幻聴試論(『アイカツスターズ!』1年目再訪) 2018/03/02 (Fri)

西暦2023年12月26日に付された前註:
ここにアップロードされるのは、筆者が西暦2018年3月30日に電子書籍として無料頒布した「やばいくらい -『アイカツスターズ!』読解集成-」からの単体記事抜粋である。


Ⅰ 突き立たない音


 AS!ep1はバンダイチャンネル公式で無料公開されているので、24分あれば誰でも「AS!ep1の視聴を終えている人」になることができます。本項は、読者がAS!ep1を最低でも1回観ている前提で話を進めます。

 まず、AS!ep1における諸星ヒカルの初登場シーンを思い出してください。このシーンは、入学セレモニーで諸星ヒカルが登壇し→青い薔薇を放り投げ→挨拶を始める という流れで進められています。諸星ヒカルが放り投げた薔薇は、果たして壇上にポトリと落ちたのか、それとも放り投げた後にキャッチされたのか、あるいは中空で消滅したのか、消息不明なままに終わっています。

 さて、ここで読者に訊ねます。このシーンで薔薇が放り投げられますが、あなたはこの薔薇が落ちる音が聴こえていましたか? あるいは、薔薇が落ちるシーンが視えていましたか?
「え、聴こえてないし視えてないよ。本編で鳴ってないし見せられてないから当たり前じゃん。何言ってんの?」という当惑があるかもしれません。確かに本編だけ見ればそうです。しかし筆者がこの質問をするのは、初期の『アイカツスターズ!』には聴覚と視覚を分断する構造が含まれていたことを明らかにするためです。AS!ep1で薔薇が落ちる音が鳴ったか・薔薇が落ちる絵が描写されていたかどうかが重要なのではなく、あのシーンを見せられた視聴者が自分の視聴覚をどのように補完したかが重要なのです。
 当該シーンを観た視聴者の反応として予想されるものを、4つに大別してみましょう。

P-P 薔薇が落ちる音が聴こえていたし、薔薇が落ちるシーンを視たつもりになっていた
P-N 薔薇が落ちる音が聴こえていたが、薔薇が落ちるシーンを視た憶えはなかった
N-P 薔薇が落ちる音は聴こえていなかったが、薔薇が落ちるシーンを視たつもりになっていた
N-N 薔薇が落ちる音も聴こえていなかったし、薔薇が落ちるシーンを視た憶えもなかった

 読者はいずれの反応だったでしょうか。ちなみに筆者はP-Nです。薔薇が高く放り投げられた以上、それが落下するのは当然ですし、むしろ中空で薔薇が破裂して花弁が講堂全体に舞い散るくらいのケレン演出があってもいいくらいだと思っていました。しかし本編では薔薇が落下する絵は描写されなかったので、聴覚だけが宙吊りのままになり、それを補完するために薔薇が落ちる音を聴いてしまっていたのでしょう。
 なぜこのシーンが視聴覚の分裂を惹起しうる余地を備えているのか? それはもちろん視覚と聴覚によって始められたこと(因)が、視覚と聴覚によって終えられる(果)という手続きを踏んでいないためです。たとえば尋常のアニメ作品なら、登場人物がとった挙動の発端と終止は視覚と聴覚の両方で完結します。『ラブライブ!』第1話を観てみましょう。園田海未が弓矢の練習に専念しようとするも、アイドルとしての自分を妄想してしまい、的を外してしまうシーン。ここでは、矢を射る絵と音(因)と矢が外れる絵と音(果)の両方が本編に仕込まれているので、なんの不自然さも感じさせません。「なぜ矢が的を外したか(果)」についても「アイドルとしての自分を妄想してしまったから(因)」に遡って判定することができ、ここに認識のズレが生じる余地はありません。

 しかし、もしここで矢が外れる絵と音(果)だけが存在していなかったとしたらどうでしょうか。視聴者は矢の消息が知らされないまま、判断保留のまま宙吊りにされることになります。である以上、「あの矢はずっと飛んだままなのか」「もしかしたら、的ではなく通りすがりの人の尻とかに突き刺さったのではないか」「いや、あの突き立たなかった矢は宇宙空間に突入し、本編の後半で重要な伏線として再登場するのではないか」などの反応も惹起しうる。視覚と聴覚によって始められたこと(因)が、視覚と聴覚によって終えられる(果)という手続きを踏んでいないのだから当然です。そしてAS!ep1における諸星ヒカルの初登場シーンは、そのような「突き立たない音」の特性を含んでいるのです。あの放り投げられた薔薇がどうなったかが描写されていないので安心できない、よって本編で鳴っていないはずの「薔薇が落ちる音」まで聴こえかねない。これは人間の視聴覚が直接に「意味付け」にかかわるものである以上、当然の反応です。*1

