『アイカツスターズ!』の学校観 2016/04/18(Mon)
◎[1]『アイカツ!』の学校観~「生きうる空間:スターライト学園」
唐突にひとつの問いを置きたいと思います。「スターライト学園はほんとに学校だったのか?」
だいぶ前に書いた記事で、わたしはスターライト学園を「他人と違っていることを問題にすること自体が成り立たない」世界だと書きました。アイドルとして生きていくにおいて個性的であること=魅力という認識が当たり前で、他人のことを「あの子の喋り方ちょっとどうなの」と思うような人間が存在しない場所(栗栖ここねちゃんが留学してきた際のスターライト学生の受容ぶりを思い出しましょう)であると。
で、なぜそんな理想的な空間が成り立ったかというと、それはトップアイドルとして活動していた光石織姫によって運営されている学校だからなのでした。アイドル活動をするにおいてのアリやナシを知り尽くしている織姫によって運営されているからこそ、一口にアイドルと言って連想されるようなネガティブな諸々(ミスターSって一体なんだったんでしょうね)は、スターライト学園においてあらかじめ回避されていました。
前回の記事では、震災を機に「皆で一緒に笑いながら身近な幸せを改めて感じ、明日を信じる力、未来への夢を持てる作品」に舵を切った『アイカツ!』の選択についてふれました。
ここであえて飛躍をしたい。『アイカツ!』のスターライト学園とは、「学校」というよりも「生きうる空間(共同体)」のことだったのではないかと。
いうまでもなく、2011年の震災においては(マグニチュード6以上の大地震は世界中で起こっているのでこの震災だけを特別視するつもりはありませんが)地上での「生きうる空間」があまりにも多く砕かれてしまった時期でした。だからこそ『アイカツ!』では誰もが受け入れられる・他人と違っていることを問題にすること自体が成り立たない世界が提示された、その理想の極点が「スターライト学園」という空間だった。
同時に、楽曲の歌唱担当であるSTAR☆ANIS(およびAIKATSU STARS!) が所属する「ディアステージ」という場所も、そういう「生きうる空間」だったのです。
わたしは最近知ったのですが*、ディアステージというバーはどこかの芸能プロダクションの肝入りで開かれたものではなく、有志の女性たちによって作られた場所なんですね。「ポップカルチャーの歴史に残ることをやりたい」と企んでいた福嶋麻衣子さんが、吉河順央さん(紫吹蘭の初代歌唱担当)らと出会ってオープンした店、それがディアステージだったと。その空間にのちに「でんぱ組.inc」や「STAR☆ANIS」となる人々が集まり、やがて武道館や東京ドームシティなど大きな会場を埋めるほどの人気を獲得していく、この物語自体が水滸伝みたいで超カッコいいのですが、つまり「秋葉原でアイドル・アニソン歌手として生きうる空間(共同体)」、それがディアステージだったと。
スターライト学園とディアステージという二つの空間が「生きうる空間」として結ばれていることについては、おそらくスーパーバイザーとして参加していた水島精二さんの慧眼によるものではないかと思います。アニメ本編ではスターライト学園という理想的な共同体を見せ、一方で現実にそういう「(アイドルとして)生きうる空間」が存在していることを見せる。この二段構えの強さは、放送開始から3年半かけて STAR☆ANIS および AIKATSU☆STARS! が獲得した固定ファンの多さを見れば瞭然なのではないかと思います。
◎[2]『アイカツスターズ!』の学校観~「学校:四ツ星学園」
では、『アイカツスターズ!』での四ツ星学園とはなにか。それは「学校」です。はい、誰でもある種の苦い思い出と、同時にちょっとの懐古の情を抱きもする、あの思い出深い「学校」空間そのものです。
思い出しましょう、われわれは学校で何をされたか。読み方を、書き方を、数え方を、走り方を、座り方を、「仕込まれた」のでした。成績や素行が悪ければ通信簿で親に報告され、反抗的な態度を見せると指導の対象とされる、そのような手管を通してわれわれは「調教された」のでした。
