA!ep50)に行われねばならず、あかりジェネレーションで北大路さくらがその座を襲名するA!ep124では「今年からクイーンカップは春に行われることになった」というアクロバットを加える必要があったのでした(北大路がクイーンになり、大空が来年のクイーンの座を目指し、星宮たちはひとまずメインキャラクターの座を降りるのがA!ep125時点。オフタイム回を挟んだA!ep127からは冒頭のタイトルカットから星宮の姿が無くなり、大空単独のものに変わります。シーズン区分の都合上、公式ではA!ep102以降が「あかりジェネレーション」と呼称されていますが、大空から星宮の補助輪が外れたA!ep127以降を「あかりジェネレーション」と呼ぶのも有効でしょう。事実、A!ep127-178で放送終了するまでの期間はちょうど学校年度1年ぶんであり、その翌週からスムーズに『アイカツスターズ!』へと引き継がれたのでした)。

 前シリーズでは神崎美月(one visible god)の没落を実現させるためにいちはやく星宮をモノホンプレイヤーにする必要があり(A!ep1「早く私のところまで登ってきて」)、それは『劇場版アイカツ!』(2014年12月13日公開)にて2年以上をかけて達成され、人間(大空あかり)の世界が定礎されたわけですが、私はこの一連の「物語」を「王権神授的」と形容したいと思います。ロック云々するつもりはありませんが、『アイカツ!』は人間以前に神の系譜があり、そこから授かった統治を人間が執り行っていくというロジック*4-1で進められており、その中継区間が『劇場版アイカツ!』からA!ep125までの一連のエピソードだった。そして人-神(=星宮いちご)から「バトン」を受け取った人間(=大空あかり)は、その「物語」の必然的帰結としてスターライトクイーンの座を襲名する運命にあった。これは「『アイカツ!』における勝負の成立不可能性」とも釣り合っています。「ネガティブな出来事も起こりえるレトロなスポ根路線は消えてなくなり」、勝ち負けの判定によるストレスも消失した。では「スターライトクイーンカップ」とは、原則的に勝ちも負けも生じ得ない状況を設えたうえで大空あかりの戴冠をスムーズに実現させるための場、以外の何かを意味していただろうか? と問うこともできます。そのように誂えられた「勝負」の場で競われる「クイーン」の座は、(神崎→星宮→からなる「物語」を担がされた大空以外に)目指す意味のあるものだったのだろうか? とも。その問いに答えを出すには、氷上スミレの━━「勝つことも負けることさえもできない」状況で大博打『いばらの女王』の札を切り、神崎とは全く別の意味で「没落」してみせた彼女の━━姿を思い出すだけで十分でしょう。『アイカツスターズ!』には、スターライトクイーンカップにおける氷上スミレ━━博徒として札を切る者━━の後裔たちの戦いが引き継がれたのです。

図1:アピール成功時[A!ep166]の『いばらの女王』冒頭カット
図2:アピール失敗時[A!ep176]の『いばらの女王』冒頭カット

 結果から遡れば、『いばらの女王』のステージは冒頭のカットで既に勝ち負けが決定していたことになる。画面全体を地図に見立てれば、図1ではスミレ→女神像の位置関係は真北にあり、アピールは成功する。図2ではスミレ→女神像の位置関係は真南にあり、アピールは失敗する(“go south” は米俗語で「低下、落下する・消失する」などを意味する)。「逆位置の意味ならば挫折になるとしても」「ここへきて 地図をたしかめ ドレスに着がえ出かけましょう」の歌詞どおり、札を切った(ステージに立った)瞬間に勝ち負けの判定を余儀なく突きつけられる大博打、『いばらの女王』とはそれである。

“We go out in the world and take our chances
Fate is just the weight of circumstances
That's the way that lady luck dances
Roll the bones”

“If there's some immortal power to control the dice?”

『Roll The Bones』 / Rush

 柿原優子は、前シリーズと違って入学時からエピソードを進められるという特性を見逃さなかった。前シリーズのように運命付けられた「物語」を成立させる手続きを導入するのではなく、1年ごとにブレイクダウンする「S4」という法人格(それはあらかじめ没落が運命づけられている one visible god では金輪際ない)を設定し、その座をめぐる札の切り合いを「S4選」として持ってきた。必ず勝てる札を選んでしまう虹野ゆめは生存のために「力」と手を切り、その宿敵たる桜庭ローラは勝てなさに向き合いながら何度でも賭場に戻り、病者たるリリィ・キハーノは一冊の本との出会いにより穏やかに発狂し自分の札を揃えるに至ったのでした。ここでは勝つこともできる、負けることもできる。S4しかプレミアムドレスを所持することが許されない世界で、彼女らは自分の札を選んで作っていかなければならない。そして「デザイナー」は存在しないから、その札を切った勝敗の結果もすべて自分の一つ身で引き受けなければならない(S4選での勝利ではなく「誰かのファン」である自分に仁義を通すことを選び、その選択による負けをも引き受けていった早乙女あこの姿も忘れるわけにはいきません)。それら一度一度の卓の上に並べられた札たちによって織り成される、この勝負の成立可能性(=賭けの結果予測不可能性)。かつて氷上スミレの堂々たる没落以外には前シリーズには光らなかった閃きこそが、『アイカツスターズ!』では賭けられていた(し、これからも賭けられ続ける)のでしょう。

*4-1
 とくにA!ep146に象徴的でしょう。『アイカツ!』の放送が終わり劇場短編『ねらわれた魔法のアイカツ!カード』が公開された今だからこそ言えることですが、A!ep146は治水者としての星宮いちごを強烈に印象づけるものです。『アイカツ!』がA!ep146から劇場版短編にかけて逢着したものの正体や、神崎星宮大空に担わされた王権神授的統治の「物語」について筆者が思うことについては、ここでは書きません。ただ、世界を治水し封建化するオジマンディアス的物語を担わされた者たち(神崎星宮大空)ではなく、ロールシャッハたち(スターライトクイーンカップにおける氷上スミレ、劇場版短編における堂島ニーナ)の抵抗の姿に導かれてこの項は書かれた、と書いておけば十分でしょう。


