届けられてしまったからには(アイカツスターズ!『Dreaming bird』讃) 2016/11/26 (Sat)

西暦2023年12月26日に付された前註:
 ここにアップロードされるのは、筆者が西暦2018年3月30日に電子書籍として無料頒布した「やばいくらい -『アイカツスターズ!』読解集成-」からの単体記事抜粋である。
 本記事は筆者の知人との対談として編まれており、私がKRSワン、彼がスコット・ラ・ロックとしてマイクを回してゆく形式で収録されたのだが……この喩えを用いた時点でお分かりだろう、彼は既に絶命してしまった。よって今では対談者の了承のもとに再公開することが不可能なため、本記事は筆者単体による記述のみを残した。


ごあんない
かならず『アイカツスターズ! 挿入歌シングル3 アキコレ』 を各種通販サイト等で購入したうえでお読みください。ここにリンクを貼ることはしません。「こいつアフィリエイトで稼ぐつもりだな」と思われたらイヤだからです。また、『Dreaming bird』フルバージョンの内容にまつわる言及で占められていますので、最初に楽曲を聴く楽しみをとっておきたい方は前もって一度お聴きいただいたうえでお読みください。

↑という注記で始められていたのだが、隔世の感がすごい。今や『アイカツ!』フランチャイズ関連のほぼ全音源は、各種サブスクリプションサービス等で簡単に聴けるのだから。


Pt.1 その歌詞と編曲


 いちおう前置きを。今回は『Dreaming bird』の楽曲の構造には深く立ち入らないことにします。この曲の変拍子については以前のノートで委曲を尽くしましたし、むしろ「変拍子だからすごい」と強調しすぎるとこの曲の本当の凄味が見えにくくなるのではないかと思います。たとえば、ブルース・リーの身体を見て「筋肉がすごいね」と誉めるくらいのことは誰にでもできる。しかしブルース・リーの一番凄いとこって筋肉じゃないでしょう? じゃあ『Dreaming bird』の一番凄いとこ・怖いとこはどこなのか、ということは最終的にこのテキストで導き出されてゆくのではないかと思います。
それではよろしくお願いします。

 公式チャンネル『Aikatsu TV』に『Dreaming bird』ショートバージョンの動画がアップロードされたのは8月31日だが、初公開されたのは8月20日開催の「ちゃおサマーフェスティバル2016」におけるアイカツスターズ!ブースでのこと。そのようすを録画録音した動画がすぐにネット上でシェアされ、あまりにもな音楽性によってパニックを引き起こした。

 まさに、この曲のキーボードのアレンジの素晴らしさにはどれほどの賛辞を尽くしても足りないと思います。ピアノは一曲を通して印象的に鳴っていますが、Bメロの後ろで鳴っているハモンドオルガンっぽい音がサビへの流れで果たしている貢献の大きさには off vocal 版を聴いて初めて気づかされました。この編曲の入り組みようはとても一度聴いただけでは追いきれないほどの情報量ですよね。ぜひ皆様も off vocal 版を再生しながらこれを読んでほしいのですが。
 ストリングスに関しては、同じ『アキコレ』に収録の『ドリームステージ☆』には室屋光一郎ストリングス(生音の弦)が入っていますが、『Dreaming bird』のそれはメロトロン (磁気テープを媒体とするめんどくさい楽器。60-70年代にめんどくさい人たちが好んで使用した) のように聴こえるのが「プログレっぽさ」の印象を強くしているのかもしれませんね。
『アイカツ(スターズ)!』楽曲に「北欧っぽさ」が持ち込まれるのはこれが初めてではなく、 『硝子ドール』のディレクションの際に水島精二(『アイカツ!』スーパーバイザー) が Nightwish の名前を出していますし、Stratovarius の『Load of the Wateland』は『硝子ドール』の元ネタのひとつとして聴くことができます。しかし帆足圭吾(『硝子ドール』) が北欧メタル的編曲なのに対して南田健吾(『永遠の灯』『Dreaming bird』)のほうは北欧プログレ的である、というふうに「北欧っぽさ」をふたつに線引きすることができるのでは、と思います。ギタリストとしての南田健吾、編曲家としての南田健吾についてはのちのち言及していきましょう。

「中でも吸血鬼キャラを演じているユリカが歌う「硝子ドール」は特別にエッジのきいた楽曲ですが、あれも“NIGHTWISH”というオペラ風に歌いあげる女性ヴォーカルのヘヴィメタル・バンドを参考にしています。」

VOL.14 監督:水島精二 インタビュー│クリエイターズ・セレクション│バンダイチャンネル ( http://www.b-ch.com/contents/feat_creators_selection/backnumber/v14/p03.html )


歌詞(全休止・途絶・消尽)


 前回のノートで “「閉じ込められていたところに半身が助けに来てくれて、その状況から脱出する」という類の歓迎しやすい物語がもはや存在していない” と書きましたが、フルバージョンでもその「途絶」ぶりは一貫していましたね。
 たとえば『Summer Tears Diary』ではふたりの “Dear my best friend...” の残響が突然バッサリ途切れるという残酷すぎるアウトロになっていましたが、『Dreaming bird』のフルバージョンでは演奏が全休止する箇所が二箇所(1:50・3:28)ある。とくに 1:50 では1コーラスめで高らかに歌われた “あなたへ” の言葉が途絶したあとで “闇雲に空へ放った祈りは / 誰にも届かず行き場をなくしていた” の歌詞が始まるので、1コーラスめで放った言葉たちは “誰にも届かず行き場をなくしていた” ことになるのではないのか、と気づいた時には初めて『Summer Tears Diary』を聴いたときの残酷が倍加されたような衝撃を受けました。しかも『Dreaming bird』では『Summer Tears Diary』と違って隣ってくれる人すら存在しないのです。隔離された空間での、眼に見えない相手をパートナーとするひとつの舞踏のような歌であると。
 3:28 の間奏終わりで全休止し、 “折れた翼のせいにはもうしない” と決然と歌われて最後のサビに突入しますが、この最後のサビに入る瞬間に今まで入っていなかった風切り音(あるいはウィンドチャイム) のようなものが右チャンネルにかけて入っています。さらに今までになかったピアノのフレーズが踊るように鳴る。この編曲によって最後のサビの「ラスト・ラン」感が半端じゃないことになっています。 “走り抜ければハッピーエンドさ ” と歌っていましたが、彼女にとって “走り抜け” ることはおそらく消え尽きることを意味するのでしょうから、これはもう絶唱としか形容しようがないですね......唐突に「彼女」という名前が出てきましたが、この「彼女」が誰なのかということもこのテキストで最終的に明らかになると思います。


