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この幼形成熟の世紀に(フランチャイズ・自己啓発・アイカツ!) 2017/09/04(Mon)

西暦2022年7月30日に付された前註:
 .docxからnoteに直接コピー&ペーストするだけで本文内の各編集事項が直接反映されるということを今更知った。ここにアップロードされるのは、筆者が西暦2018年3月30日に電子書籍として無料頒布した「やばいくらい -『アイカツスターズ!』読解集成-」からの単体記事抜粋である。

西暦2022年8月28日に付されたさらなる前註:
 本記事はこの註に書かれている日付のさらに1ヶ月前にアップロードされたが、その後ただちに非公開となった。なぜか? 理由は単純にして明快だ。この記事の内容をそのままに公開した場合、筆者がラヴェイアンサタニズムを奉ずる映画批評家である高橋ヨシキを好意的に評価している、と受け取られかねないからだ。
 筆者は高橋ヨシキの主著である映画評論書を3冊(「愚かさを避けるための蔵書」というカテゴリで)所持しているし、氏の思想的支柱であるアントン・ラヴェイの『The Satanic Bible』に関しても5年以上前に原著で通読している。その結果として今の著者の手元に残っている知見といえば、「いわゆる『悪魔崇拝』こそが最も良心的かつ安全なキリスト教徒としての信仰表明に他ならない」というものだったし、ラヴェイの人間中心的サタニズムが多様性や創造性をもたらさないどころか(ピエール・ルジャンドルが指摘するところの)マネジメント原理主義とがっちり手を取り合って21世紀においても具体的に人間の生を破壊する奸策の片棒を担ぎうる(それも「宗教ではないフリをする宗教」という、徹底的にキリスト教的でしかない偽装によって!)ことなどは、いくらでも論理的に証明できる。
 よってここでは、西暦2017年当時の筆者はあくまで高橋ヨシキによる映画産業フランチャイズにおける病巣への洞察のみを有効と見ているのであり、氏の奉ずるサタニズムや、そもそも「秘宝系」映画人が今日に至るまで垂れ流してきた具体的害毒などについては一貫して批判的である、という註まで付しておかなければ不完全になってしまう。なんとも面倒なことだが、そもそも西暦2017年に書かれた本稿を再度アップロードすることは、「円環的な時間に閉鎖してしまったヤク中の人々にファンキーさを回復させるためのショック療法」をも意味している以上、致し方ない仕儀ではある。
 上述の事柄とあわせて、震災以降の日本国において爆発的に蔓延し始めた「自己啓発」に対する痛打も本稿の目的ではあるが、それについては後註に譲ろう。一言だけ付け加えるなら、「頼むから、アドラーどうこう言い出す前にまともな精神分析および精神医学についての書籍を(数冊でも、日本語訳のものでもいいから)読んでくれよ」としか言いようがない。本稿を西暦2022年の晩夏に再アップロードするに際して伴っているのは、ひとえに今月8日に亡くなられた中井久夫氏への哀悼の念のみである。


 大人になるとはどういうことでしょうか。
「いきなり何? 説教?」と思われたかもしれませんが、そういうわけでもありません。「女児向けアニメの曲なのにこんなにすごい!」とか「女児向けアニメでこんな難しいのやってわかるわけないでしょ」とかいう物言いはそこらじゅうに溢れていますが、そもそもこの2017年において「女児こども向け・大人向け」なるジャンル分類は既に融解してしまっているのが実際でしょう。これは『アイカツ!』が公式に深夜クラブイベントを主催していた*とか、スタッフら自ら酒を飲みながら劇場版にコメンタリーをつけるニコ生を主催していた* とか、そういった事象を根拠とするものではありません。「今じゃ通過儀礼も失われてみんな子供じみてきちゃったよね」みたいな加齢臭のきつい放談のネタにしたいわけではさらにありません。これは一旦脇に置いておきましょう。本稿はまず一つの率直な問いから始めることにします。大人になるとはどういうことでしょうか。

 余計な寄り道をするつもりはありませんので、ここでは「大人になること」を一直線に定義することにします。「誰かの所為で誰かになること、を子どもに伝達すること」。それを果たすことができる存在が「大人」とまず定義しましょう。これは私の創意で言っていることではなく、明確な元ネタがあります。このブログで度々取り上げられるタイプの本を読んでいる方は「ああ、あれだ」と予測がついているかもしれませんが、ついていなくても構いません。「誰かの所為で誰かになること」。『アイカツ(非スターズ)!』3年半のエピソード中には、この営為を明晰に描いた回があります。「ああ、みんなが SHINING LINE* と呼んでるやつね」違います。A!ep128『夢のショータイム』。この回こそが「誰かの所為で誰かになること、を子どもに伝達すること」を類稀なる手つきで描いた回であり、『アイカツ!』3年半のエピソードで最も偉大な回です。これについて書かなくては始まらないでしょう。

◎出産する二人(A!ep128『アイカツ!』3年半の中で最も偉大な点)

西暦2022年7月30日に付された註:
 このへんのくだりは退屈なので削除した。

 重要なのは、A!ep128におけるサニー・ジョニー・凛の三者の関係は、所謂『SHINING LINE*』の外に出ているということです。今となってはまったく正確な意味付けなしに濫用されるようになってしまったこの『SHINING LINE*』ですが、復習しておきましょう。これは『アイカツ!』A!ep1-101(含劇場版)において引かれた神崎-星宮-大空をめぐる関係であり、私は以前これを「目に視える神の死を必要とし、人-神から受け継がれた統治を人間が行う」という王権神授的な「物語」と要約しました。「いや、神崎美月も普通の女の子で神とかそういうのじゃないでしょ」と言いたくなる気持ちもわかりますし、私もそう考えることができたらどんなに良かったかと思うのですが、残念ながら「いちごにとっての最高の憧れだから『神』」* と加藤陽一が明言してしまっています。他の子たちと比べて神崎が「ものを食べる(=有機体・死すべき者mortal・人間である)」描写を極端に欠いていることもその裏付けとなります* 。私は神崎美月という(神の位置から格下げされることにより人間の統治が始まるという「物語」の端緒を担わされることになってしまった)存在について何ら誹謗を投げかけるつもりはありません。ただひとつ、『アイカツ(非スターズ)!』が自身の世界を定礎するために「目に視える神(one visible god)」とその没落を必要とした、非常にキリスト的な世界の説明を採用したことにはいくつか言いたいことがある、とだけ書いておきます*5。

