Why can't they not be sober?

(本稿は筆者の Patreon 有料サポーター限定の記事として用意されたが、どう考えても同アカウントに次々とアップされている記事が日本語圏の漫筆として最高の水準を備えているとしか思えないため、新たなサポーターへの呼びかけも兼ねてここに単一記事として全体公開されるものである。もちろん試験的な公開であるため、いつ削除されるかはあくまで気分次第となる。)


 気圧、と言われても一体何のことなのか解らない。その作用によって体調を崩す方々の存在は弁えているし、あらゆる体質の特性と同様にお辛いのだろうなとも思う。しかし気圧なるものがそもそも何なのか一度もピンときたことがないし、それが人体に及ぼす影響についても同様である。以前書いたように、私はそもそも双子座(6月5)生まれなので、雨が降るとむしろハイな気分になってしまう。生まれた瞬間の外気が梅雨(しかも九州南部の)だった宿命の為す所としか言いようがなく、つい先週も出先からの帰路(毎週日曜の昼に、兄──ムスリムによるムスリムへの敬称──からクルアーン読解と初等アラビア語の教示を乞うために、片道2時間半の距離を自転車こいで行くのだ)を初春特有の重い雨に待ちうけられたが、「ああ、今年もまたあったかくなってゆくのだな」程度の感興しかなかったし、びしょ濡れの着衣をそのままに数分間踊った後も体調は崩れなかった。重い雨が降ったときには必ずキリンジの『雨は毛布のように』を聴くようにしている。キリンジにはいくつもの優れた雨ソングがあるが、この曲以上の美事さで「雨天時のゲットハイ」を奏でたものはちょっと思いつかない。もちろん堀込高樹氏は私と同じ双子座の生まれである。
 加えて、花粉というものもよく解らなくなってきた。私は少年期にアレルギー性鼻炎を拗らせて、見かねた母によって耳鼻科の吸入器(?)の前に毎週座らされていたが、完治にはいたらず、今でも左鼻腔が常に塞がっている程度には後を遺している(ウドゥー──礼拝前の沐浴手順──と歌の練習のために鼻うがいを日課にしてからは、さすがに多少改善されたが)。よって花粉の影響を敏感に受けても不思議ではないのだが、前段落の日曜にマスクだけ着けて往復5時間ぶんの自転車移動を押しても、周囲の人々が訴えている花粉症どころか眼の痒みすら無かった。虚心に考えれば、私の身体には花粉のような闖入型のアレルゲンが効かなくなっている、ということになる。

 外部から打たれた刺激の作用を受けづらい体質であると認めざるを得ない。もう7年ほど前のことだが、口内の永久歯のほとんどが虫歯になっていたため、1年以上かけての治療を余儀なくされた。その際にもちろん麻酔を打たれたわけだが、歯科医いわく「今まで見たことがないほど麻酔が効きにくい」体質だったという。彼(控えめに言っても、あの歯科医はとても私好みの男性だった。今は住所を変えたので別の歯科医にかかっているが、その者でさえ話し方から身のこなしまで私のタイプにぴったり符合する。どうやら歯科医は私好みの男性の特質を備えて止まないらしい。何故だろうか。ちなみに、元歯科医志望のロジャー・テイラーのことはまったく好きではない)は毎回私に所定量の麻酔を打つのだが、処置を終えてドリルで削った途端に私の肉体が痛痒を示すので、「まだ効きませんか」と苦笑しながら麻酔を打ち足す(彼曰く、所定量の3倍だったらしい)のが通例だった。現在通っている別の歯科医はなにか新型の麻酔器(さすがにここ数年でイノベーションがあったのだろう)を使っており、そちらは比較的よく効くのだが、ついに先々週「あっ痛いですか、やっぱり足しときますね」と言われた。歯の麻酔だけでこれなのだから、全身麻酔を必要とする外科手術に直面したらどうなってしまうのだろうか。と、特に楽しみでも不安でもなく思わないでもない。