I thought that I heard you laughing
I thought that I heard you sing
I think I thought I saw you try
But that was just a dream

『Losing My Religion』 - R.E.M

Just 'cause you feel it
Doesn't mean it's there

『There There』 - Radiohead


 ここまで読んで、読者はすでに「幻聴論」とでも呼ぶべきものが進行していることにお気づきでしょう。そうです、前述したとおり、初期の『アイカツスターズ!』には聴覚と視覚を分断する構造が結果的に*2 含まれているのです。そしてその構造は、AS!ep1-36にわたる虹野ゆめの病の治療過程とも直接に関わっている。それを詳らかにすることが本稿の目的です。


・例1:演奏の停止と流れ続けるピアノ(AS!ep4)


 AS!ep4、白鳥ひめと虹野ゆめとの対話シーン。この対話は白鳥が弾いていたピアノの音に虹野が誘われて始まりますが、BGMとしてピアノの劇伴が流れています。白鳥の手元がピアノで隠れているカットも出てくるので、「ああ、この曲は白鳥が弾いているのだな」と解釈するのは自然です。

 しかしその直後、白鳥がピアノの屋根を押し開き、内部の弦と駒を見せるシーンが出てきます。つまりここで「白鳥はピアノを弾いていない」ことが確定される。にもかかわらず、BGMのピアノ曲は途切れず流れ続けるのです。ここで視聴者は、「BGMでピアノ曲が流れている(果)のは白鳥がピアノを弾いているから(因)」という解釈を切断され、「じゃあいま聴こえているこのピアノ曲は一体なんなのか」という判断保留の状態に置かれることになります。この対話シーンは白鳥が弾いていたピアノの音に虹野が誘われて始められたものであり、ピアノの音が単なる音響演出ではなく白鳥と虹野との間にも聴こえているものとして「意味付け」られている以上、単なる劇伴としてのみ聴くことは不可能になるからです。AS!ep4は視聴者の聴覚と視覚を分断する演出が採られている。そしてこの「聴覚と視覚の乖離」こそが初期『アイカツスターズ!』の不穏なイルネスを醸す役割を担っていたのです。

・例2:いらえない声(AS!ep5)


 AS!ep5には、「幻聴論」にとって最重要と見做されるべき「リズム」の問題系が噴出していますが、それについては後述します。
 深夜のベッドルーム、ドレスメイクを成功させるため必死に勉強する虹野に「ファイト、ゆめちゃん」と七倉が励ましの言葉を投げるシーン。尋常のアニメなら、ここで虹野に「うん、ありがとう小春ちゃん!」などの応答をさせていたでしょう。そうでなければセリフで言わせる必要がない(七倉の内面独白などで済ませればいい)のですから。しかしここでは、七倉が発声した「ファイト、ゆめちゃん」の言葉はいらえられることなく終わります。

 さらに直後のベッドルーム俯瞰のカットでは七倉の姿が二階のベッドに隠れて見えないので、「あれっ、もしかしたら七倉はこの部屋の中に存在しないんじゃないか」「そもそもあれは七倉が夢の中で投げた言葉であって、起床中の虹野には届いていないのではないか」などの解釈も可能になってしまいます。ここでも「聴覚と視覚の乖離」が不穏なイルネスを醸し出しています。*3

 これら「聴覚と視覚の乖離」を素通りするわけにはいきません。AS!ep4にて、白鳥はピアノを例にして 組織について語っていたのでした。「たくさんの弦や駒が、それぞれ100%の力を発揮しないと、正しい音は奏でられない」。これは本編の流れでは「演者から裏方まで、それぞれが連携しなければステージを成功させることはできない」という現場の有様を説明していたわけですが、のちに虹野を蝕む(かつて白鳥も蝕まれた)病=「力」*4のことを踏まえるともう一つの意味が加わります。身体に不協和が生まれてしまうと歌声が喪われてしまう、虹野はまさにそのことを克服するための治療過程を経ることになるからです。
 思い出しましょう、虹野はプロフィールの「特技」欄に「妄想」と書いてしまうほど妄想に耽りがちな人物でした。初期には「ひめ先輩とユニットを組む(AS!ep4)」「デザイナーとしての才能を見込まれる(AS!ep5)」などの微笑ましい「妄想」だけでしたが、病の進行とともに徐々にダークサイドが兆しはじめます*5 。 AS!ep27、虹野が夢の中の視聴覚と起床時の視聴覚を明確に区別できなくなっているシーンを確認しましょう。