◎RESPECT5 誤れる父親の姿(諸星ヒカル:勝ち目の見えない盆暗男)


「賭け」を続けていたのは生徒たちだけではありません。四ツ星学園の長たる諸星ヒカルも、正しい勝ち方を知らない「賭け」に向き合っていたことを思い出しましょう。

 前シリーズでの「学園長」光石織姫は、以前少し書きましたが「無謬なる母親」とも呼ぶべき存在でした。全エピソードを通して彼女の判断に譴責すべき誤りなどはひとつもなく、ミスターSとかいう生徒に害を及ぼす存在はいつの間にかハエのように追い払われていたのでした(ああいう端役に置鮎龍太郎さんをキャスティングしてしまえるのが『アイカツ!』の豪華というか、贅沢なところです)。
「無謬なる母親」は光石織姫のみならず、ドリームアカデミーのティアラ学園長も同様です。織姫に憧れた彼女がコンサートの現場で働きつつ創った学園はスターライトと同格の興盛を見せ、さらにはシーズン2クライマックスでは超巨大ステージ建設のために単独で出資してもいたのでした(A!ep93)。にもかかわらず財政的に破綻したなどの描写は無い。これを諸星ヒカルがイベント運営の赤字に頭を抱えていた(AS!ep39)のと比較すると、その差は歴然でしょう。

 そう、諸星ヒカルは「誤れる父親」です。
 彼は姉の象徴的死によって、「アイドル」なるものが mortal であることを突きつけられてしまった。であるからには、諸星ホタルの没地であり現在諸星ヒカルが学園長を務めている四ツ星学園は、とうぜん「生存のための discipline (規律、訓育)」をおこなう場所ということになる。この方針において四ツ星学園および諸星ヒカルは首尾一貫しています。「わが四ツ星学園にふさわしくないと判断すれば、いつでも虹野ゆめを辞めさせる」(AS!ep2) 。なぜなら、かつての姉のような死に至るくらいなら、力が萌芽する前にゆるやかに脱落させたほうが危険が少ないからです。「わが四ツ星学園にふさわしくない」とはもちろん discipline を経ることなく力(AKA爆弾)に頼ってしまった場合のことです(その discipline を経過して生き延びた張本人である白鳥ひめが同室しているわけですが、しかし彼女自身はまだホタルの死の真相さえ知らされていない……ヒカル・ひめ・ゆめの3者は、この時点ではまだあまりにも多くのことを明るみに出さず隠したままの状態にあります。後述)。

 さらに、AS!ep10のラストの台詞を確認しましょう。「あの力を超えることができなければ、君(虹野ゆめ)のアイドル生命は……」この三点リーダの部分に入るのは「終わる」で間違いないと思いますが、この時点での「終わる」がいかなる事由によって「終わ」りうるのかは二路に分かれています。 A:諸星学園長の判断で学園を追放されて「終わる」のか、それとも B:それ以外の原因によって生命を奪われて「終わる」のか。AS!ep2から強調されてきた「虹野ゆめのアイドル生命の終わり」の原因は、ここではどちらにも解釈可能な状態で残されている。もちろんこの時点での視聴者は「生徒からアイドルの夢を奪おうとしている男」として諸星ヒカルを認識しているわけですから、Aとして解釈することもあるでしょう(私はそうでした)。この A:虹野のアイドル生命を(学園長たる自分の判断で退学させることで)奪うのか、 B:虹野のアイドル生命を(このまま力に没入していくのを見過ごすことで)奪うのか、の岐路に立たされた状態。それがAS!ep10時点での諸星ヒカルです。もちろん彼はどちらの路も選びません。学園長たる彼はまず、『劇場版アイカツスターズ!』で(discipline が十分でないうちからS4の座に近づけば近づくほど爆弾に頼りやすくなるに決まっているので)架空の企画書をでっちあげてまで(ゆめ・ローラの優勝による)S4との共演のチャンスを回避せんとしますが、結果として目論見はうまくいかず、白鳥ひめからは「ゆめちゃんの夢を潰すのだけはやめてください」と静かにディスられる始末でした(再三確認しますが、この時点での白鳥ひめはホタルの死について何も知らされていない)。さらにはアイカツアイランドの興行のために赤字まで出してしまうという……この誤りぶりたるや。

・ミスターミステイク(そしてまた LIFE GOES ON)
 虹野の症状が「これ以上はもう、見過ごせん」ところまで亢進してしまうのがAS!ep21です。逆に言えば、過去の白鳥ひめの爆弾はこの「見過ごせん」状態になるまえに鎮静に成功したケースだと考えることができるでしょう(白鳥は「ひめトレ」と呼ばれるエクストリーム空気椅子に笑顔で耐えることができますが、もちろんギチギチの discipline を経たからこそ可能な事です)。ということは、症状が「見過ごせん」フェイズに突入してしまって以降は、ヒカルはどう手を尽くせばいいのか知らない(かつて姉が衰弱するのを見ていることしかできなかったように)。

 実際、AS!ep21-30の諸星ヒカルは、具体的な手は何も講じていない。虹野が他の生徒たちと学園祭の設営に取り組んでいる横で、自分はといえば来場客に対して陽気に振舞うくらいしか(AS!ep25)、あるいは着ぐるみ姿で座っているくらいしかできない(AS!ep28)、より直裁に言えば生きていることしかできない。虹野も自分と同じように生きていける世界であることを、束の間でも証し立てるために生活し続けるしかない、この父親の危うさ、滑稽さ(切なさ、と加えることは不可能でしょう。この「父親」の位置が抱える「わからなさ、できなさ、先行き不透明さ」は情緒が介在できるタイプのものではありません)。誤れる父親、喪の弟、秋の族長、勝ち目の見えない盆暗男(「盆暗」はサイコロを転がす盆が暗くて賽の目がよく見えない=賭けに勝てないに由来する)。それが諸星ヒカルです。
(むしろ、ヒカルは実際的な指導は歌組教員である響アンナ先生に任せっきりだった、と書いたほうが適切でしょう。アンナ先生の指導も徹底して四ツ星流の discipline で、AS!ep21では重荷を使ったハードトレーニングこそ課すものの、星宮━━「超人」━━的な飛躍を許したことは一度もありませんでした。当該エピソードで「崖を登る」絵がイメージ映像としてしか用いられない点は、『スターズ!』と前シリーズとの差異を示すものとして象徴的です。ちなみに諸星ヒカルは、AS!ep18のアイカツアイランドに虹野が出演するかどうかの得票オーディションには介入していない・AS!ep21のCDデビューオーディションの結果はあくまでプロデューサーの指田氏のジャッジに一任しているなど、「虹野の頑張りに関するジャッジは自分以外の者に委ねる」イズムで一貫しています)。

