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太田道灌~「道灌山」の由来となった、家康以前の江戸の統治者

本日2021年3月29日(月)から、弊社インソースは本社をインソース道灌山ビルに移転いたしました(住所:東京都荒川区西日暮里4-19-12)。今回はこの「道灌山」という地名の由来となっている、太田道灌について取り上げていきたいと思います。

「道灌山」の由来

実は、道灌山になぜ「道灌」の名称が付いているかははっきりしていませんが、この辺りが高台であるため、太田道灌が敵の動向をさぐるための出城を置いたことに由来する、と言われています。

ちなみに、本社の近くの開成学園のグラウンドを中心に、「道灌山遺跡」という縄文・弥生時代から平安・江戸時代に至る複合遺跡がありますが、道灌が築いたという出城の遺構は発見されていません。本社の近くに遺跡があるのは非常にエキサイティングです!

太田道灌

太田道灌は生年が1432年です。武田信玄が生まれたのが1521年ですので、戦国時代が本格化する100年も前の人です。

道灌が主に活躍する15世紀中葉・後半は、室町時代後期に当たり、3代将軍足利義満の時期に隆盛を極めた室町幕府が関東・京都(応仁の乱など)で起きる度重なる戦乱で力を弱めていき、戦国時代にまさに突入しようとする過渡期の時期です。

太田道灌といえば、江戸城を築城し、徳川家康より前に首都東京の礎を築いた人です。道灌の家系は、室町幕府の関東支配を任された関東公方を補佐する関東管領・扇谷(おうぎがやつ)上杉氏の家宰(かさい:家を取り仕切る執事的役割)を祖父資光(すけみつ)以来務めている名家です。

関東公方や関東管領という存在はありますが、道灌が実質的な権力を握っており、全盛期には武蔵国(東京・埼玉・神奈川)、下総国(千葉)、相模国(神奈川)、上野国(群馬)を支配するまで勢力を伸ばしました。

道灌は和歌など芸術にも造詣があり、まさに文武両道の名将でした。また「足軽軍法」という、足軽を騎馬の馬子ではなく歩兵として活用する集団戦法を開発するなど、用兵にたけた武将でもありました。

そんな道灌ですが、1486年に相模国の糟屋館(かすやのやかた、神奈川県伊勢原市)において、自分の主人である扇谷上杉定正(さだまさ)の命で曽我兵庫助という人物によって斬殺されるという悲劇に見舞われます。

享年55歳。暗殺という最期でしたが、その後も道灌伝説は語り継がれ、悲劇の名将として神格化されます。後に江戸の統治者となる家康も道灌の様々な事績を参考にするなど影響を受け、道灌の4代後の女性を自分の側室としています。

弊社インソースも何かの縁で太田道灌の冠の付いたビルに本社を移転しました。道灌に習い、 “バランス良く勢いがあり、新しいことを生み出せる” ……そのような社会に良い影響力を与えられる存在として、今後も頑張りたいと思います。

以上が太田道灌の紹介でしたが、以下にもコラムを書きましたので、よろしければもう少しお付き合いください。

太田道灌前の江戸・東京

現在の東京都は以前、「武蔵国」と呼ばれておりました。行政区画としての「~国」(令制国、律令国)ができたのは古代に遡ります。

武蔵は元々3文字で「無邪志」と書かれていましたが(よこしまなきこころの人が集まった国とは素晴らしいですね)、国の印鑑を作成する際に、「〇〇国印」と全体に4文字に収める必要があったため、国名は2文字に統一しなければならず、奈良時代に「武蔵」に改められました。

同様な例としては、近江国(おうみ、滋賀)と遠江国(とおとうみ、静岡)で、湖のことを昔は「淡海」(おうみ)と言い、琵琶湖・浜名湖は、それぞれ「近つ淡海」「遠つ淡海」と呼ばれていましたが、強引に2文字にするため、「淡海」を1文字の「江」(うみ)に読み替え、国名が近江・遠江となりました。

現在の東京23区は、奈良時代には武蔵国・豊島郡(としまぐん)という行政区画でした。郡の中心の役所である郡衙(ぐんが)は現在の王子駅の近くの北区西ヶ原にありましたので、古代の東京の中心は北区王子にあったといえます。

太田道灌による江戸城の築城

東京は、古代に「無邪志国造」(むさしこくぞう)、「知々夫国造」(ちちぶこくぞう)が支配し、平安末期の12世紀後半には、西部に豊島氏、東部に葛西氏、現在の江戸城周辺に江戸氏、多摩地域には稲毛氏という豪族が力を持っていました。

江戸氏は、14世紀半ばに関東管領に対して反乱を起こして失敗すると勢力が衰え、江戸から撤退することとなります。代わりに、江戸氏が去った後の江戸周辺の支配を進めたのが太田道灌でした。

太田道灌は元々武蔵品川館(東京都品川区)を本拠地としていましたが、「霊夢のお告げ」を受けて、江戸館に移住して、城の築城に取り掛かり、1457年に江戸城を完成させたと言われています。

河越城(埼玉県川越市)も道灌が中心に築城しました。道灌が江戸城を築城した後、城下町には寺町や宿場が作られ、港には他の地域から船がたくさん入港して賑わっていたようです。江戸の町も家康が一からつくったわけではなく、家康が1590年に関東入部するころにはある程度栄えていたと思います。

武蔵国統一を賭けた天下分け目戦い~太田道灌VS豊島氏

私小林は現在、東京都中野区江古田(えごた、※)という所に住んでいますが、実は道灌が武蔵国を統一する上での重要な一戦である、1477年の「江古田原(えごたがはら・沼袋(ぬまぶくろ)の戦い」は、私が現在住んでいる地域で約530年前に起こった出来事です。インソースの本社移転と合わせ太田道灌とは不思議な縁を感じています。

※「江古田」は練馬区地域では濁らず「えこだ」(西武新宿線・江古田駅)、中野区地域ではなぜか濁って「えごた」と読む(都営大江戸線・新江古田駅)。地元あるある。元々は濁るらしい


江戸城の周辺には、豊島氏が石神井城(しゃくじいじょう、東京都練馬区)、と練馬城(東京都練馬区)を構えていたので、道灌は、自分の拠点である江戸城と河越城の交通が遮断されていました。

道灌はまず練馬城を攻撃した後、江戸城に引き返す途中で石神井・練馬の両方の城から追撃されましたが、江古田原・沼袋の合戦では道灌が勝利しました。そのまま石神井城を攻め、豊島氏を降伏させましたが、その後豊島氏は再び抵抗しました。

翌1478年に、道灌は豊島氏の本拠の平塚城(東京都北区)を攻撃して破り、豊島氏は丸子(まりこ、川崎市中原区)に逃れ、さらに最後は小机城(こづくえじょう、神奈川県横浜市港北区)に逃れた所を道灌が攻略し豊島氏を滅ぼします。

豊島氏の所領は道灌の主人の扇谷上杉氏が獲得しましたが、その多くが家宰である道灌の所領となり、道灌が江戸城周辺、現在の東京23区を中心に最大の領主となりました。


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以上、日本古代史の研究を14年も経験され、現在はインソース メディア事業部の責任者である「小林さん」のこばなしでございました。

インソース道灌山ビルへお越しの際には、太田道灌にまつわる歴史や、道灌山遺跡の存在もぜひ思い出してみていただければと思います――🏢🏯

🔻小林さんのnote「こばなしシリーズ」はこちら


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