 よって、私はこの『SHINING LINE*』なる概念を軽々に振り回す人々に対して強い警戒心を持っています。それは「私はスペイン王の末裔フェルジナンド八世だ」「私には私の天皇制があるのだ」と言ってしまうこととほぼ同義になるからです*6。自分にも誰かから受け取ったバトンがある、そういうあこがれの継承が描かれているから『アイカツ!』は尊いんだ、そう力説したい気持ちは痛いほどわかりますが、『SHINING LINE*』は厳密に読めば「目に視える神(one visible god)」とその没落を必要とする「物語」になるしかないことは先ほど確認したばかりです。「王権神授」や「万世一系」がふたつもみっつもあっては困るのです。このへんを混同したまま『SHINING LINE*』なる概念を褒めそやすと、パラノイアとまでは言わずとも、最終的に招きうるのは権力欲とべったり癒着した精神状態のみでしょう。現に放送終了後に「『アイカツ!』からバトンを受け取った」と主張する作り手たちが既に……という話の前に、まずは『アイカツ!』が全178話の体系を閉じたあとの話をしなければならないでしょう。そして2017年時点で全世界的に共有されている、フランチャイズの病についても。


◎手回しオルガンの歌(It ain’t funky.)


 2016年の冬コミで頒布された『MIW』という本があります。二次元アイドル作品の作曲・編曲・作詞家の仕事が一冊にまとめられたデータベース本で、とても実用的で優れた一冊なのですが、この本にはデータ以外にも数多の作品について寄稿されたコラム集があります。主催のシノハラユウキさんのお誘いで、私はレペゼン『アイカツ!』として「『アイカツ!』とファンク(『LOVEマシーン』から『カレンダーガール』へ、世紀末から2012年へ)」と題された原稿を寄せました。
 実は、この原稿は『アイカツ!』とファンクについて書くこと以外に別のテーマがありました。(本文中にはそのような文言は一切出てきませんが)「和声」を弁証法として/「ファンク」をその内側から食い破るものとして書いてみよう、具体的には「和声」をヘーゲル/「ファンク」をヘルダーリン・ニーチェ・ベケットらとして思考してみようという試みがこの原稿だったのです。「和声」が弁証法=ドミナントモーション、「ファンク」が中間休止casur=非円環的音楽として対置されているとバラしてしまえば、原稿を読まなくてもおおよその見当がつくと思います。
 そして、この原稿の試みは完全な失敗に終わりました。『アイカツ!』が「終わりを知らない、終わる必要がない」「円環的=和声的時間とは全く別の時間性を持っている」と結論されるこの原稿は、今となっては完全な誤りだったと言わなければなりません。今ここで自分で自分の論旨の誤りを書き連ねることはできますが*7 、そんなのを読まされてもなんのこっちゃでしょう。なのでそれら全てを省略し、ここで「フランチャイズ」の話に移らなければなりません。要点だけ先に書きますが、あの原稿の失敗は「終わりがない」のと「終わりが永遠に引き伸ばされる」のは別であること、後者の「終わらなさ」を永遠に引き延ばすための罠が「フランチャイズ」にあることを見通せなかったことに原因があったのです。

・フランチャイズの病
 マーベル・シネマティック・ユニバース(略称MCU:2008年公開『アイアンマン』~現在)の興行的・質的成功から、わずか10年足らずで映画界ではフランチャイズ(順次公開される作品たちどうしを連結し、作品群でひとつのユニバースを形成すること)が常態化しました。これについてはいろんな人がいろんな所で賛辞や苦言を呈しているので*8 、付け加えません。ただこれは単に映画界のみの現象でないことは確かです。巷間「映画のテレビドラマ化」と揶揄されるように、ここには永遠に次回作を製作可能にする構造(≒クリフハンガー)があり、それによって獲得されたファンは「次はまだか次はまだか」と欲望を持続させることができるわけです。

 強調しますが、こういった構造が悪いなどとは一言も言いません。ありふれたフランチャイズ批判は、単に商業的だ・一つの作品として完結しないなんてダメだという感情的な意見に駆り立てられてたものが多い。しかしMCUが優れていたのは ⑴少なくとも単体の映画として楽しめる質になっていること ⑵さほど有名でない映画人でもフックアップして潤沢な予算とスタッフを与える方針が一貫されていること にあり、単純なクリフハンガー商法では数年足らずで自壊していたはずです。それを踏まえることなしに軽々にフランチャイズ商売を始めてしまった会社たち(どことは言いません)が目も当てられないクオリティの代物を量産しているのを見れば、フランチャイズが必ずしも興行的・質的成功をもたらさないことは明白です。単純な話ですが、フランチャイズかそうでないかは問題でない。

 が、もはやそうそう楽天的でもいられなくなってきました。『アイカツ!』の話に戻しましょう。一曲聴いていただきましょう。シリーズ5周年記念*9 企画の一環として発表された『アイカツメロディ!』です。

 一聴しておわかりの通り、『アイドル活動!』ですね。作曲者が同じなのだから当然です。こうして『アイカツ!』の実質的テーマ曲である『アイドル活動!』の発展版のようなものが5周年記念企画として発表されるのも、間違ってはいないのでしょう。しかし私は、このタイミングで「『アイドル活動!』よもう一度」とばかりに『アイカツメロディ!』が発表されたことに顔面蒼白になりました。「何を今更?『Let's アイカツ!』だってそういう曲だったじゃん」と言いたくなるのはわかりますが、『Let's アイカツ!』は主人公が星宮から大空に移った時期(あかりジェネレーション)の線引きとして要請された曲なので意味合いが違います。『アイカツ!』が放送終了して新シリーズ『アイカツスターズ!』が始まった今『アイドル活動!』よもう一度とばかりに『アイカツメロディ!』が来ることの意味は、先述の原稿の論旨で言えば「和声」的解決を意味することになり、『アイカツ!』も円環的時間の気持ちよさによって欲望を生産する作品だったという結論にならざるをえなくなる。それを証し立てるきっかけになったのが「シリーズ5周年記念企画」の楽曲だったという事実は、フランチャイズの圏内にある作品がファンク的時間を持つことの不可能性をも証明してしまったのではないか。このことに私はほとんど嘔吐せんばかりになってしまったわけです*10 。

「なんで和声的ならダメなの? 気持ちよければ良いじゃん」という問いに答えるには、それだけで一つのまとまった原稿が必要になるのでここでは書きません。フランチャイズに話を絞りましょう。ここ数年で最も忘れがたいフランチャイズ批判、高橋ヨシキさんが『ローグ・ワン』を前にして発表した「幼年期の終わり ~さようなら『スター・ウォーズ』~」を部分的に引用します。