歌唱ディレクションの徹底(vocal contractor)


『アイカツ(スターズ)!』楽曲のしくみをご存知でない方のために。『アイカツ(スターズ)!』では声優がそのまま楽曲を歌うのではなく、秋葉原ディアステージ所属のアイドルが歌唱を担当するしくみになっています。 一人のキャラクターに演技・歌唱のふたつの声がつくわけですね。キャラクターの声(声優)とその歌声 (アイドル) の二層があり、さらにその歌詞はかならずしもキャラクターそのものに一致したものではないというギミックがあります。『アイカツ!』二期では『Kira・pata・shining』の歌詞 “クルクルキャワワ” がそのままキャラクターの口癖として採用されたり、歌詞のフレーズが本編でも引用されることが多くなったのですが、『アイカツスターズ!』では主に七倉小春の動向(親の仕事の都合で海外に転居)が『未来トランジット』『Summer Tears Diary』の歌詞に重ねられているので、今後『Dreaming bird』の歌詞が本編にかかわってくることも大いにあるでしょう。
『Dreaming bird』の歌唱を担当しているのは松岡ななせさんですね。『アイカツ!』あかりジェネレーションにて黒沢凛の歌唱担当としてデビューし、『スターズ!』では 如月ツバサ白銀リリィの二人の歌唱を兼任しています。ちょっと一曲聴いてみましょうか。


 重要なのは、ここでは如月ツバサの声として歌われていることですね。白銀リリィのそれとは比べて比較的やわらかいニュアンスだと思います ( “Tonight” の語尾とかすごくいいですよね) 。
 対して、白銀リリィの声は (歌詞が歌詞なので)決然とした・凛々しい声になっています。ここで、CDブックレットに記載されている “Vocal Contracted by 市川洋介(onetrap)” のクレジットに注目しましょう。これは『アイカツ!』期からずっと onetrap 関連楽曲に付されているクレジットなのですが、 これに関して onetrap の代表取締役である小林健が説明を加えています。

“onetrap には、vocal contractor(ボーカル・コントラクター) というボーカルレコーディング専門の職人的なディレクターが数名いて、彼らが AIKATSU☆STARS! のメンバーの方たちと直接やりとりをし、より質にこだわった歌を録らせてもらっています。” 

onetrap代表取締役小林健インタビュー アニメディア2016年10月号 38p


『アイカツ(スターズ)!』の onetrap 関連楽曲では “Vocal Contracted by 市川洋介(onetrap) / Directed & Organized by 小林健 (onetrap)” のクレジットが一貫して刻印されているのですが、その手腕の見事さは『永遠の灯』で初めて藤堂ユリカ役を担当したれみさんにユリカ様を憑依させた実績だけでも明瞭でしょう(ちなみに『永遠の灯』と『Dreaming bird』は「初めてのキャラクター歌唱担当楽曲である」「初めての作詞家が参加する」という点が共通しています) 。
 白銀リリィ歌唱担当としてのななせさんの千両役者ぶりがこれまた素晴らしいのですが、ここでもやはり vocal contractor の手腕が発揮されていると見るべきでしょう。本稿をお読みの方には声フェチの方も多いと思うので書きますが、 “すべての傷を癒す” の “を” の語尾から “やす” に至るまでの声の震わせ方とか、 2番での“もう一度見たい” の “ど” の瞬発力とかはもう聴くたびに悶絶しますね。


Pt.2 南田健吾讃


『アイカツ!』において初めて南田健吾の名前が出てくるのはもちろん『永遠の灯』ですが、この曲の編曲は Integral Clover が担当していて、本人による編曲ではありません。作曲家としての南田健吾の天才は『Dreaming bird』を聴いただけでうんざりするくらい実感していると思いますが、ここでは編曲家としての南田健吾の手腕を見ていきたいと思っています。

『アイカツ!』における「ロック」なるもの


 ちょっと話が飛びますが、『アイカツ!』において「ロック」なるものの扱われ方は少なからずイビツなものがあったと思うのです。たとえば『Hey! little girl』。この曲自体はロカビリーとして実に精緻に作られているのですが、まず最初に「ご......50年代!?」という印象があったのですね。もちろん『アイカツ!』は多様なジャンルが徹底して作り込まれているので、「ロック」とあらばそのルーツである50年代あたりのロカビリーを掘り下げるのはとても正しいのですが、しかし Swing Rock ブランド使用者である音城セイラ(クラシックの素養があって絶対音感というスティーヴ・ヴァイ的存在) や服部ユウ(金髪で片耳ピアス)といった先鋭的なキャラクターにそのイメージが合うかというと諾いがたいものがあったのでは。歌詞は「ルーツを掘り下げる」イズムにふさわしいおばあちゃん絡みの内容になっているので、本編では天羽まどか関連のエピソードで使われると思っていたのですが、本編のパフォーマンスで大空あかりの隣にいたのはあかりジェネレーションで一番「親」の描写が薄い氷上スミレだった*2-1 という、どうにも噛み合っていないものだった。にもかかわらず木村隆一監督が『Hey! little girl』を「お気に入りの曲」として挙げていたりして、少なからず『アイカツ!』と「ロック」なるものの描写には息苦しさが感じられていたのです。
 もし『アイカツ!』の Swing Rock アイドルたちのイメージに沿う方向性があるとしたら、やはり90-00年代、とくに 93年頃のカナディアンロック *2-2 のような洗練されたロックだったと思うのです。そして本編放送が終わるまでにそういう楽曲が出てきたかというと......『Sweet Sp!ce』もかっこいい曲ではあったのですが、一番の聴きどころがベースのチョッパーであるという、「ベース、ベースかあ......セイラちゃんはギタリストなんだけど、ギターリフがかっこいい曲とかじゃないのか......」という困惑のほうが先に立ってしまうもので、最後まで『アイカツ!』における「ロック」なるものの扱われ方は風通しがよくなかったと思うのです。


編曲家:南田健吾の方途

 ここで南田健吾の編曲による『1, 2, Sing for You!』を聴きますが、この曲は実に洗練されたロックになっていると思います。 “エモーショナルロックな(桜庭)ローラの曲” *2-3 と onetrap 代表の小林健が明言しているように、 Harem Scarem 的な90年代以降のバンドサウンドになっている (イントロのギターのブラッシングが『Change Comes Around』なのもグッときますね)。


