見出し画像

分岐

道が見える。

1つや2つじゃない。10も20もそこにある。

どれにしたら納得されるのか、納得できるのか。言い訳や理由を考えるのがいやに億劫で、疲れてくる。

ひとつをとった。あまりに多くて困難な選択であったので、初めからそのひとつしかそこに無かったかのように、漠然とひとつとった。


今に次の分岐がやってくる。


胸の痛みと息苦しさを感じる。


途中、いくつかの脇道が見えた。

無視をすると、全身の皮下がチクチクと痛む。両足は汗で濡れ、首の後ろが重くなってくる。

いくつもの脇道を横目に、自分がこの道を選んだ理由付けに苦しむ。選択した記憶が残っているから。

いずれ誰かに合うかもしれない。なんと説明すれば良いのか。景色は依然として良くならない。

真っ黒な壁を透かして、濃い灰色がうごめいているように見える。深緑の苔とか、カビのようなものが頭上にまで広がっている。


人影が見えてきた。

恥ずかしくてその顔を直視できない。

「おはよう。調子はどうですか。」

そう言われたから、なんでもないような顔をして挨拶をすると、相手は初めから僕に会うことを知っていたような態度だった。

調子はどうか。この恐ろしく汚れた洞窟のような景色のなか、この人も僕と同じ地面に立っているのに、どうして僕だけ調子が悪いと言えるだろうか。この人がここへやってきたのは、僕と同じ道をとったのだから。

「なんというか、調子、良いですよ。」

心無いことを言ったのではないかと、胸の奥で一瞬思った。だけど同時に、そんなことわからないじゃないかとも思った。本当のことかもしれないじゃないかと。

何に対してどれほどの集中力を割くべきか。そんな話をした。

独りになったあとも、何度も会話を思い出してはいつまでも僕の中で続いた。

「本当はこんなところに来たくなかったんですけどね。」

「エー、なんでですか?」

「だって、あんなに色んな道があったんですよ。」

「はは、そりゃたまには2つや3つくらい見えますよ。直感で十分。考えすぎてるね。あんまり神経質だと、疲れますよ。」

考え過ぎたら見えるものだろうか。見えた上で考えすぎたのだろうか。

僕は、考え過ぎた自分を責めることにも飽きていた。

「何も見えてやしないんじゃないか。じゃあどうしてお前がここにいるんだよ。どうしてここへ来たんだよ。俺の考え過ぎが俺を翻弄しているなら、どうやってこの感覚を鈍らせたらいい。教えてくれよ。この目も耳も潰したいよ。ものが触れても風が触れても何も感じない皮膚をくれよ。人の目を見て人の顎を見て、膝から力が抜けてしまうその神経を抜いてくれよ。どうして、どうして……。…」

喉の奥に、髪の毛が絡みつくような感覚を覚えた。

これもまた、いつものことだった。


30も40も、穴が見えてきた。


あぁ。

赤いもの、汚れた排水口のような色のもの、たぶん真っ青なもの、暗くて色なんかわからない。

自分がどうして、どれを選ぶのかまったくわからない。

手が震えてくる。頬の力が抜け、目玉が涙に浮いてしまったかのように思う。

どのくらい分岐に立っていたのかわからない。

腰の痛みに気づく。

怖くて後ろへ振り返ると、浴室にうずくまっていた自分が見えた。朝になると腰が痛くて、なんでこんなところに横になっているのかもわからずオイオイと泣いて、お酒を飲んでいた。