 観客が耽溺し続けること自体を難ずる権利はぼくにはありません。〔中略〕それでも、観客を「耽溺させることを目的に」商品を作り、供給することは邪悪なことではないかとぼくは思うのです。

 なぜなら、それは観客を消費者へと変え、幼児化させ、駄々っ子のように振る舞うことを是とするものであり、その駄々っ子の口に好物を際限なく突っ込み続けることで、彼らを判断能力を失った中毒患者へと変える行為だからです。

「前へ!」というのは、ルーカスだけでなく、どのようなクリエイターにとってもいちばん重要な姿勢だとぼくは信じています。その先に何があるか分からなくても、あるいはそれがどういう評価を下されるにせよ、とにかく 「前へ!」。これはクリエイターに課せられた祝福でもあり呪いでもあるのですが、「前へ!」という大前提は旧三部作でも、またプリクエルでも(プリクエルは実は後退していたわけではないとぼくは思っています。何度も言いますがコンセプトに対してエクセキューションが貧しかったのがまずかった)、そして部分的ではあれど『フォースの覚醒』にも共通していました。 前へ!
〔中略〕
 ところが『ローグ・ワン』は「もはや前に進む必要などない」という、ルーカスフィルム/ディズニーの宣言のように、ぼくには見えました。なぜ前に進む必要がないのか? なぜならそれを誰も望んでいないからです。誰も、 というのは『スター・ウォーズ』世界に耽溺することに慣れきった観客のことです(ぼくも含みます)
〔中略〕
 興行的に、『スター・ウォーズ』が「前へ」進む必要がないことを『ローグ・ワン』は証明してしまったのです。

Crazy Culture Guide Vol.30-30.5

 SWシリーズにまったく思い入れを抱いていないうえに『ローグ・ワン』も(ドニー・イェンがドン・キホーテ役をやっている映画なのだし)楽しく観ることができてしまった私は、当時「はあ、そういうものなのかなあ」程度にしか読めなかったのですが、少なからず前のめりに接してきた『アイカツ!』5周年企画に際して、これらの文章は「あっ、この状況を言ってたのか!」という今更の得心とともに蘇ってきました。「前へ」進む必要がないこと、それは「和声」的時間に閉じること、フランチャイズの体系に閉じること、円環的時間=手回しオルガンの歌に耽溺しきることを意味してはいないか*11 。ベケットらを念頭に置いて「終わる必要がない」作品だと言うとき、それは「終わりが永遠に引き伸ばされる」作品の偽装された姿を言っていはしないか。それこそがフランチャイズの罠であり病ではないのか。という疑惧と危惧が一斉に襲ってきたわけです。
 これは単に「前に書いた文章と矛盾しちゃった」から狼狽えているのではありません。「あれっ、自分は《これ前にも聴いたことあるわ、良いわ~、知ってるわ~、延々と続けられる正当な伝統、良いわ~》みたいなことに気持ちよくなりたくてこの作品を支持してたのか? そもそもこれってそういう気持ちよさを是とする作品だったか?」という、本質的な足場が揺るがされたことに原因があります。それも公式の「5周年記念企画」によって。

 本当に意外だったのは、『アイカツ!』のファンダムを見る限り、5周年記念企画を楽しめている人のほうが圧倒的多数のように見えたことです。記念企画は『アイカツメロディ!』のみにとどまらず、星のツバサシリーズが進行中の『アイカツスターズ!』において前シリーズ『アイカツ!』とのコラボレーション回が2話に渡って放送されました。
 脚本・楽曲・シリーズ構成などあらゆる意味で驚異的な完成度を獲得している最中の『スターズ!』を2話も空費してまであのクオリティのものが断行された事実はほとんど理解不能なように思えますが、私はおそらく、広告代理店あたりの社員がコカインでハイになっているときのノリで企画されたのがあのコラボ回なのではないかと思っています。これは冗談や皮肉で言っているのではなく、最も妥当性の高い可能性を考えた結果です。根拠は、中間休止Caesur*12 なしのゲットハイによる記憶のフラッシュバック(=前シリーズのキャラクターたちの唐突な再来)は薬物による効果と相似であろうこと、および『アイカツスターズ!』の論理と鍛錬による平穏な緊張の持続(AS!ep1-68)を唐突なトリップ(コラボ回)で自堕落にぶった切ってしまいたいという欲望は、いかにも広告代理店に勤めていそうな人間の心性として理解するのが容易であること、等です。

 率直な心境としては、私は「今すぐ『スターズ!』の放送が終了してほしい」と思っています。もちろん『スターズ!』が2年目で終わってほしいという意味ではありません。2016年4月に始まったこのシリーズは、3年間=中学の就学年間できれいにまとめることが可能です。1年目の時点でいくつもの驚くべき達成を残した『スターズ!』なのですから、3年構成での完結を前提にするのがベストなのは間違いない。これは言わば生前の司馬遷に対して「おい、今すぐ史記を書き上げてくれよ!!!」とせっつく行為に等しく、読み手としての品性にはやや欠けるのでしょう。しかしそれは同時に「もうフランチャイズなんてうんざりなんだ!」という呻きと表裏一体のことでもあります。「3巻にまとめられた全集を購入し、そこに書き記された成果たちに驚きたい」という思いと、「見たことあるものをもう一度見たい、延々と続く絵巻物が欲しい」という思いは全くの別モノなのですから。『アイカツスターズ!』は図らずも、2017年において全世界的に共有されつつあるフランチャイズの病を裏返しにして見せてくれたように思います。同時に、ここまで単独作品としての(前シリーズとの癒着ではない)成果が追求されている『アイカツスターズ!』がなければこの病に気づかされることなくフランチャイズに耽溺したままだったかもしれないと思うと、背筋が凍るようです。

 コラボ回(AS!ep69-70)をなんの躊躇もなく楽しめてしまった方々に対しては何も言おうとは思いません。『スターズ!』で前シリーズのキャラクターが前シリーズの楽曲をパフォーマンスしている姿に「やっぱりすごい、ソレイユ尊い」と反応できた人々のことを、私はなんの皮肉もなく「エリート」と呼びたい気持ちがあります。すごいと思います。よっぽど解離が上手でなければこのコ(ラボ)カインでトリップすることは不可能だろうと思うからです。「こんな脈絡なしに『ダイヤモンドハッピー』やられても、あの木村隆一の「『ダイヤモンドハッピー』はかえでに歌わせるつもりだったんですよお」のヘラヘラ笑いがフラッシュバックしてバッドトリップに入る人もいるだろうなあ、とくにかえで周りに遺恨を持ってる人たちは。危ないことするなあ……」と思っていたのですが、実際はそうでもなかったようです。ということは、「ああかえゆりがいっしょにかえでずししてるすごいとおとい」と瞬時にマスキングして全部オッケーになれる方々が『アイカツ(非スターズ)!』ファンダムの多数派を占めているのでしょうか。繰り返しになりますが、「エリート」と呼びたい気持ちがあります。すごいと思います。普通、人間はそんな綺麗に解離できるものではないと思うからです。そして私は、代理店謹製のコ(ラボ)カインで気持ちよくトリップできるほど洗練された人間にはなれなかったことを、どちらかといえば喜ばしく思っています。*13

