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あらみきょうや「かばね」

 正体は茸である。蒲根かばね、と表記するがこれは近代以降に成立した当て字であり、がま繫累けいるいに名を連ねるものではない。むろん根菜でもない。山中の水辺に群生し、じっさい蒲の根元などにも見られることから名づけられたとする説もあるが、これは些か信憑性に欠ける。蒲はなくとも茸は生える。
 従来カワネ、あるいはカワノネと呼ばれていたものが時を経て転訛てんかしたのであろう、とは教授の弁だ。真偽のほどは不明である。唯一の論拠は神社の蔵で見つけた江戸時代の書翰しょかんだという。何しろ生息域が狭く、採集や栽培を生業とする者もいないため、地元以外で消費されることは滅多にない代物である。信頼に足る文献が残っていないのだ。
「地域でも一般的な食材とは云いがたいようです。八百屋の店先に並んでいるところなど見たことがありません。むしろ薬局の陳列棚でよく見掛けますね。乾燥させて漢方薬の材料にするのだとか。効能は訊きそびれましたが」大皿に山と盛られたソテーを箸で抓みながら教授が満足そうに頷いてみせる。「素材の味がぬきんでているのでどう調理しても旨くなるんです。天麩羅や蒲焼はもちろん、新鮮なものであれば軽く湯搔いて刺身でもいけますよ。これがまた何とも云えず蠱惑的な食感で。いい店がありますから明日にでもお連れしましょう」
「そいつはありがたい。助かります」おれは心よりの謝辞を述べ、グラスになみなみとがれたワインをひと息で乾した。じつに教授の十倍のペースである。ひところに較べればいくらか増しになったとはいえ、贅沢な暮しとは縁遠い身分であることに変りはない。只酒にありつけて食事にも寝床にも困らないとなれば、往復のガソリン代を補って余りある。「この茸はどうやって手に入れたんですか。八百屋に売られていないとすると、専門店から譲り受けたとか?」
「自分で採りました。川縁をドライブしていたときにたまたま群生地を見つけてしまい、矢も楯もたまらず。夢中で収穫していたら、気づいたときにはトランクが蒲根でいっぱいになっていました。とてもひとりで消費しきれる量ではなかったので、こうして犬吠いぬぼうさんをお呼び立てした次第でして」
 茸を食べに来ませんか、が電話での第一声だった。十五年ぶりの会話だというのに同僚を食事に誘うかのような気安い口振りだった。正直あまりぴんと来なかったが、ちょうど閑を持て余している時分だったからふたつ返事で承諾した。
 約束の刻限より八時間遅れて到着したおれを出迎えてくれたのは年月を感じさせぬ若若しい姿の教授だった。記憶のなかのおもかげよりも潑溂はつらつとしている印象さえ受けた。思わず「息子さん?」と声を掛けそうになったおれに先んじて、「犬吠さんのことだからまたおかしなことに巻き込まれているんじゃないかと心配しましたよ」
「面目ない。道中、不測の事態で足留めを喰ってしまって――」おれは言葉を濁した。じじつ、先刻までのおれは不可思議な事象に見舞われて延延と山中を彷徨い歩いていたわけだが、それを教授に伝えたところで話がややこしくなるだけだろうし、ともすれば現場に連れていってくださいなどと云い出しかねない。ようやく酒にありつけるというのにそのようなことになっては何のために神奈川の山奥まで車を走らせてきたのかわかったものではない。生きていればいずれ語る機会も訪れようと高を括り、今しばらくは黙っておくことにした。ともあれ、こうしておれは無事、昔日の恩師との再会を果したのだ。
 正真正銘の大学教授である。より正確を期すならば大学教授であった、と云うべきか。現役を退いて久しいが、高名な学者であったから名を記せばご承知のかたも多かろう。かつて落ちこぼれ学生であったおれに単位を授けてくれた恩人であり、のみならずその後も縁あってさまざまな苦楽を共にすることとなった盟友でもある。
 ほどほどに酔いが廻り、それなりに呂律が廻らなくなってきたところで食卓を辞し、自室に引き上げた。あてがわれたのは上階の客間である。教授宅は古い二階屋で、手入れは行き届いているものの、あらゆる床板が一歩ごとに悲鳴のような軋みを発するほどに年月を重ねている。室内もまた壮観で、平素は書斎と物置を兼ねているらしいが、数学の権威が暮しているというのに民俗博物館さながらである。算盤や算額はまだしも、得体の知れぬ壺やどこのものともつかない仮面に至ってはもはやいかなる用途でここに存在するのかも判然としない。そのうちのひとつ、鄙びた和室に不釣合いなヴィクトリアン調のキャビネットの棚にこれまた年代物のウィスキーを眼ざとく発見したおれは、寝酒がわりにとひとくち失敬してから床に就いた。
 断言してもいいが、酒飲みは総じて眠りが浅い。酩酊は彼岸と此岸の境界を曖昧にし、意識はなくとも覚醒を続ける脳にありもしない幻を植えつけてゆく。そんな夢とうつつの狭間のような微睡まどろみに身を委ねながら、おれは水の流れる音を聞いた。

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