虹野〔夢中〕「わたしは、白鳥ひめ先輩のようなS4に……」
観客〔夢中〕「(ざわめき)」
虹野〔夢中〕「えっ……それじゃあダメですか!?」
 響〔夢中〕「虹野、他人に訊くな!」
 響〔覚醒〕「虹野、にーじーの!」
虹野〔覚醒〕「あ……す、すみません!」
 響〔覚醒〕「人の話を聞け!」
虹野〔覚醒〕「でも、いま訊くなって……」
 響〔覚醒〕「なんだって?」
虹野〔覚醒〕「な……なんでもありません!」

 病への依存が高まっていること、自分が将来のS4としてどうなりたいかが不明瞭なことなどによって、彼女自身の視聴覚も現実と乖離し始めているようです。ここでの「妄想」はもはや虹野にとって都合のいい現実を供給してくれる世界ではありません。自分を苛む思考を、知覚として、外部からくる声として聴いてしまう。まさに幻聴そのものです。
 AS!ep35、虹野の病が末期症状まで進行したために諸星ヒカルが荒療治に踏み切ることになるエピソードでは、虹野の「妄想」が行くところまで行ってしまったシーンが描出されています。

虹野〔覚醒〕「歌えなくなるかもしれない……」
観客〔夢中〕「どうした! 声が出てないぞ! 引っ込め!」
虹野〔夢中〕「(声が、声が出ない)」
虹野〔覚醒〕「いやだ、怖い」
 響〔覚醒〕「どうした、虹野?」
虹野〔覚醒〕「いえ、すみません」

 ここではもはや、虹野は知覚と思考の区別がついていません。自分にとって都合のいい「妄想」に耽りがちだった彼女は、病の進行とともに「妄想」自体に苦しめられるようになった。 “Sweet dreams are made of this” 。「夢」や「妄想」のブライトサイドとダークサイドの両方をここまで容赦なく描き出すとは。しかし真に驚くべきはここではありません。

 思い出しましょう、極限まで進行した虹野の病を医したのは何だったか。「ステージに立つ者どうし、わかりあえることもあるだろう。私には手の届かない世界にも、君なら一緒に行ける」、「ゆめちゃん、どんなに怖くても私がいるかぎり独りにはさせない。だから安心して」。そう、彼女の病への医しはカウンセリングでも臨床でも投薬でもなく、歌でなくてはならなかったのです。自分を責め苛む幻聴を打ち破るためには歌の力が必要だった。これは「『アイカツスターズ!』は音楽療法の方法論を取り入れた画期的な作品なのだ」とかいうしゃらくさいことでは一切ありません。歌や音楽の力を正面から見据えることができたからこそ『アイカツスターズ!』はこのような作品になったというだけの話なのです。もはやここでは、歌や音楽を趣味だとか嗜好品だとか専門の訓練を受けたプロフェッショナルだけが関わるものであって人間の生には関係ないものだとかいう考えなどは相手にもされていない。虹野や白鳥にとっての歌や音楽はそのようなものではない。彼女らが歌うことをやめない理由、それは死なないためです。死なないために歌っているのです。彼女らにとっての「音楽」はただ楽しいだけのお遊びではないし、そもそも「音楽」はそのようなものではない。それは聴覚が「意味付け」に直接かかわり、幻聴によって精神が苛まれることもあると確認してきた本項からすれば当然にすぎることです。『アイカツスターズ!』の1年目は人間の身体が不可避的に持たざるをえない「音楽」とのかかわり、その協和と不協和、歓喜と悲嘆の両方を一切の検閲にかけることなく描き切った作品だったのです。

 医者よ、君みずからを治癒せよ。それが君の患者を助けることにもなる。患者にとってもっとも助けになるのは、みずから自身を癒した者をその目で見ることだ。

『ツァラトゥストラかく語りき』

 傷つけられた外科医は病気の部分を
 探究する刀剣へ使う。
 血を出す手の下で医者のするどい
 慈愛の技術を人は感じる
 体温表の謎を解く。

『四つの四重奏』 


Ⅱ リズムは打音を必要としない


 さて、以上のことを踏まえてAS!ep5を再訪しましょう。

 白鳥「ゆめちゃんはもしかしたら、私と同じかもしれない」
二階堂「おなじ?」
 香澄「確かに、キュートでふんわりしているところが似てるかもね」
 白鳥「(微笑)」
二階堂「(ふーん……)」
 如月「……よし、そろそろ行こうか」