 そして(AS!ep30以降の)諸星ヒカルは、白鳥・虹野と違って爆弾を抱えていない生徒たちによるステージに安堵し(AS!ep31)、リハビリ中の虹野が二階堂ゆず・早乙女あこに助けられてのステージを見届け(AS!ep32)、ここにきて初めて白鳥ひめに実姉の真相を知らせるに至り(AS!ep33)、ついにAS!ep35で(ひめと共同で)虹野の爆弾を鎮めるための賭けに踏み切ったのでした。

 AS!ep35の暗がりの通路での会話シーンは、『アイカツスターズ!』1年目の全エピソード中でも屈指の名シーンです。控室でヒカルは「どうやって乗り超えればいいのかは、虹野が見つけるしかない」と自分の無力を追認するかのような台詞を吐きますが、それでも「学園長」としての自分の威厳は崩せずにいる。その直後、白鳥と2人きりの会話シーンに移ります。

「急なことで、すまない」
「ステージに立つ者どうし、わかりあえることもあるだろう。私には手の届かない世界にも、君なら一緒に行ける。虹野のことはよろしく頼む」

 と虹野がいないところで初めて「学園長」ではない「誤れる父親」の姿をあらわにする。その隣には白鳥ひめ━━実姉のような死にまでは至らなかった保菌者━━の姿がある。「誤れる父親」でしかない自分はアイドルである虹野を(「学園長」としての disguise なしには)導くことができず、虹野と同じアイドルであり保菌者である白鳥ひめに鎮静の荒療治を託すしかない。まさに「賭け」です。かつての姉のように、虹野にとって決定的な終末が(ステージ上で)訪れないとは限らない。おそらく軽率すぎる。決して褒められたことじゃない。しかし『アイカツスターズ!』は「誰も正しく有効なひとつの道を知っているわけではない、特権的視点の優位を保っている者などどこにもいない」作品であることは別項で書きました【→RESPECT3】。ここにこそ反転があります。特権的視点を持っている視聴者は劇中で起こっていることすべてを鳥瞰することはできますが、諸星ヒカルの危うい賭けの全容を識ることはできない。なぜならヒカルの━━実姉の象徴的死から始まる歌と呪いの━━因縁の全容は暗闇の中に隠されていて、虹野の症状につれて徐々に明るみに出されざるを得なかったものでしかないからです。虹野のような爆弾持ちが現れない限りは、ヒカルは実姉の真相を(白鳥ひめにさえ黙っていたように)誰にも明らかにすることなく暮らすこともできた。しかし事ここに及んでは、自らの過去を部分的に光に晒してでも(白鳥とともに)賭けに打って出るしかなかった。AS!ep35で歌われる楽曲『So Beautiful Story』が「光学装置」たる図書館をモチーフにしていることは以前書きました。しかしこの「誤れる父親」の過去とは。なぜヒカルが学園長として就任するに至ったか、そもそも「力」の正体とはいかなるものなのか(有限者たるヒカル=ヨブは目に見えないそれを「ステージの神様」と呼ぶしかない)、具体的な説明は一切加えられないままです。特権的視点を持つ視聴者は、この盆暗闇の中にある、与り知ることのできない黒塗りの部分を「誤れる父親」の存在によってはじめて知る。「すべてを知る、すべてを見る」ことができると思っていた視点の特権性が脱臼される地点は、諸星ヒカルが「賭け」に打って出る地点だった*5-1。別項【→RESPECT3】で「視聴者は特権的視点を一方的に許されたまま、彼女ら彼らの賭けの結果を見届けるしかなくなる。ここにこそ前シリーズと『アイカツスターズ!』との最大の差異があ」ると書いたのはこのことです。AS!ep1-35にわたる……いやそれどころではない、幼少の諸星ヒカルが mortal な姉を救うことができなかった時点から現在までの、すべてのヨブたち(ホタル、ヒカル、ひめ、ゆめ)が生存のために拵えた札たちがひとつの盆暗闇に結集する、その瞬間をとらえているからこそAS!ep35は凄まじいのです。
 
 まとめましょう、「誤れる父親」を長とする四ツ星学園は、生存のための discipline を行う場所です。もちろんその過程に痛みが伴わないとは限らない。しかし学校での「規律・訓育」と「虐待」は絶対に同じではありません。このイズムは『スターズ!』で素晴らしく一貫しています。AS!ep43のヒカルのセリフを引用しましょう、「私はこの学園の生徒たちの成長を願いこそすれ、貶めようなどと思ったことは一度もない」*5-2 。このセリフに尽きると思います。アイドルなる存在が mortal であることを誰よりもよく識っている盆暗男が、どれだけ危うくとも生徒たちの生存を多少なりとも可能にするため、人間の製造に賭けること。そのことを花鳥風月=歌劇舞美4クラスの「藝能」を通して描いてみせた。ここにこそ、無謬ではない「誤れる父親」を長に持つ学校での、途方もなく誠実な「人間の製造の賭け=藝能」の関係があると、私は思います*5-3。そして、