 フランチャイズの病に文量が取られすぎたようです。さて、この原稿はA!128で描かれた(そして『スターズ!』全話で描かれている)人間の製造と『SHINING LINE*』は全くの別物だと指摘するところから始まったのでした。『アイカツ!』3年半の放送終了後、「『アイカツ!』尊い」とか「自分もバトンを受け取った」とか「あの作品も『アイカツ!』の『SHINING LINE*』で生まれたんだ」とか言い出す人々が随分増えましたね。私は『アイカツ!』からバトンを受け取れたとは思いませんし、『SHINING LINE*』に導かれたとも思いませんし、そのことをどちらかというと喜ばしく思っています(どれくらいかというと「天皇家に生まれなくてよかった」のと同じくらい喜ばしく思っています)。
 本稿で最後に書いておきたいのは、なぜ「『アイカツ!』からバトンを受け取った」と主張する人々が一斉に「癒し」とか「幸せ」とか「救い」とか言い始めたのか、についてです。次項は『アイカツ!』と自己啓発的思考との相性の良さ、「癒し」への「中毒」、そして『アイカツ!』と震災との関係。これらを一斉に検討し、問い直すことになるでしょう。これについて書くのは骨が折れますが、この作品の最も偉大な点(A!ep128)について書いた以上、最も愚劣な点についても書かざるを得ないでしょう。

◎「癒し」への「中毒」


 広く読まれたインタビューですのでいちいちURLは貼りませんが、某作品(深夜放送のちに早朝枠で再放送)のスタッフインタビューにおいて『アイカツ!』からの影響が述べられている箇所がありましたね。引用しましょう。

『アイカツ!』は子供向けなので4クールとか長い期間放送します。物語が進んでも、誰かが急に殺されたりしない。ひどいことも起こらない。ずーっと平和な世界が続いてるんです。視聴者は娘を見守っているかのような、ほんわかした感じになれる作品です。

 もちろん優れたシリーズ作品(『スタートレックTNG』とか『ゲーム・オブ・スローンズ』とか)でも「誰かが急に殺され」たりするので「ひどいことも起こらない」のは優れた作品の必要条件ではないのですが、それはどうでもいい。続けて引用します。

「大空あかりちゃん」や「ドリームアカデミー」が出てきたタイミングで、大人の事情があるのは理解しているのですが、僕はやっぱり「星宮いちごちゃん」のことを考えていたかった……(註7)。いろんなキャラクターを出さなきゃいけないこともわかってはいますが、本心は「そっとしておいてほしかったなぁ」と思いました。
(註7:セカンドシーズンで、「星宮いちご」から「大空あかり」に主人公が世代交代し、多くのファンが改めて「いちごちゃんたち」への想いを募らせた。)

「僕はやっぱり「星宮いちごちゃん」のことを考えていたかった」=ずっとA!ep1-50のノリでいてほしかった、というのはすごいですね。私は楽曲においてもお話においても『アイカツ!』が多くの成果を実らせたのはあかりジェネレーション以降だと思っているので、本当に「多くのファンが改めて「いちごちゃんたち」への想いを募らせ」ていたのだとしたら、あれらの成果たちも無かったわけですが(そもそも「多くのファン」って誰?)。

 このへんでよろしいでしょう。このインタビューに蔓延している、ひとつの、ある、つましい思いを一言で要約しましょう。「癒されたい」ということですね。「「星宮いちごちゃん」のことを考えていたかった」、「ずーっと平和な世界が続いて」「娘を見守っているかのような、ほんわかした感じ」でいたかった。先程引用した高橋ヨシキさんの文章に寄せれば、こういう欲望が「観客を消費者へと変え、幼児化させ、駄々っ子のように振る舞うことを是とするものであり、その駄々っ子の口に好物を際限なく突っ込み続けることで、彼らを判断能力を失った中毒患者へと変える」のでは、「前へ!」という「どのようなクリエイターにとってもいちばん重要な姿勢」を手放した人間の言い分がこれなのでは、とまでは言いますまい。つましい思いです。現に、この作品名+アイカツ!で Google 検索すると、示し合わせたかのように「癒し」の語を含む記事がヒットします。『アイカツ!』から「バトン」を受け取ったこの作品、『SHINING LINE*』に導かれたこの作品に多くの人々が「癒」されたわけです。事実、ファンダムにおいてはこの作品と『アイカツ!』のファン層はかなりの部分で重なりあっている。これは私にとって心底意外なことでしたが、今となっては理解できます。『アイカツ!』はそもそも企画の段階で「癒し」に癒着しかねない質の作品だったのですから。加藤陽一の言を引用しましょう。


加藤陽一 大きな転機になったのが、東日本大震災です。コンセプトを固めている最中の2011年3月に、東日本大震災が発生しました。地震が起きた瞬間、僕は東京・浅草のバンダイ本社で『アイカツ!』の会議に出席していたんです。地震で電車が止まったので、車で来ていた僕が3人に声をかけて、皆を送っていくことになりました。TVで原発や津波のニュースを見ながら進むうち、都心で車も動かなくなっちゃって。結局浅草を出て、皆を送って23区内の家に帰るまで12時間位かかりました。そのとき一緒にいたのが、アニメ『アイカツ!』の若鍋竜太プロデューサーと企画スタッフです。車に缶詰状態で、8時間から10時間ぐらい、地震の影響を目の当たりにしながら、皆で『アイカツ!』のことを話しました。まるで合宿みたいな濃い時間でした。「こんなことが起きたら、いままで話したような作品はできないね」という話もその場で出て。それを受けて書き直した企画書の内容が、そのときの僕らの思いを込めたものだったんです。

━━どんなふうに変わったのでしょうか?