 ロック関連でもう一曲。『Miracle Force Magic』の編曲も南田健吾ですが、この楽曲に関しても小林健のコメンタリーがあります。“ロックにしすぎず、本作全体のカラーに合うように作り込みました”*2-3 。「ロックにしすぎず」という証言は重要だと思います。この曲はS4がドラマの中で演じるバンドという設定があるので、ナナシスの4U *2-4 や QoP *2-5 のような実際に活動するガールズバンドの曲としては作られていないということですね。ひとつのバンドとしての個性を期待すると多少物足りないところもありますが、設定を考えるとこれ以外にはないだろうという編曲になっていると思います。

 続いて『Dancing Days』を聴きますが、こちらは00年以降のバンドサウンド、とくに Kasabian を感じさせる曲になっていますね。このリフ、バリトンギターかリッケンバッカーのベースで弾くと最高に気持ちいいと思いますよ。曲も短調→長調のオーソドックスな転調のしかたをするので、楽器を買って最初に耳コピする楽曲としてもうってつけだと思います。

西暦2023年12月26日に付された註:
 上記の Kasabian フォロワーとして見做せるのは2019年あたりの King Gnu であり、とくに『Club Foot』の本歌取をやってみせたのが『Sympa』収録の『Slumberland』である。

 なぜ90年代以降のバンドサウンドが重要かというと、ファンクやヒップホップの文脈をちゃんと継いでいるからなんですね。ストーン・ローゼズは89年にジェームズ・ブラウンをサンプリングしたシングルを出していましたし、「90年代の主役はオーディエンスだ」というジョン・スクワイアの名言 *2-6 もあります。『アイカツ!』ではダンスミュージックやEDMのジャンルで傑出した曲がたくさんあったのにもかかわらずロックではイマイチだったのは、この90-00年代サウンドへの意識の欠如があったのではないかと思っています。「ルーツ」を意識するあまりに90-00年代に起こっていたダンス、クラブ、ヒップホップとロックとを繋ぐ結節点が見えていなかったのではないかと。そして、『アイカツスターズ!』においてその「ロック」なるものからの脱却は南田健吾の編曲によって少しずつ果たされてきていると思います。だからこそ私は編曲家としての彼の凄腕を今ここで強調したいですね。


「ギタリスト出身の作編曲家」


agehasprings – onetrap 南田健吾
 南田健吾はギタリストとしてキャリアをスタートしている人です。ここで「ギタリスト出身の作編曲家」ということについて大雑把に取り上げたいのです。もちろん職業作曲家ではギターも弾ければ鍵盤も弾けるのが普通なのですが、ギターの指板とキーボードの鍵盤では和音のボイシングなどの捉え方が大きく異なるので、ここから「ギタリスト出身の作編曲家」のいくつかの特色などを見ようとするのは可能だと思います。
 たとえば『Take Me Higher』『未来トランジット』永谷たかおはご存知 SURFACE のギタリストとしてデビューした方です。もちろん『笑顔のSuncatcher』のようなダンスミュージックもあるのですが、『未来トランジット』ではギタリストとしての演奏の見事さが発揮されていましたね。

『チュチュ・バレリーナ』作曲の石原理酉はギターボーカルや弾き語りで活動していた方らしく、ミシシッピー州でライブをしていたのだとか(この経歴めっちゃ気になる)。『チュチュ・バレリーナ』はト長調(G Major)の曲で、レギュラーチューニングのギターで最も弾きやすい調のなかの一つです(『未来トランジット』もこの調です)。
 ギタリストならではの調の選び方、というのもあると思います。『永遠の灯』は変ホ短調(E♭ minor)で、フラットが6つも付いている黒鍵だらけの調なので、鍵盤のうえで作曲するときはあまり使わないんじゃないでしょうか (私は鍵盤弾けないので勘で言ってるんですが) 。ギターでこの調を弾くのは簡単です。チューニングを半音下げればいいだけなので。現にスレイヤーの代表曲はだいたいこの調です (彼ら基本半音下げなので)。

『永遠の灯』のなかで最も印象的なのは、サビ前の “君が望むなら”の “ら” でなだらかに全音上がるパートですが、ここにもギタリストらしさが出ていると思います。なぜかというとこのマイナースケールの四度から五度になだらかに上がる(チョークする)音というのは、ギターでアドリブを弾くときの定番フレーズだからです。全音上がるところで微分音 (12刻みの半音で構成される鍵盤に含まれない音)を経過するので、よりギタリストっぽい耳の良さが発揮されたボーカルディレクションと言えるのではないでしょうか。
 いろいろ見てきましたが、先述のバンドサウンドへの意識の確かさと編曲の鋭さを筋道立てるには、「ギタリスト出身の作編曲家」としての南田健吾という見方はある程度有効だと思います。彼の『アイカツスターズ!』における仕事はこれからも様々な達成を残していくのだと思います。みんな南田健吾先生を応援しよう!


*2-1......「親」の描写が薄い氷上スミレ
 他のあかりジェネレーションの主要キャラクター(大空あかり、新条ひなき、紅林珠璃)には両親の存在が示されていて声優もついていてエピソードにも少なからず絡んでいるのにもかかわらず、氷上スミレだけはなぜか母親の顔が映されることがなく、父親にいたっては存在すらまったく示されていない。姉である氷上あずさが親代わりのような役割を果たしているが、『アイカツ!』全シリーズを通してもこの描写は異様である(『アイカツ!』で「親」の存在が示される場合、父母セットでの存在が示されるのが通常だが、この例に漏れるのは氷上スミレと母が離島で医者として働いている冴草きいの2名のみである)。
 そのために氷上スミレが『Hey! little girl』を歌っているのを見るとなんともいえないむずかゆさがあるのだが、逆に歳下の黒沢凛を引っ張ってゆく『チュチュ・バレリーナ』や孤高なる支配者の風格を示す『いばらの女王』のステージはこの上なくハマるのである。

*2-2......93年頃のカナディアンロック
 1993年は Harem Scarem の『Mood Swings』以外にも Rush が『Counterparts』を、Annihilator が『Set the World on Fire』を発表している。これらのアルバムは80年代を経て各楽器の奏法やエンジニアリングが出揃ってきたあとでの充実したサウンドを聴くことができ、この年を重要視したい。
 完全に蛇足だが、Annihilator の『Sounds Good to Me』は長らく筆者の音城セイラテーマソングとして設定されていた。