薄茶色の服の年老いた夫婦が道を歩いて、コンクリートを持ち上げた木の根を指差しながら、あぁすごいね、植物は立派だねとささやいているのが聴こえた。

小さな子に寄り添った大人は、その子が寒い思いをしないように小さな手袋をさせて、何を見てるんだかわからないその子が空に向かって挨拶するのを優しく復唱した。

おーい。オーイ。


泥の印象があった。僕は暗い茶色の穴を選んで、入った。

今にまた、誰かにここへ来た理由を問われるだろう。

わからないよ。誰かに僕が元気かどうか、問われるだろう。考えすぎているから。わからないよ。


「おはよう。この前はあっちにいたみたいだね。元気ですか?」

「あ、えぇ。特に理由はないんですけどね。なんか、疲れましたねぇ。」

「みんな疲れてるからね。まだ若いんだから羨ましいよ。あとそうだ、疲れ方を知らないと。ねぇ。でも、悩みがあったら何でも言ってね。」

「そうですね。」

美味いというお菓子をもらった。

説教も終わり、もう上を、前を向くだけの気力もなくなった頃に僕はまた独りで歩き始めた。

「あんた見てるのは目の前のニンゲンだよ。」

「その、『人』と呼ばれるニンゲンにも名前があって、異なる性質があって、イヤなものも嫌いなものもある。だけど皆『人』の形をしているから、しているからもう、そういうことだよ。くくられて、くくられている。もう。両足も。…」


目が垂れている。口が曲がっている。陰鬱が滑り込む。

熱がでた。お腹も痛くなってきた。

あんまり足が濡れるので、痒くてたまらない。

口じゅうが荒れていて、僕が消費する栄養を思うと、申し訳なくてたまらない。申し訳なくてたまらない。謝りたくなってくる。許しが欲しくなってくる。

何もわからなくてごめんなさい。何がしたいのかもうわからなくてごめんなさい。曖昧なことばかり言ってすみませんでした。もうしません。でもお腹が空いてしまうんです。食べてごめんなさい。何もしたくなくてごめんなさい。


また人影が見えてきた。

もらったお菓子はどこへいったかわからない。


「こんにちは。大丈夫?眠れてないみたいだけど。」

「まぁ。案外寝てますよ。わかんないですけど。明け方に起きちゃうだけで。でも夜とかもちょっと辛いかな、とか。」

「わかるよ。自分もよく起きちゃう。二度寝って気持ちいいよね。その日やることを確認して、規則正しく過ごすことが大事だから。ご飯は食べてるの?」

「まぁたぶん食べてますよ。大丈夫です。でもあんまり食べれないような気もするような感じですかね。色んなところも痛むんです。」

「うん。とりあえず食べてれば大丈夫だし、みんなそういう時があるしね。悩みがあったら何でも聞くからさ。」

なぜ洞窟にいるのか、聞いていいんだろうか。どうして悲しいのかわからないのに涙が止まらないことは、悩みと言っていいんだろうか。僕の悩みは、いったい何なんだろう。勇気を出して、食欲がまったくない話をしたはずだった。全然眠れなくて困っていると確かに言ったつもりだった。強く訴えたつもりだった。それが、話を聞くという人間の対応だろうか。鏡を見た気がした。僕は、壁と話していた。言葉が反射したきりだった。産まれたときに見た空間の、向こう側の壁をとうとう触ってしまったような気がした。恥ずかしくて歩いていられない。ただ悲しいだけの人間が、皆が全員苦しんでる中で同様に苦しんでいるだけなんだ。本当かどうかはわからない。

休みたくなってきた。いつでも休みたい。こんな人間がいていいのだろうか。恥ずかしくて申し訳なくて、歩いていられない。


無数の穴から、僕の歩みについて問われる。なぜ怠けているのか責められる。



分岐



また僕の前には、いくつもの穴が現れた。なぜどうするのか、僕にはわからない。穴の数は増える一方で、理由がわからない。


「気付くだけの小心者」


そう聞こえた。

熱が出てくる。歯茎も腫れてくる。蚊に刺されたような跡があると思うと、それは顎から首、腕じゅうに広がった。全身が痒い。全身が痛い。感覚と物体に距離を感じる。助けを求めて振り返った。