・Mothership Connection (TREKking of the STARs)
『スターズ!』2年目からは豪華客船型学校「ヴィーナスアーク」が登場します。その長たるエルザ フォルテのデザインが本当に素晴らしいのですが、その髪のフォルムだけを見ると神崎美月を連想しがちかもしれません。しかし私はむしろエルザ フォルテに「無謬なる母親」の姿━━前シリーズの学園長たち━━を重ねたいように思います*5-4。なんせ「パーフェクトアイドル」ですし、「エルザ フォルテ率いるヴィーナスアーク」と書かれているからにはとうぜん彼女が学園の長なのでしょうし、そんな人が虹野ゆめの身柄を求めてコンタクトを図ってきたとあっては、四ツ星の「誤れる父親」も事を構えざるを得ないでしょう。かたやパーフェクトアイドルかたや盆暗男。この族長ふたりの歴然たる差を前にして、ヒカルは生徒を護りきることができるのでしょうか。そもそもヴィーナスアークはエンタープライズのように外交的な船なのでしょうか、それともボーグのように問答無用で同化吸収を迫ってくる非人間的共同体なのでしょうか。四ツ星とヴィーナスアークとの接近遭遇によってどのような修羅場が演じられるのか、『アイカツスターズ!』2年目からも目が離せません。

*5-1 脱臼
『スターズ!』(のすくなくとも1年目)は、この「(彼女ら彼らには)視聴者には与り知ることのできない時間が流れていた」ことを思わせるイズムで一貫しています。諸星姉弟以外のエピソードでは、AS!ep48で芦田・白銀・二階堂の3人が学校内での階級差を捨て「同級生」として気の置けない会話を始めるシーンを挙げておけば十分でしょう。当然ながら視聴者(=特権的視点)は1年前の彼女たちがどういう関係を取り持ったのか、についてなにも知ることができません。「特権性が脱臼される」とはそういう意味です。ここで回想シーンを入れて芦田・白銀・二階堂の3人の関係性を説明してしまうことは簡単だったでしょう。しかし前シリーズとは異なる光学を備えた『スターズ!』はその手には出なかった。
 逆に、前シリーズでは「試練や葛藤めいたものは既に通過していて、その経験があるおかげで現在のアイドルがいる」のを回想シーンで示す手法が多く使われていました(以前「事後報告」として呼び名したもの)。これによって視聴者は「ああ、現在の彼女たちはこういう経緯があってこんなに立派なのだなあ」と安心することが可能だったわけです。両作品の差異のなかでもとくに際立っているのがこの点です。どっちが良いとか悪いとかいう話ではありません。しかし「事後報告」、あるいは*3-1で「ランデブー」と呼んだもの、*3-2で「光の体制」と呼んだものが特権的視点の優位との癒着を招いてしまった事実は、否みがたいものだと思います。

*5-2 The Cream, The Chosen & The Condense (AS!ep43の凝集性に関する註)
 ちなみにAS!ep43は、今まで力(AKA爆弾)のようなものに一方的に「選ばれ」てしまっていた虹野が、チョコをもらいたいアイドルランキングNo.1に「選ばれ」て「みんなが私を選んでくれたんだもん、サイコーだよ!」と喜ぶシーンから始まります。そこには「実家が洋菓子屋だから」という彼女のバックグラウンドに基づく理由付けがあるわけですが、ここで初めて「学校で獲得してきたこと(discipline)」と「学校に入る以前の自分のルーツ(洋菓子屋)」との両方が彼女に味方する。そうして「選ばれ」たステージで『スタージェット!』(『アイカツ(スターズ)!』の全曲を含めても最も締め上げられた振り付けの曲)を歌い踊り、その結果として特別なグリッター(S4選のための切り札を作る材料)を獲得する……この、今までの生活の中で摘み上げてきたものたちがひとつの練り上げられたもの(=チョコレート)として結果する流れは、「食べ物」や「料理」を「人間の製造」と結びつけたタイプの作劇のなかでも最高峰のものだと私は思います。その最大の理由は、他のクラスメイトたちが(洋菓子屋の娘である虹野とは違ってお菓子づくりに慣れていないために)チョコづくりを失敗する、という描写を挟むことで「練り上げられたもの(人間、お菓子)の製造の過程では、失敗することがありうる」ことをさらっと言い当ててしまっているからです。他ならぬ虹野自身が、アイドルとして生存に失敗するかもしれない張本人だった。その虹野が学校で十分に培われた discipline と、自分の生まれ育ったルーツ(洋菓子屋)との両方に助けられて、いまこのように練り上げられたもの(=人間・アイドル)として存在している(お菓子づくりで用いられる cream は定冠詞がつくと「最上の部分、精華、神髄」などの意味を持つ。そして『スタージェット!』のステージデザインはクリームたっぷりのチョコレートクッキーである)という……。まさかここまで多くのことをバレンタインデーのお祭り的エピソードの中でまとめあげてしまうとは。
 全エピソードに凝集性がある『スターズ!』のなかでも、AS!ep43は特濃すぎて食当たりを起こしかねないほどです(実際、私はこの回をみたあと1時間ほど呻きっぱなしで身動きができませんでした。というかAS!ep40以降の回はすべてそうなのですが)。それ以外にもいくつもの恐ろしい描写が含まれている回なので、それに関しては別項【→RESPECT7】を参照のこと。

*5-3 これらの描写を受けてやれ「内向的」だとか「外部が描けていない」だとか言い出す類の人々は、おそらく生まれた瞬間から自分の名前が書けたつもりでいるのでしょう。生まれた瞬間から話せたし歩けたし自転車にも乗れたくらいに外部からの訓育を受けずに独力で立派に育った方々なのでしょう(*3-2で「(自分は)フィクションの中で全能な主体だと、つまり想像的に神であると思っている人々」と書いたのはつまりそういう意味です)。そういう類の「自分がいかにして培われてあるか」━━もっと言えば「自分がどのように製造されたか」を━━直視できない態度がどのような惨禍を呼びうるかについて、ぜひ考えてみてください。ただ、『アイカツスターズ!』は前シリーズの「目に視える神の死を必要とし、人-神から受け継がれた統治を人間が行う」という王権神授的な「物語」とはまったく別の水準の「人間の製造」に向き合っている作品である、と書いておけばここでは十分でしょう。

*5-4
とか書いていたら、エルザ フォルテの歌唱担当に「りさ(相沢梨紗・前シリーズでマスカレードのヒメAKA光石織姫を担当していた人)」が抜擢されたのでぶったまげました。


◎RESPECT6 何度でも生まれ変わる楽曲たち(The song NEVER remains the same)