*2-3......onetrap代表取締役小林健インタビュー
 アニメディア2016年10月号 38P

*2-4......4U
『Tokyo 7th シスターズ』に登場するガールズバンド。九条ウメ(Gt, Vo)、鰐淵エモコ(Ba)、佐伯ヒナ(Dr)の三人からなる。お互いを想いやっているにもかかわらず絶えず憎まれ口を叩いてしまうウメとエモコの関係性はジンジャー・ベイカーとジャック・ブルースのそれを思わせ、「ギスギスした3Pバンド」萌えの皆様におかれましては絶対にチェックしていただきたい。

*2-5......The QUEEN of PURPLE
『Tokyo 7th シスターズ』に登場するガールズバンド。越前ムラサキ(Vo)、瀬戸ファーブ(Ba)、堺屋ユメノ(Gt)、三森マツリ(Dr)の四人からなる。ONE OK ROCK 的なエモさがある楽曲『Fire and Rose』も素晴らしいが、 Soundgarden の『Outshined』を倍速再生したかのようなリフを持つ『TRIGGER』は例えようもなくカッコいい。ベーシストが作詞作曲をしていてベースの音がでかいというバンドなので Iron Maiden のファンの皆さまにもチェックをお願いしたい。

*2-6......「90年代の主役はオーディエンスだ」というジョン・スクワイアの名言
 それなりに高名な発言でありいかにもローゼズっぽい言葉ではあるのだが、本人は言った憶えがないらしい。


Pt.3 書物は人を発狂させる


 さて前半、我々は『Dreaming bird』のなかで声を嗄らしている「彼女」の姿に一瞬立ち会ったわけですが、ここで『アイカツ!』と『アイカツスターズ!』における本をめぐる描写、その対比から話を進めていこうと思います。「彼女」の姿をとらえなおすにはその方法以外にないと思われるからです。


本をめぐる描写、その対比


『アイカツ!』第5話ではいちごちゃんがウォーキングレッスンの道具として本を頭に乗せて転ぶ描写がありますね。これは私がはっきり「やだなあ」と言える数少ない『アイカツ!』内の描写なのですが、しかしよく考えると奇妙ですよね。「ネット情報に頼りすぎるのはよくない(第7話)」「時間を守らないのはよくない(第15話)」と教訓的なメッセージを早くから発信していた『アイカツ!』が、「本を粗末にするのはよくない」と言うことはなかったんです。加えて霧矢あおい、作中で最も知性的で読み書きにも通じていそうな彼女でさえ本をめぐる描写は薄かったわけです (雑誌は多かったけど)。アイドル史に通じている彼女なのだから、きっといつか一冊の本をものする展開があるだろうと思っていたのですが、霧矢あおいが創造性を発揮する場は学園での講義(第29話)やMV撮影の現場(第90話)、言うなれば「この業界でうまくやっていくためのスキル」に集中していました。私はここに『アイカツ!』における「読み・書く」描写の奇妙な欠落、というものを見たいように思います。この話をしたからには藤堂ユリカと持田ちまきとの関係についても言及しなければならないですが、それは後に白銀リリィ絡みの文脈でふれることになると思うので一旦置いておきます。
 では『アイカツスターズ!』。第2話でウォーキングレッスンの描写がありますが、ここで彼女らの頭に乗っていたのはペットボトルでしたね。本ではない。ここでまず「あれっ、これは」と思うわけですが、『スターズ!』は書物をめぐる描写がじつに繊細になされていると思います。第6話では書店で立ち読みしながらメモを取るゆめちゃんたちが周囲から白い目で見られる描写と、メモなどせずちゃんと本を購入して帰っているすばるくんとの対比でプロとしての意識の差が描き分けられていましたし、何より彼女たちは切羽詰まった状態になるとまず図書館で資料にあたるのですね (第23話・第25話・第27話)。まだ親しくなかったゆめとローラを通じあわせたのも図書館内の描写でしたし(第2話)、ローラは自分で注釈を書いた楽譜をゆめに渡してもいたのでした。『スターズ!』では読み書くことが即ち人間の描写にかかわっている。その決定版とも言えるのが『So Beautiful Story』のステージの......、と喋りすぎました。本をめぐる描写について、いかがでしょうか。

<文学者>白銀リリィ


 さて、<文学者>白銀リリィについてです。私は彼女のことを<文学者>と呼ぶことをためらわないようにしようと思います。こういうことを言うと「女児向けアニメに文学とかあんた」と言われると思うのですが、文学をそういうサロンに囲われた高尚っぽいものとしてしか考えたがらない退屈な人たちのことはどうでもいいです。私から言わせりゃ田植えや裁縫や料理だって文学です。それは置いとくとして、この一枚絵を見てみましょう。アニメディア11月号に収録されていた、白銀リリィと二階堂ゆずのピンナップです。

 このピンナップは本編第27話の場面と呼応しています。白銀リリィが一冊の本との出会いを機にオリジナルブランドを持ちたいと願うようになった「運命」のシーン (「運命」とは私が勝手に言っていることではないですよ、白銀リリィのセリフに出てくることです) 。リリィが読書家であることは初登場の第19話の本棚で暗に示されていましたが、重要なのはこの「運命」の一冊は二階堂ゆずを介して白銀リリィに届けられた、ということですね。

“ゆずの気まぐれか、それとも狙いか、ゆずは私に一冊の本を贈ってくれたのです”
“ゆずがこの本を持ってこなければ、今の私は存在しない。そう、あれは紛れもなく、運命”

 たとえば「病弱だったので一人で本を読んでいたら運命の一冊に出会いました」みたいな話はわかりやすいですよね。でも白銀リリィの「運命」の一冊との出会いには二階堂ゆずが関わっていた。リリィと違って快活なダンサーである二階堂ゆずが本を持ってきたというのは意外な気もしますが、しかし驚くべきことではないのかもしれません。だって、ヒップホップって古典文献学でしょう? どこで生まれたのかもどこで忘れ去られていたのかもわからない記録物を丁寧に分析し、複写し、注釈を加え、裁断し、撓め、再編集することで新しいものを思いがけず産む、言葉と言葉との遭遇を媒介する、そういう仕事場です。だからB-BOY *3-1 側の文化圏に属する二階堂ゆずが白銀リリィの「運命」の一冊との出会いを手伝った、ということには脈絡がついてるのではないでしょうか。とするとこのピンナップは、一冊の本を届けた者とそれを手にとって読む者との幸福な関係「だけ」が描かれている......ように見えます。