 しかし、この段落で書くことについては少々憤っている。今まで4回も律儀に新型コロナのワクチンを接種したが、巷間喧しく言われていた副反応による体調不良が私にはまったく起こらなかったのである。もちろんここで書いているのは、ネット上から路上まで(福岡県ではとくに天神駅付近にてその手の団体が「ワクチンの危険性」を訴えている姿を見ることができる)夥しく流布されている陰謀論の類では断じてない。逆だ。「副反応によって私の体調を崩すことすらできないワクチンとは一体何なのか」と言っているのだ。初回と2回目は、さすがに翌日の体調不良を覚悟してアクエリアス(熱を出して寝込んだとき以外は用の無い飲料。私は肉体労働もやっていたが、現場の人々で所謂スポーツドリンクを常飲している者はひとりもいなかった。糖分過多で口が乾くし、さらには利尿が促進されるので現場作業員にとってあれほど不適格な飲料も無いのである。逆に、代謝を促進して体内の熱を速やかに逃がす必要がある状況では最適な寝床のパートナーとなる)を買っておいたが、気になる不調は(あの角度で注射を打たれたことによる筋肉痛以外は)全く無かった。さすがに3度目の正直を期待したが、まったく飲む必要のないアクエリアスが部屋に1本増えたのみに終わり、直近(去年12月)の4回目はもはや期待すらせずに打ち、果たして無事だった。
 一体何だというのか。「新型コロナワクチンの危険性」とやらを訴えている人々よ、なぜ私の身には一切の変調が起こらなかったのか、その理由を説明したまえ。命の危険すらあるのではなかったのか。とくに既往症の無い人々にとっても危険なものだと連中は声高に言っていたではないか。では4回も新型コロナワクチンを打って1度の体調不良さえも起こらなかった私は一体何なのだ。と、今度天神あたりであの手の輩を見たら詰め寄ってみようかとさえ思う。

 以上の文を通して述べたかったのは、「麻痺できない人間もいる」という端的な事実である。私は「躁99%・鬱1%の双極性障害者」を自称しており(もちろん診断されたわけではない。単純に金がないので精神科にかかることができない──そろそろバンドのリハーサル費用を貯めておかねばならないので、前述の歯医者通いさえも今月で中断すると思う──し、そもそも躁で活気付いてばかりいるため心身のコンディションは常に良好に保たれており、治療の必要すら認められない)、現今の日本国どころか全世界的に最大多数派となった鬱病者とは真逆の特性と、さらには鬱病への完璧な抗体まで備えてしまっている。『ロックマンX5』におけるゼロのようなものだ(あのゲームで「シグマウィルス」というものが出てくるのだが、主人公エックスはウィルスに罹ると動作がおかしくなるのに対し、もうひとりの主人公ゼロは感染するにつれ無敵状態に近くなる。そもそもシグマはゼロから派生したウィルスだからだ)。もちろん鬱病者の負っている苦しみが取るに足らないものとは思わない。しかし私にとっては、気圧がどうの花粉がどうのと切実な不調を訴える人々に対するのと同様に、単に「自分にはまったく効かないからその状態を想像することすらできない」類の事柄に属するのだ。

 重要であるからには繰り返そう、「麻痺できない人間もいる」。前段落までの内容を踏まえると、私は気圧や花粉や抑鬱を不調の原因よりもむしろ人間の心身を麻痺させる薬理として扱っていたことになる。ここに一種の転倒がありはする。しかしここで敢えて、読者に対し「外部からの麻酔薬(気圧や花粉や抑鬱)によって気を紛らわせることすらできない人間の精神状態とは一体如何なるものか」について想像力を働かせることを求めよう。
 それは20世紀における「過覚醒者」の類型に係累を求めることができるかもしれない。フランツ・カフカ、サミュエル・ベケット、アルベルト・ジャコメッティ、20世紀的な「過覚醒者」の代表たる彼らの作品を手にとってみるたび、まるで自分の親戚が書いたかのような慕わしさを感じざるを得ないのが私である。とはいっても私自身は、いわゆる不眠症持ちではない。やるべきことしかやらずに毎日しっかり疲れてしまえるため、決めた時間帯での入眠および起床が可能である。しかしそのデイリールーチンの反復が次なる仕事を生産し続けるため、(ジョイスを捩って謂うならば) “ideal worker suffering from an ideal insomnia” であることをどうしてもやめることができない。私がベケットのビブリオグラフィを見ていて最も深く共感するのはこの点だ。彼が第二次世界大戦の渦中におけるレジスタンス活動後「書くことの狂熱」に取り憑かれた事実も、さながら我が事のように理解できる。私にとっては、西暦2019年から15ヶ月をかけて書き継がれた小説と、2021年の誕生日から新たに始められた音楽プロジェクトが「狂熱」の所産である。さすがに私の作品がベケットの『マーフィー』や『名づけ得ぬもの』に匹敵するなどとは言わない、とは言わない。同じ「過覚醒者」の仕事の結果として、私の作品はベケットと同じ卓に並べられざるを得ない、と平然と書き切ってしまえる感覚が私には有るし、おそらく読者の貴方には無いだろうと思う。
(ちなみに2千年以上前まで遡ったとしても、屈原は「過覚醒者」の中に入らない。彼の詩に見られる「世の中みんな酔っ払ってて俺だけが醒めてる」とでも言いたげな態度は端的にダサい。「過覚醒者」とは、自分が醒めている事実のみならず、外部の刺激による麻酔が如何にして自分とその同類の者どもには無効となりうるかのメカニズムを常に意識せざるを得ない人間のことである。自と他のいずれにも耽溺することが許されないため、自や他の間を絶えず飛び交う作用とその効能ばかりに注意を向けざるを得なくなった境遇、とでも要約されようか。)