 驚くべきことに、『アイカツスターズ!』DCD第5弾(アニメ本編でS4選に相当する時期)には新規追加の曲が無いのです。『アイカツ!』ではスターライトクイーンカップに向けてここぞというタイミングで『Moonlight destiny』が投入されていましたが、『スターズ!』ではS4選をアゲていくための新曲が無かった。じゃあ、S4選は大した盛り上がりもなく予定調和的なマッチに終わったのか? もちろんそんなわけありません。AS!ep40以降の流れは、四ツ星のアイドルたちがパフォーマンスしてきた既存の楽曲たちが次々と新しい意味を獲得していく、目眩がするほど徹底された演出がなされています。見ていきましょう。

・Carry on my wayward sis(『TSU-BO-MI』)
 いちおう前置きを。AS!ep34は『TSU-BO-MI』の初出回であり香澄真昼の「成長」が描かれる回ですが、この回はひじょうに白人酋長的・あるいはホワイトウォッシング的な内容になっています。ホワイトウォッシング(原作で有色人種と設定されているキャラクターを白人が演じること)に関する話題は近年公開の映画でも喧しいのでこちら * * などをご参照ください。

 AS!ep34の内容は、色々おしゃれしてみたら詰め込みすぎてわけわかんなくなっちゃった女の子3人組が香澄真昼に助言を乞い、それを受けて「おしゃれガールレッスン」を施すものなのですが、これがどうもなんですね。というのは、黒いメイク(俗にいうガングロ)をした3人に対して真昼はかなりあながちなお手入れをするので、「黒いメイクはだめなの? 色白じゃなきゃ美しくないの?」という疑問が浮かびやすくなっているのです。加えて、真昼は女の子たちの俗っぽい話し方を一面的に矯正してもいるので、「正しい日本語」みたいなブルシットを強要しているようにも見えがちです(実際はそうでないとしても)。かといって、作品の一点のみをあげつらうことほど愚かなことはありません。われわれは点と点とによって結ばれる線が伸びてゆくほうを見てゆきましょう。

 この回では、ガングロ(ダークスキン)と美白(ライトスキン)という日本人に特有のルック志向が両方扱われているので、もしかしたら美容の歴史に関して深い知見をお持ちの方なら何らかの興味深さを引き出せるかもしれませんが、私にはそれについて書く資格はありません。ここでは、AS!ep34時点での香澄真昼にまつわるひとつの「危うさ」が認識できれば十分です。
 というのは、この回の真昼による「おしゃれガールレッスン」は学校の講義ではなくファッション雑誌の編集長から持ちかけられたものであり、女の子3人組に対する真昼のお手入れの内容に関して(美組指導教員の)玉五郎先生は一切関わっていないということです。ということは、AS!ep34での真昼の行動に関して玉五郎先生から「それは違う」と駄目出しが入る余地は残されていた。結果として真昼は女の子3人組から感謝されますが、この「成功」は二層に分かれていたことになります。 A:香澄真昼は学校で学んだ美意識を活かして女の子に手入れを施した B:しかしそれは教員不在で行われたことであり、その手入れが正しかったのかどうかはわからない(真昼は安易なホワイトウォッシングを行っていたのかもしれない) という、この「成功」から「学生として優秀ではあるが強ちな面を持っている」香澄真昼の危うさが逆に浮き彫りになってしまうのがAS!ep34です(現に、あれほど書物・読書について繊細な描写がなされていた『スターズ!』の中で、この回だけ唯一「ウォーキングの道具として本を使う」描写が出てきます。美組のレッスンではウォーキングで頭に乗せるものはペットボトルで統一されていたというのに。もし玉五郎先生がその場にいたとしたら厳重注意が入っていたのかもしれない。A!ep5と違って本を床の上に落とす絵までは描写されていないので、ギリギリセーフだとは言えるのですが)。これはもちろん「(学校における)人間の製造には失敗することがありうる」ことを真正面から描いている『アイカツスターズ!』の本質とも釣り合っていることです。
 さて、この「危うさ」を放置したままS4選に進ませるような柿原優子ではありません。危うさが噴出したAS!ep34(『TSU-BO-MI』初出回)のあと、AS!ep41で真昼は夜空の『TSU-BO-MI』パフォーマンスによって、姉との格の違いを思い知る(届かない姉の高みへと「手を伸ば」す絵は、セリフやあからさまな歌詞引用に頼らない楽曲の活かし方として優れています)。優等生ながらも危うさを抱えていた香澄真昼は、ここでとても静かな「勝てなさ」を噛みしめるわけです(「遠いなあ、お姉ちゃん」)。
 そこで、強ちな「美」意識に囲われていた香澄真昼は、ひとりで工夫できる「美」とは別のものを花咲かせるため、異種なるものとの交雑をおこなうに至ります。

・Swapper’s Delight(『みつばちのキス』)
 AS!ep44は香澄真昼と桜庭ローラ、四ツ星1年生のなかでも屈指の実力者のふたり(学年全体を対象とするAS!ep18のオーディションでは1位と2位)がユニットを組む回。この組の違うふたりが(劇場版では果たされなかった)ユニット活動へと踏み切るわけですから、きっと視聴者は「ああ、ということはこのふたりで『TSU-BO-MI』をやるのか。ゲーム版のCGでは片方が片方の手をとるシーンもあるし、これを真昼とローラでやるのか。たまらないなあ……」という思いでいっぱいでしょう(私もそうでした)。しかしAS!ep44はその期待を鮮やかに裏切ります。2人が選んだ楽曲は『みつばちのキス』、ローラとゆめの共演曲として印象深いあの曲をやるというのです。
 しかしこの意外性だけではまだ驚くに足りません。AS!ep44の恐ろしさは、『みつばちのキス(初出はAS!ep12)』を『TSU-BO-MI』と交雑させ、思いもしなかった新しい意味を(文字通り)開花させたことにあります。一連の台詞を引用しましょう。

 あこ「クロッカスですわ。ちらりと見えたので、もしかしてと思って」
ローラ「こんなところに自然に咲いてるんだ」
 真昼「かわいいつぼみ」
 あこ「花言葉は『青春の歓び』。わたくし、大好きなんですの」
 ゆめ「いい花言葉だねっ」
 あこ「春はもうすぐですわ。このつぼみが開けばね」
 ゆめ「春……そうだ、『みつばちのキス』は? ふたりが歌う曲! すっごくかわいくて、うきうきする曲だよ」
 あこ「そういえば、みつばちは冬を乗り越えてちょうど今頃から活動し始めるって、聞いたことがありますわ」