加藤陽一 ネガティブな出来事も起こりえるレトロなスポ根路線は消えてなくなり、代わりに、「皆で一緒に笑いながら身近な幸せを改めて感じ、明日を信じる力、未来への夢を持てる作品」が必要だろうということになったんです。「トップアイドルを目指すスポ根サクセスストーリー」の部分はそのままに、「温かくて前向きな気持ちになれる作品を作ろう」と、企画をブラッシュアップしていきました。この段階の企画書に書いてあることは。現在のところほぼすべてが、作品内で実現しています。あの震災が、『アイカツ!』という作品にとっての転機だったと思いますね。

『アイカツ! オフィシャルコンプリートブック(学研パブリッシング)』130-131P


「ネガティブな出来事」は「消えてなくなり」、「温かくて前向きな気持ちになれる作品を作ろう」。この方針が先のインタビューで縷述されていた「癒し」への渇望とは別のものであることに注意しましょう。ここにあるのは「「皆で一緒に笑いながら身近な幸せを改めて感じ、明日を信じる力、未来への夢を持てる作品」が必要だろう」という、それそのものとして十分リスペクトに値する信念なのですから。「東日本大震災」をきっかけに「大きな転機」を迎えたこの作品は、おそらくは心身ともに震災の後遺症に苦しんでいる人々を癒した(なぜここだけカギカッコを外したかを考えてください)はずです。きっと2011年以降の息苦しい空気をやりすごすために、多くの疲れた人々の役に立ったのでしょう。役に立ったに決まっています。

 が、私はもはやこの加藤陽一の言に対して賛意のみを呈することはできません。「ネガティブ」「前向き」という言葉が一体何を意味しているのか、私にはもうわかりません*14 。一直線にいきましょう。『アイカツ!』と自己啓発的思考との相性の良さについて

(前置:弊ブログでは他人の━━企業の運営によらない、投稿の過程で稿料が発生していないのが明白な、個人の━━ブログ記事を取り上げることは固く禁じてきました。単に「晒し上げ」に近い行為になるからです。しかし後述の記事は弊ブログ記事への直接的なレファレンスを含むので、例外的に取り扱います)

 以前私は、性差別へのカウンターの文脈で『アイカツ!』を援用した記事を書きました*。「人と違っていることが問題とされない世界=『アイカツ!』は素晴らしい」という大意の記事です。読者数なんかまるで考えていない・書くべきことが出てきたら書くしかないイズムでやっているのがこのブログなので、誰に届くかなんてまるで考えていませんでしたが、それなりの反応がありました。が、ぎょっとしたことがあります。そもそもの記事執筆の目的である「性差別へのカウンター」という政治的文脈がまるっと読み落とされていたこと、だけではありません。『アイカツ!』的なるものがどうやら、直接に自己啓発的文脈に接続されてしまっているらしいという事実です。

アイカツ! と 嫌われる勇気 より

 説明するまでもなく、『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』はアドラーの自己啓発ブルシットをさらに俗流にした本です。それを直接『アイカツ!』に接続して語りたい気持ちはわからないでもありません(そもそもリルケやジュディやフレディ・マーキュリーを叩き台にして『アイカツ(スターズ)!』を読んできた私にそれを難詰する権利はありません)。しかし驚いたことがあります。『アイカツ!』とアドラー心理学を同列に語っている人々は上記のブログのみならず複数存在するのです(特定のアカウントに誘導したくはないので、各々 Google や Twitter で検索してみてください)。「『アイカツ!』ってアドラーなんだよ」とひとりで騒いでいるだけなら「ああ、この人はそう読んでるんだな」で終わりですが、ここまで集団的に『アイカツ!』からアドラーへの想起があったことは、「ネガティブ」でなく「前向き」であることを選択した『アイカツ!』と自己啓発的思考の癒着のし易さを立証するのに十分なものです。

 一言で言いますが、自己啓発の「癒し」や「幸せ」はあなたの望むものを全くもたらさないどころか精神的荒廃を呼び寄せます。いまだに「アイカツは癒し」「アイカツは宗教」「アイカツとアドラーって言ってること同じだ」とヘラヘラ笑いながら嘯いている人間は後を絶ちませんが、自分が軽々に口にしているその言葉が一体何を意味していて何に行き着きかねないものか、今からでも遅くないのでよく考えてください。もちろんアイカツイコール自己啓発だとは一言も言いません。しかしファンダムにおいてその両方は容易に癒着してしまえるし、現に多くの人が癒着させているということです。

・無惨な救い
 加藤陽一の言に立ち返りましょう。『アイカツ!』は震災とともに転向した企画であり、その結果として多くの人を「癒」し、ついにはアドラー心理学と同列の思考に癒着するに至りました。これら一連の意識は何を意味するのでしょうか。もう言い切りますが、「自分の傷を見たくない」という意識です。ここで「傷」という言葉が出てきたことに驚くフリをしたって無駄です。我々が辿ってきたのは震災という、心身ともに大量の外傷を生んだ事件に端緒を持っています。この外傷は直接の被災者のみを対象としません。「テレヴァイズド・ウォー」であるベトナム戦争が「ある意味では米国民全員が戦争神経症者となり、米国のエートスの1970年代の大変化にはPTSDを考慮に入れる必要があるかもしれない」*15 事態を招いたように、我々もテレビやニュースサイトやSNSを介して見せられた災厄のイメージによって少なからず外傷を負ったと考えたほうがいい。だからこそ逆に言います。直接の被災者=当事者でもない我々が、「癒し」だの「前向き」だのを嘯きながらこの外傷をなかったことにしたいという欲望、これが最悪の意味での非政治的=美学的な内向であり、その逃げ道として自己啓発的な思考に陥ることを許してしまったのではないか。

 実際のところ、あれだけの外傷を生んだはずの震災後にアドラー本がバカ売れする一方でフロイトが見向きもされないのは、ここに理由があるのです。アドラーが戦争神経症に対してどう向き合ったかご存知ですか。戦争神経症は「もともと精神に問題を抱えている人に起こる」*16 というのがアドラーの診断です。「ためらいがちな人、社会的な義務に直面して臆病さを見せる人が、神経症になるのである」。「すべての神経症の背後には、弱者の存在がある。弱者は、大多数の人の考えに自分を適応させることができず、神経症の形を取った攻撃的な態度を取ることになる」。こういった、外傷を負わせた政治的要因(=大戦)*17 を見ることなく個人の「パーソナリティ」や「ライフスタイル」に原因を求める思考が『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』の源流です。対して、フロイトが戦争神経症を前にして自己の理論をどのように改めたかは誰でも知っていることなので省略します。が、このアドラー=自己啓発的思考、性的・政治的要因による外傷を見ることなく「パーソナリティ」や「ライフスタイル」を問題とする思考、それを釣り針にして「癒し」や「幸せ」や「救い」を売りさばく思考が、とくに震災以降に自己啓発セミナーの姿をとって打ち続いているのだろうという素人診断を下すのに、私はいささかのためらいもありません。