セルバンテス、シェイクスピア、白銀リリィ


 しかし、ここまで話した以上はドン・キホーテについて言及しなければなりません。「書物は人を発狂させる」ということについてです。
 前著の「薄紅デイトリッパー=ドン・キホーテ」論で詳しく書いたのでここでは簡略にしますが、『ドン・キホーテ』は騎士道物語を読みすぎて頭がおかしくなってしまったおじさんの物語です。アロンソ・キハーノという名前のおじさんでしかない人が、自分のことを遍歴の騎士だと思い込んでドン・キホーテとか名乗り始めてしまった。本を読んだせいで。

“郷士は騎士道物語にどっぷりつかり、来る日も来る日も、夜は日が暮れてから明け方まで、昼は夜明けから暗くなるまで読みふけったので、睡眠不足と読書三昧がたたって脳味噌がからからに干からび、ついには正気を失ってしまったのである”

 さて、第27話の終わりで白銀リリィはセルバンテスの引用をしていましたね。道に迷っていた虹野ゆめへのアドバイスという文脈です。白銀リリィが引用スキル持ちであることは第23話からすでに示されていましたが、同時に弁舌スキル持ちであることも印象的に示されていました。二階堂ゆずのステージにサプライズ参加した際、シェイクスピアのソネット98を自らのヴァースとして引用していた *3-2 。ヴァース(verse)とは歌手が曲に入る前の序奏部分(前口上)のことですが、もちろんヒップホップではMCが受け持った歌詞のひとまとまりを指します。引用スキルはトラックメイキングにしてもリリックを書くにしても必須のスキルであり、先ほど言及した「ヒップホップ=古典文献学」の件とも直接響き合っていることもおわかりいただけるでしょう。白銀リリィは引用・弁舌・歌すべてを含めた言葉の技巧の使い手です。だから私は<文学者>と呼んでいます。
 騎士という見てくれなので忘れがちなのですが、ドン・キホーテも言葉の使い手です。そりゃそうですよ、本を読みまくっていたわけですからね。『ドン・キホーテ』前篇の第49章では、史実と虚構をごたまぜにしながら騎士道物語の素晴らしさを説いて聖堂参事会員を絶句させる名場面があります。彼はそういう雄弁さで戦う人である、のだけど、発狂している。自分のことを騎士だと思い込んで自前でこしらえた鎧なんか着込んでいる。そんな姿を見た聖堂参事会員は「どうしてこう読み書きのできるひとが騎士道物語のコスプレなんか?」と困惑するわけです。なぜアロンソ・キハーノは発狂してドン・キホーテになってしまったのか。もちろん、本を読んでしまったからです。さて<文学者>白銀リリィ。彼女は二階堂ゆずの導きによって「運命」の一冊に出会ったのでした。セリフを引用します、 “身体全体に稲妻が走り、心をわしづかみにされました” 。その「運命」の一冊に出会った白銀リリィはどういう行動に出たか。彼女の部屋のなかに、本棚以外で目立つものがあります。ドレスですね。自身の髪のコサージュもそうですが、白銀リリィはあの本に出会ったことによって衣装づくりを始めた、つまり本の中の姿に近づけるように自分の手で自分自身を書き換えていった。もうお気付きだと思うんですが、これアロンソ・キハーノが発狂してドン・キホーテになっていったのとまったく同じプロセスなんですよ。



 本を読むことで、言葉に向き合うことで狂ってしまった人は自らの手で自らの姿を書き換えます。「狂王」ルートヴィヒ二世がローエングリンに憧れるあまりにノイシュヴァンシュタイン城に住んじゃったことなどを思い出すまでもないでしょう。『スタートライン!』の歌詞「夢は見るものじゃない 叶えるものだよ」から直接連想される『ロッキー・ホラー・ショー』の『Don’t Dream It, Be It』の歌詞を読んでみましょう、 “フェイ・レイはいまどこに? / あの繊細なサテンの肢体 / 太腿に巻きつくドレスのあで姿 / 私がどんなに泣いたことか / 彼女と同じ衣装で着飾りたかった” 。『ロッキー・ホラー・ショー』が『キンプリ』に代表される所謂「おうえん上映」の元祖であることについては省略しますが、そこにコスチュームプレイ、つまり自分の手で自分自身を書き換えることが関わっていたことを見逃すべきではないでしょう。

『アイカツスターズ!』の博徒たち


 その通りです。ここで、『スターズ!』において 「ドレスメイク」の要素がいかに重い意味を持っているかが明瞭となります。プレミアムドレスはS4しか所持することが許されない世界なので、彼女らは自分の札を選んで作っていかなければならなくなる。そして「デザイナー」は存在しないから、その札を切った勝敗の結果もすべて自分の一つ身で引き受けなければならなくなる。「自分はこれだけ努力をした→それをデザイナーさんが認めてくれた→そのおかげでプレミアムドレスを着られた→だから良いステージができた」という『アイカツ!』の定式が原理的に成立しない状態での戦いです。デザイナーの創意工夫が詰まったドレスのショーケースではなく、自分自身でこしらえたカードの切り合いです。まさに「賭場」ですよ、第29話でゆめに勝つ方法が見出せないローラがそれでもまた別の賭け方に向き合っていたように。だから「ドレスメイク」とは「賭け」のための札を作ることであり、そのためには自分で自分自身を書き換えることが必要になるのだから、ドン・キホーテ的な狂気を免れることができない、というヒリつくような賭場=四ツ星学園のありさまが「ドレスメイク」の要素ひとつだけで示されちゃってる、と思うんです。