 冬の花のつぼみから春の訪れを告げるみつばちへ、と自然にカーブを描く話の運びが実に良いのですが、これでもまだ驚くには足りません。押さえておかなければならないのは、クロッカスのつぼみ(『TSU-BO-MI』=美組の香澄真昼)とみつばち(『みつばちのキス』=歌組の桜庭ローラ)という異種なる両者が交わる点が「植物と昆虫」のモチーフを介してここに設定されるということです。虫媒花ちゅうやつです。虫を誘って花粉をつけることで別の花の蕊に花粉を運んでもらうあれ。理科の授業で習いましたよね。
(クロッカスが実際に虫媒花なのかどうかは知りません。花言葉の選定や冬の時期に蕾を結んでいる花ということである程度限定もされたでしょうし、そのこと自体はどうでもいいのです)

 虫媒は、もちろん昆虫と植物とが直接生殖するわけではありません。しかし異種なるふたつのものが結託することで互いに互いの利益を図り、最終的には新しい命を繁殖させる。つまりお互いに本命のパートナー(真昼:ローラ=夜空:ゆめ)を持っている異種どうし(真昼:ローラ=植物:昆虫)が、一度互いのパートナーを離れることによって新しいものを生む、この異種交雑のなんとエロいことか! 元のパートナーとは別のものと交わるわけなので当然スワッピング的な意味を帯びてくるわけですが、それをたんに百合っぽく描いたり露骨に色恋にしたりといった安易な手法を『スターズ!』は取ってはくれません。逆に、前述のさりげない台詞とモチーフの忍ばせ方によって「異種なるものどうしが交わり新しいものを生む」メカニズムのエロさ(これぞ正しい意味で「性的」だと言うことができます)を描ききっている。それも初期(春)に発表された楽曲をクライマックス前(冬)に持ってくることによって……まさか『みつばちのキス』が楽曲として上がってきた段階でここまで計画されていたのでしょうか? そうとは思えません。シリーズ構成の強さと脚本家の創意による賜物でしょう。しかし、ふたつの異なる楽曲を並べることで劇中のキャラクターどうしの関係性をここまで豊かに補強してしまえる手際、こんなものを見せられては呆然とするしかありません。

 そして何より感動的なのは、AS!ep34時点では一面的な「華美」にとらわれがちだった香澄真昼が、みつばちとの交雑によって単独ではない別の美を開かせるにいたるまでの流れです。色々な種があっていっぱい混ざったほうが面白いじゃん? という異種交雑の歓びを学んだクレオール香澄真昼(姉である夜空の『未来トランジット』が流謫の「異邦人」の姿を歌っていたことを思い出しましょう)なら、女の子3人組に対して別のアドバイスができたのかもしれません。もちろん香澄真昼は(早乙女あこが自分修正主義に与しなかったのと同じに)自分が過去に女の子3人組に施したことを修正したりはしませんが、『スターズ!』2年目からはあの危うさとは違った多様な「美」を見出す存在になってくれるのかもしれません。

 他にも挙げていくときりがありません。劇場版でゆめ・ローラの絆として響いた『POPCORN DREAMING♪』がAS!ep21では2人を残酷に引き裂く舞台として使われたり、「未来の途中」を歌った『未来トランジット』が小春の一時離脱(AS!ep30)や香澄姉妹の闘魂伝承(AS!ep47)の舞台として使われたり、すべての楽曲に多層的な意味づけがなされています。あがってきた楽曲たちを一切無駄遣いしないどころか劇中のエモを合流させることで聴くたびに違った感動を呼び起こすことができる、この見事さはアイドルアニメと言わず「映像と音楽」を交えた媒体の作品のなかでも出色と言えます。……が、

*6-1 それにしても虹野はよく泣きます。AS!ep1の保健室のシーンから既にそうでしたが(あの場面も夕焼けでした)、『アイカツスターズ!』は前シリーズでは基本的に控えられていた「泣き」の絵が重要な場面で用いられます。「嬉し涙以外はなるべく流さないようにオーダーを出しました」「軽い気持ちで視聴者には観ていただきたい」*6-1-1 と木村隆一が言っていたように、前シリーズでは「消火装置」も内蔵されていたので「泣き」の絵は少なくなって当然でした。しかし『スターズ!』では生存のための賭けが繰り広げられているので、「泣き」の絵が増えてくるのも当然のことです(『ダラス・バイヤーズクラブ』のマコノヒーの「死ぬことも生きることもできないっ」とぐしゃぐしゃの泣き顔を見せるあのシーンを思い出してもいいでしょう。既に別註で書いたようにEazy-Eでも)。
*6-1-1アニメージュ2月号増刊 劇場版アイカツ!特別増刊号 69P


◎(DIS)RESPECT7 More than meets the Ai(絵コンテ・演出の多層性)


 以上をもって「いやあ、『スターズ!』一年目は非の打ち所がひとつもない、ものすごい作品だったなあ!」と締めることができたらよかったのですが、残念ながら『スターズ!』には消し去り難い瑕疵がひとつあります。木村隆一による絵コンテ・演出(OP映像も本編も)が、目を疑うほどのひどさなのです。本稿では最後にディスリスペクトとして木村隆一による絵コンテ・演出のまずさを書き連ねようと思ったのですが、数行書いただけで胸を悪くしてしまったのでやめます。逆に、木村隆一以外による絵コンテ・演出がどれほどの緻密さ・豊かさを孕んでいたか、についてのリスペクトを捧げることで代わりとします。

・Heart of the sunset(燃える夕焼け:AS!ep29, 35)
 この2話の演出を担当したのは、シャフト出身(現在フリー)の演出家:米田光宏。この名前を銘記してください。名は体を表すとか安易なことを言いたくはありませんが、氏の担当回は「光(光量、光景、後景)」がエピソードにもたらす効果への間違いない理解に貫かれています。ヒカル・ひめ・ゆめ3者をめぐる演出の見事さは【→RESPECT5】の項で確認しましたが、ここでは桜庭ローラと虹野ゆめをめぐる演出についてみてゆきましょう。