「いや、四ツ星学園は歌劇団的な学校なのであって、そういう初等教育とは無関係でしょう」と思われるかもしれない。しかし、音楽やダンスといった芸能でも「調教」と無縁ではいられません。
たとえば、曲のコード譜を渡されてセッションを始めるとして、自分だけデタラメに楽器を弾いて「これがオレの演奏だ」とやったところで、すぐに周囲のミュージシャンから「こいつは音階の練習さえしていないマヌケだ」と見捨てられて終わりでしょう。ダンスは事情がもうちょっと複雑なのですが、自己満足的に走ったり倒れたりするだけのダンサーを「なにかを成し遂げたような気になっているボンクラ」と切り捨てていた乗越たかおさんの言葉を引用すれば十分でしょう*2。
芸能においても、いや芸能においてこそ、「仕込み」「調教」の手管は厳然と存在します。さらっておくべき音階があり、ステップがあり、ウォーキングがあるわけで、それをおろそかにしてしまえば「型破り」ならぬ「形無し」として切り捨てられる、それは学校空間におけるテストや成績表のシステムと同じと言ってよいでしょう(楽器やダンスの練習が、あの「ワンランク上の」偏差値や学歴をめざすための一種いやらしい処世とは別のものだとしても)。
◎[3]「調教」の手管
さて、『アイカツスターズ!』AS!ep2の話です。
このエピソードでは、四ツ星学園の四つの組(歌組・劇組・美組・舞組)での指導が映されます。舞組では『CATS』を思わせるミュージカルのために「猫になる」ための実演が行われており*3、美組ではボトルを頭に乗せてのウォーキングが行われており、劇組では講師の所望する「泣き」の演技を引き出すための指導が行われており、そして歌組では優雅にお茶を飲みながら空気椅子で耐えるという特訓が行われていたのでした。
とくに印象的なのは劇組ですね。「泣く」という行為、体内の腺を意図的に刺激して体液を分泌する、そういう指導がなされているわけなので「肉体」への「調教」以外のなにものでもないわけです。(役者が「泣く」訓練についてのトピックは幾つかあるので * * ご参照ください)
もちろん、ここでは劇組トップたる如月ツバサ(演:諸星すみれ)さんの格の違う演技力が披露されているわけで、このキャラクターに劇団出身の子役・声優である諸星すみれさんをキャスティングした理由も明瞭となります。如月ツバサと同様に諸星すみれさんの演技も「訓練」「調教」による「仕込み」の結果に獲得されたアート(技芸)なのであり、その事実を見ずに「調教」を悪い善いで判断することは軽率であることはすでに注意しました。
つまり、四ツ星学園においては、まずアイドルは訓練によって「調教」され、技芸を「仕込まれ」た結果の主体として製造されなくてはならない。この「製造」という表現をもってなにか残酷だとか非人間的だとかアイカツらしくないとか言うのもやはり軽率です。『アイカツ!』128話の物語が、黒沢凛という一人のアイドルを「“工夫”するために、育て、振り付け、衣装を着せることになるその日のために」賭けていた大人たちの、つまりジョニーとサニーの物語でもあったことは以前書きました*。そこでは「人形のようにフェイクなアイドル」などといった軽侮はもはや問題にすらされていないこともすでに書きました。
AS!ep2は、諸星学園長と白鳥ひめ(歌組トップ)との不穏な談話で終わります。ここでは「歓迎パーティーでの虹野ゆめ(主人公)のパフォーマンスがお披露目ステージでのそれと比べて精彩を欠いていた」という謎についてのやりとりが行われています。
この『謎』の構造について考えることは、おそらく『スターズ!』の方針と独自性を考えることにもつながるはずです。見ていきましょう。
◎[4]比較してみよう~「謎装置」および『桐島、部活やめるってよ』
ここでひとつ、既存の学校モノ作品の助けを借りましょう。2012年公開:吉田大八監督の映画『桐島、部活やめるってよ』です。
この作品は、学校空間において突如ひとつの『謎』が出現することによって回される物語です。ざっくりとあらすじを。