 最後に、ヴィトゲンシュタインの『哲学探究』から引用しよう(ちなみに誰も指摘しているのを見たことがないが、晩年のヴィトゲンシュタインはベケットと全く同じ顔をしている。言うまでもなく、最も私好みの男性は彼らのようなタイプである)。

五二四 画像や夢物語がわれわれに悦びを与え、われわれの心をうばうことを自明のことと思わず、注目すべきことと思え。
(「それを自明のことと思うな」──このことは、あなたを不安にする他の物事に驚くように、それに驚け、ということである。そのとき、問題になっていることがらは、あなたがその一つの事実を他の事実のように受けとることによって、消滅するであろう。)
《公然のナンセンスから非公然のナンセンスへ移りゆくこと。》


 彼の謂う〝公然のナンセンス″を「気圧や花粉のせいで体調を崩していると思うこと」、「鬱病が辛いと思うこと」、「新型コロナワクチンが危険な影響を及ぼすと思うこと」等に置き換え、同様に〝非公然のナンセンス″を「そもそも気圧や花粉の影響を受けることができないこと」、「鬱になりたくてもなれないこと」、「新型コロナワクチンの副反応によって体調を崩すことすらできないこと」等に置き換えられたい。それによって西暦2020年代の人間は、同時代におけるナンセンスへの新たなパースペクティヴを獲得するに違いないだろうから。「共感する」だの「他人の靴を履いてみる」だのといった実質皆無のキャッチコピーを口ずさむだけで何か謂った気になってしまうような痴態は、いい加減やめにしようではないか。そのような「ほろ酔い」(酒類製造業者が拵えたキャッチコピーの中でも特に虫唾が走る駄言である)の麻薬を常用でもしなければ生きてゆかれなくなった最大多数派の人間をよそに、今夜も「過覚醒者」は理想的不眠を患った理想的労働に身を窶し、次なる仕事の段取りを整えざるを得ない。せめてこの務めによって、実は我が身を常に苛んでいる致命的な刺激を解離したまま生涯を終えることができますようにと、限りなく自己放擲に近い希望に慰められながら。






(本稿は西暦2023年3月14日の日本国にて書かれたが、大江健三郎氏への弔意を示そうとは思わない。何故なら私は『厳粛な綱渡り』で初遭遇を果たして以来、氏の書き物を全く読まずに過ごした週が無いし、氏が肉体後の段階に移行したとしても変わらぬ読者としての態度を保ちつづけるだけであろうからだ。
 ただしこの場を借りて、大江氏の書き物に立ち向かったことがない「新しい人」への導入めいた振る舞いを敢えてするならば、小説作品からは『いかに木を殺すか』──1編だけ選ぶならば『見せるだけの拷問』──を、漫筆集からは『表現する者』を、その他書籍からは『大江健三郎 作家自身を語る』と『文学の淵を渡る(古井由吉との共著)』を紹介しておきたい。筆者は双子座の読者だが、くるおしいほどの愛着を覚えずにはいられない作家はいずれも水瓶座の人物であった。ヴァージニア・ウルフ、ジェイムス・ジョイス、そして大江健三郎。というかそもそも世の読者は、ウルフとジョイスが同年の水瓶座として生まれている事実をもっと真っ当に面白がったほうがいいと思う。検索して出てくる最も俗悪な内容の「星座占い」においてさえ、そこに書かれている評言がウルフとジョイスの両者に寸分違わず符号すると認めて口元を歪めた経験が無い者は、実は20世紀文学を読むための入口にすら立っていないのではないか。そして大江氏も水瓶座クラブの気さくな会員として馴染むことができるか否かの判断は、氏が遺した作品に次々と立ち向かった読者にのみ許される。)


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