 さて、二階堂=白銀のピンナップに戻ります。本を届けてくれた存在が隣に座っていて、読むことを一緒に歓んでいて、まあなんと愛に満ち溢れた絵なんでしょうか。しかし奇妙なことにもなります。リリィはこの運命的な一冊の本のために生き方を決定的に変えられてしまったわけで、ドン・キホーテ流に言えば “完全に正気を失ってしまった” わけですから、彼女にとって本を読むことはたんに楽しいだけではない、自分の生き死にに関わることになる。では二階堂ゆずは、この本が白銀リリィの正気を失わせてしまうのかもしれないと知っていたのだとしたら、どうしてこの本をリリィに届けたのでしょうか、知らなかったのだとしてもどうして届けたのでしょうか。わかりません。本編でも明言されてはいませんから。しかしこの関係性、一人の人間を狂わせるかもしれない言葉が詰まった本を届ける側・届けられる側の関係性をこんなにも穏やかに楽しげに描けているこのピンナップひとつとっても、『アイカツスターズ!』は読み・書くことについて極限まで誠実に考え抜かれた作品であることを確信するんです。そして読み・書くことと衣装を作ること・弁舌をかますこと・歌うことなどが別のことだと考えられていない。だから私は白銀リリィのことを<文学者>と呼ぶしかないのです。
 世の中には「おれはこんなに多くのことを知っているんだぞこんなに多くの本を読んでいるんだぞすごいだろ頭の良いおれを見ろ」とアピールせずにはいられない人たちがいますが、そういう人たちと白銀リリィのような<文学者>をはっきりと区別しなければならない。そう思います。『Dreaming bird』の詞と歌がここまでの圧をもって迫ってくるのは<文学者>としての彼女のハーコーっぷりにこそ所以があるのですから。


藤堂=持田/二階堂=白銀


 はい。藤堂=持田の話です。吸血鬼漫画やファンタジーの本の影響で吸血鬼の末裔を自称するようになった(第19話)というドン・キホーテ的経歴の持ち主である藤堂ユリカが、「どうすればあなたのように強くなれますか」とファンである持田ちまきから問い掛けられた (第89話)。
 もし藤堂ユリカが白銀リリィと同じようにドン・キホーテだったとしたら、おそらく「これらの(強さに憧れていた頃の自分をして吸血鬼の末裔を自称させるに至らしめた) 本たちを読みなさい」と回答していたでしょう。藤堂ユリカは本を読むことによって吸血鬼アイドルになったと自分で言っているのですから。しかし彼女の回答は「すこしだけ自分を変えてみるの」「いつもより10分早起きしてみるとか」等、実にプロフェッショナルなアドバイスの数々、おそらくは自分が吸血鬼アイドルとして活動してきたうえでの心がけを彼女に話すことで「あこがれていた自分に会えるから、やってみて」と諭したのでした。おわかりですね。本が消えています。持田ちまきは自分が愛読している本をユリカも知っていたことから対話の入り口に立てたのに、そして吸血鬼アイドル藤堂ユリカは愛読していた本たちによって生まれたはずなのに、その両者のあいだで渡されたバトンにはそれ (変身の動機となった本)が完全に省略されている。
 だから、結論はこうなります。「ここで発狂は免れた」と。藤堂=持田と二階堂=白銀との関係性は別のものであると。後者は白銀リリィをドン・キホーテ化せしめる運命の本を運んできた二階堂ですが、前者は自分のようになりたいと望む持田ちまきに対してドン・キホーテ的変身の狂気が削除された内容のアドバイスを渡した藤堂、という関係です。先ほど書いた「自分の手で自分自身を書き換える」ことにまつわる「ドレスメイク」と、あらかじめ誰かが造形してくれた美しいスタイルを着るということ、この二つはまったく別のことです。言わば後者では前者にあった信管が抜かれている。その作業を担っていたのがデザイナー (ユリカがちまきへの回答を考えるにあたって夢小路魔夜のアドバイスが介在していたことを思い出しましょう) 、自分の手で自分自身を書き換えるドン・キホーテ的狂気を削除するためのポジションとしてデザイナーが必要とされたのではないか、と思うのです。ユリカはちまきの質問に回答するために「ちまきのアイドル」ではなく「ちまきのデザイナー」になる必要があった。自分が本に導かれてドン・キホーテ的変身をしたのとは別の方法で、「ユリカのプロフェッショナル」をデザインしたうえで持田ちまきに着せてあげる必要があった。これは『アイカツ!』と『アイカツスターズ!』両作品の質的な差異に直接かかわっていると思うのです。もちろんどっちが良いとか悪いとかいう話ではありません。加藤陽一が言っているとおり、 “皆で一緒に笑いながら身近な幸せを改めて感じ、明日を信じる力、未来への夢を持てる作品” *3-3 の企画書を書く必要に直面したのが『アイカツ!』なのですから、その作品で「読み書くことの狂気」とかをやられても困るわけです。『アイカツ!』は『アイカツ!』でできることをした。その一方で、2016年においてまた別の戦い方に真っ向から取り組んでいるのが『アイカツスターズ!』であることを忘れてはならないと思うんです。

“「変身」への願い” は重要です。藤堂ユリカの吸血鬼への変身もそれに力づけられるままに行われたのでしょうから。ただユリカの「変身」とちまきの「変身」とのちがいを考える場合、ユリカのそれは眼前に血肉を得て存在していないもの (書物の中の登場人物)へと自分を近づけたということになります(リリィ・キハーノと同じく) 。一方でちまきの「変身」への願いを考えた場合、眼前に血肉を得て存在している吸血鬼アイドル (ユリカ様)から自分をデザインする直接のアドバイスを受けたということで、やはり「書物」という信管が抜かれている。誰かが美しくデザインしてくれたドレスを責任を持って着ること・自分の手で自分を書き換えて博打に出ること、このふたつの間にこそ『アイカツ!』と『スターズ!』の「ドレス」と「変身」をめぐる意味の違いがあるのでしょう。
 なので、「『アイカツ!』にはデザイナーがいたからプロフェッショナルが描けていたけど『スターズ!』にはデザイナーがいないからプロフェッショナルが伝わってこなくて」云々と言ってる人は、残念ながらそこを読み落としてるとしか言いようがないんです。『アイカツ!』ではデザイナーという自分の代わりに美しいスタイルを造形してくれる立場の人がいたから発狂の危機は免れていた。しかし『スターズ!』では自分と自分のなりたいものとの間を隔てる壁を自分の手で蒸発させる過程を経るのだから、必然的にドン・キホーテ的な狂気と向き合わざるを得なくなる、だから虹野ゆめも桜庭ローラも白銀リリィもあれほどまでにズタボロになりながらそれでも次の賭けに戻ってくる。『アイカツスターズ!』ってそういう博徒たちの物語だと思うのです。