バレー部のエースで成績優秀、名実ともに学校のトップに位置していた生徒:桐島が「バレー部を退部した」という噂が流れます。桐島の周囲に位置していた生徒たち(桐島を欠いてしまったバレー部、桐島と同じ塾に通っていた帰宅部、桐島の彼女をふくむ女子グループなど)に波紋が広がってゆきます。そんな動揺の最中、桐島とは本来なんのつながりもなかった映画部や吹奏楽部をも巻き込んだ一幕が時系列シャッフルによって語られる、そういう映画です。
いうまでもなく、『謎』とは「なぜ桐島は部活をやめたのか」ということです。この映画では最後までその謎は解明されず(どころか、桐島本人の姿さえ1シーン以外は映らない)、ただひたすらに周囲の生徒たちによる「桐島語り」が続きます。その「語り」を聞かされることによって観客はひとつの明確な答えを出されないまま物語に引き込まれるわけです。『謎』そのものが物語推進のための巨大なエンジンとして用いられていると言えます。
ここで、この『謎』のエンジンを用いた作劇法を『謎装置』と仮称しましょう。Enigma Engine(EE)というカッコいい略称も用意したので自由に使ってください。
図を用意しました。『謎装置』の桐島パターン、「ひとつの謎を提示することで登場人物たちに無限の「語り」を行わせる」手法の図式です。
これを『桐島~』に置き換えてみましょう。
重要なのは、桐島の『謎』をめぐる集団(帰宅部、女子グループなど)は『謎』に対する自分自身の見解・あるいは願望を「語らされて」いることです。この『謎』さえなければ、彼女ら彼らは桐島という学校のトップに位置していた存在の優位を疑うことすらしなかったはずなのですから。
もう一つ注意しましょう。それは、ここで「語らされて」いる人々は『謎装置』の効果のなかに囲われている人々だけだということです。ということは、そもそもこの装置自体を問題にしていない(囲われていない)人々もいることになります。それについてはのちに[8]で詳述します。
さて、AS!ep2時点での『アイカツスターズ!』に置き換えてみましょう。 とうぜん、『謎』は「なぜ虹野ゆめはお披露目ライブであれほど素晴らしいパフォーマンスができたのか」ということです。AS!ep1ですでにS4によって「新人の域を超えている」「すごい子来ちゃったぞ」とコメントされている、そんな圧倒的なパフォーマンスがなぜ彼女にできたのか。
AS!ep2冒頭では、S4の情報番組によって虹野ゆめに特別の注目が集まっていることが示され、周囲の同級生も彼女に羨望の眼差しを向けるようになります。しかし同時に、「発声できてない」「腹筋なくない?」など虹野ゆめの具体的な訓練達成の欠如が容赦なく指摘されてゆきます。
◎[5]学校・教室・家庭~「何かを語らせる」ことの煽り
ここでひとつの迂回を置きます。
なにかを「語らせる」こと。これは学校という空間に、いや、あるいは家庭などの細胞的空間にも否みがたく存在している「煽り」だと言えます。このことについて、可能な限り自白的になることを避けて書いてみたいと思います。
たとえば、わたしが以前家族と食事をしていたときに「勝新太郎の武勇伝」みたいな番組をやっていて、その破天荒な逸話の数々をみた家族が「意味わかんない、バカじゃないの」と不快げに言葉を吐いたことがありました。わたしは「勝新のことを悪く言わないでよ……」と思ったのですが、そもそも言いたくなかったので口には出しませんでした。というよりむしろ、他人(既に亡くなった俳優)のことについてそこまで感情を剥いてなにかを言ってしまえることが恐かったのです。
学校においてもそうですね。教室において、「語らせる」煽りは常に存在します。クラスメイトと自分とのちょっとした差異をみつけ、あいつはほんとに運動神経がないよな、あいつは顔にアザがあるよな、あいつはゴリラみたいな顔してるからあだ名はゴリラだ、あいつはホモらしいぞ、あいつらいつも一緒にいてキモいからからかってやろう……というような「語り」、そもそも特別の興味さえ持っていない他人に対して、なにか言わなければいけない、沈黙を埋めなければならないという類の煽りによる「語り」が。学校にいてこのように「煽られ」て「語らされ」た経験がない人はいないのではないのでしょうか。