 君はしあわせになりたいか。それは空しい願いだと、何故判らないのか。むしろきみは、自分の幸不幸に無頓着に・・・・ならなくてはならない━━自分が仕合わせだろうが不仕合せだろうが、どうでもよい。他人にとってどうでもよいばかりではなくて、自分にとってもどうでもよい、でなくてはならない。自分の幸不幸も、そして幸福をも、冷然と見下せなくては。
 外国語を読めるようになるには、外国語を読むしかない。自転車に乗れるようになるには、自転車に乗るしかない。それと同じように、拒絶され、無視され、侮蔑され、中傷されても平気でいられるようになるには、拒絶され無視され侮蔑され中傷されても平気でいる・・・しかない。現にそうである・・・ほかない。その外部に手段を求めようとすれば、君は無惨な救いに縋ることになる。

『しあわせだったころしたように』佐々木中著 河出書房新社刊

 私は、『アイカツ!』からバトンを受け取ったと自称する人々が「癒し」や「幸せ」や「救い」をしゃべくり散らすようになってしまったこと、それが自己啓発的思考以外の何物でもないこと、を理由として『アイカツ!』が愚かな作品だったと結論するつもりはさらさらありません。この作品の最も偉大な点、藝能と人間の製造の賭け(A!ep128)については詳らかにしました。それを継承した『アイカツスターズ!』が見せ続けている驚くべき成果の数々は、『SHINING LINE*』などではない別の方法での人間の製造を明らかにしてくれるはずですし、これから毎週届けられる一頁一頁を注意深く読ませていただくつもりです。
 が、私は、もはや加藤陽一の言う「皆で一緒に笑いながら身近な幸せを改めて感じ、明日を信じる力、未来への夢を持てる作品」の素晴らしさを信じることはできません。一方で、「温かくて前向きな気持ちになれる作品を作ろう」という理想が失敗したとは思いません。『アイカツ!』は確かにひとつのことに成功したと言えます。『アイカツ!』の「温かくて前向きな気持ちになれる作品を作ろう」という理想は、「自分の傷を見たくない」という非政治的=美学的に内向した精神を持った人間を大量に生産することに成功したと。


◎RUN LIKE HELL


 さて、図らずもこの原稿には多くの中毒が並べられる結果となりました。

・エンターテイメントにおけるフランチャイズへの中毒。
・「前へ!」進むことを不可能にする手回しオルガンの歌への中毒。
・「癒し」「幸せ」「救い」を求める自己啓発への中毒。

 大人と子どもの区別が融解した、この幼形成熟の世紀に、我々は臆面もなく中毒に耽りすぎているようです。かといって「自分は愚かな中毒とは無縁なのだ、清いのだ」と思い込むことも別の中毒です(「デトックス」がまた別の中毒にふけるための準備体操でしかないのは誰でも知ってますよね)。それでも私は、少なくとも「もっとかわいい中毒を持ちたい」と思い、ダサい中毒をやめることにしました。まず Twitter アカウントを削除しました。皆さんも今すぐやめるべきだと思います。「いきなりエス=ン=エス批判を?」「ブログは良くてツイターッはダメなので?」と困惑のあまり戸田奈津子口調になってしまった人もいると思いますが、やっぱりいくらなんでもあれは良くない。とくに言っておきたいのは、「自分は他の軽率な奴らとは違って SNS で見せたい部分と見せない部分を弁えてるから大丈夫だよ」と思い込んでいる人間ほど既に芯までどっぷりやられているぞ、ということです。表現全般に取り組んでいる人々から順に Twitter をやめましょう。「でもTwitter のフォロワーがいなくなったら、自分が創ったものを誰も見てくれなくなるかもしれない」?「でもあなたのお友達は、書評家よりも遙かに真面目で鋭い批評を、あなたの草稿に浴びせてくれるでしょうに」*18 。
 この島国に住まう人々が今すぐ止めたほうがいいことは、⑴ Twitter アカウントの所持・⑵原子力の使用・⑶東京オリンピックの開催 です。3つとも「狭いムラの中だけが世界だと思い込んで集団で衰弱していく」、「個々人が陰湿性を発揮しあって軽微な傷をつけあって治療困難に陥っていく」、「自分は価値のある維持可能なことに携わっていると言い聞かせながら取り返しのつかない事態へ進行していく」などの点が共通しています。そんなのはいくらなんでも御免でしょう。

 ですので、私はちょっと走ってこようと思います。優れた作品に耽溺するあまりフランチャイズや自己啓発の罠に絡め取られかねない、いろんな罠が仕掛けられているこの世紀ですが、確実なのは逃げ足を鍛えておいたほうがいい。逃げるために、闘うために、踊るため歌うため描くため書くため織るため縫うため耕すため植えるため笑うため暮らすため愛するため産むために、創るためには足が速くなきゃいけない。それは在野の人間ならもちろん、「プロフェッショナル」な現場での仕事を志す人にとっても同様です。実際、この幼形成熟の世紀においては、「良い作品」と「悪い作品」があるのではなく、「闘える作品」と「闘えない作品」があるだけなのです。私は司馬遷が史記を書き終える頃には(=星のツバサシリーズの放送が終わる頃には)またここに戻ってくると思いますが、それまでは河豚を料理するための包丁を研ぐ作業と、逃げ足を鍛えるための作業に戻ります。もう『アイカツ!』のことを懐かしむこともないでしょう。「それでもやっぱり、この本が終わり、次のお話の幕が上がるとき。そいつが前作の登場人物たちを、文脈を、根こそぎ排除にかかるとき、あなたにほんの少しでいいから力を貸して貰えるならば、それ以上の僥倖はない」*19 。それでは。You’d better run!!!!!!!!!!!