*3-1......[用語]B-BOY
 女性にBOYってどういうことよと思われるかもしれないが、筆者はB-BOYという言葉を「ブレイクダンスやブレイクビーツを愛してクラブでぶらぶらしてるトライブ」一般として認識しており、とくに性別に関してはこだわっていない。もちろん COMA-CHIの『B-GIRLイズム』のカバー等を否定するつもりは毛頭ないが、そもそもB-BOYと呼ばれている男どもだってBOYという年齢ではないのだし、その辺はルーズにしていったほうがむしろいいのではないかと思っている。

*3-2......
 余談ながら、シェイクスピアのソネット97-98-99は四季、小鳥、白百合、歌などのモチーフが共通して登場し、とくに97は「でもこの離れている間は夏の季節であったのだ」「夏とその快楽は君の従者であって / 君がいないと小鳥さえ鳴かないのだ」と、要するに「あなたなしで過ごす夏は冬よりも暗いよ凍えちゃうよ」という情念がほとばしっており、実質的に第19話時点でのゆずからリリィ宛に送られた恋文なのではという内容にも取れる。この二人のカップリングがお好きならぜひチェックしてほしい。

 西脇順三郎の訳によるソネット98は以下のとおり。

「君と離れていたのは春の季節であった
 輝く色彩(いろどり)の四月は着飾って
 すべてのものに青春の魂を吹き込んだ
 憂鬱な農神サトゥルヌスでも青春に笑い踊った。
 だが小鳥が歌っても香りや色の
 違ったいろいろの花が薫っても
 私には夏の物語が出来なかったろう
 また輝く花壇で咲く花も摘めなかったろう。
 百合の白さにも驚かなかった
 薔薇のあの深い紅(べに)も賞められなかった
 花は美しいだけでみな君に習った
 歓喜の姿にすぎなく君はすべての花の模様なのだ。
 君がいないと春も冬に見え
 花は君の影だと思って花に戯れた。」

 当然リリィはこの素材から自分の弁舌を撃つための文句に加工しているのであり、その再編集(サンプリング素材の調やテンポを変えエフェクトを加えるように、再翻訳し韻を構成し詞[verse]にすること)の技巧こそが引用において問われるものであることは本論で述べたとおりである。
 第23話での当該シーンのセリフは以下のとおり。

「鳥が笑い、花々が咲き、サターンでさえ浮かれて踊り出しても、まだ何かが足りない。
 そう、そこに歌がなければ、人は愛を知らないままなのです」

 要するに、「ここには歌が足りておらずあなたがたは愛を知らないので、私の歌でそれを教えてさしあげよう」と宣言しているのである。なんというかましっぷりだろう。ここでの彼女はほとんどトゥパック・アマル・シャクールだ。アフロアメリカン藝術とシェイクスピア演劇との親和性については、本対談が収録された頃にはまだ発売されていなかった丸屋九兵衛氏の著書をご参照いただきたい。

*3-3......
『アイカツ! オフィシャルコンプリートブック(学研パブリッシング)』130-131P


Pt.4 誰でもない者の薔薇


『アイカツスターズ!』の光学

 以前、「『アイカツスターズ!』は『アイカツ!』とは別の光学でできている」と書いたことがあります。一番表層的なことでは、S4の姿を写すときに頻繁に顔が消えたシルエットが現れますよね。
 さらに、白銀リリィの設定が公開されたときのことを思い出しましょう。「幹部生」であり「S4に一番近い存在」であり「ゆずの親友」であるという、あまりにも多い情報量でパニックが起こっていたと思うのですが、これにはいくつかの理由があると思います。
 ひとつには「幹部生」という設定そのもの。第1話からなにか一般の学生とは別の服を着た学生が存在していることは示されていましたが、一般の学生とS4との間に「幹部生」という別の階級があると示されて、言わば自分が住んでいたアパートの階層がいきなり一階増えたかのような衝撃をもたらしたのだと思います。
 もう一つには、前シリーズのロリゴシック的なキャラクターが、よりにもよって二年生で唯一のS4である二階堂ゆずの親友だということ。クール属性とポップ属性というミスマッチも魅力的ですが、ここで二階堂ゆずと他のS4との年齢差、さらに同級生で親友でありながら学園内での階級が違う(幹部生とS4)という一種の歴史モノめいた関係性の妙が見出された、というのも大きいと思います。
 そして極めつけは、白銀リリィはそれまで学園の外にいたということですね。夏の終わりまで療養所にいたのだから、一年生達は彼女の存在すら知らなかった。そんな白銀リリィが帰ってきたわけですが......ここで考えなきゃけないのは、「学園という光学の中に照らし出されることがなければ、白銀リリィという存在は認識されることすらなかった」ということです。『So Beautiful Story』のステージは書庫のようになっています。そして “ページをめくるたびに新しいキミがいるね” の歌詞。『スターズ!』において人間の生き方と本とが直接結びついていることはすでに確認しました。

 とすると、四ツ星学園とは、本来知られずに在ることもできた人間の生き様を照らし出し・書き留め・所蔵していく書庫のような空間だということになる。私たちが白銀リリィ(どころか、四ツ星に在籍する学生すべて)のことを知ることができるのは学園という光学装置の効果でしかないということになります。本当は彼女らは誰にも知られることなく在ることもできたのに。しかし、それでも姿を現さずにいられなかったのだとしたら、それは光に照らし出されるところでの戦い以外の何かではなくなる。『アイカツ!』では “あこがれのSHINING LINE” は “ありがとうの生まれる光” であり “大好きなすべてに「ありがとう」” だったわけですが、『Dreaming bird』ではもはや「すべて」は歌われていない。 “すべての傷を癒す女神にはなれなくても” 、彼女には学園の光学に身を曝す必要があった、それでも歌わなければならない歌があった、ということになります。

“Now I’m here”・“Now I’m there”

 だしぬけですが、 Queen の『Now I’m Here』のライブ映像を見てみましょう。真っ暗闇にフレディ・マーキュリーの “Now I’m here”・“Now I’m there” の声が響きますが、その姿は絶えず光から逃れてゆく。ステージ全体が照らし出されたぞと思ったら、歌うだけ歌ったあとは再び暗闇の中に姿をくらましてしまう。

西暦2023年12月26日に付された註:
 もちろん本対談は、あの、タイトルを出すことさえ憚られる故人冒涜映画が公開される数年前に収録されたものである。いちいちこんな註を付さねばならないこと自体が腹立たしい限りだ。