そして『桐島~』はこの「語らせる」煽りを物語推進の装置として用い、学校空間の窮屈さ・残酷さをフィクションとして練り上げることに成功しました。突如あらわれた『謎』を、合理的に説明するために、ネガティブにしろポジティブにしろなにかを語らなければいけない、自分の言説によって穴を埋めなければならない。『桐島~』はその奇妙な昂ぶりが全体に充満している映画です。
『スターズ!』の話に戻りましょう。
AS!ep2の放送直後、ある場面が衝撃をもって受け入れられました。虹野ゆめと桜庭ローラのステージ、つまりゆめにとってはお披露目ステージ以来二回目のパフォーマンスの後。同級生たちが「あの虹野ゆめって子、ふつうだったね」「本気出してなかったんじゃない」と感想を漏らす場面です。
「まさかアイカツ!シリーズで他人の陰口をたたく子が出るなんて」というのが当該シーンに対する主な反応だったようです。しかし、われわれは『スターズ!』という作品自体が「なぜ虹野ゆめはお披露目ライブであれほど素晴らしいパフォーマンスができたのか」という『謎』によって回されている図式をすでに確認しました。四ツ星学園は「生きうる空間」スターライト学園とは違い、純然たる「調教」と「訓練」をおこなう学校であることも確認しました。その学校空間にはなにかを「語らせる」煽りがあり、その煽りを物語推進のために用いたのが『謎装置』だったことも。
だから、これは「陰口」ですらないのです。
歓迎会ステージをみた同級生による「普通だったね」というセリフは、S4による「新人の域を超えている」「すごい子来ちゃったぞ」という賛辞と同質のものでしかない。なぜなら、それらは「なぜ虹野ゆめはお披露目ライブであれほど素晴らしいパフォーマンスができたのか」 という『謎装置』の効果によって引き起こされた言説のひとつであるにすぎないから。「突如あらわれた『謎』を、合理的に説明するために、ネガティブにしろポジティブにしろなにかを語らなければいけない」、そんな煽りによって語られうる感想のひとつであるにすぎないから。
核心に近づいています。一言でいいましょう。四ツ星学園とは、他者と違う存在であることが問題とされる空間であるということです。ここで文字上の「問題」の意味がズレていることに注意してください。スターライトでの「他者と違う存在であることが問題とされない」は、他人の個性を認めないというネガティブな問題(problem[名詞])があらかじめ回避されている「生きうる空間」でした。いっぽう四ツ星学園での「問題とされる」は、価値を持つ、意味がある(matter[動詞])、という言わば加点的にポジティブな意味です。名詞形ではなく動詞形なのです。おそらくこの「問題」の意味上の差異にこそ、『アイカツ!』と『スターズ!』の作品上の根本的な差異があると考えます。「セルフプロデュース」「トップアイドル(一番星)」という言葉の意味にも、両作品ではこの「問題」の意味のズレからなる差異を見ることができるのではないでしょうか。
◎[6]「個性」教育~その号令に挟まれているもの
そして「個性」。AS!ep1から諸星学園長や響アンナ(ゆめやローラの担任)によって印象深く使われるこの二文字ですが、他者と違う存在であることが問題とされる四ツ星学園という空間をみてきたわれわれからすれば、たんに文字上の意味として受け取るわけにはいかなくなります。
率直に言って、「個性的であれ」という号令━━煽りと言ってもいいですが━━には、二重の意味が挟まれている。
A:「S4のような」一番星として輝くアイドルになること
この場合の「個性」とは、あくまでS4をロールモデルとして自分のアートを発揮して、それぞれの組でトップになれるような存在になること。まさに虹野ゆめ・桜庭ローラが現時点で目指しているのがこの「個性」です。
しかし、その「個性」が、四ツ星学園という空間の、もっと言えばS4という階級制度*4の効果で育まれたものでしかないとしたら?