 AS!ep29は、無意識のうちに力(AKA爆弾)に依存するゆめ、その暴虐的な力を前に大敗を喫するローラ、の勝負が描かれる回です。もちろんこの時点での2人はどちらも「力(AKA爆弾)」については知らない。どれだけ努力してもなぜか勝つことができないローラは心が折れかけますが、響アンナ先生に「もう勝てないなんて思うのはナンセンスだ」との訓話を受ける。「(ゆめに勝つかどうかではない)別の勝負のしかた」があることに初めてローラが向き合うシーン。背景に広がる花畑(ガーベラとかでしょうか。花の種類自体はどうでもいいことです。ただ「青空の下で・太陽に向かって咲いている」ことを確認しておきましょう)がローラの心情を鮮やかに表現していて、忘れがたい絵です。

 さてAS!ep35(この回で米田光宏は絵コンテ・演出の両方を担当)。ゆめとローラとの対話シーン。ゆめはひめから初めて力(AKA爆弾)のことを知らされ、驚異的なパフォーマンスができたのはその力の効果にすぎなかったことを知ります。ゆめはローラに向かって「これまでの勝負はなかったことにして、はじめからやり直したい」と涙ながらに*6-1 申し出ます。AS!ep33で自分の闘い方を見出したローラは「ゆめがどうやって勝ったとか、気にしてない」と闊達に返し、ここで初めて2人は対等の博徒としてやり直すことができたのでした。

 夕焼けの町並みをバックに、ライバルとして対峙するふたりのカット。画面の立ち位置はローラが上手かみて、ゆめが下手しもてです(一応。演者視点ではなく客席=視聴者の視点からの上下かみしもを言っています)。ゆめは涙をぬぐい、ローラのほうへ向き直る……その直後にカットが変わるのですが、ここでカメラの位置が(ふたりの立ち位置を中心として)180°回り込む。夕焼けの海をバックに、ローラが下手しもて、ゆめが上手かみての立ち位置に切り替わるのです。


 もうお気付きだと思いますが、AS!ep29でローラが「別の勝負のしかた」に向き合った花畑のシーンと全く同じカット割りになっている(ご丁寧に後ろの柵の配置まで同じです)。そこにすかさずローラのセリフ「待ってるよ、ゆめ。弱気なライバルなんてつまらない」。ふたりの新たなライバル関係を示すために、AS!ep29のカット割りを引用することで「ふたりが見てきた景色の違い」を絵ひとつで説得してしまう(カメラ位置が180°動いていることにより、背景が 町並み→夕焼けの海 と鮮やかに切り替わっていることにも注目。青空の下で咲く花[AS!ep29]・夕焼けの海[AS!ep35]と共通の太陽モチーフを使うことで、ゆめ・ローラふたりの時間と経験の変遷を語らせることに成功している)、この手際たるや。

 カットの切り替えひとつでここまで(時間を、経験を、キャラクターどうしの関係性を)雄弁に語ることができる。映像の力はここにあります。米田光宏はその力を知り尽くしている人だということがわかる。セリフとは全く別の文脈によって、ここまで作劇というものが豊かになる。ゆめとローラの立ち位置が切り替わるあの瞬間、直接心臓を鷲掴みされたような叫び声を上げてしまった方も多いと思います(私もそうでした)。その映像のマジックは綿密な意味の編み上げによってこそ実現可能だったと言えるでしょう。

・Touching from a distance, further all the time(七倉虹野トランスミッション:AS!ep8, 30, 43)
 2話間にまたがる流れを線としてつなぐ演出なら王道です。しかし『スターズ!』は3つのエピソードの描写を配線して爆発的なエモを生む、そんな離れ業さえやっている。AS!ep43(絵コンテ:こだま兼嗣、演出:藤井康晶)。別註で部分的に書きましたが、この回はまるでチョコレートケーキのように多層的にエモがデコられています。入刀して、その層の折重なりをひとつひとつ見ていきましょう。
 まず、AS!ep30を確認しましょう。七倉小春が親の都合で四ツ星学園を離れる重要な回ですが、正直なところ、木村隆一によるこの回の絵コンテは褒められるところがほぼありません。とくに街道での見送りのシーン、(日中は体調不良がちなはずの)白銀リリィが夕陽に身を晒して両手を掲げて大口を開けている、あの目を覆いたくなるほどに間抜けな絵面に関しては、一体どうしてこんな絵を入れようと思ったのか尋問したいところです。しかし、AS!ep43はAS!ep30の絵コンテを再活用するどころか、それによって虹野ゆめ・七倉小春ふたりの関係性を、時と場所を越えて交信させることにまで成功しています。

 別註を参照してほしいのですが、AS!ep43はゆめの「学校で獲得してきたこと(discipline)」と「学校に入る以前の自分のルーツ(洋菓子屋)」との両方を味方につける回です。歌番組の収録に向かうため、車に乗り込む虹野。キャラクターの頭部が画面上手かみてにあり、見送りの人々の影が後窓から見える……『スターズ!』を通して見てきた視聴者は「げっ」とこの時点で気付きますね。そう、AS!ep30で七倉小春が両親の車に乗せられて学園を去るシーンと全く同じカットです。



 七倉小春のお別れステージで力(AKA爆弾)に頼ってしまったために、親友を見送ることさえできなかったこと。虹野にとっては最も大きな傷として残っている経験ですが、よりによってそのシーンのカット割りが引用されることで、力(AKA爆弾)に頼らずに生きている現在の虹野の姿が強調される。AS!ep30当該カットの七倉小春は車が出るにつれて泣き出してしまいましたが、AS!ep43当該カットの虹野ゆめはステージに向けて眦を決する。この引用は「泣く/泣かない」の対のエモ表現としても成り立っています。