西暦2022年7月30日に付された後註:
 言うまでもなく(いや言っておくべきだろうか、なぜならこの国民の、とくに「オタク」のファンダムにおける時間感覚というものは全く狂ってしまっているから)、この記事は『スカイウォーカーの夜明け』どころか『最後のジェダイ』が公開されるよりも前に、さらには『けものフレンズ2』があんなことになるとは誰も思わなかったであろう時期に書かれた。西暦2017年9月の時点でファンダムに巣食う宿痾のありかをここまで正確に見抜いていた自分を、誇りには、全く思わない。単に素面の人間なら誰でも気づけたはずの話だ。その5年後の現在において、アイカツと接頭されるフランチャイズ作品がどのような有様になってしまったかについても、書くだけ疲れるだけだ。

 この記事で最も重要な記述はもちろん、日本国民が震災をきっかけにアドラー的な「個人心理学」の麻酔を打つことであらゆる社会的・政治的問題に無感覚であろうとした、という事実の指摘にあるのだが、ここで書かれていることを単なる「コンテンツ会議」としてしか読めないほどに鈍麻したオタクの皆々様によっては、すべて読み飛ばされてしまうおそれがある。さらに傍流として、第一次世界大戦後の文化的荒廃を受けて『デミアン』が発表され、その個=世界とするユング=ヘッセ的世界観(言うまでもなく、それは「西欧の没落」とやらをアリバイとした白人たちの退避の一形式でしかなく、極限すれば有色人種とは端から何も関係ない。にも拘らず、この国においては90年代から現在にいたるまで『デミアン』的世界観に退行しきって事足れりとする作品が発表され続けている)に依って立つような精神性が世界的に蔓延した事実もある。
 そのように、徹底してアドラーまたはユング的な退避によって自らがはまり込んだ隘路の惨状にすら気づけていないような人々を前にして、私は一言も付け加えようとは思わない。ただフロイトの伝記から引用するだけだ。

“「死の欲動」はけっして「私が心から望んでいることではありません。 心理学的にも生物学的にも、これを仮定しないわけにはいかないように思われるのです」。だから、「私の悲観主義は必然的結果であり、敵対者たちの楽観主義には根拠がないのです」。 私は自分の暗い理論と「政略結婚」したのであり、他の人びとは「自分たちの理論と恋愛結婚した」のだ。フロイトは彼らの幸福を祈る。 「彼らが私よりも幸せであることを願います」。”

【『フロイト』第2巻 ピーター・ゲイ著 鈴木晶訳 みすず書房刊 638P】



*1 主要キャラクター=劇中でPRドレスが最低一着用意されていたキャラクター、の範囲で述べています。ので、服部ユウや長谷川まつりは含まれていません。

*2 天羽は言うまでもなく、地質学者の父から生真面目さを受け継いだ(渡米中の星宮の英字記事を辞書片手に読むなど)大空、雑誌関係の仕事をしていた両親の影響を強く受けた新条、同じく女優の母と料理人の父の影響を受けた紅林、じゃがいも農家の家族で昵懇だった大地・白樺、というふうにあかりジェネレーションのスターライト学生は自分自身の活動のルーツに少なからず親族が関わっています。その例に漏れるのがダンシング・ディーヴァの2名であることに関する理路が進行中です。

*3 と言っても、ジョニーとサニーはそれぞれの道が交わる日を待ちわびながら孜々として自分の仕事を続けていたので、この伝達は「ともあれ成功する」質のものでした。しかし諸星学園長の場合は、姉のようにアイドルとして絶命するかもしれない教え子をなんとかして生かしめなければならない(しかしその有効な手段すらわからない)わけなので、この伝達は「ともすれば失敗する」質のものです。「誤れる父親」とはそのことです。

*4 このように解釈している人が多くいるのはとても意外なことでした。むしろAS!ep176における氷上スミレの没落がなければ、あかりジェネレーションは単に息苦しく閉塞したシリーズとして終わってしまっていたでしょう。

*5 次々段落で使用される語を先取りして書きますが、「目に視える神(one visible god)」とその没落(死)を必要とする世界の定礎の仕方こそが完全に「和声」的・弁証法的・西洋的な「物語」なのです。ここで一面的に西洋的・キリスト教的なるものを批判しているとは思わないでください。この「物語」という名の巨大な河豚は、いくつかの精巧な包丁(最低でも、次々段落で「ファンク」的なる人物として名前が出ている三者)を揃えなければさばくことができない難物で、私も今それを工夫している最中なのです。

*6 本論「『アイカツスターズ!』2年目に捧げるnつのリスペクト」の並走なしに書かれているため、かなりギョッとする脈絡になっていると思いますが、この「『SHINING LINE*』=万世一系」についてはおそらく「RESPECTn:金星的、あまりに金星的(エルザ フォルテの眼球)(仮題)」において述べられると思います。なぜ『SHINING LINE*』が単数形で『アイカツスターズ!』が複数形なのか、についてはおそらく「RESPECTn:世界は広く、道は一つじゃない(如月ツバサの道々)(仮題)」において述べられると思います。

*7 要するに、「弁証法」と「弁証法でないもの」を対置して後者に軍配を上げるという思考自体が完全に弁証法的である、という矛盾に気づかないまま進んでしまったことに原因があったのです。

*8 これなど。
 蛇足ですが、FOXのほうのマーベル映画である『デッドプール(2016)』の “That sounds like a fucking franchise” というセリフは「(デッドプールって名前)ダサいフランチャイズ作品みたいだな」「流行らないチェーン店みたいだな」の両方の意味として通るようになっています。あと悪役の名前 “Francis” は “franchise” のもじりなんじゃないかなと思っています。

*9 これは完全に私の理解の埒外にあることなのでどなたか教えてほしいのですが、そもそもなぜ「5周年」が記念に値するのでしょうか? 10進法で位が繰り上がる値の1/2だから、ということはわかります。しかし5という数字の美しくなさといったらどうでしょう。3の倍数が美しいことは私にもなんとかわかります。「21というのは近隣の20や22と比べると格段にかっこいい(JAZZ DOMMUNISTERS『秘数 2+1』N/Kヴァース)」。確かに21は3の倍数なので20や22よりかっこいい。とあればなおさら、この5とかいうぶさいくな素数をなぜ尊重しなければならないのか、なぜ記念に値するのかがわからなくなります。5拍子の曲はかっこいいし5連符で取るフレーズもかっこいいし5と8のポリリズムは黄金比なので最高に美しい。であるからこそ、この5という数字の単体での輝かなさが浮き彫りとなります。 なぜ「5周年」が記念に値するのかをご存知の方は、この記事のコメント欄に書いていただけると助かります。こればかりはどれだけ考えてもほんとうにわからないのです。「5周年」……?