 なぜここで Queen が出てくるのかといえば、(MJとプリンスとボウイを除けば)フレディ・マーキュリーほど光に身を曝すことの意味を理解できていた人はいなかったからです。ここから光学装置に対する「戦略」を考えることもできると思います。突飛な私生活だのスキャンダラスなエピソードだのを曝せばいいというわけではありません。照らし出されてしまう、記録されてしまう、知られてしまうけれども、しかしそこからしか始められないもの・届けられないものがあるということです。何度も言うように、何もかも曝して「自分語り」をすればいいというわけではありませんよ。家族関係のトラウマがどうだの性体験を経てなんだのという「自分語り」を記した本はそこらじゅうで売られているのですから。しかしそこに「戦略」はあるか。わざわざ暗闇から身を乗り出してまで届けなければならなかった歌はあるか。 無い。『Dreaming bird』の「彼女」は “折れた翼見つめても元にはもう戻らない” と言います。自分に傷があることを認識できているわけですね。じゃあ「彼女」は昨今はやりの「自分はこれだけ傷ついているんだ」スタイルで言葉を書いているでしょうか。違いますね。この曲で執拗に歌われる “あなた” への執着は一度聴いただけで明白です。本来なら誰にも知られることのなかった、 “誰にも届かず行き場をなくしていた” 誰かの歌が、偶然のような光学との遭遇によって、 私たちのもとに届けられている。いま実際にこうして。


きっと誰かがのちに楽譜(スコア)に起こすさ

 もうひとつ。去年に出た RHYMESTER の楽曲『フットステップス・イン・ザ・ダーク』には “光に飲み込まれちまう前に闇を(駆け抜けろ)” というリリックがあるのですが、初めて聴いたときに 「ふつうなら “おれがこの暗闇を照らしていくぜ” 的なリリックになるんじゃないの? “光に飲み込まれちまう前に” ってどういうこと?」と思ったんです。でも『アイカツスターズ!』をみているうちにだんだんわかってきたんですね。これは誰にも知られるはずのなかった人間の生き様が、偶然に光と遭遇したことによって届けられてしまうことにまつわる詞なんだと。『フットステップス・イン・ザ・ダーク』には “その足跡こそが奇跡(ミラクル) きっと誰かがのちに楽譜(スコア)に起こすさ” というリリックもあります。書き残されなければ、楽譜に起こされなければ、『Dreaming bird』で言うところの「彼女」らの足跡は誰にも届かず消えていたことになります。私たちはいつまでもそれを一方的に届けられる、よくても “スコアに起こす” 側にいることしかできない。
 だから、届けられた言葉(本でも歌でも)を読んだり聴いたりできることを自明のことだと思ってはいけないのです。私たちはどうも、記録されたものにふれてしまえることを当たり前のことだと考えすぎている気がする。言葉に対する敬虔さが足りなすぎるのでは、と思うのです。言葉と言葉との遭遇を媒介する古典文献学者のような敬虔さが必要なのです。『Dreaming bird』の、誰でもない「彼女」の歌は、そのことを逆照射するように教えている気がする。「いや、これを作った人はそこまで考えてないから」とか「これは所詮キャラクターが歌っているものなんだから」とかいうくだらない気取りは一切不要です。どこにいたのかもわからない、実際に存在したかどうかもわからない「何者でもない」誰かの言葉を届けてしまえることにこそ歌の物凄さ・恐ろしさがあるのですから、文字通りに [literally]、文学的に[literary]、その言葉と向き合わなくてはなりません。

 だからこそ<文学者>なのですね。白銀リリィという名前は持っていますが、単一の人称に閉じるのではなくむしろ気圧の変化とか、あるいは電界か磁場など、人間ならざるものに見えます。かといって優しさや充足感がないわけでもありません。しかし、それは人称の世界に属するものではないのです。彼女の引用スキルはそんな非人称性を成すためのほんの一要素でしかないのでしょう。

届けられてしまったからには


 続けます。以前『Dreaming bird』の歌詞について “一度折られたところから始まる、限られた空間における単体でのゲリラ戦” という書き方をしましたが、これを書いたときに念頭にあったのは、背骨を折られて、精神病院に閉じ込められて、電気ショックをくらって心身ともに折られた後で結果的に書き残される文学のことでした。幽閉中に書き残した詩が結果的に残ってしまった人にしてもそうです。それらすべての<文学者>たちを指していま「彼女」と呼んでいます。肉体的に女性でなかったとかは全部どうでもいい。 “この手のひらに残されたもの” がペンであるとは限りません。映画『ハンガー』のように、自分の排泄物をさえ使って抵抗のために書(描)くのかもしれない。折られて閉じ込められた場所でそれでも言葉を受胎せずにはいられなかった無限の「彼女」たちがいた、し、これからもいつづけるということです。そこに書き残された傷痕のような言葉たちを読んでしまえる・聴いてしまえるということを、ほんとにもっとよく考えなきゃいけないと思う。『Dreaming bird』は、何者でもない誰かの歌は、そのことにまつわると思うのです。

 さあ、そろそろ終わりです。何者でもない誰かの言葉について話した以上は、この対談は私たちどちらの言葉でもなく、他の誰かの引用で終わるべきだと思います。白銀リリィならきっとそうするでしょう。私は少ししゃべりすぎました。〔対談者〕さん、なにか思いつきませんか。言葉を届ける側と届けられる側の、読み書き歌うことにまつわる言葉です。詩でも小説でもいいのです。なにかありませんか。


西暦2023年12月26日に付された後註:
↑と、私の振りに対談者が引用で答えたところで本記事は終わっている。
 おわかりの通り、本対談の後半で縷述されているのは、丹生谷貴志経由で見出されるミシェル・フーコーの理路をまんま引き写したものである。が、『未来トランジット』でのドゥルーズっぷりと比べて、こちらの方が比べ物にもならないほど格調高い。理由は簡単で、ニーチェの娘としてはフーコーのほうがドゥルーズなどより格段に優れているからだ。かつての私が『Dreaming bird』のために揃えた道具もさほど見当違いではなかったと言えるし、むしろ現在バルトだのバタイユだのを(公式のシナリオにしろ・オタクの深読みにしろ)こじつけて何かいっぱしのものをこさえた気になっている激痛案件などとは遠く隔たった品格を湛えることができた、その事実に安堵しよう。
 最も重要なのは、『アイカツスターズ!』が2年目において(当時の)我々の想像すらも及ばぬ飛躍を果たしたことにある。それを前にして辛うじて追いすがろうとする私の姿は、『荒野の奇跡』の分析稿にて克明に収められている。


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