蒼黒のうちに、人参の刺さった象の死骸が見えた。

ところどころ、僕の肌と同じ色をしていた。

あの人、独りで電車に乗って行っちゃったんだったな。

「どうしてこんなことになっちゃったんだろうねぇ。かわいそうにねぇ。かわいそうにねぇ。頑張ったんだよね。もう歩かなくたって良かったのにねぇ。」

死んだ象に、老婆が泣きながら訴えていた。

「俺、恐竜の国へ旅しに行った夢を見たんだ。いろんな色の水の中を泳いでね。その時、象なんか死んでなかったよ。代わりに、最後に溺れたのが僕だったんだよ。」


ひとつの穴へ身体を押し込んだ。


見上げると、真っ黒かった。黒くて、緑にも見えた。

僕は淵にいるんだと、淵にいるんだと繰り返し思い出した。



分岐



再び幾多の穴が現れる。

穴のひとつを覗いて見た。

神社の裏に座り込み、鳩を眺める自分が見えた。薄紫の空気の中を茫然と鳩を羨んでいるように見える。

幾多の穴は頭上にまで広がっていた。

腰痛は消えたと思えば関節が痛む。喉の腫れが引いたと思えば頭痛がひどくなる。不快感だけが積もっていく。

緑の糞を歯の間から絞り出すような、粘膜への不快感を覚えた。

僕はこのとき、助けてほしいと思った。

助けにつながる穴はどれだろうか。無論わからない。

なぜ助けてほしいかもわからない。

どれほどの間、ここで固まっているのかもわからない。

息に集中した。手の震えも、体中の蕁麻疹も、腹周りの痛みも内臓の痛みも目の奥の痛みも足首のも肩のも、感覚の鈍化も、生きることへの罪悪感に敵わない。何が言いたいのかもわからない。

どの穴を選んだのかもわからない。

穴だか道だかもわからない。恥ずかしくて惨めで寂しくて、真っ暗の中へ、少しの色も見えない暗闇に入りたかった。



「こんにちはぁ。どうですか、調子は。」

わからない。悪いとしか思えないけど、確信が持てない。助けてほしいけど、とても期待なんかできない。

「特に問題ないですね。最近、熱はよく出ちゃうんですけどね。疲れますよね。なんか疲れますよね最近。気のせいかな。」

「僕も一昨日まで熱があったんだよ。でも、大丈夫そうで良かったですよ。ここのところ天気も良いし、気のせいじゃないですか。すぐに良くなると思いますよ。困ってることがあれば言ってくれて良いですからね。」

僕も笑えたから、心配させずに済んだ。それで良かったのかどうかは、わからない。


「みんな熱出てるんだね。」

歩みの途中も涙が流れていた。申し訳なさや鬱屈とした感情が積もって腐った、灰色の体内から溢れてるんだと思った。

たしかにそこにはたくさんの分岐があったが、もうなんでも良かった。すぐに決められるわけでもないが、とにかく入りたかった。

ひときわ真っ黒い穴の中へ、首をうなだれて飛び込んだ。押し寄せる「感覚」に疲れ切ったから。だけど、逃げられるかどうかはわからなかった。





「まさかそんなに悩んでいたとはねぇ。」

「うん。あの日も笑っていたのにね。」

「何かSOSを出してくれたら、飲みにでも連れていけたのになぁ。」

「でも、あそこまでいっちゃうと、視野が狭くなってしまって、普通なら見えるものも見えなくなるっていうじゃん。」

「きっと道がひとつにしか見えてなかったんだね。」

「かわいそうにね。道なんて、いつだってひとつとは限らないのに。」

「悲しみにくれると、感覚が鈍ってしまうんだよ。俺たちには3つも見えていても、病んでる人には1つにしか見えないんだよ。もし2つで迷ったなら、自分の中に明確な理由をひとつ持っておけば良いのさ。」

「そうだよね。」



ニンゲンたちの声だけが、真っ暗闇の中で小さく響いている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?