B:「学校やS4の効果によらない」別のものになること
まだ別の「個性」があるはずです。つまり、学園の「個性的であれ」の号令から、芸能の「訓練」と「調教」から出発しながら、しかしそれでも四ツ星学園という空間の効果とはまったく別の存在になること。「訓練」され「調教」されたアートによって学校の「外」に突き抜けること。【注意】の項で書いた「変革」とは、まさにこのことです。
「いや、そこまで考えて作られているでしょうか」「そんな入り組んだことを描いて、こどもたちが理解できるでしょうか」と言うのは端的に誤りです。なぜなら、『アイカツスターズ!』のメインターゲット層である彼女ら彼らは、このノートで書いてきたすべてのものごとの当事者なのですから。今まさに学校のなかにいて、読み方を、書き方を、数え方を、走り方を、座り方を、「仕込まれ」て「調教され」ている最中なのですから。
もし『アイカツスターズ!』が、たんに学校という空間の効果として「製造された」のみではない、「別のもの」になることができる、そういう「個性」だってありえるんだということを描くことができたとしたら、『アイカツスターズ!』は学校というわけのわからない空間に放り込まれてかろうじて生きている彼女ら彼らにとっての、この上ない味方となってくれるでしょう。
◎[7]学校の外にいるアイドル
では、どのようにすれば学校空間の効果と「別のもの」になることができるのか。まだAS!ep2までしか放送されていないので即断は慎みますが、ひとつだけ。
四ツ星学園の生徒のなかで、ひとりだけ明確に「学校の外」の時間が流れていることを感じさせるキャラクターがいますね。桜庭ローラです。彼女の登場シーンは教室の「外」から、それも学校で決められた時間の「外」から入ってきていたのでした。
もうひとつ、彼女はいわゆる音楽一家の出身であることが示されていて、そのルーツを掘り下げるエピソードが予定されていることも監督本人の口から明言されています*5。
学校の「外」にいるアイドル。アイドル学校という空間の効果の「外」にいるアイドル。言うまでもなく、『アイカツ!』では夏樹みくるがその人でした。スターライトを出てドリームアカデミーに関わりつつ独立独歩していた神崎美月に見いだされ、ユニット「WM」を結成した彼女でした。
しかしあかりジェネレーションでは、(オーディション会場に特定のアイドル学校の制服を纏っていない市井のアイドル志望者が並んでいたことを覗けば)アイドルはすべて学校に所属していたのでした。京都や神戸や大阪で活躍するアイドルも皆一様に学校に所属していて、北海道の白樺リサ・大地ののでさえもスターライトの学籍を取得する必要があったのでした*6。
あかりジェネレーションにおいて、学校の「外」において自分の活動を続けているアイドルはついに描かれなかったと、そういうことになります(だからこそA!ep169でのみくる・ひなきの繋がりを鮮やかに描くことができたとも言えるのですが)。
桜庭ローラの話に戻りましょう。AS!ep2での印象的なシーンがあります。くじびきによって一緒にパフォーマンスすることになった虹野ゆめを、彼女自身のピアノ演奏によってトレーニングするシーン。この場面はアニメディアにピンナップとしても収録されています。
このトレーニングのシーンはたしかに学校のなかにあります。しかし、わたしはこの「教室」のなかにこそ学校の「外」を見たい。なぜなら、ゆめを指導するローラの技芸(ピアノ演奏)はおそらく学校で仕込まれたものではなく、音楽一家に生まれた彼女自身のルーツによって得られたものに違いないから。