「私と同じかもしれない」とは自分と同じ病を持っていることについての言及であり、「キュートでふんわりしているところが似てる」という香澄の言葉は空を切っていることになります。さらに重要なのは、同席している如月はこれについて言及せず、やや性急に話題を切り上げていること。他ならぬ彼女は1年次に白鳥(治療前)の圧倒的な力によって歌組の道を諦めたことにより、白鳥と虹野の「力」にただならぬ関連があることに気づいています(他の3人がにこやかに談笑しているのに如月だけが下がり眉になっていることが根拠となります)。

 このシーンで二階堂は虹野に興味を持ち、初めてのドレスメイクで懊悩している虹野にヒントを与える(というテストを実行する)*6 わけですが、この接触シーンでのセリフはとてつもなく重要です。引用しましょう。

二階堂「木の葉のリズムがきもちよくって、休憩してたんだ」
 虹野「……リズム?」
二階堂「うん! すべての生き物にはリズムがあるんだよ。ゆめちゃんにもあって、ゆずにもある。(虹野に鼻先を近づける)」
 虹野「(後退る)」
二階堂「たしかに、ゆめちゃんのリズム、ひめちゃんに似てる! やっぱり面白いね」
 虹野「ひめ先輩に……?」

「うん! すべての生き物にはリズムがあるんだよ」「たしかに、ゆめちゃんのリズム、ひめちゃんに似てる」。ここで二階堂が持ち出した「リズム」は、本来音楽との関連でのみ用いられる言葉ではありません。言及されている通り、「すべての生き物」にかかわることなのです。
 口惜しいことに筆者にはギリシャ語の素養が一切ないので、既存の論文を援用するしかありません。* * 「リズム」はそもそもギリシャ語「リュトモス(ρυθμούς, rhythmos)」に由来し、「かたち」「形態」を意味します。さらに「釣り合い、配列、整列」「何かのものの状態や容態、機嫌、気分」「やり方、ものの仕方」をも意味し、単に音楽用語に限られた言葉ではないことがわかります。よって「リュトモスという語は、音楽芸術に関連するのではなく、人間の生のあり方にかかわっている。私たちは何よりもまず、人間という主題に目を向ける必要がある」のであり、「リズムは〔行動の〕スタイルと同様に、人間を『つくる』」のです。
 である以上、二階堂が歌組の病者二人(白鳥・虹野)との関連で「リズム」を持ち出した理由も明瞭となります。卓越したダンサーである二階堂は、白鳥と虹野の身体に似た「リズム」が流れていることを容易に見抜いた。ここで重要なのは、二階堂が「リズム」を見抜くために使った感官が嗅覚だったことです。迂闊な作り手なら、ここで虹野のダンスのステップを見せて「たしかに、ゆめちゃんのリズム、ひめちゃんに似てる!」と納得させていたかもしれません。しかし「リズム」は「音楽芸術に関連するのではなく、人間の生のあり方にかかわっている」のであって、「拍」とは明確に区別されなくてはならない。二階堂はそこを見誤らなかったのです。虹野が白鳥と同様の危うさを抱えていることを瞬時に見抜いた、いや嗅ぎつけた。

 よって、のちに二階堂が虹野のリハビリを率先して引き受けた(AS!ep32)のも当然のことです。「ちょっとくらい間違えても気にしない! ダンスは楽しくリズムに乗って!」まさに「リズム」を損なって病み衰えている虹野のために二階堂が提供したものは、音楽とダンスだった。『アイカツスターズ!』、歌唱や演技や美容や舞踏などすべての藝術が人間の製造と統治にかかわっているこの作品では、ほかならぬ藝能の贈りあいこそが人間の生に繋がっていた。それが行われなくては白鳥や虹野は(なんの誇張もなしに)絶命してしまっていたでしょう。これは『アイカツスターズ!』が過激なのではなく、21世紀の我々が藝術の力を市場原理に限定して見くびってしまっているから過激に思えるだけなのです。藝術やリズムがそもそも人間の生にかかわる意味を持っていたこと、その事実に真摯に向き合うことができた数少ない作品が『アイカツスターズ!』であり、そこから翻って21世紀の我々がいかに文字通りのことを文字通りに行うことすらできなくなっているかを見据えることができなければ、この作品から何かを持ち帰ったことにはならないでしょう。


西暦2023年12月26日に付された後註:
 公然のナンセンスから非公然のナンセンスへ移りゆくこと。


*1 これはAS!ep51におけるエルザ初登場のシーン(船の甲板に出てきたエルザが、サングラスを放り投げ、日本列島の方角へ眦を決する)にも置き換え可能です。AS!ep1とAS!ep51は、「トライブの族長が初登場し、手に持ったものを高く放り投げ、それがどうなったかは描かれない」という全く同じシーンを含んでいます。