*10 こればかりは絶対に誤解されたくありませんので書きますが、本項で作編曲家としての田中秀和さんの仕事が低く評価されているわけでは全くありません。CDに収録された『アイカツメロディ!』の[3:08]からの展開は、『ドリームバルーン(作編曲:広川恵一)』1番サビ終わりのインストゥルメンタルパートに匹敵するほどの素晴らしさだと思います。が、これ以前に田中秀和さんが発表していたのが『ドラマチックガール』(アウトロで終わったと思わせてまたリフが始まる=終わる必要がない構造を持ち、「『アイカツ!』とファンク」で私が『アイカツ!』=ファンク的時間性を持つ論拠の一つとして援用した楽曲)であることを踏まえれば、このダメージがいかに甚大なものであるかがおわかりいただけると思います。「『アイカツ!』は終わる必要がない(ファンク的)」→「『アイカツ!』は『アイカツスターズ!』をも体系の一部として止揚してしまう(和声的)」の意味に転化されてしまうのも加えれば、なおさら。
 このように、「個々のスタッフはとても優れた仕事をしているのに、それを内包するユニバース全体が導きかねない方向を考えると忸怩たる思いにならざるを得ない」のはフランチャイズの持つ病の中でも特徴的なものだと思いますし、私もMCU作品の一部でその思いを共有しています。

*11 笑えるのは、「『アイカツ!』とファンク」において私が「和声」的な例として挙げているのが『スター・ウォーズep4 新たなる希望』の脚本(の三幕構成)であるという事実です。

*12 この「中間休止Caesur」はシュルツ=ヘンケが言う健康的な夢の流れ(「ジャンプ」「お話かわって」)のことで、ヘルダーリンが『オイディプスへの註解』で言っている「中間休止casur」とは別のものです。中間休止Caesurなしの夢は突然にショッキングな映像を見せられるに等しいので、強襲する外傷性記憶フラッシュバックと同質のものとなります。要するに『セッション』とかいう映画に出てくる交通事故シーンのような、ああいうやつです。ああいう映画を無闇に賞賛してしまう輩にも言いたいことは山ほどありますが、言いません。

*13 もしかすると、エンターテイメントにおける「粗悪ドラッグによるトリップ感覚」は想像以上に共有されているのでしょうか。『スコピオ・ライジング』や『白昼の幻想』や『エンター・ザ・ヴォイド』のようなオールドスクールドラッグ描写のことではありません。例を挙げますが、今年日本公開の映画『ラ・ラ・ランド』は、ラストシーンで唐突に「主人公とヒロインがくっついて万事うまくいった幸せな世界線(世界線という言葉が何を意味しているのか知らないしダッサいなこの漢字三文字と思いますが他に適当な語が思い当たらないので使います)」のミュージカル映像が展開され、その直後に現実(主人公がヒロインとくっつけなかった世界線)に戻って終わるのです。おそらく「今あるこの現在じゃなくて、別の可能性の中であの人と一緒になれていたら……そんな思い、わかるでしょう!???⭐︎、」と叙情的に終わりたかったのだと思いますが、あまりにもこのドラッグ=情緒的ミュージカルシーンの投与が唐突で脈絡を欠いていたので、私は主観的に垣間見た幻覚をこちらとも共有できる前提で話しかけてくるジャンキーの酔態を見る心地がしました。もっと恐ろしかったのは、「わかる、やばい、人生殴られたし涙止まんない」というふうに共感してしまえた観客が大量にいたらしいことなのですが。
「別の世界線」みたいなことを軽率にやりたがる作品(小説なら『リプレイ』とか、映画なら『バタフライ・エフェクト』とか)を見るたびに思うのですが、自分の人生が一直線でやり直しがきかないということがそんなに耐えがたいのでしょうか? 印象で言い切ってしまいますが、私はこういう一直線な時間に生きることを屈辱に思う精神が「弁証法=和声的時間」を要請したのだと思っています。

*14 映画『ディクテーター』では、独裁者によって「ポジティブ・ネガティブ」の両方がひとつの語に統制されてしまったためにHIV検査の結果がわからなくなる、という三重くらいの意味で笑えないギャグが出てきます。それはそれとして、ひとつだけ。『アイカツスターズ!』虹野ゆめの口癖として「ノーモアネガティブ!」がありますが、これは「ネガティブはやめてポジティブに考えよう」という意味ではなく、明白に「見通しのきかない苦難に直面してしまった、どう打開すればいいんだろう」という当惑の意味として使われています。その極点がAS!ep35で、虹野だけでは治療困難な問題を解決するために諸星と白鳥という二人の医し手が協力する必要があったのでした。なのでこう結論することができます、『アイカツスターズ!』は外傷を「なかったこと」にはしていないと。AS!ep30-71の流れは、虹野が自分にとって最も傷ましい記憶(七倉をちゃんと見送りできなかったこと)を治すための Remedy Lane でもあったと言うことができるでしょう。

*15 中井久夫「トラウマとその治療経験」『徴候・記憶・外傷』みすず書房刊 89P

*16 『アドラーの生涯』エドワード・ホフマン著 岸見一郎訳 金子書房刊  136P
『~勇気』シリーズを書いた人間が訳している伝記で、フロイトとその弟子どもが親の仇ばりに書かれていて面白いのですが(実際フロイトの自称弟子どもはだいたいしょうもないのですが、というか「それ自体では瞠目すべき概念を多数輩出したのにもかかわらず、その自称弟子どもがしょうもない」という点でも『アイカツ!』と精神分析は相似形にあるのですが)、ここに書かれているフロイト自身の「〔アドラーの「反性的傾向は」〕最終的には精神分析に大きな害悪をもたらすだろう」、「〔アドラーのアプローチは〕リビドー、性の心理学ではなく、全般的な心理学を提供している。それゆえ、あらゆる精神分析の中に潜在的に存在する抵抗を利用し、その影響力を思い知らせるであろう」という警鐘が現今の自己啓発・マネジメント原理主義の猖獗ぶりを的確に言い当ているのがなんとも。 この「あらゆる精神分析の中に潜在的に存在する抵抗」が本稿で述べた「性的・政治的要因による外傷を見ることなく「パーソナリティ」や「ライフスタイル」を問題とする思考、それを釣り針にして「癒し」や「幸せ」や「救い」を売りさばく思考」にあたることは言うまでもありません。

*17「大戦が『政治的』要因? 『社会的』じゃないの?」と思われたかもしれませんが、精神医学を「存在の政治学」と呼ぶ中井久夫さんのスタンスをリスペクトした結果です。『性的・政治的』の対義として『美学的』を使っている理由については長くなるので省略します。

*18 『若き詩人への手紙』ヴァージニア・ウルフ著 大沢実訳 南雲堂刊 24P

*19 円城塔「14:Coming Soon」『Self-Reference ENGINE』早川書房刊

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