自分で註釈を書いた楽譜をゆめに渡し、図書館で声楽の本を読みながら歌を磨き、ゆめにダンスを教わりながらついにひとつのステージを完成させるまでの一連の流れ。ここにこそ学校の「外」の時間を汲んでいる桜庭ローラがBの「個性」に突き抜けるための、その経路があると見たいのですが、いかがでしょうか。
いずれにしろ、学園の教師たちの手によらない「外」の教室での学習を初めて見せてくれたのが桜庭ローラという学生だったことを忘れてはならないと思います。
◎[8]いくつかの解答例~『謎装置』を解体する
最後に。
[4]にて、学校空間で「語らされて」いる人々は『謎装置』の効果のなかに囲われている人々だけで、ということは、そもそもこの装置自体を問題にしていない(囲われていない)人々もいることになる、と書きました。
要するに、わたしはこの『謎装置』をなにか絶対的な、実体化された、解体不可能なものだとして使っていないということです。『スターズ!』における虹野ゆめの『謎』が物語の大きな推進力になっているとしても、それを解体することで『謎装置』とは別の世界を語ることだってできる、別の方向に飛ぶことだってできる。そういうことが言いたいのです。
では、「なぜ虹野ゆめはお披露目ライブであれほど素晴らしいパフォーマンスができたのか」の『謎』を解体するための明確な解答例を、いくつか考えてみましょう。
A1:虹野ゆめには近親にすごいアイドルがいて、彼女もその才能を受け継いでいたから
考えうる限りで最悪の解答ですね。『アイカツ!』1~50話で星宮いちごとその母親をめぐる流れで注意深く避けられていた「血=才能」の短絡を正面切ってやってしまうわけですから。
A2:虹野ゆめにとってはS4(とくにひめさん)に自分を見てもらうことだけが特別で、その思いによってすごいパフォーマンスになっていた
納得はできますが、ゆめ-S4という一本線だけが強化されて、ほかの同級生が後景になってしまいそうなのが怖いですね。しかし、ローラを学校の「外」に向かわせ、一方でゆめがS4という学校内の階級制に沿って進んでゆく二分線として話を進めるつもりなら、アリなのかもしれません。
A3:虹野ゆめ本人にとっても理由がわからず、あのパフォーマンスと自分の実力とのギャップに長らく悩んでいたとき、ある契機をきっかけに四ツ星学園の個性教育やS4という階級制度そのものが座礁し、だれもかれもが安泰でなくなった状態で虹野ゆめの『謎』をクライマックスに向かわせるための一つの訴求力として持っていく
めちゃくちゃアクロバティックです。「お前の願望を書いただけだろ」と言われたら言い訳できません。
しかし、こういう学校空間や階級制を疑問にさらすための要素として「外」を見出したいと思ってこのノートを書いたので、あながち無効とは言えないと思います。
さて、ずいぶん長くなりました。
『謎装置』、学校空間における「語らせ」の煽り、それさえも問題せずに生きている人間とはどのような存在か。それがこのノートの最後の問いでした。あれこれ書いてきましたが、明確に答えを示すことはせず、『桐島~』のラストシーンを思い出すことで結びとします。
桐島、『謎』の中心であった彼について周囲が右往左往するなかで、桐島について一言も語らず、桐島をめぐる顛末にも巻き込まれずに生きていた一人の人物がいたのでした。野球部のキャプテン。彼は学校のトップという存在すら問題とせずに、「ドラフトが来る」日まで黙々と自分の賭けを続けていたのでした。その立ち姿はすでに学校の「外」にいるのではないか。すくなくとも、『謎』について語り続けることに終始する人々とは「別のもの」なのではないか。
果たして『アイカツスターズ!』は、学校の「外」にある「別のもの」への線を引くことができるのでしょうか。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?