 しかしそれだけではありません。歌番組の収録中、ゆめは階段でつまずいてしまう。その瞬間、「転んだと見せかけて、その勢いでポーズをキメる」機転をきかせるのです。そう、AS!ep8で七倉小春がウォーキングレッスン中に編み出したあの技とまったく同じです。いま時と場所を隔てて在る2人が、過去の経験によって突如として交信する瞬間。ゆめの中にある小春の存在を、こんなコミカルな描写で見せてしまうとは。もちろん前述の通り、視聴者はあの車内のカットにより小春・ゆめの苦い経験を思い出しているわけです。その前フリからこの描写を叩き込まれた瞬間のエモさは尋常なものではありません。


 もちろん、これらのシーンに「小春ちゃんとの思い出がわたしの中に生きているんだ!」みたいなわざとらしいセリフはひとつも出てきません(どころか「小春」の名前すら出てきません。回想もありません。虹野七倉が直接に言葉を交わすシーンはAS!ep49まで持ち越されなければならない構成なので、AS!ep43ではこうやって言外のうちに2人を通いあわせる演出が要請されたわけです)。シーンとシーンとの連なり、エピソードとエピソードとの呼応を使ってここまでのことが描けてしまう。もちろんシリーズ構成:柿原優子が普請した骨組みの強さもあるのですが、ここまで「セリフ以外」の意味性の豊かさを信じて「見かけ以上のもの」を編み出している見事さはどれほど強調しても足りません。

・Pictures came out and broke my heart
 さて、この回のステージで披露される楽曲『スタージェット!』の物凄さについても書こうと思ったのですが、それはおそらく単独の記事が必要とされる内容なので省略します。作曲も編曲も歌詞もダンスもその本編での用いられ方も、何もかもが恐ろしい曲です。しかし……惜しまれるのは、木村隆一によってこの楽曲に付けられたOP映像がほんとにひどいということなのですが……いやそれを言えば、前OP『1, 2, Sing for You!』の映像は『スタージェット!』の比ではない完膚無きひどさなのですが……ああ、一周回って帰ってきましたね。この項では木村隆一以外の仕事による『スターズ!』の絵コンテ・演出がいかに豊かなものかを見てきましたが、これをもって木村隆一による腑抜けた絵コンテ・演出へのディスとします。
<以下、攻撃的なニュアンスが読み取られるのは本意ではないので、すべて戸田奈津子口調に翻訳して書きます>
このマザー・ファッカー! あんな絵コンテで良いと思ってるので? 楽曲をつくる側からすりゃ、ありゃ冒涜以外の何物でもないかもだ。南田健吾って名を? 『1, 2, Sing for You!』『スタージェット!』両方の編曲をやってる、名うての編曲家だ。『アイカツ!』で微妙だった「ロック」なるものをいちから立て直してる貢献者なんだぜ。本編で『Hey! little girl』すらマトモに使えてなかったおまえが、よりによってあの2曲に泥を塗ったので? ありえない! 地獄で会おうぜベイビー!
<なっちOFF>木村隆一ね、ちょっといくらなんでも音楽と映像の力が可能にすることをナメすぎですよ。音楽と同期した映像であるかぎり、楽曲が活きるかどうかは映像をつける側の手腕に委ねられるしかないのだから、今後また優れた楽曲に腑抜けたコンテ付けるようなことがあったらあきませんよ!!!!!お願いしますよ!!!!!!!CHEER UP!!!!!!!!KIMURA!!!!!!!!!!!!!

・As (s)he flies on the wings of a dream(『星のツバサシリーズ』:キハーノ、ギリアム、白銀リリィ)
 『アイカツスターズ!』2年目は『星のツバサシリーズ』と副題されています。プレミアムレアドレスを超えるパーフェクトなドレス、ツバサを戴いたドレスが加わるというのです。
 以前、前シリーズにおいて翼モチーフのアクセサリーが消滅していった過程*についてすこし書きましたが、『スターズ!』はこれと逆の(地上で生きていた人間が翼を授かる)軌道に進むようです。既に白銀リリィのドレスが発表されているのですが、ちょっともうやばい。見てください、翼です。「折れた翼見つめても元にはもう戻らない」と歌っていた人の背中に翼が。しかしどう見ても鳥類のそれというよりは、『未来世紀ブラジル』の主人公が空想の世界で思い描いていたような、作り物っぽいデザインになっている……白銀リリィが自身のブランドを生み出した過程がアロンソ・キハーノの発狂と全く同じプロセスになっていることは以前書きました。そして『未来世紀ブラジル』のテリー・ギリアムが執拗に『ドン・キホーテ』の映画化に取り組んでは大失敗し続けている人であることもご存知だと思います。ということは、リリィの「ロゼッタソーンコーデ」は正真正銘の、「空想の力を武器にして戦う」キハーノ=ギリアム的な騎士の甲冑ということになる。しかもその背にあるのは作り物の翼であるという……

 完全にイカロスじゃないですか。『アイカツ!』の場合は(本稿で散々書いたように)最初から one visible god と人-神が設定されていたわけですから翼で翔ぶことにも違和感はありませんでしたが、『アイカツスターズ!』での「星のツバサ」なるものはイカロス的な「不可能と知りつつそれ(太陽へ向かって翔ぶこと)を行う」者の証となるのだと思います。本来重力に逆らって飛ぶことはできない人間が、その空想と知恵と傲慢のゆえに墜落する話、になるのかもしれません。「パーフェクトアイドル」として設定されているエルザ フォルテでさえ墜落するのかもしれない。イカロスたちのサーガたる『星のツバサシリーズ』(公式のキャッチコピーは「太陽まで届け☆私のアイカツ!」です。やりにくる気満々です)、ぜひともリアルタイムで追い続けていきたいところです。

Take off and fly away and go ahead.
ー未来トランジット / AIKATSU☆STARS!

Touch the sun. On your way, like a eagle, Fly.
ーFlight of Icarus / Iron Maiden


 本当なら各エピソードごとに項を立てて50話全体のアンサンブルを見ていきたいところなのですが、そろそろインクが少なくなってきたのでやめます。思いついたところをズアッと書かせていただきましたが、『アイカツスターズ!』のえげつなさ途方もなさを書くにはこの程度の文章では足りません。先の見えない賭けを描いている『アイカツスターズ!』に関して、この程度の文量で後出しジャンケン的なものを書くこと自体が無理のある話でした。短文失礼致しました。


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