*2 あくまで結果的に、です。もし本稿で述べられている演出が意図されたものかどうかを確定したいなら、音響監督である菊田浩巳氏へのインタビューが必須となるでしょう。しかし筆者は「本当にスタッフはこれを意図して作ったか」などの「答えあわせ」には全く興味がありません。初期『アイカツスターズ!』の「聴覚と視覚の乖離」が(後述する)「夢」と「妄想」と「幻聴」と直接噛み合っていた事実だけが重要なのです。

*3 逆に、ヴィーナスアークでの訓育を経た『スターズ!』2年目以降の七倉は「言いたいけど、でも言わない」式のペイシェンスがしっかり身についていることがわかります。

花園「エルザ様は、小春のデザインへのパーフェクトな情熱を認めたんだもん!」
虹野「すごいよ小春ちゃん!」
七倉「ううん、まだほんのお手伝いだから。(それに、わたしの夢は、ゆめちゃんと一緒にあるから……)」
虹野「小春ちゃん?」
七倉「ううん、なんでもない」

AS!ep56

七倉「(すごかったな……ゆめちゃん……わたしが、あんなに立派になったゆめちゃんのお手伝いをする必要なんて……)」

AS!ep72

 この「言いたいけど、でも言わない」式のペイシェンスがあったからこそ、虹野と七倉が再び手を取り合うまでの流れはあれほどまでに感動的になりえたと言うことができます。

*4 雪乃ホタル・白鳥ひめ・虹野ゆめ三者を蝕んだ「力」とは、ロバート・ジョンソンのクロスロード伝説に旧約聖書のヨブ記をかけあわせたものとして読解可能ですが、そもそもこの「力」の元ネタを見出すことに意味はありません。「未知の力に導かれて、なぜか自分にできるはずのないことができてしまった、それを埋め合わせるために鍛錬に取り組まねばならない」というのは、歌唱や演技や美容や舞踏や絵画や文学など藝事に取り組んだことがある人間なら誰でも当たり前に直面する事態だからです。逆に、『スターズ!』1年目の「力」をめぐる描写を当たり前に読むことができるかどうかで、その人間が藝事に取り組んだことがあるか・孤独な鍛錬に向き合ったことがあるかどうかが一発で暴露されうるでしょう。本当に恐ろしい作品です。TwitterやPixivで半笑いのクリエイターごっこに終始し、仲間内での上目遣いの馴れ合いに淫している、見るも無残なお子ちゃまたちが『アイカツスターズ!』1年目を前にして怯えて逃げ帰ってしまう例が多く見られるのは、筋が通ったことなのです。

*5 虹野の「妄想」に影が差しはじめたのはAS!ep10が最初です。課せられたソロライブの成功が到底見通せず「同じステージなのに、ここから見える景色が違う」と落ち込むも、桜庭から「一度やるって決めたでしょ。がっかりさせないで」と突き放されるシーンがあります。ここで重要なのは、虹野は「夢」や「妄想」の中ですら親友から甘やかされることを望まない人物だということです。もし虹野が「困ったらきっと友達が助けてくれるはず」と楽天的に構えているだけの人物だったとしたら、彼女は「力」をこじらせることもなく中途半端なアイドルとしてフェードアウトしていたでしょう(というか、そのルートを取らせるために諸星ヒカルは無理なソロライブを課したわけです。虹野の「力」がどうやら本物らしいことを察した諸星は、虹野の経過を見守りつつ最悪のパターン━━姉と同じ結末━━を避ける方針に軌道修正しなくてはならなかったのでした)。『アイカツスターズ!』が「孤独をおそれない」分子状の作品であることが実感されます。

*6 ここで二階堂は虹野を導いたというより、「面白そうな子がいるから、この子が自分の藝能(ダンス)から何を引き出せるか試してみよう」というテストを仕掛けたように思われます。トラックメイキングに喩えれば「このレコ箱全部やるから、こっからサンプリングして一曲作ってみ」式のテストであって、ここで虹野がなんの回答も引き出せなかったら二階堂は虹野への興味を失っていたでしょう。『アイカツスターズ!』はほかならぬ「創造する人」の作品なので、自分では何も創れない、他人の藝能から何も持ち帰れない人はそもそも登場することすら許されないでしょう。AS!ep5での虹野が「ファッションの本を山ほど読んで、自分なりに猛勉強したけど、それでもさっぱりわからない」という学習の果ての迷いに直面していたからこそ二階堂はテストを仕掛ける気になった、と見ることができます。


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